2014.11/05 (Wed)
田中卓博士の評論集を再読する機会があり、何とか二冊、読み直しました。
そこで例によって感想を、と思ったのですが、「行間を読み取る努力」どころか、「脱ロバ宣言」も画餅の状態。やっぱり評論の概容でさえ、満足に捉えては、いなかった。それだけは分かりました。
だからと言って、もう一度読んだら何とかなるか、というとその時はその時で、また新しい問題が見えてくるのでしょう。
というわけで、「ここは無理をしてでも感想を」というのが、これまでの自分の試行錯誤の末の結論だったのですが、ちょっと賢くなったみたいです。
いつも闇雲に感想文を書こうとして自滅したり、自棄(やけ)になったりしてきています。けれど、それで得られるのは自己嫌悪の感情ばかり。
で、新しい結論。
だったら立ち止まって、まずは情況、状況を整理すれば良いではないか。
いやいや、まずは、どころか「情況・状況を整理する」、「いろんな(関係のあることだけですが)ことを措定し直し、それを以て整理し」直さなければ、次に動くに動けないだろう。
とにかく足場、足元をしっかりさせる。「脚下照顧」、ではないか。
ということはまずは、本文を筆写してみれば良いのではないか。
それで気付いたこと。
筆写する、となると後でそれをどこかに転載できるよう、一字一句(句読点も含め)、間違えたり、省略したりしてはならない。そのために、下手でも「とにかく丁寧に」、そして誰でも読めるように、決して殴り書きなんかしちゃならない。
早い話が、初めから「清書」の状態にしなければならない。
字の上手下手ではなく、とにもかくにも「丁寧に書く」。
筆写する文章は(自分にとっては)大事なものなんだから、当然のことながら「丁寧」の中身である「撥ね」や「払い」、「止め(留め)」等の文字の隅々に気を使わねばならない。
それで、久し振りに筆写してみて驚きましたよ。「撥ね」、「払い」がどうしてもいい加減になってしまう。どうしてもできない。
何故だろう。それにつれて誤字、脱字も思った以上に多い。
一頁くらいやって、やっと分かりました、原因が。
ゆっくり書けなくなってるんです。一文字一文字が「早く書かなければ」という無意識裡の焦りから、お座なりになってしまっている。
「自分にとって」、だけであっても、大事な文章ならば丁寧に書かねばならない。
ならば、「何が何でもゆっくり」書かねば。
大事に思えばこそ丁寧に字を書く。丁寧に見る。一文字一文字「撥ね」、「払い」、「留め」をおろそかにしない。
別に字に限らないでしょう。大切なものは丁寧に扱います。大切な人には敬語を使います。
だったら、大事に思えばこそ、丁寧に語意を押さえる。一つ一つを丁寧に考えていく。性急に概容をつかまえようとせず、文の意味を一つずつ把握していく。
前回の書家の話と同じく、「真剣に」、「一所懸命に」同じ文字を毎日千回も書けば、「これくらいは(いつかは)できる」。
大事に思えばこそ、丁寧に取り組む。丁寧に取り組むということは「己の理解能力の範囲」を十分に生かす、ということになるのだ、と思います。そうすれば僅かずつでも確実に範囲は広がるし、考えも少しずつでも深まるでしょう。
そうすれば、新情報を見つけたり、ちょっと考えたりしたくらいで小賢しい結論を出すことはできなくなる。
・・・・・のではないか。
ということで、 まずは、丁寧に。丁寧に。
田中卓博士の評論集を再読する機会があり、何とか二冊、読み直しました。
そこで例によって感想を、と思ったのですが、「行間を読み取る努力」どころか、「脱ロバ宣言」も画餅の状態。やっぱり評論の概容でさえ、満足に捉えては、いなかった。それだけは分かりました。
だからと言って、もう一度読んだら何とかなるか、というとその時はその時で、また新しい問題が見えてくるのでしょう。
というわけで、「ここは無理をしてでも感想を」というのが、これまでの自分の試行錯誤の末の結論だったのですが、ちょっと賢くなったみたいです。
いつも闇雲に感想文を書こうとして自滅したり、自棄(やけ)になったりしてきています。けれど、それで得られるのは自己嫌悪の感情ばかり。
で、新しい結論。
だったら立ち止まって、まずは情況、状況を整理すれば良いではないか。
いやいや、まずは、どころか「情況・状況を整理する」、「いろんな(関係のあることだけですが)ことを措定し直し、それを以て整理し」直さなければ、次に動くに動けないだろう。
とにかく足場、足元をしっかりさせる。「脚下照顧」、ではないか。
ということはまずは、本文を筆写してみれば良いのではないか。
それで気付いたこと。
筆写する、となると後でそれをどこかに転載できるよう、一字一句(句読点も含め)、間違えたり、省略したりしてはならない。そのために、下手でも「とにかく丁寧に」、そして誰でも読めるように、決して殴り書きなんかしちゃならない。
早い話が、初めから「清書」の状態にしなければならない。
字の上手下手ではなく、とにもかくにも「丁寧に書く」。
筆写する文章は(自分にとっては)大事なものなんだから、当然のことながら「丁寧」の中身である「撥ね」や「払い」、「止め(留め)」等の文字の隅々に気を使わねばならない。
それで、久し振りに筆写してみて驚きましたよ。「撥ね」、「払い」がどうしてもいい加減になってしまう。どうしてもできない。
何故だろう。それにつれて誤字、脱字も思った以上に多い。
一頁くらいやって、やっと分かりました、原因が。
ゆっくり書けなくなってるんです。一文字一文字が「早く書かなければ」という無意識裡の焦りから、お座なりになってしまっている。
「自分にとって」、だけであっても、大事な文章ならば丁寧に書かねばならない。
ならば、「何が何でもゆっくり」書かねば。
大事に思えばこそ丁寧に字を書く。丁寧に見る。一文字一文字「撥ね」、「払い」、「留め」をおろそかにしない。
別に字に限らないでしょう。大切なものは丁寧に扱います。大切な人には敬語を使います。
だったら、大事に思えばこそ、丁寧に語意を押さえる。一つ一つを丁寧に考えていく。性急に概容をつかまえようとせず、文の意味を一つずつ把握していく。
前回の書家の話と同じく、「真剣に」、「一所懸命に」同じ文字を毎日千回も書けば、「これくらいは(いつかは)できる」。
大事に思えばこそ、丁寧に取り組む。丁寧に取り組むということは「己の理解能力の範囲」を十分に生かす、ということになるのだ、と思います。そうすれば僅かずつでも確実に範囲は広がるし、考えも少しずつでも深まるでしょう。
そうすれば、新情報を見つけたり、ちょっと考えたりしたくらいで小賢しい結論を出すことはできなくなる。
・・・・・のではないか。
ということで、 まずは、丁寧に。丁寧に。
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