おっさん先生と愉快な仲間のぶろぐ

先生って楽しい仕事だと思い続けることができたしあわせな爺っさまのつぶやきです。

新学期始まりましたね

2024-09-14 13:10:00 | Weblog
最近、若い先生たちと話し合う機会がありました。

若いといってももう10年は先生やってるから、学年主任や早い先生なら教務主任や管理職試験も受けているようですね。

意地悪く、促成栽培とは言いませんが、定年が65とか70とか言われているのに後の先生生活長いのに、現場経験が10年で管理職や行政職員を経験すると、後からしんどくならないか少し心配してます。

小学校に限らず、現場経験はとても大事なことに思うのですが、その全てを経験するだけで時間がかかりますよね。

小学校なら担任だけで6学年+特支(3分野)の7つ

専科と呼ばれる教科指導任外や加配とよばれる生徒指導(教育相談)が主な仕事になる担任外の仕事これらを2つ、

他に管理職になるための準備機関と呼ばれる教務主任や指導教諭なんかを経験しても、それだけで10年かかりますよね

だから、ポジションが一定された球技のように「教科専門制」だけを推し進めることは、何か腑に落ちないのです。

幸いなことに、最短ですべての学年を一年間経験するということができたとしても、その学年の経験年数がもたらす、こどもの学齢にあった基本認識や距離感、全教科の指導スキルの獲得や行事内容の掌握ができるとは考えにくいのです。

昔よく行われていた「交換授業」例えば図工体育と音楽家庭の授業交換と専科は異質のことなのに同じように議論されてるふしがありますね。

学校の年齢構成は学校によって違うから、高学年しか持ったことがない先生や低学年しか持ったことがない先生も沢山おられるかもしれません。

その先生が管理職や主任に求めるものが、「教科指導の専門性」なら、それは構造的に無理な話になってしまうわけです。

担任、担任外で成立していた「学校組織」が違うシステムとして専科教員を受け入れるというシステムの再構築が必要になるということを行わずに、制度と教員配置だけを受け入れると学校は混乱しないかなと思ってます。

経験値でなんの根拠もない話ですが、「何年も同じ学年を持った経験のある先生」が教科専門学部を卒業したての先生より、子どもにとって魅力的な授業ができるはずなのです。

ただそれが、学力テストの結果だけに反映しているかどうかという基準で判断している誰かが学校の中や外に
いることが問題なのです。

極端な発想かも知れませんが、中学校でクラブ活動の顧問の持ち手がなく、スポーツグラフの「専門家」にアウトソーシングするという方向(教員の間違った愛の無知意識の蔓延防止という側面は確かにありますが)が決まった時、
なら、小学校では「かとう(あえて漢字にしません)な競争意識を醸成しないために」、学力テスト対策の専門家である学習塾に「学力テストの素点向上」をアウトソーシングすればいいと思ったのです(いつも言ってますが、小学校全科の免許における専門性の担保は大学入試程度のものですし、それ以外の複数免許を持っているとしたら国語か社会、最近なら英語ですかね。)が、一部の放課後デーサービスでの取り組みにしかなってないように思いす。

理科や算数の専門性がある小学校希望の学生が必ずしも「小学校教員」の適性を持っているかは未知数ですね。

「小学校教員」の適性が合理的思考だけでいいなら、特別支援教育における「合理的判断」を担える先生ももっとふえるはずなのですが。

なんか小学校の先生に何を求めてるのっていうことの曖昧さが、先生たちに負担感じや不安感を植えつけて、その事で採用試験の倍率が低くなったとしても仕方のないように思います。

「学力重視」のスローガンが独り歩きして、「人間形成」や「人間関係力」といった俯瞰的な視点で人間と人間が繋がる「小学校」がなくなり「高校受験」「大学全入」といった線路の始発駅としての役割に魅力を感じないだけのように思うのですが杞憂ですよね。

愚痴はさておき、特別支援教育においても保護者だけではなく教員もその指導の難しさは感じているようです。

介護もそうですが、福利厚生や賃金だけては、長続きしない原因のひとつが先生たちの「生きがい」との向き合いかたのように思います。

子どもたちの変化や向上に共によろこび、その中でリスペクトしあえる「学校」というパッケージがないのなら、魅力的な仕事ではないはずです。

もはや「知識を教えるだけの場」としての小学校はlCTの発展とともに遺物になりつつあるようにも思います。

特に子どもたちが日常の生活のなかで「困った感」のあることについて、教師が「教える」だけでは「身に付けられていないこと」があります。

家庭ではそれぞれの家庭にある「しつけ」という拘束意識が二分化して、子どもたちに大きな影響を与えています。

迷いがある親たちは、教員に助言を求めてきますが、対応できずに困る真面目な先生もふえているようです。

学力素点の向上方法しか学んで来なかった先生が子どもたちの人間関係に悩む親たちのサポートができなくなった時代だから、専門家である「心理学」の先生や「臨床心理学」を極めた医者カウンセラーにSOSなのだと思います。

