今日の朝刊に公立小学校35人学級決定の文字が躍っている。それに続く文字は「学力」期待、「教員」課題になってます。
45人学級での経験をしたことのある元教員としては羨ましいかぎりの決定だとは思います。先生の負担軽減という側面においては間違いなく軽減されています。
軽減したから、その分ゆっくりすればいいということなら、先生にもゆとりができ、子どもたちへもより細かな手当てが可能になるのですが、軽減したから、「学力」を上げろ、教員の不十分なスキルを補填しろという「見えないしばり」があるのなら、本当の意味での先生のゆとりがなどでてこないということを理解できないのですよね。
視点のちがいは立場の違いです。先生に期待するものがある保護者や学者さんの視点とそれを実施する先生の視点は必ずしも同じではないように思います。
「学力」=オール5でなければならないという思い込み
「学力」=学歴社会での免罪符という思い込み
「学力」=市販テストの素点、アチーブメントテストによる知識の暗記量という思い込み
OECD(経済協力開発機構)の学力調査の「学力」の規定はこうした「日本的な学力規定」とは少し違うのだと思っています。
「学力をあげること」=「教員の資質」とするなら、「学力とは何か」ということへの国民的な論議が必要であり、「何人のクラスなら効果のある教育が行えるのか」という教員の側の「個別の力量」への問いかけも必要になると思います。
特別支援学級では、少人数(8人以下)の編成で、クラスを構成していますが保護者との対応や学級経営でうまく行かなくなる先生もいるときいたことがあります。
すでに一年生では、先行して35人学級が実施されていますが、副担として再任用のベテランがフォローしてる場合もあるようです。ついこの間までは二年生にも手立てがあったように思います。
都道府県や市町村教育委員会では、加配置制度の運用で、独自の少人数学級を実現して、すでに30人程度のクラス編成をしているところもあります。
生活科と総合的な学習の時間
ゆとりの時間でのカリキュラム編成
二学期制
情報教育
教育改革と呼ばれたこれらの小学校でのアプローチが「有名無実」になったのは、教員の「学力」に対する意識と「民意」と呼ばれる社会での「学力」の意識に乖離があったことが原因だと考えてきました。
「学力」は「塾」で作られ、「人間性」は小学校で作られる、というマスメディアが作り上げた定説への反発があったのかもしれません。
「塾」で作られた「若い先生」の資質の向上は、学校現場でのOJTでしかなされないのは自明の理であったのですが、「仕事ができる先生に仕事が集まる」という公立小学校あるあるの常態化が、資質の向上を阻んでいたように思います。
クラスの人数が減ることにより、先生の欠点がよく見えるようになるという保護者の視点、一人一人の子どもの課題がより鮮明に見えたり、保護者との関係がより近くなるという教員の視点、これらを考えれば、成績処理や文書配布の件数がすくなることぐらいの校務処理の負担が減るだけなんてことにならないといいのですが。
学校にパソコンが入って、結局は仕事が増えた先生もいましたね(笑)