俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

直進しない世界

2016-05-21 10:10:22 | Weblog
 一昨日(19日)放射線による治療が突然中断された。治療を待っていた私は予定時刻の10分前に主治医から治療の中断を告げられた。これは予想されていたことだった。放射線が肺の細胞を破壊する危険性は最初から危惧されており、危険な状態になれば中断または中止すると予め告げられていたからだ。
 しかし予想外の展開になった。中断する理由は悪化ではなく、主治医の想定を大幅に上回る治療効果だった。治療の状況を把握するために前日(18日)に実施したCTによる検査の画像を見ると、癌細胞も肺炎の症状も顕著に縮小していた。だからこそ治療方針の見直しが急務になった。
 私自身もその兆候を感じていた。先週から水分の摂取可能量が明らかに増えていたし、今週になってからは少量の固形物を食べることも可能になっていたからだ。普通に考えればこれは素晴らしいことだ。「治療不可能と思われていた癌が治癒に向かいつつある」と喜んで良い状況だ。しかしそう単純には喜べない。もし傾向があってもそれが持続するという保証などどこにも無い。
 私の病状は変動を続けている。発病直後の食べられない状態から徐々に回復した後、抗癌剤の副作用で再び食べられなくなった。抗癌剤の毒性が薄らいで食べる能力が回復しつつある時に再入院をして再び食べる能力を失ったがその後は一旦回復へと向かった。しかし病状の悪化に伴いまず固形物が、続いて液体さえ摂取困難になった。放射線治療の開始から約2週間を経て徐々に好転して現状に至っていたのだが、これまでの経緯から考えても直線的な回復は期待しにくい。諸刃の剣である放射線が摂食力を破壊するばかりではなく致命傷をもたらす可能性さえ考慮せざるを得ない。
 私の病状と同じように、世界の進展もまた直線的にではなく波型になったり循環したりするものだろう。我々は中学校で数学的帰納法を学んだ。これは数値nで成り立つ数式がn+1でも成立するなら任意の数値においても成立し得るという数学的事実だ。これは数学的には正しくても現実的には実証困難だ。世界は固定しておらず変動を繰り返しているからだ。
 今、好天であれば3分後も好天と予想できる。1時間後もやはり好天だろう。しかし3日後ならどうだろうか。好天であるとは言えまい。天気は直線的には進行せず流転を繰り返す。転機は必ず訪れる。
 直進を想定するのは人間に備わった悪い癖だと私は考える。株価が上がっている時には強気で下がっていれば弱気になる人はそんな悪癖に凝り固まっている。`What goes up must come down'(ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの`Spinnnig Wheel'より)のほうが正しいように思える。
 一時期「カタストロフィーの理論」が注目されたし、ニーチェは世界を循環するものと考えて万物の永劫回帰を説いた。私はこれらを信じる訳ではないが、盛者必衰は理(ことわり)だと考える。未来が現在の延長線上にあるとは考えにくい。断絶することはなかろうが、真っ直ぐにではなく右往左往しながらも辛うじて進展するものだろう。歴史は法則に基づいて進歩するものではなく試行錯誤を経てヨチヨチ歩きをするものなのではないだろうか。
 私の病気の話に戻るなら、良くなっているという現状は決して未来を保証するものではない。放射線という怪物が作り出す徒花(あだばな)ではないかと疑う必要がある。一か八かの治療に賭けた以上、失速の可能性は避けられない。人類は世界が直進するという幻想に捉われ易いからこそしばしば糠喜びをする。

弥縫策(びほうさく)