確かに「しなさい」「してはいけません」という教条的指導と規制だけでの教師の指導では解決できないのは「大人ですら人間関係に悩んでいること」を子どもにもが目の当たりにしているという現実があるからかもしれません。

私の話すことを無条件で「受け入れなさい」はあきらめに通ずる場合があり、自分に向かうベクトルは「自己有用感」をなくしていく場合もあります。

いつしか「人に関わることへの拒否感や距離感」があることへの「違和感」がなくなり、そうしたことへ子どもたちのストレスやストレス耐性を考えた時、問いを作ることすらままならなくなっているのではと考えることもあります。

そうしたことの多くは「他者との関係スキル」や「集団(社会)の中での生き方」での困り感であり、「他者がどのように感じているか、見ているかということに関しての感性」とも関わりのあることだと考えています。

これから作るコンテンツがこうしたことの一助になればいいのですが。

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夏休みですね。

2024-07-17 14:12:23 | Weblog
応援している先生たちが作ったサークルの告知を、よくSNSで見ることがありますね。

この間も化石が好きな先生たちで勝山市の化石の森で研修をしようとしているサークルの告知がありました。




若い先生は前向きで、少し安心しました。

そろそろ夏休みですね。

成績処理が終わったら、後は夏休みの予定ですよね。

まだ、申請用紙や報告用紙、届とか、更には校内研修の資料づくりや分掌の仕事があってこんなはずじやなかったって思ってるかもしれませんね。

校務のICT化で事務処理もできるようになったし、夏休みはリフレッシュできる時代になりましたか。

自主的な研修に関しての認知や承認が公立学校の場合、まだまだ制度として遅れている部分があるようです。

任意団体やサークルでの研修は教育公務員の研修として認められない場合は、自主的な教材研究という形でしか認められないのが現状ですね。


個々が「個人として自己のスキルアップ」をする研修は、学校に申告する必要がありますが、その研修申告に対して「支援(許可の判断、公務としての認定)」は「各学校長」の判断に委ねられているはずですね。

夏休みに○○届を沢山ださなければならないのは、そうした公務としての認証をうけるためのシステムになっているからです。

折角ネットで手に入れた「各地の夏休み中の先生のための研修会、告知情報」も、その主催団体の信頼性や各校におけるあなたたち「個人への研修の必要性(学校経営の方向性)」がマッチしないと「個人でどうぞ」ということになりますよね。一般企業なら当たり前の感覚なのかもしれませんね。

やって欲しい仕事が明確になり、そのスキルが必要なので、そのスキルを向上させることは企業にとってプラスになり、個人のキャリアとしても認められるというのが社会の常識らしいですから。

当然、学校が必要な研修と認めたら、それに付随するすべての公務としての支援(旅費、保険、出勤扱を含む)をしなくてはならないからなのです。

でも、こうした手続きについての丁寧な教職員への説明は余りなされることがないのです。こんな「事務処理事項」の「なぜ必要なのか」の説明は新任の管理職に取っては邪魔くさいことだし、そのうちわかることだから、いつまでに何を提出するかということを伝えるだけで精一杯なのだろうと思います。

期限までに提出すべき報告や書類のやまがあるからです。
校務処理システムは校務処理が必要だという前提で行われた見直しですが、そのためのに軽減された時間で新たな校務処理事項を増やしたのなら本末転倒ですよね。

研修のことに話をもどします。大学の先生や高校、中学の専科と呼ばれる専門性を持つと思われている先生がかの研修の場合は比較的「公務」として認めやすいのですが、予算が少ない小学校のの先生は「私個人のスキルアップ」をするために夏休みに大学で研修したい」と情報を手にいれても、「個人の研修」として扱われる場合が多いのです。
(教材研究は職務内容に位置付けられた別のもので給与に含まれる公務として扱われる場合が多いのです。)

旅行を教材研究だと主張した昭和の先生たちもいましたが、「学校長判断」と「国のシステム制度」との違いがわからずにいつの間にか、不満だけを持ち「政党の政策」を変えればいいと考えて諦めたのかもしれませんし、法律書を読むなんてことは高校や中学の社会の先生の「専門事項」だと思っていたのかもしれません。法律というものに関しての意識が低かったのかも、ですね。この辺りが、子どもたちの「義務と権利」の理解不足に、結び付いていたのならひとつの課題になりますね。

