2013.08/09 (Fri)
職場の先輩が手にしたカメラを見ながら、
「これ、バカチョンみたいなもんや。もっとエエの、欲しいんやけどな」
「バカチョンって、差別用語でしょう?」
「えっ?ホンマ?」
「バカでも朝鮮人でも、ってことなんでしょう?」
「あ、そうか」
「だから最近は、ワンタッチカメラって言うようにしたみたいですよ」
「そうやなぁ。けど、何か言い難いなぁ」
昔々のことです。知ったかぶりして、こんなやり取りをした覚えがあります。
それが数年前、何かの拍子にネットで、この表現が目に入りました。
そして、次に目についたのは「バカチョンは朝鮮人差別の言葉ではない」の一言です。
その時、「火切り鎌(火打ち鎌)」の時のように、ちょっとでも考えて見りゃ良かったんだけれど、そんなに気にならなかったのか、それとも、説明が書いてなかったのか、読み流してしまったのか、すっかり忘れてしまって、相も変わらず、昨日まで、「バカチョンは差別用語」と思っていた。
それが先日の御存じ「馬鹿でもちょんでも(当選できた)」発言。
また失言だ、なんだ、となるんだろうなぁと思い、でも、これは麻生副総理の時の込み入った誤解釈と違って分かり易い、それこそちょっと普段の行動が問題、かもなぁ、なんて思ってました。
そしたら、またもや「バカチョンは差別用語ではない」という意見が目に入った。
その上に昨晩は「馬鹿でもちょんでも」の「ちょん」は、小さいという意味だ」という日記まで目にしました。
「ん?『ちょん』ってそんな意味があったのか?」
少なくともネットでは「ちょん=朝鮮人ではない」という文がやたら目につく。
しかし気になるのは、何故「馬鹿」の対句が「ちょん」なのか、ということ。ちっとも対句になってないじゃないか!「馬鹿」の対は「賢しい」、だろ?
それで何となく
「チョンは朝鮮人ではない」、のなら、きっと「丁髷のちょん」だろうな、と思い始めた。
ところがこの「バカでもチョンでも」、の初出は、明治の初め頃(明治3年)に書かれた仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」、らしい。
一度は聞いたことのある名前でしょう?
勿論「東海道中膝栗毛」をもじってつくった物なんですが、言ってみれば、西洋を舞台にした戯作なんだとか。弥次郎兵衛、喜多八の孫が連れ立って行く、という設定。
だから、文章も滑稽さを追究するわけですから、言い回しもそんな色があります。
その中に「馬鹿だの、ちょんだの、野呂間だの」という言い回し、表現があります。江戸時代からあったんでしょうか?
少なくとも仮名垣魯文は面白い言い回しとしてこの作品に遣った。それは間違いない。
で、やっと合点がいきました。
「バカ」と「チョン」は対ではない。バカ→チョン→ノロマというのは物事の「程度」を表わすための言い回しだったんです。
「バカ」より「チョン」が、マシ。「チョン」より「ノロマ」の方がマシ。
だからこれは「バカでもチョンでもノロマでも」=「誰だって」という意味になる。
さて、それで「チョン」の意味なんですが。
昔、「チョンの間」という言葉が一般的に遣われていました。
二通りの意味があります。
「ちょっとの間に」という意味と、「ちょっとの間に(ナニを)する部屋」。
「ちょん」は丁髷のちょん、であり、「ちょっと」の間のちょん、だったわけです。
いつの間にか「ちょっとの時間」という意味が抜け落ちて、「ナニをする」という意味合いの方ばかりが大きい顔しているようになった。
「『バカでも、ちょんでも』、って『バカでもちょっとでも』?そりゃ変だろう。変だよやっぱり。」
省略されてますよね、「ちょん」の後の言葉が。
今の言い方だったら、
「バカでも、ちょっと(バカ)でも、ノロマでも」。
これ、
「大馬鹿でも、小馬鹿でも、薄らバカでも」
でしょう。
バカの三段階、です。「大馬鹿・小馬鹿・薄ら馬鹿」。いかにも滑稽本の言い回し。
こう考えると、「ちょんは小さいという意味」と書かれていたことは自然な解釈、となってきます。
「西洋道中膝栗毛」が書かれた時、既に「ちょん」というのが朝鮮人の蔑称だったとしたら、こんな言い回しができる筈もなく、また、作者仮名垣魯文が朝鮮人を意識してこの言い回しを使ったとなれば、魯文は変人を通り越して異常です。
明治3年と言えば、西郷隆盛だって他の重職にあった人々だって、朝鮮を尊敬こそすれ、蔑視などをしていた時期ではありません。
そんな当時の世界常識にない発想で、「馬鹿だの、ちょんだの、野呂間だの」、なんて言い回しを得意げに遣っていたんじゃ、こんなの滑稽本たり得ない、ということになりませんか??
