春ですね。
もう、依頼はないだろとおもっていた情報教育絡みの教員採用試験講座の依頼があり、慌てて準備を始めることに。
やはり流行りの話題をとChatGTPとブログラミングというかスクラッチの復習を始めました。
OpenAIをオープンエーアイと読むのかオープンアイと読むのだろうかとくだらないことを何年か前に考えていたことを思い出します。
ChatGTPよりこの会社が作ったDALL・Eの機能がとても気になっていました。「イメージを言葉(文字)にすることで絵が描ける」なんてすごいことだと思っていました。
図工や美術がデジタルアートに進化していきます。絵筆でリアルに描くことと同様にコンピュータでアートすることが可能になったのだなと二年ほど前に考えていました。
コンテンツさえ操作できれば楽譜が読めなくても音楽が作れる時代になっているので、こうした表現をAIに伝えることで実現できる時代になるのは当然なのかもしれませんが、急激な進化を目の当たりにしてきた老人にはついていけない思いがします。これが老いというものなのでしょうね。
あたらしいコンテンツにもメリットデメリットは常につきものですがChatGTPを使ってみるとそれがより鮮明にわかります。
学校では作文やレポートの学習をします。だからそれを教える先生、小学校や中学高校の国語の先生はもとより、先生になろうとしている人が受験する教員採用試験には小論文を課す教育委員会がたくさんあります。もし、その小論文やエントリーシートをChatGTPで作成して提出することを見破れなかったら、多分見破れないのではと思うのは杞憂ですよね。
小学校ではコピー&ペーストという「スキル」は教えますが、レポートの作成には「コピペ」は「著作権」等のためその出典を明らかにして引用するなどのことは「モラル」のルールとして教えます。
そのため、いつの時代でもルールを守らない子どもたちと向き合ってきました。
教える側が自ら良き範を示すことは道義的な問題としていつの世でも教師に求められてきたことなのですが、その前提が崩れていくなら「見つからなければ何をしてもよい」世の中の到来を感じてしまいます。これも老いなのでしょうね。
夏休みの宿題や読書感想文、社会見学や観察のレポートまとめ、各種のコンクール、もし「子どもたちがChatGTPに代表される生成型のAIを利用できるスキルを身に着けていたら」、ひょっとすれば「もう身に着けている子どもがいる」かもしれませんが、とんでもないことが始まっているように思います。
オリジナリティを評価する方法ってとても難しいですよね。生成型のAIは自らの限界(必ずしも正しい回答ではない)を表示していますが、使う側の「モラルの限界(必ずしも正しい使い方をしていない)」に気づくことができない場合、ツールは本来の使い方ではない凶器にすらなりうる可能性があるように思います。
スクラッチもver3.0になりとても使いやすくなっていますね。スプライトを動かせるようにプログラミングすることは低学年でも可能だと思います。
中学年でセンサー、高学年でライントレースできるロボット(外部装置)さえあれば小学校のプログラミング学習は若い文系の先生にとってもそれほど難しいものではないと思いますが、カリキュラムをきちんと作れていないため、こうした指導を外部受注しなくてはならないところに「教育委員会の意識レベルの格差」「教員の指導資質の格差」の課題が見え隠れします。
学校教育をマーケットとする新しい雇用を創出しているという、うがった考え方もできるとは思いますが、先生の賃金は上がっても教育の格差は埋められないようにも思えるのですが。
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