goo blog サービス終了のお知らせ 

CubとSRと

ただの日記

「扇動する」

2020年03月15日 | 重箱の隅
2010.05/01 (Sat)

 朝日新聞のこと。
  
 「あれは、アサヒと読まないで、チョウニチと読みます。」
 分かります。偏向報道のリーダー的存在ですから。
 何より、戦前は社を挙げて国策の応援をしていたのが、戦後は見事に手のひらを返してGHQ の走狗となり、戦後教育の元になる、旧帝大を支配した社会主義思想の学者連中と手を取り合って、民主主義思想(?)の普及に取り組んできたんです。
 それも、それまで主幹となっていた人々がみんなやめてしまった後で。
 だから筋金入り(?)の裏切り者、と言い切っていいかもしれない。

 ただ、「アカヒ」だ、「チョウニチ」だと言っているだけでは絶対に勝てない。打撃は内部まで浸透させなければならない。
 内部、つまり、考え方、感じ方です。ここまで打撃が透らなければ効果はない。
 そんなこと、一人じゃ、無理です。
 それより、まず、自分に打撃が浸透せぬようにすることです。
 では、そのための方策はあるのか。

 「きっと、こう来るぞ」という新聞社の攻撃法を見切っている人は、います。
 それも結構いる。しかし、気がついていない人は、もっと多い。

 だから、つい、使ってしまう。「覚醒した」、という言葉を。
 今まで知らなかったことを知った喜び、というのは、大変なものです。
 小学校の時、解けなかった算数の問題が解けて、それ以降その類の問題が面白いように解ける。「勉強って楽しいなあ」と思ったことありますよね。
 でも、学校で習ってきたことって、途中から、何だか希望の光が見えなくなってくるような気がする。
 これまで、二十年も三十年も生きてきて、でも何だか知らん日本人であることに誇りが持てなくて、学校で習ったことを思い出しても、あんまり良い国じゃなかったみたいだし、だから国連でも扱い悪いし。

 「軍隊持たないって宣言した良い国だ」と教えられたけれど、実際は言われるままに謝り続けて、世界の中では「お金は出すけど血は流さない最低の国」って言われて。
 湾岸戦争の時には一番巨額の援助をしたのに、クウェートの出した新聞広告には、関係全ての国に対して感謝の言葉がある筈のところ、「日本」の名前はどこにもなかった。

 これが、実は意図的に行なわれた戦後社会体制(教育を含む)づくりの結果だった、とネットで「分かった」、「知った」時、確かに「目覚めた」、「覚醒した」と感じる。
 そのうれしさ(又は衝撃)は、算数の問題の解き方なんて比較にならない、人生一度の大事件です。
 それはよくわかる。それに、第一、語感がカッコいい。「目が覚めた、ような気がした」より、「覚醒した」と漢字で書いた方が、何となく・・・ね。

 でも、これ、それじゃ、その感覚を味わったことのない人は、この二文字を見聞きした時、どう思うでしょう。
 「そうか、オレまだ、覚醒してないんだ目覚めなきゃ」とか、「いいなぁ覚醒出来て」、なんて思うでしょうか。反対じゃないでしょうか。
 「何だ?覚醒?目が覚めたってか?じゃ、オレはまだ寝ぼけてる、ってのか?バカにするな!」

 うまいでしょ?新聞社は。文章のプロ、ですから。自分は何も言わないで、こうやって対立の構図をつくる。
 「しーたろう」さんの名前も出ていて、新聞には「本人は法案の中味もよくわからない、と言う」と書く。
 つまり、ネットで、メールによる攻撃などを実行している者は、「中味も分からず、やっている愚か者」との印象的結論を「読者が導き出す」ように記事を書く。

 さて、「扇動社会」という題名の連載記事。
 すり替えとモンタージュ満載。それぞれの事実は事実ながら、設置する場所如何で、この、印象的結論が出せる。まるで算数のように誰がやっても同じ答えになってしまう。

 相手は文章のプロです。「だから、太刀打ちできるわけがない」?
 そんなことはない。実際に、朝日新聞を読んで「まさしく、これはチョウニチ新聞!」と見抜く人はたくさんいるはずです。しかし、見抜けない人はその何倍もいる。

 前にも言いましたが、「『見詰める』という姿勢と、培った『教養』が第一。情報は二の次」です。根が雑なら、砂上の楼閣はいくらでも攻撃出来る。

 「扇動」とは「あおる」ということです。なぜ、「扇動」と書くんですか?
 「扇を動かすからだろう?あおぐから」と思った人、引っ掛かりましたよ。
 「あおぐ」と「あおる」は同じですか?
 これですよ、論理の破壊は、こんなところからはじまっているんです。
 言葉の意味をすり替えても気がつかないように、略字を一般的にしたのが、戦後教育です。勿論そこまで計算した、つまり、謀略があったわけではありません。
 でも、無意識のうちにその道を辿って来たことは、知っておくべきでしょう。一時期は漢字、仮名を全て廃止し、ローマ字表記のみにしよう、と本気で考えられた時期も、戦後にはあるんですから。

 「せんどう」は「煽動」です。あおぐことで(火の)勢いを増すようにすること、を言います。「扇動」は「扇を動かす」だけです。
 「そんな小さいこと」と思ったら、それこそ貴方は、まだ「覚醒」していないことになります。
 日本に、日本人であることに「目覚める」、ということは、日本人の感情(又は感性)を取り戻す、ということに他ならないから、です。
 
 口やかましい奴だと思わず、もう少し付き合って下さい。
 日本創新党の結党声明の中に、「私たちは」という言葉が、何度も出てきます。
 私はあれを見て「やっぱり、この党は怪しい」と思いました。感性が粗雑です。
 「達」というのは貴族に対する敬称です。「公達(きんだち)」という言葉を習った覚えはありませんか。「平家の公達」、などと。
 子供は「子」「供」、自分のことは「身共」。じゃ、「私たち」と言わないで、何と言うか。
 「私共」或いは「我々」です。

 自分等に敬称をつけて、恬として羞じない者を、私は「代議士」とは認めない。これは、説明もしていないのに「ご案内の通り」とか、普通に言えばいいものを「お暮らし」というのと同列の怪しさです。
 以前に「『この国』というのはおかしい。我々が使うべき言葉は『我が国』ではないか、と、西村真悟氏のブログにあるのを、読んだ」と書いたことがあります。
 元となったらしい日下公人氏をはじめ、「覚醒」している人々は、情報に左右されない。それよりも、毎日を見詰め、教養を以って生きることを実行されています。

 今は大変な時です。だからこそ、今、折角、手に入れかけている日本人の感性を、しっかりと見詰め、自分の物にしていく、という意識も大事ではないでしょうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「パァー」 | トップ | もう書くまいと思ってたんですが »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

重箱の隅」カテゴリの最新記事