2013.08/29 (Thu)
(「石見銀山から」 ②大久保長安)の続きです
大久保長安の手腕により、銀鉱石の採掘量はまた増えてきましたが、農作物や漁獲量と違い、鉱石は限りがある。いずれ掘り尽くす時が来ます。
とは言え、江戸期を通じて銀は産出され続けました。
ところで、脱線しますが、時代劇によく出て来る、「石見銀山(ネズミ取り)を盛られたようだな」という科白は、この大森銀山を中心とする銀鉱石とは違って、同じ石見でも西端の津和野、笹ヶ谷鉱山から出る亜砒酸のことを言うんだそうです。
津和野と大森は随分離れています。大森は県中央部、石見の東の端で、石東ですが、津和野は西の端、石西。
これは江戸時代、同じ石見銀山の管轄として、大森の代官所が支配していたため、銀は出ないけれども一括して「石見銀山領」と称していたからのことだそうです。
今回調べるまで、ずっと、石見銀山ネズミ捕りって、銀鉱石と共に出る鉛でつくられているのだと思っていました。愚か者~。
元に戻ります。
一時期、世界の銀の三分の一を産出した、と言われる日本なのに、「黄金の国ジパング」とは言われても、「白銀の国ジパング」、と聞くことはありません。何故でしょうね。
理由の最たるものは、黄金は大判、小判として製造されたものがそのままの形で貴重品として流通するのに対し、銀の場合は重さで値打ちが決まり、使用にあたっては切って使うことも多かったので、原型をとどめていないということにあるようです。
切って使われた銀は、多くポルトガル船などによって海外(主に、明・清)へ持ち出されます。代わりに西洋の文物が日本に入って来た。
何だか勿体ないような気もしますが、間違いなく日本の経済はこれで活性化します。
さて、やっと、井戸平左衛門正明(まさあきら)のことです。
初代奉行大久保長安は功績のあった人としてすぐ名前が出てきますが、不正蓄財疑惑を始めとして、色々な問題があったようで、遂には処刑されてしまいます。
隣国では賄賂・不正蓄財、なんて平常運転、取るに足りない程度のものかもしれませんが、日本では大問題。
以降、銀山奉行は廃止され、大森に代官所が置かれて代官が常駐することになりました。大久保長安の事件があって、不正蓄財や様々の問題を起こさぬように、ということから、代官の在任期間は一、二年から数年間という短期間のものになっていきます。
蓄財のために袖の下(賄賂)を受け取る、
「越後屋、そちもワル、よのう」
「お代官様こそ」
「むふふふ」
「えっへっへ」
「わはっはっは」
、なんてことはほとんどなかったようです。
実際、柳沢吉保だって、田沼意次だって、薩摩の調所笑左衛門だって、不正蓄財なんてしていなかったというのがホントのところらしいですからね、日本の役人ってのはえらいもんです。大久保長安だって、ホントのところは事件そのものがあったのかどうか。アヤシイもんです。
井戸平左衛門は江戸からやって来た多くの役人の中の一人です。任期も、普通なら、まあ二年ってところでしょうか。実際には一年と八か月で任を解かれています。
何でも八代将軍吉宗の時、大岡越前の推挙で、突如石見銀山代官となったのだそうです。大抜擢、ですね。江戸に在っては、井戸平左衛門はごく普通の、真面目一途の役人だったようです。
元々紀州から連れて来た家来の少ない吉宗は、紀州浪人だった田沼意行や、伊勢、山田奉行をしていた大岡越前を重用して、幕政改革に尽力していました。そんな中での井戸平左衛門の登用です。
既に六十近い。吉宗の治政でなければそのまま勤めを終えていたかもしれません。
数え年なら六十歳。平左衛門は命を受けて大森に赴任。ほどなく岡山笠岡の代官も命じられます。
大森に来てみると、「石見」の名の通り、平地が少なく、豊かな田畑を持たないこの地の貧しい生活に驚きます。度重なる飢饉で領民の生活は決して楽ではない。
平左衛門は薩摩島津藩が藩外に持ち出すことを固く禁じていた薩摩芋(甘藷)の存在を薩摩出身の僧から聞き、飢饉で苦しむことの多いこの土地の領民に、救命用の食物として栽培させることを決心、苦心して種芋を入手し、領内の農民に配ります。赴任してすぐのことです。
学校で習った覚えがありませんか?「青木昆陽が薩摩芋の栽培に成功した」、ということ。しかし、その三年も前に井戸平左衛門が、薩摩以外では初めてこれを行っていたのです。
ところがその薩摩芋の栽培が軌道に乗る前に、大飢饉がやってきます。「享保の大飢饉」です。薩摩芋は間に合わない。このままでは大変なことになる。間違いなく多くの領民が餓死してしまう。
平左衛門は幕府の許可を待たず、代官所内にある御蔵米を放出、更に年貢の減免措置を採り、必要に応じて金銭も与えて飢饉の害が広がらないように、と心を砕きます。
天領というのは藩などに比べて、融通の利かないところなのですが、結果、近隣の藩と違って、一人の餓死者を出すこともなく、この大飢饉を乗り切ることに成功しました。
