吉野の桜は、万葉歌を詠んだ奈良時代には詠われていませんが、
平安時代の『古今和歌集』に詠まれ、『新古今和歌集』になって
多くの歌人によって詠まれることとなりました。
その桜を有名にした一人が西行法師です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。
西行の本名は佐藤義清(のりきよ)といい、元永元年(1118)に誕生し、
建久元年(1190)に亡くなりました。奇しくも同じ年に清盛が生まれています。
二人が生まれたのは、平安時代末期の貴族社会から
武家社会にかわる政治的転換期でした。
18歳で鳥羽院に仕え、その時の同僚清盛とは、
北面の武士として親しくつきあい、語り合いました。
23歳で突然出家し円位、西行と名のり、以後諸国行脚の日々を送り、
歌人として名を残しました。清盛の死、源平合戦、平家の滅亡を見届け、
そして源義経が衣川で自害し、源頼朝が奥州を平定した後、
72才でその生涯を終えています。従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を
目の当たりに見て生きていたことになります。
奥千本口のバス停傍に金峯神社の修行門が建っています。
この門をくぐり、西行庵を目指します。
ゆるやかな坂道を上ると、やがて金峯神社の鳥居が見えてきます。
鳥居左手の小道を下ると義経かくれ塔、
右へ行くと西行庵・黒滝村鳳閣寺へと続きます。
老杉の中の石畳の古道を上って行くと、西行庵への案内板があります。
「左大峯道」「右鳳閣寺道」と彫られています。
「左 西行庵 0.2km」「右 鳳閣寺 4.0km」、「西行庵急坂注意」の案内板
ここから谷筋の急な坂道を下りて行くと、小さな台地が見えます。
左手は谷に面した東屋、右手に西行庵があります。
西行が庵をつくったのは標高750㍍、三方を山並みに囲まれた平地です。
1987年に西行庵が復元され、中に西行の座像が置かれています。
現在、吉野水分神社に安置されている像もかつてはここにあったという。
暁鐘成(あかつきかねなり)が著した江戸時代の『西国三十三所名所図会』には、
「凡一間半に奥行一間ばかりの草屋なり。西行上人の像を置けり、
長二尺一寸許の木造也」と記されています。
「西行庵 (現地説明板より)
この辺りを奥の千本といい、この小さな建物が西行庵です。
鎌倉時代の初めのころ(約八百年前)西行法師が俗界をさけて、
この地にわび住まいをした所と伝えています。
西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが世をはかなんで出家し、
月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で読んだといわれる西行の歌に
とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな
吉野山 去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへて まだ見ぬ方の 花をたずねむ
吉野山 花のさかりは 限りなし 青葉の奥も なほさかりにて
吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき
この歌の詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、
いまなおとくとくと清水が湧き出ています。
旅に生き旅に死んだ俳人松尾芭蕉も、西行の歌心を慕って
二度にわたり吉野を訪れ、この地で
露とくとく 試に 浮世すすがばや と詠んでいます。吉野町」
庵から100mほど行くと、苔清水があります。
岩間に湧き出ている苔清水
芭蕉は生涯に二度、貞享元年(1684)9月(野ざらし紀行)と
4年後の春に(笈の小文)西行庵を訪れ、
露がとくとくと流れ出る浮世を離れたこの地で、
♪露とくとく試(こころみ)に浮世すすがばや(野ざらし紀行)
(とくとくの清水が、昔と変わらずに雫を落としている。ためしに、
この清水で俗世間のけがれをすすいでみたいものだ。)
♪春雨の 木下(こした)につたふ清水哉(笈の小文)
(春雨が清水となって、木の下の苔むした
岩の間を伝わって流れているよ。)と句に吟じました。
この句碑が向かって左側にたっています。
右側にも「露とくとく…」の句碑があるそうですが、見落としてしまいました。
西行庵付近から見渡す吉野の山並み
晩春の奥千本、若葉に覆われた山のところどころに桜の花が残っています。
三十歳を越した西行は、高野山を生活の根拠地とし、高野の地から度々、
都だけでなく吉野山に分け入ったり、遠くは四国まで足をのばしています。
♪花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思ふ
(桜の花にあこがれて浮かれ歩いた昔の心を思い出し、
改めて昔のように吉野の里に住もうと思っている。)
西行は「吉野の里に住もうと思う」と詠んでいますが、いつから
吉野に住んだのか、庵の生活が何年続いたのかは定かではありません。
白洲正子氏は「西行はここに庵を結んで以来、
毎年のように吉野に入った。」と推測されています。(『西行』)
吉野山にはその数3万本ともいわれる桜が下千本から中千本、
上千本、奥千本、下から上へと花期をずらして開花してゆきます。
この桜は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が修行によって蔵王権現を感得し、
その姿を桜の木に刻んだことに始まり、吉野では桜はご神木となりました。
以来、蔵王権現や役行者の信者たちが桜を次々と植えていき、
現在のような桜の名所となったといわれています。
当時の紀行文などによると、辻々に鍬と桜の苗木を持った少年が立っていて、
参詣人に苗木を売っていた様子が書かれています。
江戸時代前期の公家で歌人でもある飛鳥井(あすかい)雅章も『芳野紀行』に
「日本が花、七曲り坂など過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め権現に奉る」と記しています。
『芳野紀行』にある七曲り坂は、吉野山ロープウェイ右側の「七曲り坂」のことです。
近鉄吉野駅ケーブル乗場から山上の吉野山駅までは、
ロープウェイを利用するか、七曲り坂を上っていく方法があります。
近鉄電車吉野駅前
七曲り坂を上りきるとケーブル吉野山駅、
駅前に奥千本方面行きのバス停があります。
『アクセス』
「西行庵」吉野山ロープ駅から徒歩約2時間
「奥千本口」バス停下車 徒歩約25分 「金峯神社」から 徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版、2005年
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年
だから体力の無くなった今はもう無理なので、詳しい記事と何枚もの写真で見せて頂けて嬉しいです。
世俗を離れた筈の西行がじっと世の移り変わりを見ていたのですね。よく知っている人達の転変だからこそ、感慨もひとしおだったことでしょう。
2008年の春に西行法師が桜に囲まれて入寂された終焉の地「弘川寺」を姑と主人の三人で訪ね西行庵のずっと奥山まで登りましたが、姑が気にかかるので心を残しながら帰りましたっけ。
あの頃は、お姑さんが快く送り出してくださるので、
あちこちお出かけになれていい時でしたね。
世俗を離れたはずの西行がじっと世の移り変わりを見ていたのですが、
平重衡によって焼かれた東大寺再建のため、奥州へ旅立っています。
69歳の時です。勧進職の重源から、西行の同族藤原秀衡への
砂金勧進の依頼を受け平泉を訪ねたのです。
♪年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山
これは、難所で有名な掛川の小夜の中山を通る時に詠んだ歌です。
弘川寺にもこの歌碑があったと思います。
二度目の奥州への旅、若い時と違い文字通り命がけの旅だったのでしょう。
平成16年の秋、講師に引率されて大峯奥駆け道を歩いた時、西行庵も訪ねました。
その時は何とも思わなかった庵への急坂、
今度は手すりを持ちながらゆっくりと下りました。