平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平家物語の中で、もっとも有名な物語は那須与一の扇の的です。
洲崎寺から北へ進むと祈り岩バス停前に「いの里岩」と刻んだ石標があり、
当時、海の中にあった駒立岩はその先の川の中です。
付近には与一公園、与一橋もあります。



左手はもくもく遊らんど、その先に見えるのが与一橋



与一橋の欄干は波をデザインした石のアート
さすが石の町、周辺にはさまざまな石のオブジェがあります




那須与一が成功を祈った祈り岩。



那須与一が扇を射る時に、神明の加護を祈った場所です。
「いの里岩」の下方は、埋まっています。







祈り岩から駒立岩まで北西へ50メートル

川の中にある祈り岩の傍の小さな石には、「いのり岩レプリカ石」と刻まれています。
本物の祈り岩がすぐ近くにあるのに、何故ここにレプリカが置かれているのでしょうか。
この件について、高松市文化財課に問い合わせたところ

「高松市に合併する前の旧牟礼町がレプリカを施工したものと思われます。
旧牟礼町の人によると、祈り岩周辺が市街地の中に埋もれてしまっていて、
祈り岩から駒立岩が見えないことから、レプリカを駒立岩付近に設置し、
往時の雰囲気を再現したのではないかということです。」というお返事をいただきました。


相引川の水路には、与一が扇を射るときに駒を止めたという
駒立岩があり、潮が引くと巨岩が姿を現わします。


先の方(四角で囲んだ所)に、扇を開いた竿と女房のパネルが置かれています。





与一公園の案内板

与一公園内の扇をかたどった池の水は抜かれていて、噴水はあがっていません。  
♪もののふの誉の岩に鯊(はぜ)ひとつ 水原秋桜子

戦いが一段落した夕暮れどき、平家方から優雅に飾りたてた小舟が一艘近づいてきました。
その舟の中から女房が現れ、金色の日の丸の描かれた紅一色の扇を竿の先につけて
陸に向かって手招きします。この女房というのは、千人の雑仕から選ばれた美女で、
今年19歳の玉虫の前という建礼門院の女房です。その意図するところがわからず
義経の「あれはいかに。」との問いかけに
「扇を射よということでしょう。
誰かに射落とさせるのがよろしいでしょう。」と後藤兵衛実基が進言します。


「味方に射当てる者はいるか。」という義経の重ねての問いかけに、

実基は即座に那須太郎資高の子、那須与一宗高を推挙します。
与一宗高は小兵(小柄の武士)ではあるが、空を飛ぶ鳥の三羽に二羽を
射落とすほどの腕前だというのです。与一は辞退しますが義経は許しません。
「義経の命令に背いてはならぬ。文句をいう者は鎌倉へ帰れ。」と語気荒く言うので、
与一は命令に逆らえず、荒れる海に駒を乗り入れ駒立岩まで進めます。

それでも的の扇まで20メートルほどもあります。ちょうど激しい北風が吹いて
舟も扇も波に揺れています。両軍かたずをのんで見守っている中、
ここで射損じたなら源氏末代の恥、目を閉じ「南無八幡大菩薩、我国の神は日光権現、
宇都宮大明神、那須の温泉大明神、どうぞあの扇の真ん中を射当てさせてくださいませ。
これを射そこなうものなら弓を切り折って命を絶ちます。もう一度本国へ
迎えてやろうとお思いならば、この矢を外させないでください。…」そう祈って目を開くと
心なしか風もおさまり、的の扇も射やすくなっています。
与一は手早く鏑矢を
箙から引き抜いてすばやくつがえ、えいっとばかりに放ちました。
鏑矢とは矢の先に鏑をつけたもので、矢を射ると音を発します。
鏑 は蕪の形に似た長円形で、木や角で作り中を空洞にして
3~8個の穴をあけ、射ると穴が風を切って鳴ります。

矢を射る距離についてコメントをいただいたので、
追記させていただきます。
「与一と扇との間隔は、7段くらいはあろうと見えた。」とあります。
1段を6間とすれば80ないし90メートル。
1段を9尺とすれば20から25メートルくらいになる。
後者の方が実情に適する。(『平家物語全注釈(下巻1)』)

梶原正昭氏は「中世では、1段は9尺(2・7m)のことなので7、8段は約20mほどの
距離ということになる。」と述べておられます。(『古典講読平家物語』)

