平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平清盛の嫡男重盛(1138~1179)は、平家一門が六波羅一帯に館を構えていた頃、
その東南の小松谷に住
んでいたため、小松殿・小松内大臣とよばれ、
また小松家といえば重盛一門の通称となっています。

小松市は石川県の南部に位置する日本海に接した所で、
かつて加賀国の国府があった地です。

歌舞伎の勧進帳の舞台となった安宅の関址、北陸篠原合戦で
討死した斎藤実盛の兜を所蔵する多太(ただ)神社があり、
また清盛に寵愛された仏御前の故郷でもあります。

篠原合戦に敗れ、敗走する平家軍の中で、老武者斎藤実盛は白髪を
黒く染めて戦い討死しました。奥の細道の途中、芭蕉は実盛の兜を拝観し、
♪むざんやな かぶとの下の きりぎりす と詠んでいます。

「小松」の地名の由来は諸説あり、小松内府平重盛の所領であったことによるという説、
一方、花山法皇が別荘を造り、数多くの小松を植えたという説もありますが、
平家物語ファンとしては、重盛にちなむ説をとりたいところです。

重盛ゆかりの寺院がJR小松市駅の近くの東町にあります。
「小松山法界寺」浄土宗法界寺はもと三密精舎鎮華院小松寺といい、
平重盛が六十六ヵ国に建てた小松寺のひとつであるという。
小寺村(現、小寺町・御宮町)は、仁安2年(1167)、この村に創建された
小松寺の門前集落と伝えています。(『石川県の地名』)

十数年前、安宅関址を訪ねた時、通りすがりに街角にたつ説明板に
平重盛の文字を見つけて撮影した一枚です。
現在、門前に説明板は立っていないようです。

「小松山法界寺由来 今を去る八百余年の昔、小松内大臣平重盛公が
国家鎮護を祈願して六十六ヵ国に小松寺を建てられました。
当寺はその一寺として仁安二年(一一六七年)
加賀国小寺(現小松市小寺)に建立されました。
小松の地名もここに由来すると伝えられ、町のはじまりと共に
縁りの深い寺であると申すことができるのです。
はじめは
真言宗に属して三密精舎鎮華院小松寺と号し祖師は法印龍真であります。
弘安の頃北国鎮護道場勅願所に定められました。

明応二年(一四九三年)第三十二代泉龍社了道の時に浄土宗鎮西派に帰し
小松山仏徳院法界寺と改められました。今日、了道以来二十八世に当たる
法純が法燈を守り続けて居ります。天正五年(一五五七年)柴田勝家の兵によって
寺が焼かれました。再建後八十余年を経た寛永十七年(一六四〇年)加賀藩三代藩主
前田利常公によってこの地を与えられ創建の地を離れこヽに移って参りました。
昭和七年大火に遭い山門本堂等の伽藍を悉く焼き数多くの仏像や
寺宝を失ったことは誠に惜しいことであります。

漸くその難を免れたものの中で狩野探幽の筆になる当麻曼荼羅と
釈尊臨終の場を画いた涅槃図は特に有名で春秋の彼岸にこれを拝観し罪障消滅、
極楽往生を願う善男善女が集まり門前市をなしました。これらは
仏教美術としても価値のある文化財であり大切にされなければなりません。

また摩耶夫人像は四代藩主前田光高公の正室清泰院の遺品として
焼失した中将姫像、涅槃像と共に奉納されたもので
前田家の尊崇の篤かったことが伺えます。この像は長い歳月の間に
極彩色がはがれたため黒く塗り替えられたので黒仏と呼ばれ、
今も母体守護安産祈願の信仰をあつめ親まれて居ります。
昭和五十八癸亥年  小松山法界寺」(現地説明板より)

重盛開基の小松寺は、愛知県小牧市味岡、愛知県一宮市五反田、
愛知県知立市、広島県福山市鞆町などに残っています。
この他重盛や平家一門などと関係のない小松寺も各地に存在しています。

