僕の近くにはたくさんインド人が住んでいます。
カレーの香辛料の匂いがするので、すぐ分かります。
彼らは日本の食べ物が、いまいち合わないそうです。
「カレーと刺し身、どっち食べる?」と聞いたら、すかさずカレーを選ぶでしょう。
刺し身は人生で一回食べたら十分だそうです。あるインド人がそう言ってました。
生きていくことは、あらゆることを選択していくことです。
また、何を選択するかが、まさしくその人の個性になります。
ところで、人間には自由意志があるのか無いのか?という論争があります。
あるに決まってるじゃんと思いますよね。
しかし、最近の脳科学の論文では、人間に自由意志はないというのが主流になっています。
僕たちが何かを選ぼうとするとき、脳はすでに何を選ぶべきか決定しているそうです。
もし、それが本当だとしたら、僕たちがどういう人生を送るかは、ほとんど決定されているとも言えるわけです。
そうすると、生まれたときに人生が決まっているわけですから、運命を認めないといけませんね。
あくまでも、仮説ですけどね。
じゃあ、もし自分の性格(人生における選択の仕方)が、不幸になるように運命づけられていたら、どうしますか?
自分の人生を肯定できますか?
たとえば、ロミオとジュリエットについて考えてみましょう。
二人は、何回、同じ場面に遭遇しても、恋に落ちて、死んでいったでしょう。
それが彼と彼女の運命です。
彼と彼女はそうするしかない性格をしていたのですね。決定論の観点からは。
僕たちは、あの劇を見て、敵同士の家柄なのだから、恋愛なんかするな、とは考えませんよね。
若い二人が恋に落ちてしまったのは、仕方がないことだ、と思います。
そして、二人が後追い自殺したことも、あの性格だったら、そうするだろうなと思うはずです。
二人は、敵対する家に生まれても、愛することをやめませんでした。
相手が死んだときに、また別の相手を探せばいいや、とは考えませんでした。
この物語は、相手を愛する気持ちが強すぎるから起こった悲劇です。
そこで、もう一回、小林秀雄の「悲劇について」を引用してみますね。
ニーチェは主張する。
悲劇は、人生肯定の最高形式だ、と。
人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かがありすぎるから悲劇は起こるのだ。
否定や逃避を好む者は悲劇人たりえない。
何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。
不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生に嫌悪すべきものを、ことごとく無条件で肯定する精神を悲劇的精神という。
いろんな困難がロミオとジュリエットに降りかかりました。
でも、彼らはその困難から逃げませんでした。
この悲劇は、二人の愛が足りなかったのではなく、愛がありすぎたから起こったのです。
相手を愛しすぎたゆえに、死ぬことさえ恐れませんでした。
彼らは、自分の身にどんな不幸が襲ってきても、愛ゆえに無条件で人生を肯定していたと思います。
その人生を肯定する気持ちが悲劇的精神ですね。
運命愛ともいいます。たとえ、自分の運命が不幸であっても、自分なりに精一杯生きたことを愛する気持ちです。
シェイクスピア「ロミオとジュリエット-Romeo and Juliet-」(ラジオドラマ)