神戸市兵庫区北部の平野には、平清盛ゆかりの史跡が数多く残されています。
清盛は大病を機に出家し、嘉応元年(1169)春に六波羅の邸宅を嫡男重盛に譲り、
福原(現、神戸市兵庫区)に移り住み、没するまでの10年余のほとんどを
平野の山荘(雪見御所)で過ごしました。
以仁王(後白河院の皇子)の平氏打倒の謀反が落着した直後の
治承4年(1180)6月、清盛は突然、遷都を強行し、
安徳天皇や高倉上皇、後白河法皇らを福原の地に移しました。
福原は現在の神戸市兵庫区にあたり、以前から清盛の山荘を始めとして
平家一門の人々が屋敷を構えていた地です。
しかし、この地に御所があったわけでなく、安徳天皇は平頼盛の山荘
(現、兵庫区荒田町)で福原遷都の第1夜を内裏とし、次いで雪見(ゆきみの)御所
北側の「平野殿」を仮の皇居として、内裏が新造されるまで過ごしました。
清盛の邸近くには湯屋(温泉)があり、清盛もその湯屋に渡ったといわれています。
中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』治承3年(1179)6月22日条によれば、
「雪見御所の北、約100㍍のところに湯屋があり、前太政大臣藤原忠雅(忠親の兄)が
厳島神社への参詣のついでに福原に立ち寄り、清盛と湯屋で対面した。」と記されています。
かつてこの辺は温泉街だったようで、天王谷川左岸の上三条町には、
「湯の口」という小字があり、最近まで営業していた天王温泉がありました。
その対岸の湊山町には、天然温泉の湊山温泉が営業中です。清盛が通ったという
「湯屋」はその辺りにあったと推定されています。(『平清盛福原の夢』)
平野商店街近くにある平家ゆかりの史跡
祇園神社(兵庫区上祇園町)裏山の潮音山上伽寺(ちょうおんさんじょうがじ)は、
清盛がこの山寺で海潮の響きを聞きながら経ヶ島築造計画を練ったという。
大山咋(おおやまくい)神社(兵庫区山王町)は、
清盛の親友藤原邦綱が造営した社です。
一の谷合戦で潮音山上伽寺が焼失し、また多くの平家公達が討たれました。
元暦(げんりゃく)元年の五輪塔(兵庫区五宮町)は、
これを憂い南北朝時代に建立した供養塔と伝えられています。
時代は下り、大正2年(1913)に兵庫駅や元町と結ぶ路面電車の「平野線」が開通すると、
一帯は活気に満ち、商店街は買い物客らであふれていました。
玉田氏はご実家近くの祇園神社裏山を駆け回ったり、部活の帰りに商店街の
揚げ物屋に立ち寄ってコロッケを頬張ったり、雪見御所跡近くの「雪御所公園」で
毎日のようにサッカーボールを蹴ったと当時を懐かしんでおられます。
昭和43年(1968)、この電車が廃止されると、それまで120を超える店舗が
商店街に軒を連ねていましたが、半分ほどに減り
シャーツターが下りたままの店が目につくようになりました。
現在の平野の中心「平野交差点」には、有馬街道が通り
六甲山の北側への交通の要衝の地です。
交差点の周辺には平野商店街が広がり、この近くには
清盛の福原の山荘「雪見御所」の旧跡があります。
そのため商店街では、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」放送を記念して
平清盛像を建て、清盛をイメージキャラクターにして盛り上がっています。
鎧を身にまとう武者姿の清盛像
商店街のキャラクター「きよもん」の兜は平野の「ひ」
平野商店街にあるもう一体の入道姿の清盛像です。
平野の歴史を語りつぐモニュメント浄海入道 平清盛とあります。
こちらの像は以前からあったそうです。
温泉好きの清盛が通ったという湯屋はこの辺りにあったようです。
天王谷川のほとりの湊山温泉
有馬温泉への入口有馬街道
雪見御所跡・荒田八幡神社・宝地院・薬仙寺
『アクセス』
「浄海入道 平清盛像」 神姫バス「平野」下車すぐ
「平清盛像」平野交差点東南角 「平野」バス停から北へ約50㍍
「湊山温泉」神戸市湊山町26-1 水曜日定休日 午前7時~午後10時営業
「平野」バス停より徒歩約5分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社選書メチエ、2007年
「読売新聞夕刊」 2017年9月30日
「平家ゆかりの郷 平野商店街振興組合」平成25年
福原(現、神戸市兵庫区)に移り住み、没するまでの10年余のほとんどを平野の山荘(雪見御所)で過ごしました。…とお書きですし、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」放送で神戸の町は盛り上がっていましたよね。
詳しい平野の地図と旧の遺跡のあり場所の描かれたこの記事…前から福原滅法の詳しい記事も読んできたはずなのに…で、また今更に『そうだったんだ!』(笑)
長い間の思い込みはなかなか拭い去れず、恐ろしいものです。
京都には六波羅館跡・西八条第跡それに平家一門の菩提を弔った
寂光院や滝口入道の滝口寺、祇王寺など、平家物語の舞台となった数多くの史跡が残ってます。
でも、福原にもたった半年の間でしたが、都が置かれていたのですね。
福原に移住したのが清盛52歳の時ですが、そこで隠居していたのではなく、
大輪田泊を国際港にしようと、心血を注いでいます。
その2年後には、娘徳子が入内し、清盛61歳の時、
徳子にようやく皇子(安徳天皇)が生まれ、
また、60歳の時には鹿ケ谷事件が起こり、藤原成親、西光ら
後白河院の近臣を捕えて処刑しています。
暴走する清盛を抑える役目を担っていた重盛が治承3年(1179)に亡くなると、
院は清盛の勢力を排除しようと、清盛を挑発し始めます。
窮地に追いやられた清盛はついに福原から軍勢を率いて上洛し、
院を鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉しました(治承3年のクーデター)。
クーデターの翌年には、以仁王の謀反が発覚し、
各地の源氏が蜂起する中、63歳で没するまでには度々都に姿を現しています。