平重盛像 神護寺蔵(国宝)
 悪源太と恐れられた源義平と戦う重盛の勇姿 矢先稲荷神社蔵


大山祇神社奉納の伝平重盛白鞘柄の豪華な螺鈿飾(らでんかざり)太刀(重文)

平重盛の母は高階(たかしな)基章の娘、妻は藤原成親の妹です。
十九歳で父清盛に従って参戦した保元の乱では、白河殿に夜討ちをかけ
「八郎が矢さきにひとつあたらん」と真っ先に強弓の鎮西八郎為朝の前に
果敢に進み出で、慌てた清盛が郎党に制止させています。

その三年後の平治の乱でも、平家重代の唐皮の鎧に小烏(こがらす)の太刀を佩(は)き、
「年号は平治也、花の都は平安城、われらは平家也、三事相応して、
今度の戦に勝たんことなんの疑かあるべき。」と言って部下たちを鼓舞し、
待賢門を守る悪源太義平(源義朝の子)と渡り合い、
平家貞(貞能の父)に「重盛様はご先祖平将軍貞盛の
生まれかわりのようです。」と称賛され、将来を期待されています。
保元・平治の乱の頃の重盛は心身ともに充実した時であり、
これ以後、軍事上ではあまり華々しい活躍を見せていません。

重盛は元来病弱であったらしく、病気で二度も官職を辞任しています。
このことが重盛を神仏に深く帰依させたようです。
『平家物語』には、重盛が宋に金を贈り、永代供養を願ったという話や
東山の麓に四十八間の仏堂を建て、若く美しい女房たちを集めて
法会を開いたので「燈籠大臣」と称されたとの説話もみえます。

重盛は熊野信仰厚く、熊野本宮の参詣では、清盛の暴虐を悲しみ熊野権現に
「父の行いを改めさせてください。それが無理なら自分の命を縮め、
来世での苦しみだけでも救ってほしい。」と一晩中祈りました。
熊野から帰ってまもなく病の床につき、平家一門の滅亡を見ずに世を去りました。
死因は不食の病、今でいう胃潰瘍、胃がんにあたります。
一説には頸部の「悪痩」(延慶本)という。重盛死去のしらせに世間の人々は
「こののち天下にいかなることが起こるのであろう。」と恐れおののき
その死を悲しみました。この頃から平家の栄華にかげりが見えはじめます。

重盛は信仰のために多額の出費をしたと思われます。宋に寄進した金の出所は、
重盛が知行していた奥州気仙郡(現、岩手県大船渡市・陸前高田市)から
まいらせた年貢(『源平盛衰記』)としており、
平家一門の富はそうした浪費にも十分耐えうるものでした。


「巻1・吾身栄華」の一節は、その財力を次のように語っています。
「日本秋津島はわずかに66ヵ国。そのうち平家の支配する国は30余ヵ国。
この他平家所有の荘園や田畑はいくらあるかわからない。宮中の殿上の間は
華美な衣装で着飾った一門の人々が満ちあふれ、まるで花が咲いたようだ。
平家の邸には、上級貴族が集まり、さながら門前は彼らの牛車や馬で市が
できるようだ。海外からは豪華な品々が集まり、一つとして欠けるものはない。」
平氏の荘園は後に没収されましたが、五百余ヵ所あったという。

これまで後白河院と清盛の間で潤滑油の役割を果たし、清盛の横暴を
諫めていた重盛が没した途端、二人の間の亀裂は決定的となります。
鹿ヶ谷事件が発覚し、清盛によって院近臣の藤原成親、西光を処刑、
俊寛らは鬼界島に流されて以来、平静をよそおいながらもその実、
反感を強めていた院が清盛の勢力を排除しようとします。