校長が変われば学校が変わるキャンペーンは前の政権交代の時のものだったかな。民間校長による学校への企業マネジメントシステムの導入でしたかね。社会の常識を学校の社会の常識にするため企業マネージメントの考え方を導入しようとした試みだったようですが、政権が変わっても学校は変わるものではなかったことを僕たちは経験しています。

時代が変わりあの頃の学校の常識が当たり前で、「世間の常識」が「非常識」だったのかもと思うことすら時々あります。

子どもは「票」を持ってませんが「親」や「先生」は「票」を持ってますからそこから考えるのが「政治」の王道なのは理解してますが、そうした人たちへの「利益誘導」が果たして「子どもたちに」有益だったのか、と考えることがあります。

教育の主体は「子ども」なのですが残念ながら「票」は、持ってないし、「権利や義務」も理解できないこともあります。

政権が「教師や学者さん」や「親や親だった人」だけではなく、国の未来を担うこどもの教育にきちんと向きあわなければ「右でも左でも」教師のサービス業化は進むのでしょうね。

明治維新と共に広がった学制から70余年前まで旧師範大学や旧帝大は思想とは関係なくシステマチックに「国の施策」を進めることを最重要視する傾向があり、「教育学」の理想や理念を実現できるのは「金持ちの家庭教師」だけだと思い込んでいた弊害がまだ生きてあるのかもしれませんね。

なにも考えてないで毎日過ごす先生も増えているのかもしれませんが。

小学校の教員資格「小学校全科」をなくし中学高校と同じ教科専門的な「教科」にしないで、校内の教員資源の運用だけで「教科担任制」を推し進めるなら、まもなく小学校の役割は終わると思います。免許制度まで考えないで、単に現場対応でなんとかなると考えるのは昭和の「踊る大捜査線」みたいな世界観なのでしょうか。

システム的には幼稚園を上の年令まで拡大して小学校高学年を中学校に拡大するだけのことですから、小学校を、解体すれば可能だと思っています。

教科担任制度の中学校前期とクラス担任制度の幼稚園後期の学制を作ればいいという考え方ですね。

それをやるために「学校現場での運用実験」をしているならはやくやめた方がいいと思うのですが。

システムの疲労に目を向けず小学校教師の資質不足が叫ばれるわりには、個々の先生の研修へのモチベーションという課題に向き合う学者さんはあまりいないようですね。

教育工学の限界というか大学の先生で小学校現場のことあまり知ってる方が少なかったからだとはおもいますが、現場で優秀になるであろう方々が研究の場に行きすぎたら今度は現場が困りますね。

とにかく2倍なのが問題なのだそうですから。

そろそろ、子どもたちを型にはめようとする教育システムの疲労破壊が先生たちに、特に小学校の先生たちのなかで始まっているように思えてなりません。

この間、芦原温泉に行ったついで化石の森に行った来ました。孫が恐竜が好きなので写真撮って自慢するためと恐竜クッキーを孫たちに振る舞うためです。





帰りにしっかりお魚もゲットしました。


難しいことより、孫たちが楽しく学校に行ってくれればじっさまたちは安心します。


学校のことにどんなふうに話してくれるのか楽しみです。

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コリアンタウンの散歩

2024-07-10 08:02:48 | Weblog
今日は桃谷から鶴橋まで散歩。

商店街を通り抜けて少し歩けばコリアンタウンに行けるはず、と遠い記憶をよみがえらせた。
アジアの料理店が多くいろんな国の料理が食べられそうな商店街、ここにも海外からのお客さん、でも買うのは和菓子、納得する。

商店街を、抜けると大通りを左に確か市場があったはず、でもその前に旨いお好み焼き屋さんが。
あった❗まだ豚玉550円






ちゃんと案内板もできてる。
珍しいキムチがたくさん売ってあるので、帰りの京阪電車のなかでじろじろみられるのも気にせず旨いキムチを食べることを優先していた頃を思い出した。







最近はいろいろな店が出来ているようだけど、昔からの店もあったし、梨や桃のジュースも、激辛のインスタントラーメンも買えたし満足満足。

裏道を通って鶴橋のガードしたに到着。ちょっと長い距離にかんじたのはとしのせいなんだろうな。


賑やかになった鶴橋の商店街から近鉄の駅の横を抜けて帰路に。一駅の旅でした。







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ローマ字表記って難しいですよね。

2024-06-22 16:15:44 | Weblog


河原町塩小路から八条口に向かう国鉄の高架、いわゆる「たかばし」にある新福菜館はネギ入れ放題で有名だったけど、京橋の店では100円のトッピングになったようだ。なんだか寂しくなった。