しかし幕府の命が下される前に御蔵米を放出したこと、独断で年貢の減免措置を行ったこと等により、平左衛門は代官の任を解かれ、もう一つの任地である岡山、笠岡の代官陣屋で、追って沙汰のあるまで、謹慎することを命じられます。
幕命に背いたこと。しかし一人の餓死者も出さなかったこと。
この処分は大変に難しいことだったでしょう。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの処分以上に難しいことだったかもしれない。理、から言えば、当然「切腹」でしょう。けれども、領民の命を守り抜いた平左衛門を刑に処することで喜ぶ者は、一人もいません。
あるのは幕府が「背かれた」という事実だけ。幕府への背任行為。幕府の面子。「掟」をどうする。
笠岡陣屋に在って、平左衛門はほどなく病を得て急死した、と言われています。
しかし、それを信じている者はほとんどありません。
確かに、当時としては高齢ではある。けれど、幕府が難しい決断に苦慮している中にあって平左衛門は、これまでの二年足らずの善政からして、きっと自ら命を絶ったのであろう、というのが大方の意見です。
平左衛門の一生、というのは、大森代官時代の一年と八ヶ月ばかりが輝いているようですが、これはそれまでの四十年近い役人としての実直な日々があってこそ、のことです。これがあったからこその「大抜擢」、です。特にこれといって目立つことのない、しかし、真面目にひたむきに仕事に取り組み続けて、突然の代官職任命、です。
平左衛門は、それに有頂天になることなく、それまでと全く同じように仕事に取り組んだ。そして、領民のために、と、死を覚悟しての独断行政。こう考えたら、切腹しかありません。
しかし、「切腹を公にすることはせぬように」と、平左衛門自身が言い残した、もしくは厳命したのではないでしょうか。波風を全く立てずに全てを収めてしまうには、これしか方法はない。
「役人は公僕」、「公(おおやけ)」の「僕(しもべ)」だ、とは能く言われる言葉です。
しかし、本当に身を捨ててここまでやる。将に、これこそ「命も要らず、名も要らず、地位も名誉も要らぬ」ということの典例でしょう。
本当は今の世の中にだって、こんな人はいる筈です。
要は為政者にそれを「見よう」とする姿勢、目、があるか否か、だけなのかもしれません。
井戸平左衛門は、「芋代官様」として石見のみならず、中国地方全体で尊敬されています。大森には井戸神社が建てられて、勝海舟揮毫の「井戸神社」の扁額もあります。
(「石見銀山から」 ②大久保長安)の続きです
大久保長安の手腕により、銀鉱石の採掘量はまた増えてきましたが、農作物や漁獲量と違い、鉱石は限りがある。いずれ掘り尽くす時が来ます。
とは言え、江戸期を通じて銀は産出され続けました。
ところで、脱線しますが、時代劇によく出て来る、「石見銀山(ネズミ取り)を盛られたようだな」という科白は、この大森銀山を中心とする銀鉱石とは違って、同じ石見でも西端の津和野、笹ヶ谷鉱山から出る亜砒酸のことを言うんだそうです。
津和野と大森は随分離れています。大森は県中央部、石見の東の端で、石東ですが、津和野は西の端、石西。
これは江戸時代、同じ石見銀山の管轄として、大森の代官所が支配していたため、銀は出ないけれども一括して「石見銀山領」と称していたからのことだそうです。
今回調べるまで、ずっと、石見銀山ネズミ捕りって、銀鉱石と共に出る鉛でつくられているのだと思っていました。愚か者~。
元に戻ります。
一時期、世界の銀の三分の一を産出した、と言われる日本なのに、「黄金の国ジパング」とは言われても、「白銀の国ジパング」、と聞くことはありません。何故でしょうね。
理由の最たるものは、黄金は大判、小判として製造されたものがそのままの形で貴重品として流通するのに対し、銀の場合は重さで値打ちが決まり、使用にあたっては切って使うことも多かったので、原型をとどめていないということにあるようです。
切って使われた銀は、多くポルトガル船などによって海外(主に、明・清)へ持ち出されます。代わりに西洋の文物が日本に入って来た。
何だか勿体ないような気もしますが、間違いなく日本の経済はこれで活性化します。
さて、やっと、井戸平左衛門正明(まさあきら)のことです。
初代奉行大久保長安は功績のあった人としてすぐ名前が出てきますが、不正蓄財疑惑を始めとして、色々な問題があったようで、遂には処刑されてしまいます。
隣国では賄賂・不正蓄財、なんて平常運転、取るに足りない程度のものかもしれませんが、日本では大問題。
以降、銀山奉行は廃止され、大森に代官所が置かれて代官が常駐することになりました。大久保長安の事件があって、不正蓄財や様々の問題を起こさぬように、ということから、代官の在任期間は一、二年から数年間という短期間のものになっていきます。
蓄財のために袖の下(賄賂)を受け取る、
「越後屋、そちもワル、よのう」
「お代官様こそ」
「むふふふ」
「えっへっへ」
「わはっはっは」
、なんてことはほとんどなかったようです。