2016-05-20 10:27:19 | Weblog
 企業の業績が悪いのは何らかの理由があるからだ。多くの場合、人か物か組織に問題がある。もし問題点が解決されれば業績も改善されるだろう。しかし正しい対策が講じられることは少なく誤った弥縫策が選ばれ勝ちだ。時間も手間も掛かる改善策を実施することよりも、収入の前倒しや支出の先送りによって決算を粉飾したほうが簡単かつ確実に業績を取り繕えるからだ。勿論これは正しい対策ではない。こんなことを幾ら繰り返していても経営力は高まらず粉飾力のテクニックだけが磨かれる。
 こんな馬鹿な手法が通用した時代があった。高度経済成長期だ。当時は日本全体の経済が常に好転していたからその場凌ぎをしている内に周囲の状況が勝手に好転して問題は自動的に解決されていた。そんな時代に育った社会人はこんな手法が今でも通用すると思い込んでいるが、今時こんな手法に頼れば東芝や三菱自動車のように破綻しかねない。他力依存を自力と思い誤れば墓穴を掘ることになる。
 医療は今尚こんな弥縫策に終始している。人には自然治癒力が備わっているからその場凌ぎをしている間に患者は勝手に治癒してしまう。これを医学の勝利と思い込んでいるいるからいつまで経ってもオカルトから抜け出せない。
 決して単純ではないが物事には原因と結果がある。原因に正しく対処して初めて解決が可能になる。脚気を感染症と考えた森鴎外が懸命に努力したにも拘わらず陸軍の患者は増え続け、未知の栄養素の欠乏症と考えた陸軍では殆んど根絶された。
 原因が特定されている病に対してであれば医療は正しく対処できる。だから感染症や各種欠乏症は激減した。例外はウィルス性の感染症であり、原因が特定されても生命体ではないウィルスを滅ぼす手立てが無いから患者の隔離と予防に頼らざるを得ない。最もありふれた病気でありながら風邪症候群の患者が一向に減らないのはこんな事情があるからだ。
 原因が分からない病気や原因が分かっていても対処できない病気に対して現代の医療は対症療法で対応している。症状を軽減している内に自然治癒力が働いて勝手に治ってしまう。しかしこれは粉飾決算と同様にその場凌ぎに過ぎない。このために原因が放置されるばかりではなく、解熱剤のように却って病気を悪化させるということも起こり得る。
 自然治癒力に頼っているから医療は老人病に対して無力だ。大半の老人病の原因は老化なのだからたとえ原因が分かっていても打つ手が無い。誠実な医師であれば老化だから治療できないということを認めて苦痛の緩和に徹するがそうでない医師は患者を薬漬けにする。これは医療費の無駄遣いであるばかりではなく患者を苦しめることにもなる。こんな大問題が放置されるべきではなかろう。
 原因が分かっているばかりか対策まで分かっていながら対処できていない病気がある。多くの生活習慣病がそれだ。これらは生活上の悪習が原因だと分かっているからこそこう名付けられている。ではなぜ治療できないのか?医師が粉飾決算のために尽力しているからだ。検査数値だけを改善しても原因は解消されないのだから薬による数値操作など粉飾決算に過ぎない。薬を使って誤魔化すのではなく正しい生活習慣を指導することこそ医師が本来果たすべき責務だろう。このことが医師の仕事として正当に位置付けられていない現代医療は狂っている。
 精神医療もまた同じ愚行を犯している。欝状態に陥った原因を放置したまま症状だけを変えようとすることは二重に誤っている。1つは原因を放置することであり、もう1つは人を狂わせるということだ。憂鬱になってもやむを得ない状況であれば憂鬱な気分になることこそ人として正常な反応だ。正常な反応を抑え込む薬とは人を狂わせる薬に他ならない。だからこそ抗精神病薬は精神病の原因になっている。

