立命館大教授・加地伸行 歌を忘れて驕るカナリヤ
・・・・・ キン、キン、キン、キンの「歌を忘れたカナリヤは」、「後ろの山に棄てましょか」、あるいは「背戸の小藪に埋(い)けましょか」。
そういえば、もう一人、歌を忘れたカナリヤがいる。それは“陰の総理”と呼ばれている御仁だ。
この人、左翼である。日本の左翼は、大体において、自分というものがない。主体がない。だから、かつてソ連が全盛であった時代には、ソ連に従うことがすべてであった。
そこで、ソ連(当時)と対立するアメリカをなにがなんでも悪者として扱うことが仕事であった。そのときのアメリカ非難のことばが「アメリカ帝国主義」。ときには「日米帝国主義」とまで言ってソ連に諂(へつら)った。
帝国主義-この言葉をどれほど聞いたことであろうか。左翼にとって「帝国主義」は日常語であり、アジ演説における〈歌〉であった。
それなら尖閣諸島に対するこのたびの領土拡大を企(たくら)む中国の行為は、まさに帝国主義なのであるから、この御仁は「中国帝国主義」という非難の歌を歌うべきではないのか。
ところが歌わない。どころか、「柳腰で」などとわけの分からん答弁で逃げている。歌を忘れたこういうカナリヤに、西条八十はなんとこう作詞している。「柳の鞭(むち)でぶちましょか」と。おみごと。
この御仁が、国会の委員会において、答弁するところをテレビで何度か見た。
テレビの怖さは、映像によって、その人間の心の底までを、あるいは心の動きを無言で伝えるところにある。もちろん、それはこちらの感覚による判断である。
結論は、首相に対して僭越(せんえつ)であることだ。質問者が首相を指名して質問しているのに、首相を差し置いて、己がしゃしゃり出てきて答弁していた。
これは異常である。凡庸な君主と僭越な重臣との勢力争いが亡国の原因となるのは、歴史上、常にあった。遠く2500年前の中国古代、孔子は自国の魯(ろ)国におけるその現実をつぶさに見た。
当然、孔子はその僭臣を非難した。『論語』の中から、その言葉をいくらでも引き出すことができるし、それらの言葉が、後世の教訓となった。
かの御仁の答弁後の驕顔(おごりがお)を見ていると、民主党の人材不足、識見不足、徳性不足を痛感する。『論語』子路篇に曰(いわ)く「君子は泰(たい)(堂々)にして驕らず。小人は驕りて泰ならず」と。(かじ のぶゆき)
せまい日本そんなに急いでどこへ行く
でも雨が降ってくるまでに回らなきゃ 。昼食後外に出たら郵便受けに広報の束が、町内会長さんが配布して欲しいとのことだ。天気予報では雨の模様だし、空をみてもやがて降ってきそうな気配だ
。ほとんど言葉を交わすことなく配布していたのだがある家には玄関戸が開いていて何年ぶりかのよく知っている女性とバッタリ。「あら○○さん、今噂をしていたところ・・・」、娘さんが息子の嫁さんと幼馴染で昨年の結婚式では受付までしてもらっていたとか
。今日、母と共に母の実家へ来て○○さんの家は何処ということだったらしい。その母は私の妻の姉をよく知っているし、母の姉さんの息子さんはかって嫁さんの上司だったとか
。世間は狭いとか、よく口にしたり耳にするが、痛感したわけである。きのう床屋さんで散髪してもらい、いくぶんか男前の姿を見てもらえよかったー
。2週間後にはまた、お逢い出来るとおもうが楽しみだ。