ところで、今回、早速に発言を撤回したそうですね。
今、問題を起こすわけにはいかないという政府と、差別用語認定した新聞社。
う~ん。何だか色々考えさせられます。
職場の先輩が手にしたカメラを見ながら、
「これ、バカチョンみたいなもんや。もっとエエの、欲しいんやけどな」
「バカチョンって、差別用語でしょう?」
「えっ?ホンマ?」
「バカでも朝鮮人でも、ってことなんでしょう?」
「あ、そうか」
「だから最近は、ワンタッチカメラって言うようにしたみたいですよ」
「そうやなぁ。けど、何か言い難いなぁ」
昔々のことです。知ったかぶりして、こんなやり取りをした覚えがあります。
それが数年前、何かの拍子にネットで、この表現が目に入りました。
そして、次に目についたのは「バカチョンは朝鮮人差別の言葉ではない」の一言です。
その時、「火切り鎌(火打ち鎌)」の時のように、ちょっとでも考えて見りゃ良かったんだけれど、そんなに気にならなかったのか、それとも、説明が書いてなかったのか、読み流してしまったのか、すっかり忘れてしまって、相も変わらず、昨日まで、「バカチョンは差別用語」と思っていた。
それが先日の御存じ「馬鹿でもちょんでも(当選できた)」発言。
また失言だ、なんだ、となるんだろうなぁと思い、でも、これは麻生副総理の時の込み入った誤解釈と違って分かり易い、それこそちょっと普段の行動が問題、かもなぁ、なんて思ってました。
そしたら、またもや「バカチョンは差別用語ではない」という意見が目に入った。
その上に昨晩は「馬鹿でもちょんでも」の「ちょん」は、小さいという意味だ」という日記まで目にしました。
「ん?『ちょん』ってそんな意味があったのか?」
少なくともネットでは「ちょん=朝鮮人ではない」という文がやたら目につく。
しかし気になるのは、何故「馬鹿」の対句が「ちょん」なのか、ということ。ちっとも対句になってないじゃないか!「馬鹿」の対は「賢しい」、だろ?
それで何となく
「チョンは朝鮮人ではない」、のなら、きっと「丁髷のちょん」だろうな、と思い始めた。
ところがこの「バカでもチョンでも」、の初出は、明治の初め頃(明治3年)に書かれた仮名垣魯文の「西洋道中膝栗毛」、らしい。
一度は聞いたことのある名前でしょう?
勿論「東海道中膝栗毛」をもじってつくった物なんですが、言ってみれば、西洋を舞台にした戯作なんだとか。弥次郎兵衛、喜多八の孫が連れ立って行く、という設定。
だから、文章も滑稽さを追究するわけですから、言い回しもそんな色があります。
その中に「馬鹿だの、ちょんだの、野呂間だの」という言い回し、表現があります。江戸時代からあったんでしょうか?
少なくとも仮名垣魯文は面白い言い回しとしてこの作品に遣った。それは間違いない。
で、やっと合点がいきました。
「バカ」と「チョン」は対ではない。バカ→チョン→ノロマというのは物事の「程度」を表わすための言い回しだったんです。
「バカ」より「チョン」が、マシ。「チョン」より「ノロマ」の方がマシ。
だからこれは「バカでもチョンでもノロマでも」=「誰だって」という意味になる。
さて、それで「チョン」の意味なんですが。
昔、「チョンの間」という言葉が一般的に遣われていました。
二通りの意味があります。
「ちょっとの間に」という意味と、「ちょっとの間に(ナニを)する部屋」。
「ちょん」は丁髷のちょん、であり、「ちょっと」の間のちょん、だったわけです。
いつの間にか「ちょっとの時間」という意味が抜け落ちて、「ナニをする」という意味合いの方ばかりが大きい顔しているようになった。
「『バカでも、ちょんでも』、って『バカでもちょっとでも』?そりゃ変だろう。変だよやっぱり。」
省略されてますよね、「ちょん」の後の言葉が。
今の言い方だったら、
「バカでも、ちょっと(バカ)でも、ノロマでも」。
これ、
「大馬鹿でも、小馬鹿でも、薄らバカでも」
でしょう。
バカの三段階、です。「大馬鹿・小馬鹿・薄ら馬鹿」。いかにも滑稽本の言い回し。
こう考えると、「ちょんは小さいという意味」と書かれていたことは自然な解釈、となってきます。
「西洋道中膝栗毛」が書かれた時、既に「ちょん」というのが朝鮮人の蔑称だったとしたら、こんな言い回しができる筈もなく、また、作者仮名垣魯文が朝鮮人を意識してこの言い回しを使ったとなれば、魯文は変人を通り越して異常です。
明治3年と言えば、西郷隆盛だって他の重職にあった人々だって、朝鮮を尊敬こそすれ、蔑視などをしていた時期ではありません。
そんな当時の世界常識にない発想で、「馬鹿だの、ちょんだの、野呂間だの」、なんて言い回しを得意げに遣っていたんじゃ、こんなの滑稽本たり得ない、ということになりませんか??
ところで、今回、早速に発言を撤回したそうですね。
今、問題を起こすわけにはいかないという政府と、差別用語認定した新聞社。
う~ん。何だか色々考えさせられます。
対句は必ず反対の語でなくてはならないという事はないです。類似した意味の語を三つ並べただけで、馬鹿より野呂間の方がマシという意味は含まれていないのではないでしょうか。
なるほど。この場合は対句というより調子よく言葉を三つ並べて文章に勢いをつけただけなのかもしれません。音が四・四・五となっている方が感覚的に収まりがいいですし。
「バカとは何か」、当時の人がどうとらえていたか、なんてのも興味があります。