文春文庫で、映画にもなっているらしい、伊坂幸太郎著『死神の精度』を読みました。いや、けっこう面白かったです。
第1話 「死神の精度」
第2話 「死神と藤田」
第3話 「吹雪で死神」
第4話 「恋愛で死神」
第5話 「旅路を死神」
第6話 「死神対老女」
冒頭の「死神の精度」の一編が末尾の「死神と老女」のストーリーにつながり、その間には50年ほどの長い時の経過を感じさせる仕掛けになっています。たぶん、映画でも、第1話と第6話の間にどれか一つをエピソード的につなぎ、若い女性とその老後を描くことで、死神がつねに人生に寄り添っていることを描いているのではないかと思われます。一つ一つの内容は、読後に深い感動をもたらすような類のものではないけれど、死神の一種の無感動と、彼のターゲットとなった多彩な人物像とが対比され、面白く読ませる力がある作家だと思います。
しかし、作家が描いた、いつまでも終わりのない仕事を続ける死神に思わず同情するというか、なんとも哀れに思えてしまいます。死神が最近知った「ミュージック」は、因果な仕事を慰める、せめてもの気分転換なのかも。
死神に、むちゃくちゃな理系的解釈を下すならば、いつまでも死なない死神は、たぶん分裂などの無性生殖によっていつまでも増殖を続ける細胞からできているのでしょう。だから、撃たれても殴られても、すぐまた修復されるのかも(^o^)/
しかし!
分裂などの無性生殖によっていつまでも増殖を続ける生物と、種の保存維持は生殖細胞にゆだね、個体が死を迎えるかわりに種の保存からの自由を得た生物とでは、始まりがあり終わりがある後者のほうが好ましいと感じるのは、年をとったせいでしょうか。
ところで、(1)CDショップに入りびたり、(2)苗字が町や市の名前であり、(3)受け答えが微妙にずれていて、(4)素手で他人に触ろうとしない、というのが死神の特徴らしいのですが、これはけっこう私も当てはまる気がするのですが(^o^)/
んじゃ、私は死神かい(^o^)/
第1話 「死神の精度」
第2話 「死神と藤田」
第3話 「吹雪で死神」
第4話 「恋愛で死神」
第5話 「旅路を死神」
第6話 「死神対老女」
冒頭の「死神の精度」の一編が末尾の「死神と老女」のストーリーにつながり、その間には50年ほどの長い時の経過を感じさせる仕掛けになっています。たぶん、映画でも、第1話と第6話の間にどれか一つをエピソード的につなぎ、若い女性とその老後を描くことで、死神がつねに人生に寄り添っていることを描いているのではないかと思われます。一つ一つの内容は、読後に深い感動をもたらすような類のものではないけれど、死神の一種の無感動と、彼のターゲットとなった多彩な人物像とが対比され、面白く読ませる力がある作家だと思います。
しかし、作家が描いた、いつまでも終わりのない仕事を続ける死神に思わず同情するというか、なんとも哀れに思えてしまいます。死神が最近知った「ミュージック」は、因果な仕事を慰める、せめてもの気分転換なのかも。
死神に、むちゃくちゃな理系的解釈を下すならば、いつまでも死なない死神は、たぶん分裂などの無性生殖によっていつまでも増殖を続ける細胞からできているのでしょう。だから、撃たれても殴られても、すぐまた修復されるのかも(^o^)/
しかし!
分裂などの無性生殖によっていつまでも増殖を続ける生物と、種の保存維持は生殖細胞にゆだね、個体が死を迎えるかわりに種の保存からの自由を得た生物とでは、始まりがあり終わりがある後者のほうが好ましいと感じるのは、年をとったせいでしょうか。
ところで、(1)CDショップに入りびたり、(2)苗字が町や市の名前であり、(3)受け答えが微妙にずれていて、(4)素手で他人に触ろうとしない、というのが死神の特徴らしいのですが、これはけっこう私も当てはまる気がするのですが(^o^)/
んじゃ、私は死神かい(^o^)/
私はうっかりものなので、やたらと人の寿命を縮めてしまいそうです。
映画では「死神の精度」→「死神と藤田」→「死神対老女」。老女が「恋愛で死神」の彼女から「死神の精度」の彼女に変わっていました。
小説も映画も、死神が哀れであるとも、人間が哀れであるとも、あえて描かなかったところが、気持ちの良さの原因かなとも思います。
伊坂幸太郎さん、当方の知人の日曜劇作家もお勧めでしたので、珍しく手にした文庫本でしたが、なかなか面白かったです。