増税

2016-05-19 09:49:47 | Weblog
 財政再建のためには消費増税が不可欠だと国民の大半が信じ込んでいる。消費増税の先送りという主張が財政再建の否定と同義語であるかのように扱われているが、これは偽りの二者択一だ。他の選択肢を伏せることによって国民の思考力を麻痺させている。こんな洗脳紛いのプロパガンダに成功した財務省は誤魔化しの天才の集まりであり、財務宣伝省と改称すべきだとさえ思える。
 彼らによるレトリックはこうだ。①国の借金は1,000兆円を超える②このツケを次世代に押し付けるべきではない③税と社会保障の一体改革が必要④消費増税が必須。この内①には問題がある。国には借金だけではなく債権も資産もある。これらを無視して借金だけに注目させるのは借金を過度に危惧させるための作為だろう。②と③は容認できるが、③から④への論理は飛躍している。消費増税だけが手立てではあるまい。
 日本の税制には大きな欠陥がある。①平等性②取り易い所からしか取らない③権力者に甘い。
 消費税に逆進性など無い。あるのは悪しき平等性だ。所得税にはある累進制が消費税には無く誰にでも平等に課税する。これは悪税だ。かつて売上税や付加価値税に向けられた怒りが完全に忘れられている。こんな悪税と比べれば贅沢品に絞って課税された物品税のほうがずっと良心的な税制だった。
 所得税は源泉徴収制度に依存しており自営業者などは実質的に免税にも等しい。特に酷いのは定年退職後農家に対する優遇だ。趣味と道楽で農業を営んでいる人が専業農家と同等に保護されている。法人税も同様だ。中小企業の大半が納税していない。所得税も法人税も取り易い所からしか徴収していない。国内には無数のタックスヘイブン制度が隠されているからこそわざわざ海外のタックスヘイブンなど利用しなくても簡単に税金逃れができる。
 殆んどの税制が権力者や金持ちを優遇している。政治家の特権は既に異常なレベルにまで達している。諸報酬の悪用は決して舛添知事や野々村元議員に限られたことではない。叩けば幾らでもホコリが出る。名古屋の市会議員は自・公・民で談合して自分達の報酬を倍増させた。政治家は都合の良いお手盛りのルールばかりを作る。
 「ふるさと納税」は何となく胡散臭い精度だと思っていたがやはり裏があった。納税とは名ばかりでその実態は地方公共団体からの見返りを狙った節税策だ。地方都市へ寄付した形にして返礼品を受け取ればまともに納税するよりも得をする仕組みだから高額所得者がこぞって財テクとして利用しているようだ。
 年金制度も大きな矛盾を抱えている。積立額に比例する割合が高過ぎることだ。積立金額が多い人ほど受け取り額が多いことだけであれば問題は無い。そうでなければ滞納したほうが年金の受取額が増えるという変な制度にもなりかねない。しかし積立額が多い人とは現役時代に収入が多かった人でありそんな人は既に蓄えた資産も多く年金に依存する必要性の乏しい人が少なくない。こんな人々のために国庫から多額の補助金を拠出して割り増しにする必要は無かろう。積立金に対する割り増しを同率にするのは悪しき平等主義だ。積立額が少ない人ほど割増率が高くなるという逆累進制を採ることによって、現役時代での収入が少なかった人、つまり年金に頼らざるを得ない人ほど有利になるような年金制度に改めるべきだと私は考える。