藤原基実没後、基実の後家の盛子(清盛の娘)が相続していた
摂関家領の管理権を盛子の死後、取り上げたばかりか、
維盛(重盛の嫡男)に相続されるはずの重盛の所領越前国(福井県)を
没収するなどして清盛を挑発していきます。
盛子、重盛と続いて二人の子を失い何かにつけ心細く感じていた清盛は、
福原に引き籠っていましたが、たまりかねて軍勢を率いて上洛し、
院近臣の官職を取りあげて追放し、次いで後白河院の身柄を法住寺殿から
洛南の鳥羽殿(鳥羽離宮)に移して幽閉し、院政を停止させました。
(治承三年の清盛クーデター、治承三年の政変)

小松家の重臣平貞能(さだよし)は、都落ちに際し、重盛の墓を掘り起こし
「ああ、情けなや。殿はこうなることを悟っておられたので、神仏に祈願して
早くお亡くなりになったものと存じます。あの時、貞能もお供すべきでしたが、
甲斐なき命を永らえて、このような憂き目に遭っております。
私めが死にましたら、必ず殿と同じ浄土へお迎えください。」と
重盛の遺骨に向かって泣く泣くかき口説くのでした。
平重盛熊野詣(熊野本宮大社)  
アクセス』
「小松山法界寺」石川県小松市東町92  ℡ 0761-22-3448 
JR北陸本線小松駅徒歩約3分
『参考資料』
「石川県の地名」平凡社、1991年 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実(上)」塙新書、1994年
安田元久「平家の群像」塙新書、1982年 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 
兵藤祐己「平家物語の読み方」ちくま学芸文庫、2011年 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、平成13年
水原一「新定源平盛衰記(2)」新人物往来社、1993年「図説源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
  日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 





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JR山陰線亀岡駅の二つ北にある千代川駅から800㍍ほどのところに
金華山小松寺(浄土宗)があります。

この駅の東側を流れる大堰川は、亀岡盆地のほぼ中央を貫流したのち、
嵐山まで保津川となって流れ、京都盆地では保津川から桂川となり淀川に合流します。

千代川駅から国道9号線に出て、千原交差点で左折し山側へ向かいます。

千原交差点



小松寺は千原山の山麓、道沿いに水路が流れる集落のはずれにあります。





長い石段の先に表門がたっています。

本尊は阿弥陀如来、観音堂に懸仏(かけぼとけ)形式の十一面観音石像が祀られています。

鐘楼の傍から亀岡盆地が一望できます。

 

寺伝によれば、小松内大臣と称せられた平重盛(1138~1179)は、
仏の信仰厚く中国宋の育王山に祠堂金を納めた際、その返礼として
育王山青龍寺(せいりゅうじ)より三寸五分の十一面観音石像を贈られ、
守本尊としていましたが、寵臣(俗名不詳)にこの石像を与えました。

重盛死後、寵臣は形見の石仏を持って故郷の千原村に帰り、
出家して妙善と名を改め養和元年(1181)この地に観音堂を建て
この石像を安置し、金華山小松寺と称しました。

『桑下漫録』に引用されている「盥魚(かんぎょ)」に、
昔、瀬尾(せのお)太郎が千原村を領地としていたので、
寺院を構えて重盛の菩提を弔ったと記されています。

瀬尾太郎兼康は『巻4・無文』で、平家一門の未来について
悲壮な夢を見た人物として描かれています。

重盛はある夜、悪行が過ぎた罪で春日明神が清盛入道の首を
太刀の先に貫いて高々と掲げる夢を見ました。
その時、夜の明けるのを
待ちかねて兼康が参上し、重盛と同じ不吉な夢を語りました。

境内には近くの丹後街道沿いから移された法華経の経塚があります。

最明寺入道北条時頼(1227~1263)は諸国行脚の時、
観音堂へ参拝してこの村に逗留し、一個の石に一文字の法華経を書写し、
街道筋に埋め塚とし、その上に卒塔婆をたてたと伝えています。
江戸期の地図などにも「たかそとば村」(千原村のこと)とあり、
その下で市が開かれていたとの記録も見られます。

