作文のことで少し思いだしたことがあります。
若い頃、斎藤喜博氏と無着成恭氏にハマったことがあります。
生活つづり方という言葉を、知ったのは「山びこ学級」での無着先生の実践だったのですが、今、「山びこ学級」の取組や無着先生を、あなたはどのように評価するのかな?
また、暇なとき教えて下さいね。
僕はクラスに40人の子どもたちがいて、2年間の担任が当たり前の昭和の時代に担任として勤務していました(今の保護者の一部もまだそうした経験があるはずですね)が、今、小学校では、一年間が当たり前の時代ですよね。
持ち上がりも「グラス替え」があるはずで、「クラスに適応しにくい子どもをクラスで支えるのではなく担任の力量と相性で判断して、持ち上がる」のが一般的になっていると思うのですが、なぜそうなったかを保護者が聞いてきたら、あなたはどう答えるのかな?
小学校担任は、教科指導も大事、学級経営も大事、更に生徒指導、教育相談も大事だと教わった人もいるかも知れないけど、小学校では、そんなの全部できるスーパーマン教師はいないからね。
ひとつずつ、ゆっくり積み重ねて行けばいいよ。
昭和の先達たちはひとつの価値観にどっぷりひたり、それを教科指導や生活、生徒指導でどのように発信するか、更にはその立ち振舞いまでが「品位」として求められていた部分があるように思います。
今はそうしたスタイルは「小学校では」時代遅れなのかもしれませんね。
どうしても人は信じることで救われる部分があるから、自分の固執する価値観から離れられず、俯瞰できないでいるのかもしれませんね。
100点主義(満点主義)に陥ると新しい価値との出会いに躊躇したり混乱したりするんだろうな。
ひとつのことを見極めないと次のステージに移行できないというのは昭和のロジックなんだけどな。
令和スタイルの先生への問い、大切にしてくださいね。