平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




猪俣小平六範綱(?~1192)は武蔵七党の一つ、猪俣党宗家の家筋で、
武蔵国猪俣(現、荒川上流域の埼玉県児玉郡美里町)を本拠に活躍した武士です。

武蔵国多摩郡(現、東京都八王子市)横山荘を本拠とした横山党と同族で、
小野篁の末裔であるとも、武蔵国造の子孫であるともいわれていますが、
史料が少なく明らかではありません。

ほぼ10世紀末の時資(ときすけ)の頃に猪俣村に住み猪俣氏と称し、
その孫忠兼が猪俣党の棟梁として北武蔵一帯に勢力を広げました。
党の同族は非常に多く猪俣・岡部・人見以下数十氏が知られています。
棟梁は一応一族の代表となりますが、
統率支配者となるわけではなく、互いに対等の寄合組織です。

美里町は埼玉県の北西部に位置し、東部は平忠度や岡部忠澄の墓がある深谷市、
北部・西部は本庄市、南部は寄居町及び長瀞町にそれぞれ隣接しています。

猪俣範綱(則綱とも)は保元の乱では、源義朝に従い武勇の名を挙げました。
義朝が保元の乱での清盛との恩賞の格差にこの行賞の決定権を握る信西に
不満をもったことが平治の乱を引き起こす要因の一つとなりました。

一方、信西に敵対する藤原信頼(後白河院の腹心)が打倒信西の武力として
頼みにしたのが義朝でした。両者は結び清盛の熊野参詣中に挙兵しました。
平治の乱で範綱は悪源太義平十七騎の一人として奮戦しましたが、
都の事件を知り急いで戻った清盛に義朝は敗れ去りました。その結果、
武蔵国の国司は平知盛が任じられ、その支配を受けることになりました。


源頼朝挙兵後は頼朝に仕え、一の谷合戦で平家の勇将盛俊を討つなど、
戦場においてしばしば功績をあげ、文治元年(1185)勝長寿院の堂供養に従った
随兵の中に小平六の名が見え、また建久元年(1190)11月の頼朝の上洛、
石清水八幡宮参詣、奈良東大寺供養の際にも頼朝に供奉しています。

勝長寿院は頼朝が父源義朝の菩提を弔うために
現在の鎌倉市雪ノ下に建立した寺院です。

子孫は承久の乱にも幕府方として戦功を挙げ、その活躍ぶりが『吾妻鏡』
『承久記』『太平記』に伝えられています。戦国期には、猪俣範直が
後北条氏第3代目当主北条氏康の子、鉢形城城主北条氏邦に仕えました。


豊臣秀吉の天下統一事業が進み、九州の島津氏を討ち西日本を支配下に治めた後、
秀吉は関東平定を企て小田原の北条氏と調停し、真田昌幸の沼田城を
北条氏に渡すことを条件に北条氏政、氏直父子のどちらかの上洛を約束させ、
北条氏は家臣猪俣範直を城代に任じて沼田城を預けました。
ところが範直は協定に違反して、勝手に真田昌幸の名胡桃(なぐるみ)城
(現、群馬県月夜野町)を攻撃して奪ったため、
秀吉に小田原城攻めの口実を与え北条氏は滅亡しました。
荒川右岸の埼玉県大里郡寄居町には、鉢形城跡(国史跡)が残っています。



猪俣橋は正円寺川に架っている小さな橋です。

正円寺川


猪俣氏館(美里町猪俣字蔵屋敷)は(用土駅からだと)旧道を右折してそのまま進み、
正円寺川を越えた先を右折した周辺であり、「小平六範綱館趾」の碑が立てられている。
現在館跡は宅地や畑となり、わずかに水堀の一部が残るだけである。
猪俣党の首領猪俣小平六の居館であったとされ、平安末期に築造され、
戦国時代まで続いたとされています。東西200㍍、南北164㍍の長方形で、
二重の堀に囲まれていたようです。(『埼玉県の歴史散歩』『埼玉大百科事典』)


正円寺川の畔で通りがかりの人に「猪俣範綱館跡」を尋ねましたが、

そんな石碑は知らないという返事ばかりです。
辺りに小平六の館があったことなど、
いつのまにか忘れられているようです。

高台院の裏手、標高約300㍍の城山と呼ばれる急峻な山の頂には、
戦国時代の猪俣城跡があり、本廓・二の郭・三の郭、石垣、空堀跡が確認できます。



高野山真言宗高台院(本尊十一面観音像)は町の南東部、
猪俣集落から少し上ったところにある猪俣氏の菩提寺です。
猪俣氏が創建したとされていますが、その時期などについては不明です。



猪俣小平六範綱の墓(県旧跡)は高台院の境内にあり、
寺の左手下の藪の中に一族の墓とともに祀られています。






五輪塔はどれもかなり劣化しています

猪俣では小平六の霊を供養する猪俣の百八燈(国指定重要無形民俗文化財)が
受け継がれています。この行事は高台院と墓所、その前方650㍍にある堂前山で行われ、
この山の尾根筋にはかがり火を灯す土の塔が108基築かれています。

墓所から前方の堂前山
を望む

猪俣の百八燈(ひゃくはっとう)塚への道しるべ



  眼下に広がる猪俣の集落 





猪俣小平六範綱の碑が神戸市にあります
源平合戦勇士の碑  
小平六が討ち取った平盛俊の塚
平盛俊塚(越中前司盛俊の最期)  
『アクセス』
「高台院」 埼玉県児玉郡美里町大字猪俣1579 八高線(はちこうせん)用土駅下車
無人駅です

