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卒業式の日に最後にはなす言葉ですか。
あなたの思いを伝えることが大事だとおもいます。
初めての卒業生を送り出すのならともかく、何回目かの卒業生なら泣かないで笑顔で自分の気持ちを伝えることがプロだと昭和の先生たちは先輩から教わりました。
あなた達は感情が豊かだし、保護者の目も変化しているだろうから、気持ちを素直に出せばいいと思います。
あなたの問いかけをききながら、自分ならどんなことを「今」話すだろうと考えました。
今の僕が担任だったらこんな話をしていたかもしれません。
戦争の時代を生きた祖母が、お彼岸の頃、お寺の境内でハトに豆をやりながら、何故か急に、幼かった私に向かって「戦争は私たちがしらない間に始まっていたんだよ」って言った言葉が、甦ります。
国際社会を学級に例えるのは、余り適切ではないかもしれませんね。
でも、子どもたちに今の世界を伝えることがあるなら僕は「クラス」を例えにします。
「国を守る」って「国際社会」からspoilされたら生きていけないから、暴力で従わせるか、だれかの助けを受けないと「はみご」にされるって構造は、まるで、小学生のグループ対立やclassroomカーストと同じ構造なのではないでしょうかというといからはじめます。
あなたの受け持つクラスで、こうしたことをあなたは容認せず立ち向かってきたなら、今の子どもたちに「今の世界」を伝えることができると思いますし、伝わるはずなのです。
猿に例えられた日本も、白熊さんと同じ道を歩いたことがあったけど、また、どっちかにつかないと「はみご」になると悩んでいるのか、どっちかについてそのカーストのなかで守られることを選ぶのか。
まるで小学校で起こっているようなことか「今の世界」で起こっているなら、子どもたちはあなたと一緒に考えることができると思いませんか。
まもなく卒業式ですね。沢山の思い出はコロナで作れなかったかもしれませんが、今の世界を考える視点を持たせてあげたいと僕は思ってます。
「何かが起こった時」、力なき良心の仲裁者は対立するグループの暴力になす術もないのかという問い
国連の立ち位置が僕には「高学年を受け持つ学級担任」と、どうしてもオーバーラップしてしまうのは年寄りの冷や水ですね。
学級担任の明確な方向性が必要といわれたのは昭和の時代ですが、あなた達新しい時代の先生は、担任の意思通りに動く都合のいいリーダを作ることにあくせくしたり、リーダのいないクラスを嘆いて何もできないと諦めることはしないと思いますが、では、どのように「クラス作り」をしてきたのでしょう。最後の言葉はその結果なのだと思います。
担任の先生が「国連」って暴論ですが、クラスが国際社会の縮図に見える時代を感じています。
クラスで学級作りが、難しいのも、国際社会も同じて考えるのは、飛躍しすぎですよね、世界のリーダが小学生が解決できることを解決できないなんて姿は晒して欲しくないですね。
戦争の足音が空耳で聞こえるのは僕が年老いたせいですよね。
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