実際、柳沢吉保だって、田沼意次だって、薩摩の調所笑左衛門だって、不正蓄財なんてしていなかったというのがホントのところらしいですからね、日本の役人ってのはえらいもんです。大久保長安だって、ホントのところは事件そのものがあったのかどうか。アヤシイもんです。
井戸平左衛門は江戸からやって来た多くの役人の中の一人です。任期も、普通なら、まあ二年ってところでしょうか。実際には一年と八か月で任を解かれています。
何でも八代将軍吉宗の時、大岡越前の推挙で、突如石見銀山代官となったのだそうです。大抜擢、ですね。江戸に在っては、井戸平左衛門はごく普通の、真面目一途の役人だったようです。
元々紀州から連れて来た家来の少ない吉宗は、紀州浪人だった田沼意行や、伊勢、山田奉行をしていた大岡越前を重用して、幕政改革に尽力していました。そんな中での井戸平左衛門の登用です。
既に六十近い。吉宗の治政でなければそのまま勤めを終えていたかもしれません。
数え年なら六十歳。平左衛門は命を受けて大森に赴任。ほどなく岡山笠岡の代官も命じられます。
大森に来てみると、「石見」の名の通り、平地が少なく、豊かな田畑を持たないこの地の貧しい生活に驚きます。度重なる飢饉で領民の生活は決して楽ではない。
平左衛門は薩摩島津藩が藩外に持ち出すことを固く禁じていた薩摩芋(甘藷)の存在を薩摩出身の僧から聞き、飢饉で苦しむことの多いこの土地の領民に、救命用の食物として栽培させることを決心、苦心して種芋を入手し、領内の農民に配ります。赴任してすぐのことです。
学校で習った覚えがありませんか?「青木昆陽が薩摩芋の栽培に成功した」、ということ。しかし、その三年も前に井戸平左衛門が、薩摩以外では初めてこれを行っていたのです。
ところがその薩摩芋の栽培が軌道に乗る前に、大飢饉がやってきます。「享保の大飢饉」です。薩摩芋は間に合わない。このままでは大変なことになる。間違いなく多くの領民が餓死してしまう。
平左衛門は幕府の許可を待たず、代官所内にある御蔵米を放出、更に年貢の減免措置を採り、必要に応じて金銭も与えて飢饉の害が広がらないように、と心を砕きます。
天領というのは藩などに比べて、融通の利かないところなのですが、結果、近隣の藩と違って、一人の餓死者を出すこともなく、この大飢饉を乗り切ることに成功しました。
しかし幕府の命が下される前に御蔵米を放出したこと、独断で年貢の減免措置を行ったこと等により、平左衛門は代官の任を解かれ、もう一つの任地である岡山、笠岡の代官陣屋で、追って沙汰のあるまで、謹慎することを命じられます。
幕命に背いたこと。しかし一人の餓死者も出さなかったこと。
この処分は大変に難しいことだったでしょう。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの処分以上に難しいことだったかもしれない。理、から言えば、当然「切腹」でしょう。けれども、領民の命を守り抜いた平左衛門を刑に処することで喜ぶ者は、一人もいません。
あるのは幕府が「背かれた」という事実だけ。幕府への背任行為。幕府の面子。「掟」をどうする。
笠岡陣屋に在って、平左衛門はほどなく病を得て急死した、と言われています。
しかし、それを信じている者はほとんどありません。
確かに、当時としては高齢ではある。けれど、幕府が難しい決断に苦慮している中にあって平左衛門は、これまでの二年足らずの善政からして、きっと自ら命を絶ったのであろう、というのが大方の意見です。
平左衛門の一生、というのは、大森代官時代の一年と八ヶ月ばかりが輝いているようですが、これはそれまでの四十年近い役人としての実直な日々があってこそ、のことです。これがあったからこその「大抜擢」、です。特にこれといって目立つことのない、しかし、真面目にひたむきに仕事に取り組み続けて、突然の代官職任命、です。
平左衛門は、それに有頂天になることなく、それまでと全く同じように仕事に取り組んだ。そして、領民のために、と、死を覚悟しての独断行政。こう考えたら、切腹しかありません。
しかし、「切腹を公にすることはせぬように」と、平左衛門自身が言い残した、もしくは厳命したのではないでしょうか。波風を全く立てずに全てを収めてしまうには、これしか方法はない。
「役人は公僕」、「公(おおやけ)」の「僕(しもべ)」だ、とは能く言われる言葉です。
しかし、本当に身を捨ててここまでやる。将に、これこそ「命も要らず、名も要らず、地位も名誉も要らぬ」ということの典例でしょう。
本当は今の世の中にだって、こんな人はいる筈です。
要は為政者にそれを「見よう」とする姿勢、目、があるか否か、だけなのかもしれません。
井戸平左衛門は、「芋代官様」として石見のみならず、中国地方全体で尊敬されています。大森には井戸神社が建てられて、勝海舟揮毫の「井戸神社」の扁額もあります。
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