おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

初めて孫の運動会にいけました。

2024-10-22 12:41:09 | Weblog
ようやくコロナ禍が過ぎ、孫の運動会に参加できるようになりました。

上の子は今年6年生、少し遠方なのと、コロナのおかげで、式という名の付くものや、○○会というイベントには人数制限や延期で、今年の運動会が小学校初のライブ鑑賞、そして最後の機会でした。

学校では、コロナのお陰で「学校行事の精選」が進み、行事の時間短縮や内容の吟味が行われ、「運動会」もその対象になっているようですね。

当事者である子どもたちにとっては、「なくて当たり前のこと」「ズーと昔にあったこと」でも、「初めて経験する事」は楽しいことだと思います。

ただ、厄介なのは「見る側」が、「当たり前のこととしての経験」をしている保護者だということだろなと元先生のじいじは思いながら、初めてで最後の運動会を見てきました。

コロナの期間中、儀式行事の取り扱いや体育、音楽関係の行事、遠足や社会見学をどうするのかは、各学校の判断に任された部分があり、子どもたちと同様に運動会も初めて取り組むという先生もいるのかも知れませんね。

教科の指導と違い、計画書やプログラムがいかに綿密に組まれていても、それは「主催者側の感覚」なのがイベントなのです。

昭和の先生たちは「主体者」としての「子どもたちのモチベーション」と「見る側の親たちの思い」に共感する先生の思いがないと「学校行事」での「感動」は生まれないと経験則で考えてきました。

先生の指導スキルではなく、古くさい精神論的な「思い」重視論ですね。
子どもがどんな思いで、「見守ってくれる人に何かを伝えようとする姿」を示してくれるのが「学校行事」で、単なるイベントではないという「刷り込まれた意識」があるのです。

所詮、親たちは自分のこどもの姿しか見てないし、それが親として当たり前だと考えていたのでしょうね。じゃ、今の親はどうなのか、自分の子どもで判断するしかないので見てました。

母となった我が子が孫の姿をどのように見るのかも楽しみでした。

フェスで音楽を楽しむ感覚で、こどもの演技を見るのか、「母」として我が子を見るのか、それが知りたかったのです。

子どもが「見に来る誰か」のために、一生懸命努力した姿を見せる、それだけで「誰か」は感動し、満足すると考えてきました。

往々にして、先生たちは「できばえ」や「ビジュアル」などの「技」や全体を動かすというスキルや観客にどのように見せるかという演出力にこだわるという傾向があるように感じることがあったのですが、「親」までそんな評価をするなら、それは間違いだと言わなくてはと思う祖父母の心配は、娘の涙でかききえました。

親ばかな親は周りを気にせず泣くのです。

昔、指揮台の上で「先生」として演技をみた時、「そんな親たちの思いがお前にはあるか」と昭和の時代にはイベントだけが生きがいの「体育会系」と呼ばれる先輩が言った言葉をふっと懐かしく思い出しました。

娘は一生懸命、演技に取り組む姿を見ていると、六年生になるまでの子育てのことがフィードバックしてきたそうです。

たとえそれが、「去年と同じ選曲」のほんの少し振り付けと衣装が変わっていただけの演目であっても、「小学校最後の運動会」に取り組む姿は親たちやじいさんばあさんに「感動」を生むものだということなのだと思います。

帰りの新幹線で、缶ビールを飲みながら思ったことは、
徒競走がなくなり、集団演技と集団競技だけの午前だけで終わるプログラムは、時間短縮で「先生の負担軽減」のためには仕方のないことだと思うけど、「全員リレー」がなく「綱引き」なのは❓️これは昭和のノスタルジーかな。

徒競走も学習として位置づけるなら今度は「記録会」が必要になるはず。
単に廃止するだけではなく、きちんとした根拠がなくては、体力テストという報告のための時間は「健康診断」と同じ扱いにする必要があるし、体育の時間は集団ゲームの時間で終わり「体力(走投跳)」の向上はスポーツジムに任せることにならないかという危惧が生まれた。教科の専門性を考える時、「体育」も「算数」も同じく「教科学習」ととらえるのが小学校で、単一の「教科」としてとらえるのが中学校だという違いを理解してる大学の先生や政治家さんは意外と少ないかも。だから小学校の先生に魅力がなくなったのかな。

