俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

厳密な学

2016-05-11 09:37:01 | Weblog
 「厳密な学としての哲学」はフッサールの著書だがこの本によって哲学が厳密な学になったとは思えない。人文系の学問は本質的に厳密な学たり得ない。
 科学が厳密な学たり得るのは実験と再現という手法が可能だからだ。同じ条件を設定すれば同じ原因が同じ結果を招く。このことが科学的な証拠となって、客観的かつ普遍的な事実として承認される。
 人文系に限らず社会学系もまた厳密な学たり得ない。経済学において過去と同じ条件を作ることは不可能だ。株価の暴落の原因は様々かつ多様であり、同じ条件が再び発生することは絶対に起こらない。政治学においても同じことが言える。
 実験できるということが科学の優位性だ。議論が分かれれば適切な条件を人工的に作って実験をすればどちらが正しいか一目瞭然だ。空理空論を弄ぶより遥かに建設的だ。
 実験不可能な科学分野では統計が活用される。気象については膨大なデータが蓄積されているからデータに基づいてある程度正確な予想が可能になる。しかし地震や噴火のデータは余りにも乏しく到底データベースとして活用できるレベルに達していない。だから地震予知は現時点では科学の名を騙るオカルトにしかならない。これほど貧弱なデータに基づいて地震予知ができると主張して3,000億円もの研究費を分捕った自称科学者は詐欺集団であり、予算を付けた役人も含めて責任が問われるべきだろう。
 私が心理学に見切りを付けたのは統計に対する不満が大きい。社会心理学であれば統計的事実は有効だ。しかし個人心理学にそれが流用されれば納得できない。例えば人が描く動物の絵は90%が左向きだと言う。この事実は人を大衆として扱う場合には有効なデータではあろうが個人心理学にとっては必ずしも重要とは思えない。多分、顔から描き始めることがこの原因であり90%がそうするという事実よりもこのことのほうが個人心理学にとっては重要と思える。
 残念なことに医学もまた科学のレベルに達していない。データは大量にあるのだが殆んどが曖昧なレベルに留まっており、因果を特定できるレベルには達していない。これは人体実験をできないことが大きな原因だろう。ネズミには有効な治療が人間にも有効という保証は無いし、人の個人差を考えるなら人体実験を欠いた治療は心許ない。決して好ましいこととは思わないが、人権意識を極端に欠いた中国の医療が世界の最先端を歩むことは決して遠い未来のことではあるまい。
 日本の医療レベルは決して高くない。風邪症候群に対する治療法でさえ不充分だ。精神疾患への対応に至っては世界最低レベルであり入院患者の数だけが世界最高だ。
 本来科学を目指すべき日本の医療がオカルトに留まっているのは、まるで茶華道の徒弟制度のように時代遅れのドンが学会を支配していることが主因であり、厚生労働省や製薬業界との癒着が副因だろう。また大スポンサー様の顔色を窺うばかりのマスコミの責任も決して軽いものではあるまい。人の生死を左右する医学が低レベルに留まっていることは全く残念だ。
 医学に過剰な期待をすべきではない。過剰に期待をすれば贔屓の引き倒しになる。医学は決して厳密な学たり得ない。目標とすべきなのは気象学のような統計に基づく実学だろう。だからこそ現在横行しているデータの捏造とは逆に、データをありのままの事実として受容する謙虚さこそ求められるべきだ。

