公立の小学校で「通知表」での評価をやめた学校があるらしい。
多様な子どもたちがやってくる公立学校に一律で機械的な評価はそぐわないという視点は共感できますね。
ただ、それが校長が主導しないと実現しないという現実に少しモヤモヤしたものを感じます。
多様な子どもたちがやってくる公立の義務教小中学校は何を担うのかという議論の深まりがないのです。
コロナ禍で、「密な関係」がないことで学校で起こったことの検証がおこなわれるとは思いますが、孫たちはまだ、学校に行くことを楽しみにしてくれてます。
でも、学校に来なくなった子どももいることを教えてくれました。
「学力」「成績」「点数」「評価」こうした言葉が、ひとつの文脈で語られる時、「親たちの経験」が影響することがあります。
「評価」は何のために行うのかは、先生たちの間でも、学者さんたちの間でも、まだ論議されている難しい課題です。
「成績」も何で判断するかは実はとても難しいものでした。
簡単なのは「アチーブメントテスト」と呼ばれれる「学習したことを数値(点数)化」することなのですが、「覚えた知識の量」を判断するには適してあるのですが、「意欲や関心」の数値化は難しいので「行動観察」することになるのですが、必ずしもこれは数値化できるものではありません。
「挙手」を例にすれば「手を挙げないから意欲的ではない」と必ずしも判断できないのです。その反対もありますね。だから、学年にもよりますが手をあげた回数で判断することは適さないことがあるわけです。
点数を、上げるために、例題を何回も解かせたり、反復して「覚えさせる」ことを目的とした方法だけでは、自分で「問い」を作ることはできません。
関心や意欲から「問い」を生み出し、学びに結びつけることが、必要になるのですがこうした学習は時間がかかります。
厄介なことに「教科」という壁があり、専門性という「学びを分断する狭い視野」に入り込むと、先生たちの中には「点数で評価」することが簡単だと思い込んでしまう場合があるのです。
初等教育(小中)学校の先生の「専門性」と中等教育(高)の先生の「教科専門性」は違うもののはずなのに、同じだと思う先生が増えてきたのでしょうか。
「塾の先生も公立学校の先生も同じ先生」なのでしょうか。成績を上げたい子は塾で頑張れ」みたいな部分を感じる点はなぜでしょうね。
学力の3要素の理念は示されたが、それを「評価する具体策」はまだ見えていないのだろうな。
インクルーシブを、通常学級で進めていくとこうした議論は必ず必要になると思うのですが、神奈川県すごいね。
公立中学校でこの議論が進むなら日本でのインクルーシブ教育は一歩前進って感じなんだけど、まだまだ無理だろうな。
主要といわれる算国理社+英語の点数さえ取れれば何とかなってきた日本の社会が大きく変わっていることに気づく先生も増えてはいくだろげと、高校入試をゴールととらえた公立小中学校義務教育というシステム自体が時代に対応できないと。。。かな。
対極にあるように見える「ギフテッド」への対応も、「飛び級」もない日本では隔離することが、学力保障とされ「特別支援」というカテゴリで議論されるって、何だかおかしいと思うのです。
教師に学習を保障するための「権限」(かつては、体罰という誤った権力が横行してあたけどそれとは違うもの)が保障されないままでは、なにもできないのではないでしょうか。
昔TVドラマでよく見た「悔しかったら殴って見ろよな、センコー」などという罵声をあびることはなくなったと思うのですが、「教室から出ていきなさい」という毅然とした姿勢が「学習権を阻害する体罰」ということになる場合もありますよね。
欧米では他の子の学習権を守るため教室から退出させることや、馴れ馴れしい身体接触をする生徒に懲罰を、与える権限が教師にはあるそうです。。
けど、教師には禁止事項があるのに、子どもたちは何をしてもいいというのは何かモヤモヤするんですよね。。
せめて小学校から「原級留置」というシステムを利用できないかと何度か考えたことはありました。制度はあるのに、その影響を考えて、「義務教育で留年」なんて、行えば大騒ぎになりますね。
でも、高校の先生は学力不足を中学の先生のせいにして、中学の先生は小学校の高学年の先生のせいにして、小学校の高学年の先生は中学年に、中学年は、低学年に、そして持っていくことができなくなった小学校の先生は親のせいにするなんていう負の連鎖が生まれれば悲しいですよね。
学年という枠組みを作るなら、それに見合う社会性や人間性、獲得しなければならない最低限の知識は身につけさせなければいけないというルールは作る必要があると言われています。規範ですね。でもそれを作るのが難しくなっています。
国も「グローバル社会における労働者を作るための国際的な学力基準」に一喜一憂したり、学年という枠組みを中途半端に組み換えることばかりに苦心しているけど、結局、公立学校の塾化を進めてきたのは、「公立学校は何のためにあるのか」という問いの答えを小中学校の先生が作れていなかったからかもしれませんね。
塾の先生より知識はあるのだろうけど、ひょっとしたら「公立学校の先生」に向いてない先生が増えてきるのかも知れないね。
公立学校の先生という仕事、好きでないとやれない仕事なのかも知れないよ。