とにかく金がないと子育てが難しいのは何も学力だけではないですね。

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今日も29℃ですか

2024-10-02 12:59:13 | Weblog

昼から大阪で打ち合わせがあるので、少し早めにでて、昼飯を大正で食べることにした。

京橋までの電車の中、外国からのお客様が大きな荷物を抱えて、優先席に。隣は勉強がお仕事で、参考書にかじりつく若い学生さん、優先席を作るより、インバウンド車両やお勉強部屋車両が必要なのではないかな?



大正と言えば沖縄料理、沖縄まで行かなくても美味しい店が大正にはある。


初めて沖縄料理を、食べたのはなぜか神戸のガード下、その話を友人にしたら大正のガード下の店を教えてくれた。



久しぶりの沖縄そばとおにぎりの定食はおいしかった。やっぱりお茶はさんぴん茶、いまだにジャスミンティーとのちがいはわからない。



ルートピルがのめなかったのは少し残念、なんか輸入できないらしい?ドクターペッパー探そう。

ちんすこうを手土産に昼からの打ち合わせ、頑張ろう🎵
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コンピューターのアップデートですか。

2024-09-18 13:17:08 | Weblog
なんやらwin11にアップデートできないwin10のコンピュータが使えなくなる可能性がある、っていうからwin7からアップデートで何とかwin10まで使ってきた古いノートパソコン2台をlinux仕様に変更することにしました。



仕事用のデスクトップは幸いwin11なのでこちらはそのままで使えるみたいです。

2台とも64bitなので多分大丈夫だろうとおもいながら、外付けのDVDドライブを机の奥から探しだしてインストールデスクも作り、何とか導入することができました。

アカデミック版で廉価で購入できるのは「先生」やってる間だけですから、退職するとパソコンの更新も大変です。

必要経費も含めて先生の賃金上がるようですが、個人パソコンの公的資金での官費配布はないようですね。

昔は体操服や運動靴が互助組合から支給されてたこともありましたけどね。

Windowsを使い続けたいならMicrosoftのビジネススタイルがバージョンアップでの利用ですから仕方のないことですね。

多少の作業が必要ですがLinux mintというosを入れれば使い続けられます。


オープンソースのOSがあること、小学校の先生は意外と知らないかもしれません。

先生にかぎらず、「高いものほど良いもの」で「チープなもの、ましてや無料なんて怪しい」という感覚がありますよね。

確かにサポートはなく自己責任の世界だけど、無料のオープンソースといっても「使えるスキルさえあれば無料でバソコンを動かすこと」も可能なのです。

セキュリティもそれなりにしっかりしているし、「使いたいこと」さえはっきりしていたらオープンソースでもいいと思います。(Adobe 系のソフトを使う人は注意したほうがいいけど、あんまりそんな専門的なソフトを使わないですよね。)

今ではワードやExcelの簡単なものならコンバートできるソフトも使えますし、昔と比べればビジュアルも随分進化してます。


英語のダウンロードサイトですが日本語のところもあるので探して下さいね。

定年退職したら時間は有り余るので、もう一度勉強しなおそうかと考えていました。

最近見るようになったYouTubeでは、いろんなことが見えますが、今回は少し厄介というか筐体(バソコン本体)のスペックだけでなくMicrosoftIDの縛りもあるようなのでwin10でしか動かないちょいふるのバソコンが「既製品のままだと」買い換えを迫られるって感じですね。

経験からですが、古いウィンドウズを使い続けるとネットに繋ぐとヤバくなることが心配なのと、、ネットからはずした状態で使っても、サポート期限切れのあと、正規品で購入したのに、一定期間ネットからはずしておくと、表示に「このwindowsのコピーは正規品ではありません」という表記がされることがなんかいやですね。