期待値

2016-05-10 09:48:45 | Weblog
 期待値という概念は確率論の中でも最も重要だと思うのだが余り活用されていない。これは日本の教育の大きな不備ではないだろうか。今はどう扱われているか知らないが、私が高校生の頃は「数学3」で教えられた。だから進学校で理科系を選択した高3しか学ばなかった。これでは日本人の大半が学ばないということになる。
 多くの物事が期待値によって理解が深まる。良かれ悪しかれ、生活は損得によって左右され易い。入試、就職、結婚、病気といった様々なライフステージ上での問題は期待値に基づいて考えるべきだ。パスカルは期待値に基づいて「神を信じたほうが得だ」という驚くべき結論まで導いた。
 確率論の内、可能性は割と広く活用されている。しかし可能性は概念として中途半端であり余り応用が効かない。天気予報や地震予知などに使われているが、間違った理解が目立つ。
 天気予報は確率ではなく期待値を使うべきだと私は考える。降水確率が予報されているがこれは余り役に立たない。私は予想降水量に降水確率を掛けた降水期待値を独自に想定して予定の作成や変更に使っている。
 多くの人は降水確率に基づいて誤った判断をしている。降水確率100%と50%であれば殆んどの人が前者を悪天候と予想する。しかし1日の降水確率など余り役に立たない指標だ。午前0時1分や午後11時59分に1mlの雨が降れば降水という予報が正しかったということになる。私は時間帯別の降水確率と予想降水量に基づいて判断する。たとえ降水確率が低くても豪雨の可能性があれば危険な日だ。量と確率を掛けた期待値こそ役に立つ。
 期待値は乗物などの時刻表の作成にも使われている。利用者の待ち時間を最小にすることを目標にして算出すれば、等間隔で運行することで最小化できると簡単に算出できる。間隔のバラ付きが大きいほど客の待ち時間は長くなる。実際の時刻表はこの大原則にラッシュアワーなどを加味し、更に実際の混雑度などを実地検証した上で作られている。
 リスク管理こそ期待値の真骨頂だ。たとえその確率が低くてもそれが招く災害が巨大であれば期待値(危険度)は高くなる。期待値を理解していたら日本のような地震大国に原発を作るような愚策を選ばなかっただろう。
 その一方で「可能性はゼロではない」という言葉に騙されている人が多い。過剰に騒がれている食品添加物がその典型だ。確かに食品添加物の危険性はゼロではないが危険となる閾値を考慮すれば明らかに有益な化学物質だ。食品添加物よりも薬のほうが遥かに危険であることは期待値で考えればすぐに分かる。
 生きるか死ぬかの選択においても期待値は有効だ。確率上では二者択一であっても期待値は全然違う。幸福の期待値を算出すれば生きるほうが圧倒的に有利だ。勿論それと裏腹に不幸の期待値も高まるから総合的に判断したほうが良い。
 これほど有益な期待値を理科系の生徒にしか教えないのは全くけしからんことだと思う。利害だけではなく生き方にまで影響を及ぼしかねない重要な思考ツールとして活用できる手法だけに一部の人にしか教えないのは余りにも勿体ない。これは足し算を教えずに学校を卒業させるようなものだとさえ思える。期待値を理解すれば日本人は今よりもずっと賢明になる。ギャンブルの期待値を算出できるようになるだけでギャンブル依存症患者は激減し余暇の過ごし方まで変わるだろう。その時に真っ先に淘汰されるのは宝くじだろう。

謝罪

2016-05-09 09:23:42 | Weblog
 決して特定の国民を意識して書いている訳ではないが、謝罪とは要求して獲得すべきものだろうか。私個人としては謝罪も感謝も要求したことが無い。こちらから要求する迄も無く、相手が必ず自主的に謝罪するからだ。
 サミットを機にオバマ大統領が広島を訪問するらしい。この時に「平和団体」や右翼は謝罪を要求するのだろうか。そんなことは日本人として恥ずかしいことだ。謝罪するかどうかはオバマ大統領が決めるべきことであって他人がとやかく言うことではあるまい。
 済んだことは仕方がない。もしその加害者と被害者が同席すれば、加害者がすべきことは謝罪であり被害者がすべきことは許容だろう。加害者が「許せ」と要求し被害者が「謝れ」と要求するのは狂気の世界ではないだろうか。
 感謝も同様だ。感謝されれば嬉しいが感謝されなくても怒ることはあるまい。元々感謝されることを目的にして行動した訳ではないのだからたとえ感謝されなくても気にする必要は無かろう。
 日本の「謝罪外交」に批判的な人は少なくない。しかし私はそれで良いと思っている。謝罪を要求しない相手にこそ自主的に深く謝罪すべきだろう。1994年にマレーシアを訪問して例によって挨拶もそこそこに謝罪を始めた村山首相(当時)に対してマハティール首相はこう答えたそうだ。「いつまでも謝罪を続けるのではなく未来に向かって進むべきだ。」加害者側は要求されなくても謝罪し被害者側は許容する。これがまともな関係だろう。こんな美徳を見失った人が多過ぎる。
 もしスマホ自転車にぶつかられたら危険運転という行為を咎めるだろうが謝罪要求などしない。私の側に損傷があったなら損害賠償を求めるかも知れないが物損以外の補償を求めようとは思わない。
 謝罪にせよ感謝にせよどちらも感情に基づく。他人の感情を強制することなどできっこない。「喜べ」とか「悲しめ」とか命じられても実行できないように謝罪も感謝も強制できないし、強制しようとすれば却って反発を招くだけだ。
 「謝れ」という言葉にはクレーマーによる「誠意を見せろ」と類似した打算を感じる。謝らせることが目的なのではなく違った目的を持っていることが多い。
 仕事上、何度も苦情対応をした。まともな人が相手であればこちらが非を認めて適切な賠償を提案した時点で解決する。解決できないのはまともではない人が相手の場合だけだ。「すみませんでは済みませんよ、あんた。」と凄まれても困る。こちとしては態度を一変させて敵対的に対応せざるを得なくなる。そんな時には警察や弁護士などを使って解決を図ったものだが本来あるべき解決策とは懸け離れた例外的な対処だ。
 路上で喧嘩をしている人の多くは双方が相手の非を咎め合う。どっちもどっちの低レベルな喧嘩だ。どちらにも非があったとしか思えない。

