フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

自由意志と運命について

2020年07月29日 07時00分00秒 | 日々の出来事・雑記

僕の近くにはたくさんインド人が住んでいます。

カレーの香辛料の匂いがするので、すぐ分かります。

彼らは日本の食べ物が、いまいち合わないそうです。

「カレーと刺し身、どっち食べる?」と聞いたら、すかさずカレーを選ぶでしょう。

刺し身は人生で一回食べたら十分だそうです。あるインド人がそう言ってました。

生きていくことは、あらゆることを選択していくことです。

また、何を選択するかが、まさしくその人の個性になります。


ところで、人間には自由意志があるのか無いのか?という論争があります。

あるに決まってるじゃんと思いますよね。

しかし、最近の脳科学の論文では、人間に自由意志はないというのが主流になっています。

僕たちが何かを選ぼうとするとき、脳はすでに何を選ぶべきか決定しているそうです。

もし、それが本当だとしたら、僕たちがどういう人生を送るかは、ほとんど決定されているとも言えるわけです。

そうすると、生まれたときに人生が決まっているわけですから、運命を認めないといけませんね。

あくまでも、仮説ですけどね。

じゃあ、もし自分の性格(人生における選択の仕方)が、不幸になるように運命づけられていたら、どうしますか?

自分の人生を肯定できますか?

たとえば、ロミオとジュリエットについて考えてみましょう。

二人は、何回、同じ場面に遭遇しても、恋に落ちて、死んでいったでしょう。

それが彼と彼女の運命です

彼と彼女はそうするしかない性格をしていたのですね。決定論の観点からは。

僕たちは、あの劇を見て、敵同士の家柄なのだから、恋愛なんかするな、とは考えませんよね。

若い二人が恋に落ちてしまったのは、仕方がないことだ、と思います。

そして、二人が後追い自殺したことも、あの性格だったら、そうするだろうなと思うはずです。

二人は、敵対する家に生まれても、愛することをやめませんでした。

相手が死んだときに、また別の相手を探せばいいや、とは考えませんでした。

この物語は、相手を愛する気持ちが強すぎるから起こった悲劇です。

そこで、もう一回、小林秀雄の「悲劇について」を引用してみますね。

ニーチェは主張する。
悲劇は、人生肯定の最高形式だ、と。
人間に何かが足りないから悲劇が起こるのではない、何かがありすぎるから悲劇は起こるのだ。
否定や逃避を好む者は悲劇人たりえない。
何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。
不幸だとか災いだとか死だとか、およそ人生に嫌悪すべきものを、ことごとく無条件で肯定する精神を悲劇的精神という。


いろんな困難がロミオとジュリエットに降りかかりました。

でも、彼らはその困難から逃げませんでした。

この悲劇は、二人の愛が足りなかったのではなく、愛がありすぎたから起こったのです。

相手を愛しすぎたゆえに、死ぬことさえ恐れませんでした。

彼らは、自分の身にどんな不幸が襲ってきても、愛ゆえに無条件で人生を肯定していたと思います。

その人生を肯定する気持ちが悲劇的精神ですね。

運命愛ともいいます。たとえ、自分の運命が不幸であっても、自分なりに精一杯生きたことを愛する気持ちです。

シェイクスピア「ロミオとジュリエット-Romeo and Juliet-」(ラジオドラマ)

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