IT企業の都合で賞味期限が切られて使えるコンピューターをゴミ扱いですね。まっ営利企業だからね。

フードロスはSDGsで光があたったけど、PCロスはリサイクルしてレアメタルだけを取り出したら終わりっていう消耗品なんだよね。

学校ではwindowsの利用5に対してApple osは1といわれてますが、徐々にその比率が変化すると、文書共有が難しくなりますね。

若いあなたたちが定年になるころ、Apple がMicrosoftより使われているなら、あなたたちがワードで残した教育資産は誰かがコンバートしないと使えなくなる、なんてこともありますね。

僕たちが一太郎や桐で残したものは、もうバージョンアップされたサーバーからは消されているはずですよね。
じゃあ、どうするか、ですね。

①個人バソコンが不安ならYouTubeでサポート終了について調べて、どうするかを決めておくことがいいですよ。

せめて最新のアップデートをしておくことですが、多分、今駆け込みで時間がかかるしその間仕事はできないと思います。


来月までに①50000円位の費用であと3年から5年のwin10の延長利用権(サポートなし)を買うのか、まだ調べてないけどESUサービスの個人価格は安くなるという情報もあるけど?

②高い新品パソコンを買う

先生の月収増えますよね。

③当たり外れがある中古を探す

④ちょっとややこしいLinuxに乗り換える
ですかね。

そのまま使うはNGの選択ですからね。

③辺りが無難だと思いますが、懐具合とスキルに見合ったものを選ばないと難しいですね。

万一④なら
僕がフルインストールで導入する上で参考になった動画はここです。


還暦過ぎた老人でも導入できました。いい時代ですね。

もしもLinux仕様にしてみようと思う方は自己責任でやって下さいね。情報リテラシーですかね。

日本橋ツアーするならガイドぐらいはできますよ。
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優先座席の景色

2024-09-16 11:29:27 | Weblog
優先痤席に座った。

70だからもういいだろうと。

少し違う景色が見えた。

ベビーカーに赤ん坊をのせた若いお母さん。

急に大声で泣き出した赤ん坊にオロオロ。

オムツでも代えてほしいのかなと考えていたじっさまの横で年少さんらしき子ともが自分の母親に

「赤ちゃんはガタガタの音とビュービューの音がこわいんだ」

この子は詩人になれる。
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新学期始まりましたね

2024-09-14 13:10:00 | Weblog
最近、若い先生たちと話し合う機会がありました。

若いといってももう10年は先生やってるから、学年主任や早い先生なら教務主任や管理職試験も受けているようですね。

意地悪く、促成栽培とは言いませんが、定年が65とか70とか言われているのに後の先生生活長いのに、現場経験が10年で管理職や行政職員を経験すると、後からしんどくならないか少し心配してます。

小学校に限らず、現場経験はとても大事なことに思うのですが、その全てを経験するだけで時間がかかりますよね。

小学校なら担任だけで6学年+特支(3分野)の7つ

専科と呼ばれる教科指導任外や加配とよばれる生徒指導(教育相談)が主な仕事になる担任外の仕事これらを2つ、

他に管理職になるための準備機関と呼ばれる教務主任や指導教諭なんかを経験しても、それだけで10年かかりますよね

だから、ポジションが一定された球技のように「教科専門制」だけを推し進めることは、何か腑に落ちないのです。

幸いなことに、最短ですべての学年を一年間経験するということができたとしても、その学年の経験年数がもたらす、こどもの学齢にあった基本認識や距離感、全教科の指導スキルの獲得や行事内容の掌握ができるとは考えにくいのです。

昔よく行われていた「交換授業」例えば図工体育と音楽家庭の授業交換と専科は異質のことなのに同じように議論されてるふしがありますね。

学校の年齢構成は学校によって違うから、高学年しか持ったことがない先生や低学年しか持ったことがない先生も沢山おられるかもしれません。

その先生が管理職や主任に求めるものが、「教科指導の専門性」なら、それは構造的に無理な話になってしまうわけです。

担任、担任外で成立していた「学校組織」が違うシステムとして専科教員を受け入れるというシステムの再構築が必要になるということを行わずに、制度と教員配置だけを受け入れると学校は混乱しないかなと思ってます。