文学的と論理的

2016-05-08 09:48:33 | Weblog
 2種類の読解法があるのにこれをちゃんと使い分けずに混同している人が少なくないと思う。
 1つは文字どおりに読み取るという方法だ。法律や契約においてはこれが鉄則だ。このルールを破れば誤解や曲解が横行して法による秩序が崩壊する。
 もう1つは行間を読むとうい方法だ。文面だけを辿っても真意は伝わらないので書いていないことや言っていないことまで含めて理解する。これは文芸書などの著書や会話において広く使われている。相手の言わんとすることを深読みすることによって相互理解が深まる。俳句や短歌に至っては、書かれていることの数倍・数十倍を読み取らねば理解できない。
 この2つを使い分けなければ混乱に陥る。会話においてユーモアやジョークは欠かせない要素であり、それを交えることによって場を和ませつつ問題の核心に迫ることができる。しかしこれを法律や契約では使えない。そんな条文は必ず削除されて誤解を招かない文面に修正される。人はこの2種類の表現方法を使い分けている。
 ところが専門馬鹿なのかただの馬鹿なのか分からないがこれを混同する人がいる。法律や契約を「文学的」に解釈したりジョークを真に受けて怒る人だ。
 法律や契約においては明記されていないことを前提にしてはならない。日本国憲法を「平和憲法だから」とか「集団的自衛権は国際法として認められているから」といった勝手な前提に基づいて解釈すべきではない。そんなことをすれば無数の解釈が可能になって憲法が空文化する。書かれていることを文字どおりに読み取ることが唯一のの正しい読解だ。もし様々な解釈が可能ならそれは条文の欠陥であり曲解を許さない厳密な条文に改めるべきだろう。
 一番迷惑なのは全く自覚せずにダブルスタンダードをグシャグシャにして使う人だ。憲法に対しては思い込みに基づいて勝手な解釈をして、他人の発言に対しては言葉尻を捕らえては吊し上げて謝罪を要求する。彼らには読解法を基礎から教え込む必要がある。文芸書と法律はたとえどちらも日本語で書かれていても異なった言語体系であることを理解させねばならない。そうしなければ平和も言論の自由も報道の自由もあり得ない。
 日本で発行される著書の大半が文芸書であることも原因だろう。文芸書ばかり読んでいると「芸術的に」解釈することが唯一の正しい読解法だと思い込んでしまう。文章を文学的に読んで空想力ばかりが肥大した「夢見る乙女」のような人が増えて、その一方で正確に読み取る論理力は劣化しているようだ。「スタートレック」の宇宙人(正しくは「異星人」だが)スポックのように論理的に正確に理解する能力の育成が急務と思える。