言葉の選択

2016-05-18 09:41:21 | Weblog
 消費期限と賞味期限という言葉の混在は紛らわしい。似た用途で同じような言葉が使われているから多くの消費者が区別できずに、「期限を過ぎたから」という理由で食品を廃棄している。周知徹底が不充分なことが最大の原因だが、言葉の選択も悪い。漢字にすれば区別できるが音としてはたった1音の違いでしかも韻を踏んでいるから余計に混同し易い。こんな誤解を招き易い言葉など使わずにもっと識別し易い言葉を使うべきだろう。例えば「美味しく召し上がって頂くための目安」とか「品質安定期」といった肯定的でしかも「消費期限」とは全く異なる言葉を使えば、本来不必要な廃棄を随分減らせるだろう。
 日本には2種類の「ウミヘビ」がいる。爬虫類にも魚類にも「ウミヘビ」という呼称がある。一方はコブラ科のウミヘビでもう一方はウナギ目に属するウミヘビだ。この2つは種のレベルで全く異なる。後者はウナギの1種であり蒲焼きにして食べられるが、前者は爬虫類の蛇であり沖縄では一部の人がブツ切りにして食べてはいるが通常食用には使われない。こんな馬鹿げた動物名を放置しているのは日本語だけであり、英語ではちゃんとsea snakeとsnake ealと区別されている。全く異なった動物に同じ呼称を使って平気でいるのは余りにも無頓着だ。
 同音異義語が多いことも日本語の欠点で、この欠点があるから誤変換遊びができるのだが、同じ漢字を使いながら読み方も意味も異なることがあり、前後の文脈から読み取らねばならない。「人気の無い劇場」「分別不足」「行ったイベント」「旅立ちのお供」「心中を知る」「その後妻は」など単独では何と読めば良いのか分からない言葉が無数にある。
 言葉がいかにあるべきかは難しい問題だが、私は「誤解されにくい」ということを優先したい。私が時々妙な読点を使うのは大半が誤読を防ぐためだ。「美しい」や「正しい」言葉を優先すべきと考える人のほうが多いかも知れないが、言葉は正しく伝わらねばならない。たとえ悪文と言われようとも誤解されにくいことを優先したいと私は考える。学術用語は厳密に定義されているから使い勝手が良いし正確な表現が可能だがそれが相手に上手く伝わらなければ役に立たない。専門用語をどの程度まで使うべきかにはいつも悩まされる。
 言葉は正しく伝わることが優先されるべきだ。誤解を招きそうな表現は改める必要がある。文字として定着してしまう文章は独り歩きし易いから話し言葉以上に注意を要する。誤解や曲解を許す表現が放置されていれば思わぬトラブルを招きかねない。もしそんな憲法があればそれはきっと国民を不幸にするだろう。

束の間

2016-05-17 09:49:46 | Weblog
 今週になってから少しだけ体調が良い。慢性的な腹痛や吐き気が和らいでいるから固形食も試しつつある。2度目の退院以降では最もマシな状態だろう。楽観的に考えて放射線治療の効果で出つつあると喜ぶべきだろうが、実は束の間の安楽に過ぎずこれから山場を迎える可能性が高い。
 細胞の再生に要する期間はまちまちだが、個々の正常細胞は常に崩壊と再生を繰り返しており、多くの固形細胞は2~3週間ごとに再生しているらしい。放射線が細胞を破壊するのは、複写のために不可欠なDNAを壊して再生できなくするからだ。DNAを壊された細胞は再生できずに死ぬ。
 私に苦痛を与えているのは癌細胞だ。放射線は癌細胞も正常細胞も破壊する。その時に私が知覚できるのは主に私に苦痛を与えている癌細胞の破壊効果だけであってそうでない細胞の変異は知覚されない。しかしこの2つの破壊は同時進行している。例えば食道の正常細胞や食道と肺の境界の細胞が破壊されても知覚されていない。最も危惧されるのは肺に穴が開くことでありそうなれば放射線治療は中断または中止せざるを得なくなる。
 傷口の再生を実感することは易しい。目で見ることもできる。しかし再生は傷口だけではなくその周囲でも起こっている。傷口以外の再生が気付かれないように、患部以外の破壊はその悪影響が現れるまでは気付かれない。現在の安楽は実は破裂しそうな時限爆弾を抱えているような危険な状態でもある。
 食道と肺との境界が放射線によって破壊されれば食物が肺に流入して、嚥下障害と同様に肺炎を起こす。この副作用が不可避と思われたからこそ私は治療不可能と宣告された。現在行っている放射線治療は僅か数%の可能性に賭けたギャンブルだ。来週辺りが生死の分岐点になるのではないだろうか。癌細胞だけが上手く死滅して正常細胞が都合良く再生した場合だけ肺炎を免れることができる。
 現時点で考えるなら抗癌剤による治療は全く無駄で有害な期間だった。私は元々抗癌剤の効果を信じていなかったが、内科医の「抗癌剤で癌細胞を叩いてからでなければ手術も放射線治療も不可能だ」との指導に従って2度に亘って入院して抗癌剤による治療を受けた。しかしその結果は悲惨なものであり、「効果は無かった」から「ステントを使って延命を図る以外に打つ手は無い」という宣告へと繋がった。もし私が従順な患者であれば大人しくそれに従っていただろう。しかし私はゴネて「成功率数%」とまで言われた放射線治療を選択した。
 これが良い結果を招くかどうかは今のところ分からない。しかし現時点で言えることは、抗癌剤による治療が有害だったということだ。放射線治療の開始を遅れさせただけではなく、様々な副作用によって体力を低下させて抵抗力も回復力も劣化させたからだ。百害あって一利なしだったと言えるだろう。
 蝋燭は消える前に一瞬明るくなると言うが、現在の症状軽減が一時的なものなのか治癒への一歩なのか判別できない。後になってから初めて分かることだ。私はベストを尽くせなかった。抗癌剤によるロスタイムさえ無ければ充実した体力を生かしてより力強く闘病できていただろうと今更ながら悔やまれる。しかしこれは後の祭りだ。今の私は結果を待つ俎板の鯉の立場だ。