当初、高さが12間余(約22㍍弱)もあり、12面の銅鏡を掛け
高卒塔婆とよばれていましたが、倒れたり朽ち損じたりする度に
建て直され、銅鏡は5面に減り高さも随分低くなったという。

『平家物語』で、平重盛と宋との交渉を伝えているのは「巻3・医師問答」と
「巻3・金渡し(こがねわたし)」です。このうち「金渡し」によると、
重盛は自身の後世安堵のため、九州から妙典という船頭を呼び、
三千五百両を渡して「五百両はそちにとらせよう。三千両は宋に運び、
千両は育王山(浙江省寧波にある阿育王寺)の僧へ贈り、
二千両は帝へ献上し、それを田地に替えて育王山に寄進して
わが後世をとむらってほしいと伝えよ」といいつけました。


妙典は宋国へ渡り、育王山の高僧徳光禅師に会い、この由を一部始終申し上げると
禅師は重盛の心に感じ入り願いは叶えられ、今でも育王山では
重盛の菩提を弔う祈りが続けられているという。

妙典について『平家物語全注釈』の解説に、宗像氏国の家人、
許斐(このみの)忠太妙典入道という中国渡海の熟練者がいたと書かれています。
当時、宋との交通や貿易に九州の宗像氏が大きな役割を担っていたと考えられ、
許斐家は重盛に仕え水軍を司っていたと思われます。

宗像大社は中世のはじめには九州各地に40ヵ所余りの荘園を持ち、瀬戸内海や
北九州で高麗や宋と密貿易を行っていましたが、清盛の日宋貿易を重視する
対外政策が展開されると宗像氏は平氏の統制下に入りました。

現在宗像大社には、高さ1・5㍍、幅1㍍の阿弥陀経石(重要文化財)が安置されています。
それは重盛が育王山へ贈った寄付へのお返しとして、建久九年(1198)秋に
重盛追善のために宗像大社に送ってきましたが、すでに平家が
滅亡した後だったので都へは運ばれなかったと伝えられています。


また「妙典とは貴い経典の意味で、特に法華経をいう語でもある。
『延慶本』には重盛が宋に贈ったのは、金の他に持仏の霊仏と、
「一部十巻法花(ほっけ)妙典」を書写したものに
書面を添え、金を贈る旨を記している。
単に金だけを船頭の口頭で伝えて届けるより現実味がある。」
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注)

瀬尾太郎兼康は平氏の有力家人として、
生涯忠義を尽した武将として知られています。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
『アクセス』
「小松寺」京都府亀岡市千代川町千原東斉の本23
JR山陰線千代川駅下車徒歩約13分

『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年



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小松寺門前左手の道は本堂近くにある駐車場へと続いています。



本堂前の桜は、元禄6年(1693)67歳当時の光圀手植の桜の実生と伝えられ、
3月下旬から4月上旬にかけて見ごろを迎えます。


本堂前の大きく枝を広げたしだれ桜の下にたつ「徳川光圀公お手植桜跡」の塔







寺宝の浮彫如意輪観音像は、平安時代、貴人の念持仏として
尊ばれた白檀(びゃくだん)を材とし、その板に観音を浮彫にし、
表面は木肌のままでなく、一面に漆様のものをひいています。 

制作年代については、平安時代後期説と中国唐時代の遺品とする説がありますが、
像の精巧な技法、厳しい表情、その周辺の文様および材質などから
中国晩唐時代の作で、日宋貿易による渡来品との説が有力視されています。
保存状態は良いのですが、数珠を持つ指先や数珠、
如意宝珠(にょいほうじゅ)を持つ手の指先などが失われています。

平重盛の念持仏といい、いかにもそれにふさわしい風格を表し、
掌にすっぽり収まる大きさです。
裏面には貞享4年(1687)の徳川光圀と陰刻した修理銘があります。 

浮彫如意輪観音像開帳 1月1日 
詳細は城里町産業振興課にお問い合わせください。029-288-3111 (内線381)