子羊

2016-05-07 10:19:58 | Weblog
 男の友情は面倒なもので、女性同士とは違って、たとえ会いたいと思っていても何らかの理由付けをしなければわざわざ会うことは少ない。私の見舞いということで、大阪在住時以来5年振りに旧友に会った。新聞社に勤めたあと様々なキャリアを積んだ友人だが最近就職したとのことだった。「雇われるほうが気楽で良い」と笑っていたが、やはり普通のサラリーマンの枠には収まらずに、就職早々から会社の仕来たりなどを批判して上司を困らせているらしい。頼もしく思った。
 中学の野球部ではエースだった彼が最近では転倒し易くなり怪我をすることもあると言う。「歳には勝てない」と笑っていたがふと不安を感じて「降圧剤を飲んでいるのではないか」と尋ねると「血圧が高いので常飲している」とのことだった。私は愕然とした。仕事に対しては批判的に対処できる彼のような人物でさえ医師の前では従順な子羊になってしまうと知らされたからだ。
 医師は患者を脅す。専門家が「この薬を飲み続けなければ死ぬ」と言えば素人はそれに従わざるを得ない。悲しいことに我々は幼い頃からそう躾けられている。科学の進歩は日進月歩であり素人がそれを理解することは不可能だから専門家の言葉を信じねばならないと思い込まされている。私もまた大学で哲学のようなヘソ曲がりの学問を修めていなければ彼らと同様に専門家を盲信する子羊だっただろう。特に医師や弁護士のような資格を持つ専門家は素人を見下して高圧的になるから問答無用で盲信せざるを得ない。
 疑問を持つために最新の知識は必要無い。既存の知識を組み合わせれば充分だ。血圧が状況や感情に応じて変化することぐらい誰でも知っている。増してや血圧に問題を抱える人であればそれが刻一刻変動することも知っている。ところが降圧剤は血圧を正常化させる薬ではなく常に下げる方向へと働き掛ける。軽度の高血圧患者が低血圧状態であっても降圧剤は血圧を下げる。その時にふらつくのは当然だ。
 そもそも大半の高血圧症の患者は本来病気ではない。高血圧症関連の学会が自らの市場を拡大するために恣意的に基準値を引き下げているだけだ。加齢に伴って血圧が上がるのは動物として至極当然のことなのに、悪意ある専門家が善意の人々をカモにしている。正常値とは本来その人にとっての適正値であってこれは日本人の平均値とは必ずしも一致しない。医師は「本態性高血圧」という耳慣れない言葉を使う。調べればすぐに分かることだがこれは「原因不明の高血圧」という意味だ。医師は意味不明の言葉まで駆使して患者を煙に巻こうとする。
 我々は専門家に対して余りにも従順だった。マスコミや政治家や地震学者だけではなく医師もまたしばしば嘘をつく。自分の身は自分で守らざるを得ない。

幸福の総量

2016-05-06 09:59:17 | Weblog
 「最大多数の最大幸福」という考え方が正しいとは思わないが、世間では広く受け入れられているからこそ多数決も広く支持されているのだろう。私はこの考え方を好まない。これが少数者の犠牲を前提とするからだ。多数者の意向が尊重される時、少数者の意向は蔑ろにされる。多数者であるスンニ派の幸福はしばしば少数者のシーア派の不幸と表裏一体だ。
 そもそも幸福を基準にできるかどうかさえ甚だ疑わしい。カミュの「カリギュラ」にこんな言葉がある。「人は死ぬ。だから不幸だ。」簡潔過ぎてこれだけでは意味が分からないだろうから、ショーペンハウエルの言葉から、必ずしも正確ではない引用をして解説をする。「人生には様々な幸福がある。しかし人が最後に迎えるのは死だ。究極の不幸である死が避けられないのだから人生は幸福ではあり得ない。」
 こんな事情もあり私は幸福を基準にすることを諦めていた。しかし心境に変化が生じて「幸福の総量」を基準にできないものかと考えるようになった。
 多数者の幸福よりも幸福の総量のほうが重要だろう。これは少数者を犠牲にして多数者だけを優遇する教育よりも全体のレベルアップこそ重要であること、あるいは一部の人に貧困を押し付けた豊かさよりも社会全体が豊かになるべきだということとも似ている。多数者に迎合するよりも総量で考えたほうが包括的とも思える。誰の、ではなく総量としての幸福を基準にできないものだろうか。
 このことは意外と簡単に数値化できる。6割を占める多数者が1割豊かになって4割を占める少数者が2割不幸になるなら全体は2%貧しくなる(0.6×1.1+0.4×0.8=0.98)。これよりも全体が1%豊かになったほうがずっと良いと私は考える。全体の豊かさよりも多数者の豊かさが優先される社会は歪んでいるのではないだろうか。何でも多数決で決めようとする社会とは実は多数者のエゴが罷り通っているのではないだろうか。
 これまで私は老春を楽しむつもりで節制と蓄財に励み、100歳まで特に不自由無く暮らせるメドを立てたつもりでいた。ところが思わぬ病のために余命数か月と宣告されてしまった。私にはどんな余生が可能だろうか。誰もが考えることは、余生を少しでも楽しむことだ。しかし健康を害した私に可能な楽しみは余りにも低レベルだ。旨い物を食べることさえできない私が贅沢をしても少しも楽しくない。むしろ味覚を楽しめる人に美味しい料理を食べさせたほうが良いのではないだろうか?
 私の友人の父は晩年に私と同様に食べる能力を失った。彼は死の直前まで、親しい友人を招いて宴会を開き続けたそうだ。自分が楽しめない分、友人を少しでも楽しませたいと考えたのだろう。
 こう考えたら自分で楽しむよりも、最後に散々迷惑を掛けた親・兄弟に資産を残して少しでも楽をさせた方がずっと良いと思うようになった。
 幸福には不思議な性質がある。通常の資産を分割すれば一人当りの取り分が減るのに、幸福を共有すれば総量が増える。私の不幸と引き換えに幸福の総量を増やすことはできないものだろうか。この課題を解くことが私の最後のデーマではないかとさえ考えている。