経験値でなんの根拠もない話ですが、「何年も同じ学年を持った経験のある先生」が教科専門学部を卒業したての先生より、子どもにとって魅力的な授業ができるはずなのです。

ただそれが、学力テストの結果だけに反映しているかどうかという基準で判断している誰かが学校の中や外に
いることが問題なのです。

極端な発想かも知れませんが、中学校でクラブ活動の顧問の持ち手がなく、スポーツグラフの「専門家」にアウトソーシングするという方向(教員の間違った愛の無知意識の蔓延防止という側面は確かにありますが)が決まった時、
なら、小学校では「かとう(あえて漢字にしません)な競争意識を醸成しないために」、学力テスト対策の専門家である学習塾に「学力テストの素点向上」をアウトソーシングすればいいと思ったのです(いつも言ってますが、小学校全科の免許における専門性の担保は大学入試程度のものですし、それ以外の複数免許を持っているとしたら国語か社会、最近なら英語ですかね。)が、一部の放課後デーサービスでの取り組みにしかなってないように思いす。

理科や算数の専門性がある小学校希望の学生が必ずしも「小学校教員」の適性を持っているかは未知数ですね。

「小学校教員」の適性が合理的思考だけでいいなら、特別支援教育における「合理的判断」を担える先生ももっとふえるはずなのですが。

なんか小学校の先生に何を求めてるのっていうことの曖昧さが、先生たちに負担感じや不安感を植えつけて、その事で採用試験の倍率が低くなったとしても仕方のないように思います。

「学力重視」のスローガンが独り歩きして、「人間形成」や「人間関係力」といった俯瞰的な視点で人間と人間が繋がる「小学校」がなくなり「高校受験」「大学全入」といった線路の始発駅としての役割に魅力を感じないだけのように思うのですが杞憂ですよね。

愚痴はさておき、特別支援教育においても保護者だけではなく教員もその指導の難しさは感じているようです。

介護もそうですが、福利厚生や賃金だけては、長続きしない原因のひとつが先生たちの「生きがい」との向き合いかたのように思います。

子どもたちの変化や向上に共によろこび、その中でリスペクトしあえる「学校」というパッケージがないのなら、魅力的な仕事ではないはずです。

もはや「知識を教えるだけの場」としての小学校はlCTの発展とともに遺物になりつつあるようにも思います。

特に子どもたちが日常の生活のなかで「困った感」のあることについて、教師が「教える」だけでは「身に付けられていないこと」があります。

家庭ではそれぞれの家庭にある「しつけ」という拘束意識が二分化して、子どもたちに大きな影響を与えています。

迷いがある親たちは、教員に助言を求めてきますが、対応できずに困る真面目な先生もふえているようです。

学力素点の向上方法しか学んで来なかった先生が子どもたちの人間関係に悩む親たちのサポートができなくなった時代だから、専門家である「心理学」の先生や「臨床心理学」を極めた医者カウンセラーにSOSなのだと思います。

確かに「しなさい」「してはいけません」という教条的指導と規制だけでの教師の指導では解決できないのは「大人ですら人間関係に悩んでいること」を子どもにもが目の当たりにしているという現実があるからかもしれません。

私の話すことを無条件で「受け入れなさい」はあきらめに通ずる場合があり、自分に向かうベクトルは「自己有用感」をなくしていく場合もあります。

いつしか「人に関わることへの拒否感や距離感」があることへの「違和感」がなくなり、そうしたことへ子どもたちのストレスやストレス耐性を考えた時、問いを作ることすらままならなくなっているのではと考えることもあります。

そうしたことの多くは「他者との関係スキル」や「集団(社会)の中での生き方」での困り感であり、「他者がどのように感じているか、見ているかということに関しての感性」とも関わりのあることだと考えています。

