平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




観光客で賑わう京都嵐山の渡月橋付近には小督ゆかりの史跡が点在しています。
清盛の横やりで、高倉天皇との仲を裂かれた小督がこの辺に
隠れ棲んでいたという平家物語にもとづく史跡です。


渡月橋からは琴聴橋がある車折神社嵐山頓宮の朱色の玉垣が見えます。

渡月橋のほとりに「琴きゝ橋跡」の碑があります。碑の側面には
♪一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒
と刻まれています。


渡月橋の川沿いに西に少し進むと車折(くるまざき)神社嵐山頓宮が見えてきます。



橋柱には「琴聴橋」と刻まれています。
さらに西に進むと料亭小督庵の裏に石の玉垣に囲まれた小督塚があります。


この辺に小督の庵があったと伝えています。

芭蕉は去来の「落柿舎」に滞在した時、小督塚に詣でましたが、
桜の木が1本植えてあるだけなのをみて、
  ♫憂き節や竹の子となる人の果 芭蕉 

(かつて天皇に愛され栄耀をほこった身も、運命にもてあそばれてはかない命を終え、
その跡は竹の子となってしまったよ。)と『嵯峨日記』に記しています。
この日記は、元禄4年(1691)に著したものです。

 従って小督塚がつくられたのは、早くても江戸初期と思われます。
 後世の人々は小督の塚や琴きヽ橋等を作ることによって、小督・平家物語を
身近なものにし、また小督の名が広く知れ渡ることになったようです。

小督は藤原成範(しげのり)の娘で、信西の孫にあたります。信西は
後白河法皇の側近で、保元の乱で活躍し学者としてもよく知られています。
高倉天皇が寵愛していた中宮の下仕えの「葵の前」が宮中を去ってまもなく、
病で亡くなったのを知り、天皇は悲しみにくれていました。小督は中宮徳子が
天皇を慰めようとさしだした自分付の女房でした。宮廷一の美人、
そのうえ琴の名手の小督にたちまち天皇は心を奪われてしまいました。
以前、小督は清盛の婿・冷泉大納言隆房の恋人でした。隆房は今なお
小督を恋しく思っています。娘婿2人を取られたとかんかんに怒った清盛は
小督を追放しようとします。これを知った小督は天皇に迷惑が及んではと
宮中を抜け出し、嵯峨野に身を隠してしまいました。

天皇に小督を捜すよう命じられた源仲国は嵯峨野一帯を探しまわりますが、
見つけることはできません。もしや法輪寺ではと駒を速め亀山辺にやってくると、
かすかに琴の音が聞こえてきます。それは夫を思う「想夫恋」です。
その音をたよりに小督を見つけ連れ戻しました。仲国に諭され宮中に
戻った小督は再び天皇の寵愛を受けて姫君(後の範子内親王)を生みました。
このことがさらに清盛の怒りを招く結果となり、清盛は小督を無理やり尼にして
宮中から追放しました。わずか23歳で墨染めの衣に身をやつし、
再び嵯峨野で世を過ごすことになったのはむごいことでした。

小督が範子内親王を生んだのは徳子に懐妊の気配のなかった時期でした。
その一年後、徳子は安徳天皇を生んでいます。
清盛には娘が皇子を生む前に、他の女が皇子でも生むようなことがあったらという
焦りがあったのだと思われます。範子内親王は中宮徳子の猶子となり、
葵祭の斎王として僅か2歳でその儀式に参列しています。
それから20年、健寿御前(藤原俊成の娘・定家の姉)が嵯峨で小督を見かけたという。
 清閑寺 高倉天皇陵と小督の供養塔 
小督ゆかりの品 平等寺(因幡堂)  
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 井上満朗 「平安京の風景」文英堂 
「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂


 

 

 


 

 



 

 






コメント ( 3 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
目にしていても全く気付きませんでした! (yukariko)
2007-09-23 21:20:56
謡曲「小督」での「想夫恋」話は知っていても、ゆかりの「琴きき橋」や、橋跡の碑が実在し、しかも車折神社の頓宮(三舟祭の終わりにお入りになるお宮)前にあったなんて!
もっと嵯峨野の奥深い所かと勝手に…(笑)
嵐山に行くと必ず歩く場所ですが、はるか昔は人も通わぬうら寂しい所だったのでしょうね。

徳子かその側近が因果を含めて天皇に奉仕させたのなら、清盛が目くじらをたてるのは変ですが、その前に清盛の娘婿と因縁があったなら、『不愉快だ!』の一言で小督の廻りの人間が、清盛へのご機嫌取りに勝手に嵯峨野に遠慮をさせた…という事もありえますね。
この時代の清盛は北の首領サマよりもずっと絶対的な権力者でしょうから。

 
 
 
後を書く前にenterを押してしまった<(_ _)> (yukariko)
2007-09-23 21:33:12
安徳天皇生誕前後の記録も載せて下さっているので、平氏・藤原氏それぞれの勢力を背景に何人もの妃が後宮で寵を競った様子が伺えますね。
小督の生んだ範子を徳子(建礼門院)が養女にしているのなら、小督は徳子の手駒だったのではと思います。
 
 
 
車折神社嵐山頓宮前の琴きヽ橋は見過ごしやすいです! (sakura)
2007-09-24 17:30:36
小督の塚を以前訪ねた時は崩れかかった塚でしたが
篤志家の方でしょうか?
塚も新しいものになり、謡曲の駒札も立てられていました。

近くには「小督庵」といういい雰囲気の料理屋さんもありました。

平家物語は古典芸能にも沢山取り上げられ
人々に親しまれています。

先日私も観世会館でお能の「景清」を観てきました。
また平景清もブログの記事にします。


今は渡月橋、車折神社嵐山頓宮辺りはいつ訪ねても
観光客であふれていますが、平安末期・嵯峨野は清涼寺辺りには人家があったたようですがこの辺は寂しいところだったのでしょう。

この時代の男女関係は今の私達には計り知れないものがあります。
小督が登子の婿と付き合うのも徳子が
そんな小督を天皇に差し出すのも理解できません。

男女関係は今よりずっと自由だったのでしょう。
最初に誕生した高倉天皇の子供は乳母の子です。

物語も自分なりに想像しながら読むのもとても楽しいですね。

コメントありがとうございました。
 
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