もと白雲山頂にあった観音堂は、水戸光圀によって現在地に移されました。
観音堂の壁画には唐獅子が描かれ、内陣の来迎柱には、登龍の彫刻が施されています。

説明板にある「柿葺き(こけらぶき)」は、木材の薄板を積み重ねて施工する葺き方です。

観音堂は本堂からこの渡り廊下を使って行き来できます。

『平家物語』(巻7)によると、平貞能は平家一門都落ちの際、重盛の墓に詣で
「源氏の駒のひずめにかけさせまい」と墓を掘り起こし、あたりの土は鴨川に流し、
遺骨は高野山に納めさせ、東国へ落ちていったとのことです。
ところが重盛の遺骨は早くから高野山に納められ、供養したと記す史料
(高野山文書、養和元年4月25日付『僧某申状案』)があり、また実際は
貞能は都での決戦を宗盛に進言するもいれられず、一旦は都に戻りましたが、
すぐに一門を追って西国に下ったので、この記述には虚構があります。

貞能が掘り起こした重盛の墓は、広本系によれば九条河原の
法性寺(ほうしょうじ)にあったということです。法性寺は九条大路より
南の地(現、本町通りから東福寺境内、伏見区稲荷山)といわれ、
西は鴨川、東は東山山麓という広大な地域と推測されています。

この寺は左大臣藤原忠平が建立したもので、毘盧遮那仏を安置した本堂はじめ
多くの堂宇が建てられ、代々藤原氏の氏寺として栄えました。
その広大な寺域には、関白忠通も別邸を構え、清盛も父の供養の一寺を造営していたという。
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注「法性寺の平家の墓」)

忠通の死後、その跡を継いで関白・氏の長者となり、その遺領を継承したのが
盛子(清盛の娘)の夫藤原基実(もとざね)です。
しかし基実は盛子との間に子を儲ける前に24歳で亡くなり、
摂政の地位は基実の弟松殿基房が継ぎ、盛子が摂関家領の大部分を相続しました。

これは基実の遺児基通(もとみち)が幼かったため、この子が成人するまで
預かるという名目で盛子に相続させ、清盛がこれを支配・管理しました。
さらに清盛は摂関家との血縁関係を重視し、基通が成長すると
娘完子(さだこ)を正妻に据えました。こうして清盛は盛子を介して
摂関家を取り込むことに成功し、平家一門がその強力な後ろ盾となりました。

盛子は憲仁親王(高倉天皇)の養母にもなり、仁安2年(1167)に憲仁が即位し、
高倉天皇となるとその准母となります。ところが清盛に思わぬ不幸が襲いかかります。
娘の盛子が闘病のすえ治承3年(1179)6月に24歳の若さで他界し、
次いで同年8月には、嫡男の重盛までもが42歳で没しました。

清盛は盛子の死後、彼女が伝領していた摂関家領を高倉天皇領とすることで、
所領の支配を継続しようとします。これに対して松殿基房は不満を持ち、
鹿ケ谷事件以来、平家に反感を抱いていた後白河院もこれに介入し阻止しようとします。
盛子が相続していた摂関家領のすべてを取り上げただけでなく、
重盛没後、維盛が受け継いでいた越前の知行国を清盛に断ることもなく
没収してしまったのです。このような動きが治承3年(1179)11月の
清盛が院を鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉するという暴挙につながっていきます。
(治承3年の清盛クーデター)
平重盛の墓(小松寺1)  
重盛創建の法楽寺  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺)  
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年
「茨城県大百科事典」茨城新聞社、1981年 元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年
高橋昌明編「平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館、昭和63年

 



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小松寺がある東茨城郡城里町(しろさとまち)は、茨城県の西北部にあり、
水戸城の北に位置しています。
豊かな自然に恵まれたこの町には、
東国に落ちた平貞能(さだよし)の足跡が残っています。