刑罰

2016-05-05 09:53:18 | Weblog
 現行の刑罰は果たして有効なのだろうか。死刑による抑止力云々だけではなく、懲役刑や禁固刑の有効性にも疑問を感じる。一般人であれば刑罰を恐れる。刑罰が社会的制裁となり社会から抹殺されることもしばしば起こるからだ。たとえ罰金刑であっても職を失い転落への道を歩むことがあり得る。しかしその一方で、一旦転落した人にとっては怖くない。中には冬の寒さを凌ぐためにワザと捕まる累犯者さえいると言う。こうなってしまえば刑罰は抑止力など持ち得ない。累犯者には違った刑罰が必要なのではないだろうか。
 刑務所の維持費は一人年間500万円ほど掛かっているらしい。このことによって市民の安全性が高まるとは言え、費用対効果で考えるなら投資効率の悪い事業と思える。懲役という刑罰が累犯者のための最後のセーフティーネットとして使われているという状況さえあるようだ。所謂「臭い飯」も随分改善されたらしく刑務所生活はかなり快適になっているようだが、刑罰はもっと懲罰的であるべきではないかと思う。
 初犯者はともかく、累犯者にはもっと刑罰を恐れさせる必要がある。シベリア抑留並みの過酷な労働を強いるべきだとまでは主張しないが、累犯者がもっと回避したがる類いの刑罰を科すると同時に社会にとってもメリットがある制度を考えるべきだと思う。
 刑罰はいかにあるべきか?が問われるべきだ。全くの私見だが①治安維持効果が高いこと②善良な市民に利益をもたらすこと③犯罪者がその刑罰を回避したいと考えること④刑の執行コストが低いこと。こんな基準に基づいて刑罰を見直してはどうだろうか。
 その候補の1つとして人体実験刑を提案する。人体実験という大層な名称を使うがこれは決してかつての731部隊のように重篤な病気に罹らせるという意図ではない。例えば風邪だ。大半の風邪は致命的ではない。ウィルスの種類さえ適切に選べば、不快な思いをするだけで後遺症も残さずに完治する。他の条件をできるだけ同等にして様々な治療法を比較できればどれが最も有効であるか科学的に証明できる。重篤化しないと分かっている病気であれば風邪以外の病気を試すこともできる。
 勿論これは人権を侵害する刑罰だ。しかし懲役刑と比べて特に過酷とは思えない。社会的立場を失わせかねない初犯者に対する懲役刑と比べればずっと軽い刑罰ではないかとさえ思える。初犯の人であれば風邪を患わされることのほうが懲役よりもずっと受け入れ易いのではないだろうか。
 人体実験刑はあくまで一例に過ぎない。刑罰は社会にとってどれほど有益であるかを基準にして様々な種類があり、どんな犯罪者にとっても不快であるべきだろう。不快でない刑罰は抑止力を持たない。ムスリム(イスラム教徒)にとって豚肉を食べさせられることは拷問に当たるがクリスチャンにとっては苦痛でないように人の事情は様々だ。犯罪者には回避動機を与えしかも社会には有益であるような刑罰が考案されるべきだろう。