1号線にある大好きなラーメン屋さん横綱ではまだ、ネギ入れ放題は無料。ほっとする。


この店のいつもはあまり気がつかなかったのですが漢字表記からローマ字表記になったようです。

でも、
こんな表記も。インバウンド対策かな。
ヘボン式のローマ字って覚えてたけど、ヘボンてヘップバーンて読めるんだよね。耳で聞いた言葉を文字にするのは、今も昔も変わらず難しいことなんだろうな。
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出町柳辺りの散歩

2024-06-21 14:58:21 | Weblog
久しぶりに京都へ。

大学時代に良く通った昔懐かしい荒神口にある法務局に行った帰りにふっと、卵サンドが食べたくなって出町のあの店に行った。

今どき珍しくもなくなった水だし珈琲のセットもそのまま、味はブレンドでお任せ、ありきたりのお店だけど、何故かほっとする。
ならびにある酒屋を覗くと、手書きのチラシ、

無濾過四段仕込みの文字に
今晩の晩酌が、決定

外から見ただけならここが酒屋だとは知らずに通りすぎる人もいそうだけと、中で立ち飲みできる貴重なお店。
結構このあたりは面白い店がある。

あてを探しに商店街に、いまだにアーケードにかかれた文字が読めないから出町の商店街。二葉の塩大福が、有名だけど、その横の短いアーケードが面白い。

鯖寿司がうまい店




映画館に古本屋。昔の京都なんだよね。
うまい蕎麦屋もある。

そしてカラフルな果物屋さん

日本酒にとっても良くあう湯葉のお店を教えてもらったが、そこは教えないでおきます。








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意見を貫く

2024-06-12 09:41:09 | Weblog

自分の意見を貫くのと、自分の意見を押し通すのとでは少しイメージが違いますよね。

かたや信念の人、かたや強引な人、同じことを話していても受け手によって作られるイメージもありますね。とくに反対の意見を持っている人には・・。

僕なんかわがままで強引に自分の思い道理にしようとするタイプですから「ミニ小沢」とカゲでいわれているらしいです。

議論は好きですが、女性と議論する場合、感情が入りすぎるのには自分でも閉口するときがあります。

 私は腹が立って、「反省会は当日しないと決めたでしょう!」といいましたが、心の中では思っていても、言葉に出して同調してくれる人はだれもいませんというあなたの意見には考えさせられることがたくさんあります。

腹が立ったときにそのまま自分の思いをぶつけるという文化は日本にはないのだそうです。腹が煮えくりかえっていても笑顔でいることが美徳とされ、腹芸のできる人を賢人と呼ぶのが日本の風習です。僕にはできませんが・・。

知らない間に大人ってだんだん強くなっていく・・・(笑)

強くなりたい、ならねばならない。と思いすぎないことも大切なのかも・・。

柔らかな草は風になびきますが、堅くなった木は強い風で折れてしまいます。

TVの番組の中である夫人が、日本人の会議は権力のある人に皆流れるように同調して、自分の意見を言える人がいないというようなことを言っていましたが、全くその通りだなと思いました。はっきり物を言うおもしろい人ですね。でも忖度される立ち位置の人なのですよね。

自分の意見があっていえないのなら、まだまだ日本は捨てたものではないのです。

自分の意見すら持たない人が増えているような気がします。賛否の基準が発言者の権威に左右されていることもあるし、単に好悪の感情の問題にすり替えられていることもありますよね。

優しい気遣いと思いやりが和の心ですから・・。

否定的な意見はいつも堂々と簡単にいってるけど、人のために建設的で前向きな意見を信念を持っていえる人は、本当に少ないですね。

たしか日本の野球とアメリカのベースボールを比較した人がチームにおける意見の出し方の違いが文化の違いになるというようなことを行ってましたよ。ベネディクトさんの菊と刀だったかな。

議論をするときのお互いの信頼感が重要ですね。信頼感のないもの同士の議論は不毛で悲しい茶番劇ですよ。

「保護者と議論ができるだけの信頼関係を作ってください」このごろ僕が先生たちに説教している言葉です。

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こころの勉強

2024-05-14 17:16:55 | Weblog
 コロナの前に若い先生たちとソーシャルスキルトレーニングの本を出したいねとみんなでワイワイやっていたのですがコロナで終わったままにしていた原稿があったのでとりあえずnoteでアップしておきました。

