狭い部屋のなかで、じっと時が過ぎるのを待つのが老人のあらたの日常ですか。
働き虫の根性が抜けきるまでの隔離治療なのだと思い込むように努力してきたのですが、なかなか馴染むのに時間がかかりそうです。
我慢を強いることを正義としてきた世代に、綻びが見えてきます。自分たちが我慢をすることを余儀なくされているからなのでしょうね。
誰かの我慢の上に成り立つ権威を、すでに他の国ではハラスメントというそうです。
誰も我慢しなくても成り立つ能動的な組織には「自律と寛容」が必要です。
これからは自律した組織や寛容さがある組織をどのようにすれば醸成できるか、ですね。
老人たちは自分が誰かの我慢の上に成り立っていることを「当たり前」として育ち、そのなかで権威や権力を手にしてきたのだと思います。
だからこそ、それを糾弾するマスコミの変わり身に苛立ちを感じるのでしょう。テレビでまた、かつては脚光を浴びた老人が一人さらされています。
いつでも風見鶏の報道機関は安全地帯なのでしょうね。真実を伝えるのが報道なのだといいますが、事実を会社の認める範囲の中で伝えているだけの仕事ですよね。御用学者と呼ばれる専門家らしき評論家の方々を雛壇において、今日もしたり顔ですね。
「自由」と「わがまま」の線引きすらできない若者たちをしたり顔で増幅させるマスコミが、マスメディアが「自律と寛容」の組織になれば、「規律と公開」を追い求めるネット社会が「自律と寛容」の社会になれば違う世界が見えるかも。かな。
この間あったことなのに、忘れてしまうことがおおくなった。言論統制下の日本人は「非国民」を内輪から生み出すことを恐れた、だから隣組ができ何も言わなくなった、と祖母が言ってたことを、なぜか思い出す。
大きな日本という「隣組」のコミュニティ。「恥」の文化は自分に向かう方向性があったから「文化」なのだと思うのですが、「恥を知れ」と他者に向かう方向性はどうかと思います。
厚顔無恥の恥と恥の文化の恥は違うように思うのですが?