病院経営

2016-05-04 20:17:37 | Weblog
 意外と知られていないが保険医療費には年収に応じた上限額が設けられている。例えば年収が370万円未満であれば月間59,600円以上を負担する必要は無い。限度額を超えればそれ以降の医療費は無料になる。この制度があるから、アメリカでは頻発する医療費破産が日本では殆んど無い。
 これは良い制度だとは思うが矛盾も感じる。自己負担が無くなると、食べ放題の飲食と同様に抑制力が働かなくなるからだ。
 例えば私は今、1回19,000円の放射線治療をほぼ毎日受けている。3割負担だからこの治療をたった9間日受けるだけでほぼ限度額に達して、それ以降の医療費は無料になる。この制度が安易な治療を促さないだろうか。患者も医師もジェネリック医薬品などは使おうとせずできるだけ高価な薬や新薬を使おうとする。愚かな患者は高い薬ほどよく効くと思い込んでいる。
 診療が大好きな人もいる。こんな人は持病で通うだけではなくどんな些細な症状に対しても治療を要求するから毎月限度額に達して、実質的に無制限定額医療制度になっているだろう。これが医療費の無駄遣いに繋がっているのではないだろうか。
 医師のモラルも問われるべきだ。私の放射線治療に要する時間はたったの10分ほどだ。たった10分機械を操作するだけで医療保険からは19,000円が支給される。こんなに効率の良いビジネスは珍しかろう。
 私は病院にとって最上級のお得意様だろう。毎回19,000円の診療報酬を運ぶカモのようなものだ。こんな患者は極力延命を図って金蔓として利用しようと病院では考えるだろう。日常的な人造透析を要する患者が金蔓として利用される医療犯罪の実例もある。もっと酷い例として、生活保護費受給者を入院患者に仕立て上げて不必要な手術を繰り返した病院まであった。
 殆んど成功の可能性の無い放射線治療を選ぶに当たって私は医師に単刀直入に尋ねた。「この治療が馬鹿な患者の妄想に付き合うためのものであるなら要らない。成功の可能性はどれくらいあるのか?」医師は答えた。「多分数%」。この時点で私の不安は現実のものとなり生き延びることをほぼ諦めた。
 私は切羽詰まって高額な医療を選んだ。しかし病院にとってはそうではなかろう。治療することではなく延命することが重要課題になる。こんな患者は金の卵を産む鶏のようなものだろう。
 私は基本的に無料化を好まない。無料化は濫用を招く。過度な保護ではなく、一割負担などのように、受益者負担を幾らかでも残すべきではないだろうか。
 私が先日入院した病院では、テレビの視聴料が1時間当たり80円で冷蔵庫は1日150円だった。非常識と思える価格設定だ。個室料金はホテルなどとは違って延べ日数で請求され、一泊二日であれば2日分の料金になる。病院にはあくどい儲ける仕組みが少なからず潜んでいる。

栄養

2016-05-03 09:43:51 | Weblog
 人造物の本体は一旦作られればそのまま使われ続ける。傷み易い箇所だけが取り換えることを前提として予め部品として取り付けられるが本体は徐々に劣化し続ける。動かすために外部からエネルギーが投入されるが本体は碌に修復もされないまま使い捨てにされる。
 動植物の体は使い捨てではなく生きている限り刷新され続ける。刷新されなくなれば死ぬ。
 現代文明に慣れ親しんだ現代人は動植物の特性を見失っている。機械と同様にエネルギーさえあれば機能するものと思い込んでいる。しかし栄養が動力として使われるのはごく一部に過ぎず大半が生体の維持のために使われている。生体を維持する代謝のための素材こそ重要であり、それが必須アミノ酸や必須脂肪酸を初めとする様々な栄養素だ。その一方で、活動のために必要なエネルギー量は意外なほど少ないのではないだろうか。
 ここに1つのデータがある。食道癌を患って以来約3か月間、私は殆んどまともな食事をしていない。今では固形物は食べても吐いてしまうため少量の液体食に依存している。この間に体重は約20㎏減った。
 しかし奇妙な事実がある。殆んど食べられなくなってから約1か月間、液体でさえ充分に摂取できない状態であり、極力栄養価の高い飲料として、液体ヨーグルトかヤクルト、そしてカロリーメイトだけを飲んでいる。これで1日に摂取できるカロリーはせいぜい4~600㎉に過ぎない。こんなに少ないカロリー量であれば体重は減り続ける筈なのにこの1か月の体重は52.5㎏で安定している。これはどういうことだろうか。
 栄養は2種類に大別できるように思える。細胞の再生のために使われる栄養素と、エネルギー源および体脂肪のためにしか使われない栄養素だ。前者の中にはビタミンやミネラルのように殆んどノーカロリーの物も含まれる。
 重要なのは細胞を再生するための栄養素であって本当に必要なカロリーは驚くほど少しで充分なのではないだろうか。余計なカロリーを摂るから太り、必要な栄養素が足りないから健康を損なう。
 もし薄い水溶液に依存して生きている人がいれば、幾ら飲んでも空腹も栄養も満たされまい。過剰な水分によって水膨れをするだけだ。カロリーとはこの水分のようなものに過ぎない。最も必要な栄養素とは無関係だ。
 人々はカロリー神話に騙されて、必要な栄養素を充分に摂らないままカロリーばかりを蓄えて不健康に太る。昔「蛋白質が足りないよ。だから疲れるんだ。」というコマーシャルがあったが、カロリー論よりはこちらのほうが正しいのではないかとさえ思える。
 正しい減量法とは細胞の再生のために必要な栄養素は充分に摂取し、エネルギー源か贅肉にしかならない補助的な食物の摂取を抑えることだろう。高カロリーだからという理由で脂質や蛋白質を忌み嫌うことは根本的に間違っている。必要な栄養素が足りないままカロリーだけが過剰な状態であれば、大切な細胞が再生できないまま贅肉ばかりが増えて不健康に太ることになる。

好戦

2016-05-02 09:39:11 | Weblog
 「民主主義が国際平和の妨げになる」などと書けば多くの人は驚くだろう。中には反民主主義者による言い掛かりだと怒る人もいるだろう。
 平和と民主主義に関する古典的名著はカントの「永久平和のために」だろう。正確な引用でなくて申し訳ないが、カントは国王などの権力者の邪まな欲が戦争を起こすと考えた。権力者は自ら戦う訳ではないから安易に戦争を仕掛ける。しかし住民は兵士として徴収され命懸けで戦わされる。民主的な社会になって市民の権利が拡張すれば権力者は容易に戦争を起こせなくなる。
 職業軍人の無い時代であればこんな牧歌的な理屈が可能だった。古代の傭兵の時代を除けば職業軍人の歴史は意外と短い。傭兵と職業軍人の線引は難しいが、本格的な職業軍人制度を始めたのは西洋ではフランス革命以来の国民軍で日本では織田信長だと言われている。それ以前は歩兵の大半が民兵で市民や農民が兵士として駆り出されていた。武士という身分は平安時代の末期から登場するが鎌倉時代を経て戦国時代に至っても末端の兵士の多くは農民であり農閑期にしか大規模な戦争は行えなかったと言う。戦に手を取られて農業生産が激減すれば、たとえ戦争に勝っても国が亡ぶからだ。職業軍人制度が可能になったのは技術革新によって食糧の生産性が高まり大勢の非生産的労働者を抱えることが可能になったからだろう。
 職業軍人が主役になって市民が戦争の最前線の駆り出されなくなればカントが指摘した動機が薄らぐ。赤紙を恐れずに済む市民は好戦的になる。また職業軍人は自らの地位を高めるために事あるごとに軍事力の重要性をアピールしようとする。
 その一方で妙な愛国心も強まる。領土・領海の拡大が国益でありそれが国民全体の利益に繋がるのであれば反対し難い。尖閣・竹島・北方領土を日本領と考える日本人は圧倒的に多い。私は自分なりの意見を持っているが軽率には発言できない。「愛国者」に吊し上げられかねないからだ。
 政治家は国民に迎合する。国民が領土・領海の拡大を望みそれが国益に叶うならこぞって領土拡張策を支持する。相手の国においても事情は同じだからお互いに権利を主張するばかりで解決は極めて困難だ。
 現代世界で好戦的な国の代表はアメリカと中国と北朝鮮だろう。この3国は2つのグループに分けられる。中国と北朝鮮は中世の王国と同様の独裁国であり、アメリカはポピュリズムの国だ。トランプ旋風に象徴されるようにアメリカ人の政治意識は必ずしも高くない。徴兵制が廃止されて以来、戦うのは職業軍人だけになっており、軍事力において圧倒的優位に立つアメリカ人は相手の国から反撃されることさえ殆んど考慮しない。彼らにとっての戦争とはバーチャルな世界での出来事のようなものだ。こんな国が覇権を握っている限り、世界平和という理想が簡単に叶うことはあるまい。