 テキストベースのプリントがまだ学校現場では有効なようなので無料で手に入るテキスト教材を使ってのトレーニングを考えました。

 すでにテキストベースでのWeb教材はできていたのですが、Webの教材も算数や国語といった「勉強モノ」のニーズが高く、「こころ」や「なかま」といった領域については専門的な支援学校の先生や支援担先生が利用されているようでした。

 
本来は保護者のかたも一緒に考えることができるプリントとして開発しました。特にcommunicationが苦手な子どもたちが家庭で話し合うきっかけになればと考えました。

 でも、通常学級での利用は「教育相談」スキルの高い先生に限られているようでした。先生たちは忙しいのかもしれません。

 通常学級のクラスづくりなんかでも有効なので、今回、指導方法も少し付け加えてマニュアル化したものを無料公開しておきます。

 学級指導などで通常学級でも使えると思います。障がいのある子どもも、ない子どもも一緒に学級で学べる教材になればいいのですが。


「どうするの?」トレーニング|jiji

「どうするの?」トレーニング|jiji

はじめに  本稿では筆者らが公立小学校において実践してきた「情報モラル学習」や「シチズンシップ教育」、「特別支援教育」や「人権教育」という従来「教科外」という領...

note(ノート)


制作にご協力いただいた先生方ありがとうございました。
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幸せのおすそわけ

2024-05-02 21:22:05 | Weblog
今年はきっといいことが起こりますね。



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確かにやめる先生っているよな

2024-04-22 20:37:49 | Weblog

 でも、それって若者の特権なのじゃないですか。そろそろミドルで、「最近の・・は」なんてフレーズが身についてきたのかな笑

自治体退職者10年で2倍 目立つ若手、待遇不満も(共同通信)

 このような記事もよく見かけますね。このデータ、あなたならどう読み解きますか。グラフの読み取り、最近の小学校では必要とされているOECDのいうところの「読解力」ですよね。

 僕もあまり読解力はないので「感想だけ」伝えます。
データには教職員は入っていないはずですね。この記事を読んで、他者への奉仕(全体への奉仕者)や公共という意識はその事を担う根本的な価値を持っていないと「奉仕を受ける権利」「公共のサービス」という側面しか見えなくなり「全体へ奉仕や公共の仕事」を行うことに若者の「生きがいは」は生まれ来ないかもしれない、と思いました。

 教師という仕事も、やればやるだけ時間がかかる仕事で、時には時間を忘れて没頭しなくてはならないことがあります。ただそれが常態化するかどうかは個々の力量や立場も影響しているようにも思います。

  教師の世界にも働き方改革が適用され、時間外勤務の制限が大幅に厳しくなり、管理職は管理実績を上げるためかその遂行を機械的に指示することだってあるはずだと思います。

 さらに勤務時間というより残業のない時間での業務の遂行が求められていきます。国の「働き方改革」が「施策」ですからね。法律に基づいて勤務し賃金を得なくてはならないので、ひょっとしたら、一旦帰宅してから学校に戻り生徒指導事象がおこってから対応するという事態がおこるかも知れませんね。政策を政治家が作っているように思ってるようですが、実際は官僚が作っているから、どの政党が政権を取ってもそれほど変わらないのが日本の政府だということはあなたも知っている通りです。

 すでに「育児休暇(夫婦とも)や育児保障のための軽減措置」を「管理職やそれに準じる主任」にもとることができるずです。昭和の時代に40人の学級で先生していた僕なんかには想像もできないほどの条件緩和ですね。4%の残業代も10パーセントになるとか。昔と比べたらいけないですよね。

 でも、一般の会社なら「営業部長や営業課長」がそうしたことができるのでしょうかね。また「先生は優遇されている」といわれるのでしょうかね。僕はむしろ先生たちがバッシングされないかということの方を心配します。意外と保護者との乖離はこうしたお互いが「おかれた立場を理解できにくくしている関係」から始まることが多いということも知っておいてください。
 
 「教師の常識は世間の非常識」といわれたほど「世の中の人が置かれている状況」を理解できず自分の教師になるまでの経験と学歴だけで「リスペクト」されることが当然だと思い込んでいた先輩たちも見てきましたし、何も言わないけどみんなから「リスペクトされる先輩」もみてきました。

 今まで一人が10の仕事を受け負っていたのに8でいいといわれたら全部で40の仕事は4人ではなく5人必要になります。一人が10の仕事ができていても4人なのですが、もし一人が7の仕事しか請け負えない人がいた時どうしていたか、4人しかいなければ「誰か」が「黙って足りない分を受け持つ」という美学を持つ先輩が「昭和」の時代にはいました。「機械的な平等論」「一律の負担軽減論」ではなく、「やくざ映画でよく見たことのある美学」に近いものだったのかもしれません。 