『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団 その成立と故地をさぐる」有隣新書、平成8年
 福島正義「武蔵武士 そのロマンと栄光」さいたま出版会、平成15年
  冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
 「郷土資料事典 埼玉県」ゼンリン、1997年 「埼玉県の歴史散歩」山川出版社、1997年
「埼玉大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 「埼玉県の地名」平凡社、1993年
 「国史大辞典」吉川弘文館、昭和58年

 





コメント ( 5 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
荒々しい坂東武者が頼朝に従っていたのですね。 (yukariko)
2017-05-29 12:12:33
猪俣小平六範綱をはじめ、武蔵野の国に割拠していた武士集団が平氏の全盛期は平氏の国司の支配のもと雌伏していたのが、頼朝の旗揚げに付き従い、手柄を上げんと勇んで京都、西国まで駆けずり回った。
その騙し騙されても戦功をあげた方が勝ちという男臭いぎらぎらとしたエネルギーが日本中を席巻し、頼朝を中心とした幕府を作る源になったのでしょうね。
でもリンクして下さった「平盛俊塚(越中前司盛俊の最期) 」を読み返しても彼らを好きにはなれませんね。
エネルギーに優る坂東武者に対しても後世の私達はつい戦いの際にも道徳観を求めますが、それは知識階級一般人の感傷でしかなく、実際に生きた彼らはもっと赤裸々で貪欲な生き方ですね。
 
 
 
その通りでしょうね (sakura)
2017-05-29 16:39:09
リンクした記事まで読んでくださってありがとうございます。

源平合戦で戦功を挙げようと敵と命がけでぶつかり、
なりふり構わず戦った東国武士のエネルギーが
源氏勝利の原動力となったと思われます。

大豪族は手下の手柄が主人のものとなりますが、
小さな武蔵七党のような場合は手勢も少なく、
手柄は自分の力で勝ち取らねばならないのです。

手柄争いは熾烈でその見返りに与えられる恩賞(土地や地位)を
手に入れようと命がけで戦ったのです。
ときには平気で仲間もだしぬきますし、ルール無視もあります。

生田の森の先陣を切った私市党の河原太郎・次郎兄弟の
言葉がそれをよく言い当てています。

「大豪族は郎党の手柄で恩賞にあずかれるが、
手勢の少ない俺たちはそうはいかないから。」と
一族子孫のために何とか論功行賞に預ろうと、二人だけで敵の大軍の中に飛び込み
決死の働きをした末に戦死してしまいました。

「戦場の精神史 武士道という幻影」には、
「だまし討ちを肯定したり、肯定しないまでも特に批判しないという感覚が、
当時(平家物語成立時)の常識からそう外れてないのではないか」と記されています。
 
 
 
猪俣 (Unknown)
2021-07-06 11:20:50
私は会津系の猪俣姓です。今でこそファミリーヒストリーや苗字の歴史を探ることがある程度できますが小平六の後の一族の歴史がいまいちわからずにいました。1355年に会津田島の神社に猪俣憲頼なる人物が寄進していますがそれが私の知る限りでは一番古い会津の猪俣姓の歴史です。戊申以降は祖父が昭和4年に海軍入隊前に戸籍の記載に興味を持ち曾祖父などに江戸期の様子などを聞いていました。今わからないのは鎌倉期と戦国期から会津までの流れです。

私も猪俣姓に誇りを持っています。何事にも貪欲でギラギラした活力ある人生を残りの人生後半戦では出していければと思います
 
 
 
猪俣さま (sakura)
2021-07-08 13:26:38
ご訪問ありがとうございました。

源頼朝に従って鎌倉幕府の成立に貢献した猪俣党の棟梁小平六範綱の子、
範高は承久の乱で猪俣党の面々、人見・甘糟・藤田らとともに
宇治川合戦で功を立てています。

南北朝時代には、猪股弾正左衛門・藤田小次郎らが各地で活躍したことが
『太平記』に描かれています。

猪股弾正左衛門・藤田小次郎が討取ったのは、えびらの梅をつけていたことから、
生田森の合戦で名をあげた梶原景時の子孫であることが知れました。

戦国時代には、関東管領上杉氏に従いますが、上杉氏没落後、北条安房守に属しました。

猪俣氏の史料は極めて少なく、戦国期から会津までの流れはわかりませんが、
地元の『町史』などに文書が残っていませんか。
図書館でお尋ねになれば何か手掛かりが見つかるかもしれません。

どうぞご先祖のように逞しく生き抜いてください。
 
 
 
Unknown (いのこぞう)
2022-09-01 13:57:49
私も猪俣一族の者です。
私の祖父から聞いた話ですと、北条氏の崩壊後、上杉氏を頼って会津まで落ち延びたようで、会津に現存している猪俣性が末裔のようです。代々本家筋には伝承が残っているようですが、一族も爺ばかりで伝承を伝えられる人は少なくなっています。
ちなみに猪俣の名前の由来は、ある日、源氏の大将との酒席で、余興の力試しで生きた猪を股から引き裂いたことから猪俣を名乗るよう拝命したようです。男衾三郎物語も大概ですが、その本家の猪俣家も相当なバーバリアンだったことが窺えます。
このようなブログを通して猪俣一族の名前を残していただいていることに大変感謝しております。
 
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