「専門家」への無謬性は、マスメディアが生み出す現代の神話、都市伝説みたいなものなのかな。
専門家と言われる「研究者」の方々は自らの専門的な分野で「仮説をたて」その仮説が正しいと言うことを立証しているわけで、まだ、「正しい」ひとつのことを見つけているわけではない。
だから、学説と呼ばれるものはたくさんあり、メディア(放送機関や報道機関)が自分たちにとって都合のいいものを「選択」しているわけで、必ずしも視聴者や講読者にとって、それらが示す方向が正しいとは限らないし、間違っているとも言えない「情報」なのだ、ということを今の大人たちの状況を見ていると子どもたちに認識させることが必要だと痛感している。
たくさんの選択肢があるがゆえ、真逆の意見も当然ある。いつも真逆の意見だけを主張して、対立の構造に持ち込むという手法や、自らの行動をメディアの流す多くの情報から自ら選択することを放棄して、大きな話題という触れ込みの枝葉の些末な事柄に身を任せ知識として知っていることに満足して行動は無関心、専門家や国、政権を取った多数派の政党、民主主張国家や社会主義国家に任せることで、分断も弾圧も起こらないと信じている感覚がどこかにあるように思う。
ダーウィンの進化論は優性学を生み、ワイマール憲法下の民主的な選挙制度がナチス党を生んだことを小学校の先生は何の教科で教えているのだろう。政治批判するメディアのコメンテーターは、自らが「情報発信」しているリーダとしての自覚が必要なのではないのかな。国民の言葉を代弁するという役割を演じている「恵まれた社員」なのだという批判は当てはまらないのだろうか。
かつて彼らが行った「先生バッシング」「公務員バッシング」でやり玉にあげられることで、先生ブラック論が生まれ、3k意識の醸成が勤労意欲を薄めたとしたら、何てことを考えるのは負け犬の遠吠えかな。
常にアンチ的な立場に身をおくことができる職業がメディアという職種なのかもしれない。