弓は強弓。鏑矢は浦一帯に鳴り響き、扇のかなめ際、
一寸ばかりの所に見事命中。
扇は天高く舞いあがり、
しばらくひらひらと舞うと春風に吹かれて海へ落ち、
金の日輪を描いた真紅の扇が夕日を受けて
白波の上に漂い、
浮いたり沈んだりしています。
これを見て、沖では平家が船端をたたいてどっと歓声をあげ、

陸では源氏が箙をたたいてどよめきました。
あまりの見事さに感極まったのか平家方の年老いた武者が、
小舟の上で舞を舞いはじめました。

ところがこの余興は義経にはまったく通じません。
「あの者も射よ。」と命じられ、
与一は仕方なくその男まで射てしまいました。
「風流を解さぬ振舞い」と平家のほうは静まりかえりましたが、
源氏方はまた箙をたたいて囃したてました。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、下野国那須郡に勢力を張った豪族で、
与一の父資高はその六代目にあたります。与一はその十一番目の子です。

強弓というのは、普通の弓は一人が弓をためてもう一人が弦を張る「二人張り」ですが、
それよりはるかに弦(つる)の張の強い「三人張り」「四人張り」などの
弓を引きこなし、狙った的をはずさず射抜く人のことです。

屋島合戦では、義経勢の奇襲に驚き平家が沖へ逃れた隙に、後藤実基は内裏を焼いて
敵の反撃を封じという、老練で思慮深い古つわものらしい活躍を見せています。
扇に何かいわれがあるかと義経が実基に尋ねたのは、
実基が都の武士で弓馬の故実にも通じていたからです。
那須与一の郷(那須神社)  那須与一の墓(即成院) 
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)   
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「祈り岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分 
ことでん「いのり岩」
バス停前
「駒立岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 祈り岩より1分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年

梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年
 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年





 

 







コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
的までの距離はどれくらいでした? (自閑)
2016-03-31 08:18:49
sakura様
いよいよ那須与一の場面ですね。
それにしても、的の前に立った玉虫の前と言う女性は凄い勇気が有りますね。
此女房と云は、建礼門院の后立の御時、千人の中より撰出せる雑司に、玉虫前共云又は舞前共申。今年十九にぞ成ける。
万が一的を外していたらと考えると足がすくみます。
丁度今は旧暦の二月廿日頃。それまであたためておられたのでは?と思う次第です。
拙句
春の海扇ながるゝのたりのたり
 
 
 
そうではありません。 (sakura)
2016-03-31 08:55:24
面倒な記事を後回しにしていただけなのです。
的までの距離は「遠干なれば馬の太腹ひたるほどに
うち入るれば、いま七、八段ばかりと見えたり。」
中世では、一段は九尺(2・7メートル)のことだそうですから、
「七、八段」は、約二十メートルということになります。

覚一本系の「平家物語」には、海へ六間ばかり乗り入れたが、
扇との間は、約四十間(約72メートル)とありますが、
参考資料には、常識的に考えてこの距離は遠すぎると書かれています。

的の前に立った玉虫の前、本当に勇気がありますね。
 
 
 
とても具体的な表示ですね。 (yukariko)
2016-04-03 13:10:23
想像力があまりないyukarikoなどは駒立岩だけだと現在は海岸でさえなくなっていてその昔の合戦の浜を想像できないですが、扇を開いた竿と女房のパネルが向こう側に置かれていれば、よく分かります。

多くの人がロードを訪ね歩いて合戦を追体験してきて、物語の山場の場面に出会う時、とても親切ですね(笑)
いのり岩の文字は松平頼重の家臣が書いた…その時代から丁寧に保存されてきたのですか。

那須与一も玉虫の前もあれこれ考えてばかりいる現代人と違い、命じられたら行動あるのみ、その後などを先に考えない人達なのかも。
 
 
 
源平盛衰記 (sakura)
2016-04-04 09:18:51
屋島は近世の埋立てにより、半島状の陸続きとなり、
相引川がその面影を残しているだけです。
祈り岩も一段低い場所、その上、下部が地中に埋まっていますが保存されています。

「源平盛衰記」には、扇の的の射手に最初は畠山重忠が指名されましたが、
脚気を理由に辞退、義経はついで与一の兄に命じましたが、
一の谷の逆落しの時、弓手の肘をついたので、まだ灸をすえている状態である。
といって断り、与一を推薦したと記されています。

また、盛衰記には扇の竿を立てた女房は入りにけり。とあり、
屋形船の中に入ったとあります。どちらが真実かわかりませんが、
源平合戦図屏風は扇の背後に女房が描かれています。

この屏風は、実際の合戦から400年以上経て制作されたもので、
史実を正確に伝えるものではありませんが、
文章を読むより視覚的でわかりやすいですね。
 
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