栄養補給

2016-05-16 09:43:02 | Weblog
 食道癌による障害と抗癌剤による副作用のために、この3か月余り、ほぼ絶食状態を続けている。少量であれば食べられる時期もあったが今では液体を少しずつしか飲めない。たった50㏄のヤクルトを飲むのに10分以上掛かるほど悪戦苦闘する始末だ。だから1日に摂取可能な量はせいぜい水1ℓと飲料1ℓ程度に過ぎず、少しでも栄養価が高くカロリーの多い飲料を選ぶことか必須だ。1日当りの目標値は1,000㎉だが500~600㎉しか摂れない日もある。
 癌と闘うために絶食する人がいるらしい。これは癌細胞に対する兵糧攻めを狙っているのだろう。盛んに分裂と増殖を繰り返す癌細胞のほうが正常細胞よりも多くのエネルギーを使う。我慢比べになれば正常細胞のほうが有利になると考えての対策だろうがこの仮説には無理がある。栄養が足りなくなれば癌細胞も正常細胞も活動を最小化する。その場合、崩壊と再生によって生きている正常細胞は再生を停止して崩壊を続け、増殖しかしない癌細胞は成長を止めるということになるだろう。これでは時間の経過と共に正常細胞のシェアが減ることになるのではないだろうか。実際に、絶食によって癌と闘おうとした人の殆んどが死期を早めているらしい。私は全く逆の道を選ぶ。たとえ癌細胞に栄養を奪われることになろうとも少しでも多くの栄養を摂ろうと努める。
 放射線治療は治療と言うよりむしろ放射線による細胞破壊に近い。癌細胞も正常細胞も破壊する。但し様々な方向から照射することによって特定の癌細胞に多くの放射線が当たるようにしている。だから癌細胞のほうが多くのダメージを受けることになる。仮に栄養補給が同等であれば放射線のダメージが少ない正常細胞のほうが有利になる筈だ。だから攻撃は放射線に任せて私は守りに徹しようとする。守りに使える武器は栄養補給だけだ。たとえ放射線が食道から肺に浸潤した癌細胞を破壊してもその部分を正常細胞によって埋めなければ穴が開いてしまう。穴を作らないためには正常細胞の育成が不可欠だ。このことが最大の課題であり、私は今、文字通りに命懸けの戦いを強いられている。負ければ死ぬしその確率は約90%らしい。
 ところがここで困った問題に突き当たる。最も期待すべき素材と考える乳酸菌飲料の大半が脂質や糖質offで作られていることだ。なぜわざわざ栄養価を下げているのかと憤りを覚える。肥満の抑制を優先するからこんな愚行が横行する。低カロリーは決して「ヘルシー」ではない。日本では全く馬鹿げた考え方が常識になってしまっている。痩身願望とカロリー一辺倒の歪んだ健康情報は早急に改めるべきだと痛感せざるを得ない。
 テレビのCМが願望を煽るのは当然だろうが、食べることと同時に減量を奨励しているCМが少なくない。食欲と痩身願望を同時に煽るのは狡い。日本の若い女性の栄養摂取の状態が発展途上国並みという憂うべき現実に対する警鐘は殆んど見掛けられない。
 

解釈

2016-05-15 10:20:27 | Weblog
 人間は制約された知覚に頼っている。例えば赤外線や超音波を知覚できない。つまりあるがままにではなく初めから歪んだ形でしか知覚できないのだから、人が捕える世界もまた歪んだものにならざるを得ない。人は事実を知覚することさえできないのに「意味」という虚構を求めようとするから主観世界は無茶苦茶になる。
 個人は様々な動機に基づいて行動し、それに対して周囲の人々は勝手に解釈する。この解釈が主観世界を更に歪める。人は自然にまで意味を求める。地震も噴火も自然現象だから原因はあっても意味は持たない。自然現象にまで意味を求めたがるのだから社会現象に対してはこじつけが乱発される。航空機事故の遺族は「なぜ彼が死なねばならなかったのか」と問う。理由は無いが原因ならある。墜落した航空機に乗っていたからだ。意味を求めることは殆んどが無意味だ。「意味」は事実ではなく解釈に過ぎない。これは科学的事実である「安全」と主観的事実に過ぎない「安心」との違いに似ている。
 男女の恋愛関係はお互いの勝手な解釈に基づいて成立している。些細なことを針小棒大に解釈し合うから、フィクションの世界のヒーローとヒロインになる。この時に最も有効な戦術は「思わせぶり」だろう。曖昧な態度が相手の妄想を膨らませる。私はlove gameとは惚れたほうが一歩的に負けるl'oeuf game(テニス用語の「ラブゲーム」)だと思っている。
 人は様々な動機に基づいて行動する。複数の動機が働くこともあれば本当に何となく行動することもある。人の行動と動機の因果付けはしばしばこじつけられている。
 集団行動の目的が曖昧である以上に個人の目的はバラバラだ。旧日本軍のアジアでの戦争を侵略戦争と決め付けることは歴史を余りにも単純化し過ぎだろう。もしただの侵略戦争であれば、敗戦後もインドネシアの独立のために旧日本兵が戦うようなことなど起こり得ない。本気でアジア諸国の解放を理想とした人々が少なからずいたのだろう。
 中国(満洲)への侵略はともかく、それ以外について大日本帝国はそれほど酷いことをしたとは思えない。日本人がアジア人を代表して傲慢な白人と戦ったからこそ黄色人種が植民地支配から解放されたと考えるアジア人は少なくない。中国・韓国以外のアジア諸国で悉く日本に対する好感度が高いのはこれらの国々ではこのことがそれなりに評価されているからだろう。もしアフリカに日本のように白人と対等に戦った国があったなら、黒人が今尚差別と貧困に苦しめられている現状は随分違ったものになっていただろう。・・・勿論、これも1つの歴史解釈に過ぎない。

