久しぶりに本棚の整理をしていたら、何冊かの懐かしい本をみつけました。使い古した工作図鑑は、図工が苦手だった僕を図工好きにしてくれました。
この3冊は。教師って仕事を考えさせられた本です。
教育実習という制度は京都から生まれたと自負していた大学時代の恩師は、教育実習は「実習校にとって本務ではない」と明確に示しながら、それを担う担当教師に理想があるのかを問うていたのだと思います。
「授業はコミュニケーションを組織することだ」とする知見は僕が「授業」をずーと、考えるきっかけになりました。
「学力」についての問いは「ゆとり教育」についての問いでもありました。
「教師のためのゆとり教育」をめざした教師が当時は批判され、今は、再評価されようとしていますが、「子どものためのゆとり教育」が必要であり、そのために熱い思いを持った教師もいたことを忘れてほしくないという思いが今でも蘇ります。
「ゆとり教育」で示された方向性は、決して間違っていなかったと思います。
ただ、難しかったのは、教育力のある学校でしか実現できないというものだったし、小学校という限定された場所でしか理解されなかったということです。
アクティブラーニングも「探究」も、「生活科や総合的な学習の時間」で追い求めたこととどこが違うのか、よくわかりません。
多分廃刊になっているので古本でしか読めないと思いますが、何度も読み返した本です。
自分の心を明るい色のフィルターにかえると、見える景色も夏の色になり、足りない時間さえ、余裕のあるものになるってことにようやく気づきました(笑)
「教師の負担感」に関連して「教師のメンタルの弱さ」「教師の資質不足、スキル低下」などの解消を指摘する議論があるのですが、少し違和感があります。
今どきの先生をみていると、気持ちを切り替えることが、不器用なだけで、安心して気持ちを切り替える方法を教えてくれる先輩や上司が居ないという「情報が欠落した」環境にあるというだけのことと思ってしまいます。
同質の情報しか獲得しない、できない環境にあるということの危険性ですね。一般世間(現実社会)と情報乖離した異質の空間だと言うことは古くからいわれてきたことですが、ますます現実社会を知らないまま子どもたちに現実社会を生き抜く方法を示さなければならないという矛盾に見える命題に、向き合わなくてはならない時代になってますね。
個別最適化された学びと協働的な学びの一体的充実の具体が見えにくいのは個別最適化を「個の知識やスキルの数値化」と読み違えているからではないのでしょうか。
「協働」を「同質の共同体」と読みくだくベテランたちのマウンティング体質という構造的な課題に対し、抗う事を放棄せざるをえないと感じている大量採用されたミドルリーダーと呼ばれる世代の心の持ち方ひとつで、「小学校はかわる」と思っているのですが(笑)
何もしないと、また「校長がかわれば、学校がかわる」論や「カリスマ教師が学校をかえる」論の復活ですね。
夏です。年休を取っても、いい時代になりました。思い切りリフレッシュしてください。