白雲山普明院小松寺(真言宗智山派)は、寺伝によると天平17年(745)に
行基が大御堂を建立したのが始まりとされています。平重盛の信頼が篤かった
平貞能は出家して小松坊以典(いてん)と名のり、この地で主人重盛の
菩提を弔ったと伝えられ、裏山の中腹に重盛の墓と伝えられる宝篋印塔のほか、
貞能、重盛夫人(得律禅尼)の墓と称する五輪塔2基が残されています。

天正13年(1585)戦乱により、唐門と観音堂を残し焼失しましたが、
寛文3年(1663)に徳川光圀の寄進により再建され、その後、
昭和45年(1970)に改築されました。寺宝の平重盛の念持仏と伝えられる
「浮彫如意輪観音像(うきぼりにょいりんかんのんぞう)」は国の重要文化財に、
「伝内大臣平重盛墳墓」は県の文化財に指定されています。

小松寺へのバス便はJR水戸駅から「小松」停まで朝夕各二本ほどあるだけなので、
タクシーを利用することにしました。小松寺に一番近いJR内原駅で
タクシーの運転手さんと7000円(往復運賃、参拝と撮影30分)で
交渉がまとまり、広い境内を駆け足で周りました。

小松寺の門を覆うように枝を垂らすしだれ桜は、
茨城百景のひとつにも数えられる観光スポットです。

門前にたつ「茨城百景小松寺」の碑







「唐門(両唐破風中爵門・りょうからはふうちゅうしゃくもん)
 京都小松谷にあった平重盛邸の勅使門を模造した建造物で、
常陸大掾(だいじょう)義幹(よしもと)が建久二(1191)年に寄進したと伝える(寺伝)
特徴としては本柱が円柱、控柱が角柱で、柱の下に礎盤(そばん)がある。
柱の上部には精巧な籠彫(かごぼり)が施されており、
扉は桟唐戸(さんからと)である。建築様式上からは「向う唐門」という。
 昭和四七年十二月二七日 町指定建造物に指定された。 
 城里町教育委員会」(現地説明板より)

大掾義幹は桓武平氏の流れをくむ常陸平氏の嫡流です。
常陸国(茨城県)の守は現地に赴任せず、介(次官)が事実上の支配者として代行し、
大掾(判官)を中心とする在庁官人が結成されました。
平将門の乱を藤原秀郷とともに鎮圧した平貞盛の甥である
平惟幹(これもと)以後、この大掾を名のります。









本堂 本尊は大日如来

本堂と観音堂をつなぐ渡り廊下の下を抜けると、
裏の白雲山へ続く道があるとご住職に教えていただきました。



参道上り口に平成7年10月の「高野山智積院参拝記念碑」がたっています。

急な石段を上っていくと、明治28年に建立された「小松内府遺骨塚碑」と
彫られた大きな碑があります。 
陸軍大将大勳位功二級彰仁親王篆額、正三位侯爵德川篤敬撰文並びに書です。

平貞能は平家一門都落ちの際、潛かに都に戻り、重盛の墓を掘り起こし、
その遺骨を髙野山に分骨し、残りの骨を持ち
重盛夫人・得律禅尼を伴って
大掾(だいじょう)平義幹(よしもと)の案内でこの地に至った。
義幹から茨城郡金伊野村の白雲山を給り、重盛の遺骨を山中に埋め、
堂塔を創建して普明院小松寺とし、後、義幹の二子を僧とし重盛の霊を弔った。


さらに石段を上ると平地に出ます。

左側には梵字塔や墓石などが並び、平重盛の宝篋印塔はその右側の急斜面にあります。

梵字塔と「開山宥尊(ゆうそん)宗舜上人 満?」と彫られた石碑

重盛夫人は貞能の姉であったらしく、この北方に相応院という尼寺を建てたという。
貞能の姉が重盛夫人であったということについては不詳です。


ご住職から危ないので垣から上へは上らないよう言われていたので、
ここから参拝しズームを使って撮影しました。

一番高いところにある宝篋印塔が重盛の墓

重盛の墓の一段左下にある小さな五輪塔が重盛夫人の墓、その左側にあるのは
禅僧(住職)のお墓として使われる無縫塔(むほうとう)ですから、
小松寺第2世となった大掾義幹の息子の墓とも考えられます。