結果重視

2016-05-14 10:53:04 | Weblog
 結果主義は嫌われる。結果論にせよ勝てば官軍にせよ結果オーライにせよ、良い意味で使われることは滅多に無い。結果よりも、どれほど努力したかを評価するプロセス重視が日本人の心情には適っているようだ。努力したが報われなかった人々に注がれる眼差しは暖かい。しかしこんなナイーブな心が結果軽視という重大な問題を招いているのではないだろうか?
 科学では結果を重視する。結果が悪ければプロセスも悪かったと見なす。良い結果を導けないのは決して不運のせいではなく手法に問題があると考える。
 trial and errorや試行錯誤において人は様々な手法を試みる。失敗すれば諦めて、成功すれば拡充や改善を図る。これが正しい結果主義だろう。
 政策の良し悪しはその時点では分からない。良かれと思ってやってもとんでもない結果を招くことはしばしばある。政策は結果によって評価される。池田首相による所得倍増計画は戦後の最も優れた経済政策だったと今では評価されているがこれは結果を伴ったからだ。失敗していればただの大ボラだ。
 天気予報は難しい。無数の要素が絡み実験することも不可能だ。これは科学が最も苦手とする対象の条件をほぼ完璧に満たしている。それにも拘わらずこれほどまでに高い精度を獲得できたのは、気象衛星等の新しい科学技術に負う所もあろうが、常に結果に晒されているからだろう。
 天気予報ほど頻繁に見直される予想は無かろう。日ごと時間ごとに修正されるばかりか直前になっても見直されている。彼らは恥知らずなのだろうか。そうではない。彼らこそ最も誠実だ。それは、誠実にならねばならない立場に立たされているからだ。彼らは常に結果によって検証される。間違えれば批判される。だからこそ最善の予報のために全力を尽くさざるを得ない。小さなプライドなどに構っていられない。意地を張れば恥をかく。直近になればなるほど正確な予想が可能になるのだから直前まで見直し続けることは科学者の使命だ。彼らこそ科学者の鑑だ。
 こう考えれば結果重視が素晴らしい手法だと分かる。ビジネスであれスポーツであれ、良い結果を出すために頑張る。結果が伴わなければ負け惜しみであり負け犬の遠吠えにしかならない。良い結果を招いたプロセスこそ正しいプロセスだ。
 進歩のために重要なことは結果を白日の元に晒すことだ。労り合いや傷の舐め合いが問題点を放置させる。結果を明らかにするのは戦犯探しによって過去を咎めるためではなく問題点を解消して今以上の未来を築くために行われる。
 弱者を無条件に賛美したがる人がいる。ハンディを抱えて頑張っている人はそれだけで素晴らしいと主張する。こんな甘やかしは有害だ。たとえ弱者に対してでも是々非々が貫かれるべきだ。そうしなければ彼らの進歩の芽を摘んでしまう。信賞必罰は当事者にとっては大きな励みだ。子供も弱者も甘やかしてはならない。
 試験されることを嫌う人がいる。プライドの高い人は他人による評価を好まない。しかし試験とはテストであり、テストとは実験に他ならない。自信があるなら進んで検証されるべきだろう。
 進歩する学問と進歩しない学問がある。結果の検証に積極的な学問は進歩し検証を欠く学問は停滞する。医学がいつまでもオカルトに留まっている最大の原因は、結果の検証が不充分だからだ。失敗した治療こそ宝の山だ。失敗から学ばない限り科学たり得ない。

病状と副作用

2016-05-13 09:28:52 | Weblog
 多くの薬は医原病を起こすだけではなく、病気の進行状況を分からなくさせるという困ったデメリットも併せ持っている。私は元々薬は殆んど使わなかったので自分の病状は自分で把握できた。風邪の熱が下がれば治癒しつつあると実感し薬の効果も副作用も考慮しなかった。今回初めて抗癌剤に振り回されることによって、薬がどれほど患者を惑わせるかを痛感した。
 2月に吐血して初めて病院に行った。11月に2度、12月に1度嘔吐していたが、どうせ自然治癒するものと高を括っていた。しかし日に何度も吐血と嘔吐を繰り返すようでは唯事ではない。胃カメラをを飲んで食道に腫瘍と潰瘍ができていることが確認されたから約20日に亘る絶食と精密検査を経て入院した。
 入院の時点では体調はかなり回復していたし、毎日プールで泳げるほど元気な病人だった。多分食べても大丈夫だと思いつつ入院まではと自粛していた。どうせ吐くなら病院で吐いたほうが病状を把握できると考えたからだ。入院後2日目の時点では、決して旨くない病院食を完食できる状態だった。
 ところが抗癌剤による副作用が起こり始めると状況は一変する。酷い吐き気のために食べられなくなった。この症状は退院後も1週間ほど続きその後徐々に回復したが思い掛けない味覚障害を患うことになった。
 退院から約3週間を経ての2度目の入院では2日目から激しい吐き気に襲われて食べられなくなった。退院後も10日間ほどその状態が続き、徐々に回復したものの3週目ぐらいから再び吐き気が強くなり現在の絶食状態に至る。
 私の吐き気の正体は何だったのだろうか。当初は病状だったがその後は4つの力が働いた。①病気の進行②自然治癒力による回復③抗癌剤による副作用④副作用からの回復。この4つが絡み合うから当事者の私でさえ病気の状況が分からなくなってしまった。味覚障害はほぼ確実に副作用だが嘔吐は病状なのか副作用なのか判別できない。医師は様々な薬を処方したが殆んど効かなかった。
 治療を受ける患者の殆んどが同じ思いをしているだろう。現在の症状の原因が病気なのか薬害なのか分からない。冗談のような話だが頭痛薬の最大の副作用は頭痛の悪化だと言われている。頭痛が酷くなった場合、より強い頭痛薬が処方され勝ちだが、これは麻薬の治療のためにより毒性の強い麻薬を使うような愚行であり、最も有効な治療方法は頭痛薬をやめることらしい。
 精神病患者に至ってはもっと悲惨だ。軽度の神経症の患者が抗精神病薬によってしばしば本物の精神病患者にされている。病状の悪化を医師は薬の副作用とは考えずにますます危険な薬を処方するから病状は更に悪化する。病気の悪化の原因が病気の進行ではなく副作用であることは決して珍しくない。薬の副作用が病気の重篤化や新たな病気(医原病)の原因になることが多い。