これから作るコンテンツがこうしたことの一助になればいいのですが。

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夏休みですね。

2024-07-17 14:12:23 | Weblog
応援している先生たちが作ったサークルの告知を、よくSNSで見ることがありますね。

この間も化石が好きな先生たちで勝山市の化石の森で研修をしようとしているサークルの告知がありました。




若い先生は前向きで、少し安心しました。

そろそろ夏休みですね。

成績処理が終わったら、後は夏休みの予定ですよね。

まだ、申請用紙や報告用紙、届とか、更には校内研修の資料づくりや分掌の仕事があってこんなはずじやなかったって思ってるかもしれませんね。

校務のICT化で事務処理もできるようになったし、夏休みはリフレッシュできる時代になりましたか。

自主的な研修に関しての認知や承認が公立学校の場合、まだまだ制度として遅れている部分があるようです。

任意団体やサークルでの研修は教育公務員の研修として認められない場合は、自主的な教材研究という形でしか認められないのが現状ですね。


個々が「個人として自己のスキルアップ」をする研修は、学校に申告する必要がありますが、その研修申告に対して「支援(許可の判断、公務としての認定)」は「各学校長」の判断に委ねられているはずですね。

夏休みに○○届を沢山ださなければならないのは、そうした公務としての認証をうけるためのシステムになっているからです。

折角ネットで手に入れた「各地の夏休み中の先生のための研修会、告知情報」も、その主催団体の信頼性や各校におけるあなたたち「個人への研修の必要性(学校経営の方向性)」がマッチしないと「個人でどうぞ」ということになりますよね。一般企業なら当たり前の感覚なのかもしれませんね。

やって欲しい仕事が明確になり、そのスキルが必要なので、そのスキルを向上させることは企業にとってプラスになり、個人のキャリアとしても認められるというのが社会の常識らしいですから。

当然、学校が必要な研修と認めたら、それに付随するすべての公務としての支援(旅費、保険、出勤扱を含む)をしなくてはならないからなのです。

でも、こうした手続きについての丁寧な教職員への説明は余りなされることがないのです。こんな「事務処理事項」の「なぜ必要なのか」の説明は新任の管理職に取っては邪魔くさいことだし、そのうちわかることだから、いつまでに何を提出するかということを伝えるだけで精一杯なのだろうと思います。

期限までに提出すべき報告や書類のやまがあるからです。
校務処理システムは校務処理が必要だという前提で行われた見直しですが、そのためのに軽減された時間で新たな校務処理事項を増やしたのなら本末転倒ですよね。

研修のことに話をもどします。大学の先生や高校、中学の専科と呼ばれる専門性を持つと思われている先生がかの研修の場合は比較的「公務」として認めやすいのですが、予算が少ない小学校のの先生は「私個人のスキルアップ」をするために夏休みに大学で研修したい」と情報を手にいれても、「個人の研修」として扱われる場合が多いのです。
(教材研究は職務内容に位置付けられた別のもので給与に含まれる公務として扱われる場合が多いのです。)

旅行を教材研究だと主張した昭和の先生たちもいましたが、「学校長判断」と「国のシステム制度」との違いがわからずにいつの間にか、不満だけを持ち「政党の政策」を変えればいいと考えて諦めたのかもしれませんし、法律書を読むなんてことは高校や中学の社会の先生の「専門事項」だと思っていたのかもしれません。法律というものに関しての意識が低かったのかも、ですね。この辺りが、子どもたちの「義務と権利」の理解不足に、結び付いていたのならひとつの課題になりますね。

校長が変われば学校が変わるキャンペーンは前の政権交代の時のものだったかな。民間校長による学校への企業マネジメントシステムの導入でしたかね。社会の常識を学校の社会の常識にするため企業マネージメントの考え方を導入しようとした試みだったようですが、政権が変わっても学校は変わるものではなかったことを僕たちは経験しています。

時代が変わりあの頃の学校の常識が当たり前で、「世間の常識」が「非常識」だったのかもと思うことすら時々あります。

子どもは「票」を持ってませんが「親」や「先生」は「票」を持ってますからそこから考えるのが「政治」の王道なのは理解してますが、そうした人たちへの「利益誘導」が果たして「子どもたちに」有益だったのか、と考えることがあります。