 だから学校が人手不足になるのは当然のように思います。過重労働を防ぐための改革ですが、生きがいのないサービスを生み出すならやりがいのない仕事に公務員や教員がなるのは当然で、こうした議論を行わず3Kの議論にすり替えるマスコミの論調は少し気になります。

 公務員をすべて民営化するべきだという議論ならまだしも、ですね。公共サービスを担う人たちの生きがい改革、金で解決しようという方向より、やりがい改革を考える時なのではないでしょうか。

 組織のトップの意識改革をするのなら組織の構成員が納得できる方向を示さないでこれが「正しい」と押し付けることはもううんざりですよね。そんなことは今に始まったことではないようにも思います。学校という組織だけでもないし先生の世界だから許してはいけないことではなく、組織というものが持つ構造的な「必要悪」みたいなものだと思ってきました。伝える人との人間関係で構成する人たちの印象も変わります。

 アメリカではこうした印象操作まで大統領になるためには必要だといわれていますよね。アピールしたもの勝ちの世界は日本人には馴染まないものなのかも知れませんね。

 ひょっとしたらそんなことを考えない公共サービスロボットの業務にすり替えて人員整理をするための前段階かもしれません。たわごとです笑

 もっと金さえくれればもっと頑張れるという先生もいるけど「何で」「どれだけ」頑張るのかを親や子どもたちに示す「実力」があるらしいので、そうした方たちの「評価」こそ、むしろロボットの出番ですね。

 あなたは人間的魅力も実力もない管理職はいやだ声も出さずに負けていいのかな?

 そんな若い先生が増えていくと、生成AIを活用した都道府県の教職員の勤務評価ルールに基づき数値化された客観的教員の業務評価の導入がおこなわれるなんてこともあるかもしれません笑

 現場を知らない研究者の先生が「ロボットによる教員の客観的評価制度と賃金への反映」というテーマとして面白いの論文を書けば科研費がとれるかもしれません。発表しても相手にしなければいいのですが、もしそれが、真面目に教授を目指す大学の若手研究家や一流大学の看板を背負った教育学や教育工学、教育経営学という専門分野の高名な学者さんだったら?冷や汗が出ます。

 今から思えば、僕は幸いなことに、人情味溢れる(溢れすぎて、ときには、暑苦しかった😀)先輩と自立した後輩たちに恵まれたから、先生という仕事が楽しかったのかもしれませんね。まだ、こうして毒をはいてます。

 あなたの問いである、やりがいがいつから「生きがい」になったのかは分かりませんが、結局は人との出会いなのかもしれません。
 
 あなたの言うように古い「師弟観」なのだと思います🎵だけど、誰がをリスペクトできるって人生を明るくしてくれますよね。もしだれかがリスペクトしてくれたら、もっとワクワクしてしまいます。子どもたちがリスペクトしてくれる、親たちかリスペクトしてくれているということの実感はある意味で教師という仕事の醍醐味でもあり、一度知ってしまうとそうあり続ける原動力でもあったように思います。

 周りの先生なんかどうでも良かった😀だって周りの先生でもリスペクトできない人もたくさんいたから。管理職の先生なんか仕事で本音が話せないのは可哀想だとさえ思ってました。
 
 管理職でも先輩でも、「令和」だから質が落ちたのではなく、仕事への向き合い方は「昭和」も「令和」もそれほど変わらないと思いますよ。


 まして採用倍率は関係ないからね😃

 ただ声を出せばこちらがやられる可能性があったのが「昭和」、タブーを守り従順であることが求められた時代だったから「覚悟」(ある意味での仕事を辞める決意)と「力量」がないと声が出せなかっただけ。

現場の声が上に聞こえないのは昔も今も官公庁の仕来たりみたいなもの。織田さんが映画で「事件は現場でおこる」って叫ぶ場面カッコいいと思ってました。でも、こんなのやったら万年ヒラだなとも。

 今は令和、よほどのことをしない限り辞めさせられることもないしハラスメント委員会も機能しているかどうかは別にして、間違いなくあるし。
 
 なのに今もそうした悪習に怯える子羊たちが群れをなしているのかな😀

なんかちがうよね🎵したたかに😀ですよ。

「みんなが言っている」「なぜ自分だけ・・」

せつかく受かったのにやめるのはもったいないよねって話です。

 今よりも月給がよくって、今よりも福利厚生がよくって、どうしても「あなた」が必要(欲しい)といわれたのならそれもありだし、その仕事にやりがいや生きがいを感じられる自信があるのなら別に止める気はないよ。