貞能の五輪塔は重盛の墓の向かって右下にあるはずなのですが、
(ご住職にズーッと下と伺いました。)
雑草に覆われているのか見つけることができませんでした。
平重盛の墓(小松寺2)
平重盛の念仏堂跡と伝える小松谷正林寺
小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 )    平重盛邸宅跡から池跡出土  

重盛創建の法楽寺  大阪市の法楽寺(1)源平両氏の菩提を弔った寺  
『アクセス』
「小松寺」茨城県東茨城郡城里町上入野2912 029-288-4312
JR常磐線内原駅から
タクシーで約20分 
JR常磐線水戸駅北口より小松まわり石塚方面行「小松」停(約50分)徒歩10分
茨城交通 029-251-2331
『参考資料』
「茨城県大百科事典」茨城新聞社、1981年「茨城県の歴史散歩」山川出版社、2006年
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年「鎌倉・室町人名事典」新人物往来社、昭和60年

 



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那須塩原の妙雲寺は源平合戦に敗れた平家一門の重盛の妹、
妙雲禅尼が草庵を結んだのが始まりとされる古刹で、
本尊の釈迦如来像は、重盛の念持仏と伝えられています。

那須塩原市は、栃木県の北部に位置しています。
JR東北新幹線 東京駅 ⇒ 那須塩原駅(約1時間)

塩原渓谷などの自然景観と温泉に恵まれ、日光・那須を中心にして
栃木県と群馬県そして福島県の3県にまたがる日光国立公園に含まれています。

甘露山妙雲寺(臨済宗妙心寺派)は、塩原温泉郷の門前温泉街の背後、
箒(ほうき)川の左岸近くにあります。
この温泉は、妙雲寺の門前町として栄えたところからつけられた名です。

西国で消息を絶った平貞能(さだよし)は、妙雲禅尼を伴い、
姻戚関係にあった宇都宮朝綱(ともつな)を頼って東国に下りました。
朝綱は頼朝をはばかり館に入れなかったため、貞能らは朝綱の領内、
塩原奥地のここに草庵を結び、重盛が帰依したという釈迦如来を安置して
身を隠したとされ、妙雲死後、正和元年(1312)に
仏光国師(無学祖元)の弟子、大同妙詰が尼寺を改めて臨済宗の寺院として、
禅尼の法名「天樹院殿甘露寿永慈海妙雲禅尼」に因んで、
甘露山妙雲寺と称し伽藍を建立したという。

文禄2年(1593)、落雷による火災で建物や古文書類などを焼きましたが、
重盛の念持仏と伝える本尊は、光背・蓮台を失っただけで難を免れました。
現在の本堂は元文3年(1738)11世乙道が1万人講をおこし、
浄財を集めて建てたもので、山門は嘉永2年(1849)に造営されたものです。 


鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争(1868~69年)では、下野(栃木県)でも
激しい戦闘が繰り広げられ、塩原の多くの建物が会津軍によって焼き払われました。
妙雲寺が焼失を免れたのは、会津軍に協力し敵軍偵察兵となった
檀徒渡辺新五右衛門が会津軍の隊長に懇願したことによるものです。













東門





妙雲寺の大門は温泉街に面したバス通り沿いに
たっています。

大門をくぐり階段を上ると本堂があります。

山門

本堂



本堂内部は、一般に礼拝するための外陣と仏像を安置するための内陣があり、
内陣には宮殿が置かれ、そこに本尊釈迦如来仏像が安置されています。


境内には芭蕉、尾崎紅葉、夏目漱石、斎藤茂吉などの歌碑・句碑などが点在しています。

南門傍の芭蕉句碑

振袖に形が似ているので振袖石の名がある芭蕉の句碑
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり
(蓑を着て山道を行くと初時雨が降ってきた。寒さの中、
猿が冷たい雨にぬれている。
その姿は小蓑をほしがっているようだ。)
芭蕉百年忌の供養にたてたといわれ、今は摩滅して読み取ることができません。