教育の主体は「子ども」なのですが残念ながら「票」は、持ってないし、「権利や義務」も理解できないこともあります。

政権が「教師や学者さん」や「親や親だった人」だけではなく、国の未来を担うこどもの教育にきちんと向きあわなければ「右でも左でも」教師のサービス業化は進むのでしょうね。

明治維新と共に広がった学制から70余年前まで旧師範大学や旧帝大は思想とは関係なくシステマチックに「国の施策」を進めることを最重要視する傾向があり、「教育学」の理想や理念を実現できるのは「金持ちの家庭教師」だけだと思い込んでいた弊害がまだ生きてあるのかもしれませんね。

なにも考えてないで毎日過ごす先生も増えているのかもしれませんが。

小学校の教員資格「小学校全科」をなくし中学高校と同じ教科専門的な「教科」にしないで、校内の教員資源の運用だけで「教科担任制」を推し進めるなら、まもなく小学校の役割は終わると思います。免許制度まで考えないで、単に現場対応でなんとかなると考えるのは昭和の「踊る大捜査線」みたいな世界観なのでしょうか。

システム的には幼稚園を上の年令まで拡大して小学校高学年を中学校に拡大するだけのことですから、小学校を、解体すれば可能だと思っています。

教科担任制度の中学校前期とクラス担任制度の幼稚園後期の学制を作ればいいという考え方ですね。

それをやるために「学校現場での運用実験」をしているならはやくやめた方がいいと思うのですが。

システムの疲労に目を向けず小学校教師の資質不足が叫ばれるわりには、個々の先生の研修へのモチベーションという課題に向き合う学者さんはあまりいないようですね。

教育工学の限界というか大学の先生で小学校現場のことあまり知ってる方が少なかったからだとはおもいますが、現場で優秀になるであろう方々が研究の場に行きすぎたら今度は現場が困りますね。

とにかく2倍なのが問題なのだそうですから。

そろそろ、子どもたちを型にはめようとする教育システムの疲労破壊が先生たちに、特に小学校の先生たちのなかで始まっているように思えてなりません。

この間、芦原温泉に行ったついで化石の森に行った来ました。孫が恐竜が好きなので写真撮って自慢するためと恐竜クッキーを孫たちに振る舞うためです。





帰りにしっかりお魚もゲットしました。


難しいことより、孫たちが楽しく学校に行ってくれればじっさまたちは安心します。


学校のことにどんなふうに話してくれるのか楽しみです。

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コリアンタウンの散歩

2024-07-10 08:02:48 | Weblog
今日は桃谷から鶴橋まで散歩。

商店街を通り抜けて少し歩けばコリアンタウンに行けるはず、と遠い記憶をよみがえらせた。
アジアの料理店が多くいろんな国の料理が食べられそうな商店街、ここにも海外からのお客さん、でも買うのは和菓子、納得する。

商店街を、抜けると大通りを左に確か市場があったはず、でもその前に旨いお好み焼き屋さんが。
あった❗まだ豚玉550円






ちゃんと案内板もできてる。
珍しいキムチがたくさん売ってあるので、帰りの京阪電車のなかでじろじろみられるのも気にせず旨いキムチを食べることを優先していた頃を思い出した。







最近はいろいろな店が出来ているようだけど、昔からの店もあったし、梨や桃のジュースも、激辛のインスタントラーメンも買えたし満足満足。

裏道を通って鶴橋のガードしたに到着。ちょっと長い距離にかんじたのはとしのせいなんだろうな。


賑やかになった鶴橋の商店街から近鉄の駅の横を抜けて帰路に。一駅の旅でした。







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ローマ字表記って難しいですよね。

2024-06-22 16:15:44 | Weblog


河原町塩小路から八条口に向かう国鉄の高架、いわゆる「たかばし」にある新福菜館はネギ入れ放題で有名だったけど、京橋の店では100円のトッピングになったようだ。なんだか寂しくなった。