 ただ、自分が「にげてる」とか「〇〇にまけた」「誰 誰が悪い」なんて理由で思ってるのはカッコ悪いと思ってるだけです、昭和ですから笑
 
「働き方は厚生労働省」の管轄、「教員の働き方」は文部科学省、なら「子どもたちが生きがいを感じる働き方」は「どこの省庁」が担っているのでしょうね。

 縦割り行政を批判する学校の先生も「縦割り集団の育成」や「教科担任制」という縦型構造だけに頼っていると、なんて考えるのは年寄りの冷や水ですね。

 縦も横も斜めもクロスして考えてきたから「先生」と呼んでもらってきたってこと忘れてるんだろうね。

少し前(R3)に調べた時、
教員の離職率は
20代: 約5.2%
30代: 約2.6%
40代: 約1.6%
50代: 約0.8%
でした。
公務員は
20代:5.5%
30代:4.1% 
40代:1.6% 
50代:1.3%
一般は 少し元の資料が違うので正確ではない(非正規雇用も含まれているかは不明確)けど
20~29歳 :6.3%
30~39歳 :0.7%

こうした数値からだけだと「若い時は離職する」ということは読み取れてもなぜ辞めるかはわかりにくい。
 
 「上司の圧がきつい」とか「同僚とうまくいっていない」とかじゃなくて「サービス業なんてやりたくない」という「他者と関わる仕事への違避感」がなんとなく見えている資料はあるのだけど。

 もし、そうなら、仕事の求めるものと「あなた」の求めるものとが違うわけだから、むしろ早い段階での転職が周りのためにも、あなたのためにもいいかもしれない。

 確かに教育の場では、職業への情熱と使命感という言葉もよく聞きます。採用試験で小論文でよく出てきますから、でも使命感も情熱も「ベクトル」を間違ったり見失ったりすると子どもにとっては厄介なものになるのです。

 性善説の親たちは子供たちの成長と学習に貢献したいという強い使命感を先生は必ず持っていると勘違いするし、学校で出会うかもしれない高倍率の就職氷河期を乗り越えた官僚的な管理職はこうした職業的意識をプロ意識と混同し強要したり期待したりすることだってあるのです。

 情熱は、教育現場での長期的なキャリアを支える一つですが「教師という職業」に幻滅と幻想を抱くとすぐに消えてしまいます。「リアル」を先生になる学生に教えられないで、採用試験の模範解答となる「理想の教師像」しか伝えられないなら「教員育成大学」なんて不必要で、インターンシップで学校現場に行った方がいい。そこで事前に「あなた」が耐えられるかどうか確かめるべきだったと思います。

 安定性と給与は間違いなく教師という職業の魅力の一つです。特に、公立学校の教員は給与や福利厚生が整っています。このことに気づいた若い先生は意外とやめないのです。
 年休がとりにくいとか、サポートが少ないとかいろいろ言いますが、ちゃっかり海外旅行ができるぐらいのことは、今でも可能なのです。
 たしかにバブルの時、同世代が信じられないほどの給与だったので羨望したことはありました。でも同世代の勤めた証券会社はバブル後倒産しましたが、日本国はまだ倒産していません。若干危なくなっているのは事実だとしても、まだあなたが定年退職になるまではあるはずです。

 仕事のサポートを無料で受けるシステムはあります。それを使うか使わないかも自分で判断できます。最低限度の教師であるためのノウハウは必要ですが、それがあったから採用試験には受かったはずです。
 倍率は時代の要請でたいしたことではありません。駅前の英会話教室に通う一般企業の会社員は「海外で働くために自費で通う人」もいれば「より高みの仕事を目指すためやスキルとして自費」で通います。
 「忙しいから」「代わりにクラスを持ってもらう人がいないから」「興味がない研修」「強制されるのは嫌い」と「自らの権利を義務と混同して放棄していると」当然子どもたちは「教育を受ける権利」を、親たちは「教育を受けさせる義務」を混同してしまうことだってありうるのです。
 世界にどれだけの子どもが「教育を受けたいのに受けられない」でいるのかが頭ではわかっていても理解できない先生になっていませんか。
 教員のプロフェッショナルな成長をサポートするプログラムやリソースを提供されていても自己成長を実現できないとしたら、その要因を探ることも必要ですよね

