『福田村事件』拝見。
100年前の関東大震災直後の朝鮮人大虐殺。その最中で起こった日本人虐殺の福田村事件を掘り起こし、現代に多くの問題意識を投げかけている。人間の愚かさに憤りを感じずにはいられない作品…自省を込めて浮かんだことを記しておく。
有事の際、いとも簡単に変わりうる常識。
朝鮮人や穢多非人と言われた被差別部落の人々に対する差別意識、
恐怖から来る不信、防衛本能、
身勝手な正義感、
膨れ上がる同調圧力、
言論と報道の不自由、
プライバシーのない村社会、
思想の違う者や危険分子を排除し抹殺していく矮小で非道な日常、
そんな中で自分はどういられるか。
何を非難し何を守るか。
殺す側になるか
何も言えずに立ちすくむか
庇えるか
真実を報道できるか。
軍部や政府の言論統制や報道の姿勢は、戦時下ほどでないにしても、今もしっかり対峙しなくてはならない。内側にいても外側にいても。
夫婦関係、親子関係、男女関係、被差別部落民たち行商団の家族のような関係、村や軍の上下関係、報道する者される者…
誰しも人の権利を脅かしながら生きている。
エセ薬で自分たちより貧しく弱い者を食い物にする行商人
夫の出征中に船頭とできてしまう女
4年夫に抱いてもらえない妻は船頭と関係を持ち、夫は朝鮮人を見殺しにした罪悪感、無力感とトラウマから何もできないでいる
(だが彼らはまだ人間らしい存在として描かれている)
村人たちはなじる
節操がない、愛国心がない、忠義心がない…
報道は煽る
朝鮮人が火をつけた、日本人を襲った、強姦した…
でも、最も尊重すべきは、生存の権利。生命の尊厳。
本来、誰しも平等に生きる権利が与えられていて、それを脅かす本当の魔性に気づけるか、立ち向かえる勇気があるかどうか。
人間が人間らしく生きるとはどういうことか。
そういうことを多分一番身をもって感じている俳優たちをキャスティングしているところもまた面白い。
話してわかる人間と話してもわからない人間がいて
話してわかる時期と話してもわからない時期がある
問答無用の戦争の泥沼に落ちて行く前に
話してわかる人間を増やすのが闘いかも
数々の社会派ドキュメンタリー映画を世に送り出してきた森達也氏だからこその劇映画だと思った。
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