ニュース

2016-05-12 09:50:42 | Weblog
 最近のニュース番組はつまらない。元々殆んどニュースしか見ていない私にとってこれはテレビがつまらないということだ。ネット時代のニュース番組がどうあるべきかについてテレビ局では危機意識を持って考えているのだろうか。現在の視聴率を維持することにばかり気を取られて長期的ビジョンを欠いているのではないだろうか。
 かつてのニュース番組は事実を伝えることに徹していたように思える。その後、より視聴率が稼げる軟派のワイドショーやバラエティー番組が増えて純然たるニュース番組はNHK以外では大半が淘汰されてしまった。テレビ局は分かり易さこそ最優先と考えたのだろうか。有難迷惑なニュースキャスターと称する人々を登場させて意見の押し付けまで始めるようになった。情報を伝えるという枠からはみ出す道を選んだのは意見の受け売りをしたがる人が少なくないからだろう。
 バラエティー番組は見るに耐えない。何のためにわざわざド素人にコメントをさせるのかさっぱり分からない。時にはお馬鹿キャラの芸人にトンチンカンなコメントをさせて大喜びをしているが、こんな茶化しは問題の矮小化にしかならない。国際問題を家計問題に摩り替え、重要な問題も芸能人のスキャンダルと同列にしてしまう。北朝鮮問題を核兵器やミサイルではなく拉致にばかり注目するのは多分世界中で日本だけだろう。拉致を軽視しても構わないとまでは言わないが、家族の思いを切々と訴えるドラマよりも現実に迫っている核戦争の脅威を訴えるべきだと私は考える。小市民的な主婦がメインターゲットだからこんな報道姿勢になるのだろうか。
 かつては情報源が限られていた。市民には情報を得る手立てが無く提供される情報を受け入れる以外に選択肢は無かった。しかし今では自力で情報を集めることができる。最も速報性の高いテレビが個々の事実を報じさえすれば視聴者自らその背景を調べることができる。確かにネット情報は玉石混交ではあるが、テレビ局が提供するワンパターンの安っぽい物語と比べれば遥かに上質で客観的な情報が入手できる。
 私が一番好きなニュース番組はNHKの9時のニュースだ。たった5分間の番組だが、株価の第一報でもあり中身が濃い。
 `NEWS CHECK 11'が始まった時、これこそ私が望んだ番組だと思った。当初は40分間、事実だけをシャキシャキ伝えていたからだ。ところが回を重ねるごとに、特定のニュースに割く時間が増えてつまらなくなった。
 テレビのニュースは核心を伝えれば充分だ。芸能人による茶化しも偉そうなコメンテーターも要らない。NEWSはnewであってoldsになってはならないし、今更戦前・戦中の朝日新聞のように世論を煽ってほしいとも思わない。事実だけを伝えて、後は視聴者が自ら調べて自ら考えることに期待をするべきだろう。