 学校という先生のコミュニティでは同僚のサポートが必ずしもあるとは限りません。大人ですから同僚と協力し、学校のコミュニティで支え合ってはいます。
 でもそうした良好な職場環境を作る努力をせずに、自らの要求だけを優先するなら、自立した大人として同僚は認めるでしょうか?
 あなたがリスペクトしない同僚はあなたを当然リスペクトしてくれません。
 立場や利害関係だけでの批判や不満は、相手にも不満感やストレスを生み出します。
 だからといって言いたいことも言わず、無視すれば「しかと」をいじめだと理解できない子どもたちと同じですよね。
 ベテランたちは「職員室のあなた」が「教室のあなた」であることを知っているのかもしれません、安らぐことが必要なので「子どもたちのいる教室」の方が安心できるのだろうと。

 子どもとの関係はいいに越したことはありませんが、あなたが与えたいと思っているサービスと子どもたちが学びたいと思っていことがすれ違うと教室は「沈黙の場」になります。
 優しい子どもたちはあなたの与える素晴らしい授業という時間に「沈黙」というマントを着て、その時間の過ぎることを待つことだってあるのです。
 コンピュータの与えてくれる知識や進学のために親たちが高い授業料を払ってくれる塾の先生のおかげで、あなたのサービスが評価されることだってあるのです。
 あなたが「本音」で接しているかどうかを子どもたちは見抜く力があると僕らは先輩から教えられてきましたが、そんな言葉は学力修得だけしか見えない先生には馬の耳に念仏だったのでしょうね。
 成長はテストの点でしか見られない、ですか。もしあなたが公立学校の先生なら、学力テストを批判する前にテストの点を上乗せできたとい事実を示さないと誰もあなたの言葉に賛同しなくなりますよ。

 政治に関心もなく施策や政策についての知識がなく「社会」という教科を教えている先生はいないと思いますが、教育制度の改革や政策の変化は時代とともに常に行われています。
 新聞を読む時間もないほど教科のカリキュラム消化のための素材探しのための時間を教材研究と主張するなら、どれだけの授業時間と教材研究の時間が「あなた」に必要なのかを「あなた」が子どもたちや親に示し「納得」させなければならない時代になっていると思います。
 医師ですら治療のために伝えることに対する「エビデンス」が要求される時代なのだといいます。

 「専科」なら簡単なことだと思いますが「専科」以外の教科も持たなくてはならない小学校の先生は本当に大変ですね。単純に持っている免許があるからとか「全科」の免許を持っているからとかいう理由で「専科」を持たされるならやめた方がましだとか言うことができる先生がいることや「専科」をもてない先生がいたり持てる先生がいなくて「講師」や「2級免許修得者」で穴埋めなんてことを考えるとそれが「ブラック」といわれる「正規雇用者と臨時雇用者との格差」を生んでいるんだなんてことに気づけない偉い人たちがいるのかもしれませんね。
 
 結局、先生たちも 子どもも、親も、偉い人たちもマスコミもみんなが、学校や先生を「奉仕だけすればいいもの」にしてしまったことが本来の学校が担うべき任務を提供できない状況に追い込んでしまっているように思います。

誰のせいだと犯人捜しをせずに、みんなで何ができるかを考えるのが「令和の日本型教育」のはずですよね。

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春ですね

2024-04-05 16:26:16 | Weblog


京都で飲み会。少し時間があるので四条から三条まで高瀬川沿いの桜でも見ますか。四条を降りたら外国語の洪水。やっぱり鴨川の等間隔デートは珍しいようで写真スポットみたい。山紫水明なんて言葉は今の鴨川には似合わない。

今はドラッグストアになった不二家の角を高瀬川に沿って上がる。高瀬川沿いの桜は繁華街にあるから人手が多いだろうけど、今年はまだ満開てはないし、平日の昼間だしと思ったのが失敗だった。




昔よく通った店がまだあるのか、確認のため路地をうろうろ、まだあった。
自分の生存確認が必要なのに、昔通った店を探す自分に少し笑える。


さすがにインバウンド京都、回りは外国語が飛び交ってる。旧立誠小あたりでほっこり、確かこのあたりに香水の店があったはず、中に坪庭があってコーヒーも売ってるからここで小休止。

今日の行きたかった店は六曜社。ど甘ったるいココアが無性に飲みたくなっていた。禁煙をしてもう長くなるが、なぜかいつも一階の喫煙席を選んでしまう。座れば灰皿とマッチ、このマッチが好きで若い頃には部屋にたくさんあったっけ。


相席も昔のままのシステム。以外と若い人が多くて、ドーナツが人気らしい。違うのは1.5倍になった値段ぐらいかな。何も変わらない景色がいい。

ちょうど店にいる時に息子から明日孫をつれてきてくれるとの連絡メール、春は心がウキウキする季節だ。



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