1号線にある大好きなラーメン屋さん横綱ではまだ、ネギ入れ放題は無料。ほっとする。


この店のいつもはあまり気がつかなかったのですが漢字表記からローマ字表記になったようです。

でも、
こんな表記も。インバウンド対策かな。
ヘボン式のローマ字って覚えてたけど、ヘボンてヘップバーンて読めるんだよね。耳で聞いた言葉を文字にするのは、今も昔も変わらず難しいことなんだろうな。
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出町柳辺りの散歩

2024-06-21 14:58:21 | Weblog
久しぶりに京都へ。

大学時代に良く通った昔懐かしい荒神口にある法務局に行った帰りにふっと、卵サンドが食べたくなって出町のあの店に行った。

今どき珍しくもなくなった水だし珈琲のセットもそのまま、味はブレンドでお任せ、ありきたりのお店だけど、何故かほっとする。
ならびにある酒屋を覗くと、手書きのチラシ、

無濾過四段仕込みの文字に
今晩の晩酌が、決定

外から見ただけならここが酒屋だとは知らずに通りすぎる人もいそうだけと、中で立ち飲みできる貴重なお店。
結構このあたりは面白い店がある。

あてを探しに商店街に、いまだにアーケードにかかれた文字が読めないから出町の商店街。二葉の塩大福が、有名だけど、その横の短いアーケードが面白い。

鯖寿司がうまい店




映画館に古本屋。昔の京都なんだよね。
うまい蕎麦屋もある。

そしてカラフルな果物屋さん

日本酒にとっても良くあう湯葉のお店を教えてもらったが、そこは教えないでおきます。








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意見を貫く

2024-06-12 09:41:09 | Weblog

自分の意見を貫くのと、自分の意見を押し通すのとでは少しイメージが違いますよね。

かたや信念の人、かたや強引な人、同じことを話していても受け手によって作られるイメージもありますね。とくに反対の意見を持っている人には・・。

僕なんかわがままで強引に自分の思い道理にしようとするタイプですから「ミニ小沢」とカゲでいわれているらしいです。

議論は好きですが、女性と議論する場合、感情が入りすぎるのには自分でも閉口するときがあります。

 私は腹が立って、「反省会は当日しないと決めたでしょう!」といいましたが、心の中では思っていても、言葉に出して同調してくれる人はだれもいませんというあなたの意見には考えさせられることがたくさんあります。

腹が立ったときにそのまま自分の思いをぶつけるという文化は日本にはないのだそうです。腹が煮えくりかえっていても笑顔でいることが美徳とされ、腹芸のできる人を賢人と呼ぶのが日本の風習です。僕にはできませんが・・。

知らない間に大人ってだんだん強くなっていく・・・(笑)

強くなりたい、ならねばならない。と思いすぎないことも大切なのかも・・。

柔らかな草は風になびきますが、堅くなった木は強い風で折れてしまいます。

TVの番組の中である夫人が、日本人の会議は権力のある人に皆流れるように同調して、自分の意見を言える人がいないというようなことを言っていましたが、全くその通りだなと思いました。はっきり物を言うおもしろい人ですね。でも忖度される立ち位置の人なのですよね。

自分の意見があっていえないのなら、まだまだ日本は捨てたものではないのです。

自分の意見すら持たない人が増えているような気がします。賛否の基準が発言者の権威に左右されていることもあるし、単に好悪の感情の問題にすり替えられていることもありますよね。

優しい気遣いと思いやりが和の心ですから・・。

否定的な意見はいつも堂々と簡単にいってるけど、人のために建設的で前向きな意見を信念を持っていえる人は、本当に少ないですね。

たしか日本の野球とアメリカのベースボールを比較した人がチームにおける意見の出し方の違いが文化の違いになるというようなことを行ってましたよ。ベネディクトさんの菊と刀だったかな。

議論をするときのお互いの信頼感が重要ですね。信頼感のないもの同士の議論は不毛で悲しい茶番劇ですよ。

「保護者と議論ができるだけの信頼関係を作ってください」このごろ僕が先生たちに説教している言葉です。

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