本堂から妙雲禅尼の墓へ





寺の背後の丘の上、二本の巨杉の根元に妙雲尼の墓という九層石塔がたっています。

妙雲尼墓の石段下から平家塚へ

塩原渓谷遊歩道へ続く延命坂 左手の祠は学問の神天神さま



源頼朝が挙兵した治承4年(1180)、下野国の宇都宮朝綱は平氏に従い、
京都で大番役として御所の警備にあたっていましたが、
平氏に足止めされ、一門都落ちに際し処刑されるところを平貞能の執りなしで
助命された恩義から、今度は朝綱が貞能の助命を頼朝に願い出ました。
(『吾妻鏡』文治元年(1185)7月7日の条)
この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられることになりました。

宇都宮氏の出自については、諸説ありますが、家伝によれば、関白藤原道兼の
曾孫にあたる宗円が、源頼義・義家親子の前九年合戦(安倍氏討伐)
の折、
頭領安部頼時調伏祈祷の功により、
宇都宮(現、栃木県宇都宮市二荒山神社)座主に任じられ、
宗円の孫の朝綱から宇都宮氏を名のっています。
 

朝綱は鳥羽院武者所、後白河院北面の武士として務め、
父の八田(はった)宗綱も武者所に伺候した経歴をもっています。
妹(姉とも)は小山(おやま)政光の妻となり、
京都で生まれたという頼朝の乳母(寒川尼)となっています。

頼朝が関東の大半を制圧すると、寒川尼はいち早く三男を連れて参陣し、
頼朝はその場で烏帽子親となり宗朝(むねとも)と名のらせました。
この子はのちに朝光と改名し、
頼朝の側近としてよく仕え、
頼朝の死後は幕府の宿老や評定衆の一員に数えられています。

貞能の母は宇都宮氏出身の女性で、忠盛の郎党であった
平家貞の妻となり、貞能を生んだと推定されています。

洛北の大悲山峰定寺(ぶじょうじ)の仁王門には、長寛元年(1163)6月に
「平貞能母尼」が願主となって造立された金剛力士像が残っています。
貞能の兄家継の名が見えないのは、家継が異母兄であったためと思われます。
大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔)  

 家継は都落ちには同行せずに、本拠地伊賀国に留まり、屋島合戦前年の
元暦元年(1184年)7月、小松家家人を中心とする平家残党を率いて
大規模な反乱を起こしましたが、乱は短期間で鎮圧され家継は討取られました。
(元暦元年の乱、三日平氏の乱とも)
平貞能、平家一門離脱  
『アクセス』
「甘露山妙雲寺」栃木県那須塩原665 開門時間8:30~16:30
 JR東北本線(宇都宮線) 那須塩原駅からJRバス「塩原温泉行」約50分、
運行本数が少ないのでご注意ください。( 1時間に1本程度)
 「塩原門前」下車徒歩約5分 

毎年5月には色とりどりのぼたんが咲き、ボタン祭が開催されます。
  2017年 5月8日(月)~31日(水)

また8月15日に奉納される「塩原平家獅子舞」は、
県の無形民俗文化財に指定されています。
『参考資料』
「栃木県の地名」平凡社、1988年「郷土資料事典 栃木県」ゼンリン、1997年 
県史9「栃木県の歴史」山川出版社、1998年 
「栃木県の歴史散歩」山川出版社、2007年 
角田文衛「平家後抄(上)(下)」講談社学術文庫、2001年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年 
河合康編「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年

 「日本中世内乱史人名事典」新人物往来社、2007年
田端泰子「乳母の力 歴史を支えた女たち」吉川弘文館、2005年

 

 



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