新聞では「難民」という文字が消えましたね。
多くの新聞では「避難民」と表記しています。
「難民」という文字のイメージは、今まで日本人が持っていた漠然とした「恐れ」、受け入れることもなく、その存在も距離があった人々という感覚から、将来日本人として「帰化するかもしれない」外国の人というイメージに(変わりつつあるのか、変えようとしているのかは別にして)変化しているようです。
戦争=難民というイメージが作られてきたからなのかもしれませんね。「避難民」なら自然災害も含めているようでイメージが和らぐからなのかもしれませんね。
ずーと「情報教育」というものに関わってきたので「文字による表現」ということに少しこだわりがあるのかもしれませんね。
組織としての「情報の操作は必要悪」だと考えている風潮にあらがうことは、組織にいた人間ならだれもが知っていると思うことですが、非常に難しいものなのだそうです。
流されることを「要領がいい」とか、「オトナだ」とか正当化するには、強いメンタルが必要ですよね。
忖度や配慮が必要だということは社会人になれば必ず一度は先輩や上司から言われることですね。
「口に気をつけろ」「口答えはするな」、今、どこかで戦争を行っている国の指導者の世界観に似ていますね。
そうなんですよね、「嘘も方便」という慣用句は、今でも日本の学校で教えられていることだと思うし、「世の中には知らない方がいいこともある」と意味深な言葉を吐く善意の先輩に出会ったこともありますよね。
組織とはまた別の問題として、個人の資質とか人間性が情報の拡散と関係している場合もあるかもしれません。
「人々が疑念を抱く情報」を、ある一定の方向に導くということが意図的に行われた場合、そのことが「真実かどうか」ではなく、個人として「信じるかどうか」が問われ、判断をする必要があるような強迫心理が生ずる時がありますよね。
また、意外と真面目な人ほど自分が嘘をついていることに気づかないこともあるようです。
というか、「真実だと信じている」からで「嘘だと」指摘すれば保護バリヤーを張り巡らし、攻撃的になったり、よりかたくなな殻に閉じこもったりするのかもしれません。
まるで子どもみたいということはたやすいのですが、年を経て経験豊かな方の場合やすぐそばに存在している場合は扱いが難しいですよね。
「共生」はお互いの素の姿を受け入れることから始めなければ、「ただ本音を伝えるだけ」では実現しない難しさがあるのではと最近思い始めています。
7年前ヘルシンキの街では、難民を労働者として受け入れてきた社会福祉国の政府に対して、市電、市バス、鉄道などの公共機関の就労者が「受け入れ反対」のゼネストを行っている風景に出会った。自国の「働き場所」を自国民から奪う政策には反対だという駅員と飲み屋で話したことを思い出しました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます