10月13日(土)は、先週の「谷中をぶらり(谷中霊園・天王寺・築地塀・全生庵編)」で回れなかった谷中散策で外すことが出来ない根津神社と谷中銀座に行ってみました。
前回は、観光マップが手に入らなかったので、今回は事前に阿部建設の「散策マップ・谷中」をダウンロードして千代田線の根津駅から西日暮里駅まで歩いてみました。
<不忍通り>

根津駅で降りて「不忍通り」に出ると、ご覧のような案内が出ていたので、根津神社へは問題なく行けそうです。

傍にあった旧町名案内板には、『現在の町名「根津」は昭和40年までは「根津八重垣町」で、根津神社の祭神(須佐之男命)の歌「八雲起つ 出雲八重垣つまごみに 八重垣造る その八重垣を」に由来し、根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多く書かれていて、ネズミは大黒天(大国主命)の使いであると言われている。』のようなことが書いてありました。

取り敢えず、ご覧のような「不忍通り」を歩いて根津神社に行ってみました。

根津小学校の信号に遣って来ると、向かい側に、ご覧のような施設(不忍通りふれあい館?)があったので撮ってみました。

又、パネル看板が面白い「くし家串猿」があったので撮ってみました。
<根津神社>

「不忍通り」を暫く歩いて千駄木2丁目の交差点を左に曲がって坂を上ると、ご覧のような鳥居のある根津神社の北口に着きました。

取り敢えず、立派な扁額を撮ってみました。

近くに、境内案内図があったので現在地を確認しました。

鳥居をくぐると、参道は二股(東参道、西参道)に分かれていました。
取り敢えず、人が歩いていない社務所や客殿のある東参道に行ってみました。

客殿の先に、ご覧のような苔生した古木があったので撮ってみました。
尚、奥にみえるのは社殿(拝殿・本殿・幣殿)の透塀(すかしべい)です。

取り敢えず、客殿を撮ってみましたが、11時から行われる挙式の案内が出ていました。


参道に戻ると、ご覧のような古木があって保護樹木の名札が付いていました。

参道に、ご覧のような案内があったので撮ってみました。

根津神社は、日本武尊が千駄木の地に建立したと伝えられていて、五代将軍・徳川綱吉は家宣(六代将軍)の産土神として宝永3年(1706)千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営したようです。
尚、国の重要文化財に指定されているのは、社殿(拝殿・本殿・幣殿)・唐門・西門・透塀・楼門で、銅燈籠のことは記述されていませんでした。

ついでに、「東京十社めぐり」(根津神社、神田神社、亀戸天神社、富岡八幡宮、芝大神宮、品川神社、氷川神社、日枝神社、白山神社、王子神社)の案内もあったので撮ってみました。
取り敢えず、社殿に行ってお参りしてから千本鳥居を通り抜けることにしました。

国宝に、本殿・幣殿・拝殿・唐門が指定されている大きな掲示板(昭和6年12月14日付)があったので撮ってみましたが、国の重要文化財との違いが分かりません。


左側に、ご覧のような舞殿があったのでアップで撮ってみました。

又、参道の背後に、堂々とした楼門(ろうもん)の後姿が見えたので撮ってみました。

取り敢えず、手水舎に行って身を清めることにしました。

手水舎には、『この水盤は300年程前、真鶴産本小松石の一枚岩から切り出して造られたものです。・・・』の説明板が立っていました。

ご覧のような唐門(からもん)を通って、社殿に行ってみました。

取り敢えず、立派な拝殿を撮ってお参りをしました。

拝殿では、客殿に挙式の案内が出てた二人が式を挙げている最中でした。

お参りしてから、拝殿の向拝を撮ってみました。


ついでに、左右の向拝柱にあった立派な木鼻をアップで撮ってみました。

社殿の左側に、「願掛けカヤの木」があったので撮ってみました。

社殿から西参道に出て、右側に透塀を見ながら西口に向かいました。

透塀も国の重要文化財に指定されているので改めて撮ってみました。

西参道の左側にある池の上には、千本鳥居の途中にある乙女稲荷神社が見えました。


折角なので、舞台風の乙女稲荷神社をアップで撮ってみました。

根津神社の西口に着きました。

折角なので、根津神社の西口の鳥居を正面から撮ってみました。

根津神社の西口・北口の前を通っている坂は、根津裏門坂と言われているみたいです。
尚、根津裏門坂の左側には日本医科大学付属病院がありました。

千本鳥居は手前にある石段を登って回ることにしましたが、奥の鳥居が気になったので行ってみました。

奥の鳥居には、乙女稲荷神社の扁額が掛かっていました。

手前にあった石段を登ると、駒込稲荷神社があって、手前の岩には何か屯していました。

岩に近づいてみると、ご覧のような小さな狐(?)がいました。


お参りしてから駒込稲荷神社の祭壇を撮ってみました。
尚、駒込稲荷神社は、六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷の守り神として寛文元年(1661)に祀られた社みたいです。

駒込稲荷神社でお参りしてから、手水舎の横を通って鳥居の先にある朱色の千本鳥居に向かいました。
ところで、この手水舎と鳥居の管轄は駒込稲荷神社にあるのですかね!?

取り敢えず、スタート地点の鳥居を撮って、千本鳥居の通り抜けを開始しました。


途中に、ご覧のような庚申塔があったので撮ってみました。

ここには6基の庚申塔がありますが、一番古いのは寛永9年壬申(1632)に建立されたものです。

ここからは、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行きます。


乙女稲荷神社に着いたので、下の西参道を撮ってみました。


取り敢えず、乙女稲荷神社の扁額と祭壇を撮ってみました。

ここからも、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行ってみました。


途中の西参道に、ご覧のような鳥居があったので下りてみました。

この鳥居の扁額は乙女稲荷神社になっていました。


石段を上って千本鳥居に戻ると、右側に徳川家宣胞衣塚がありました。

徳川家宣胞衣塚の説明案内板には、『六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えら、十数個の割り石が雑然と積み重ねられてある。・・・胞衣(えま)とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。・・・』と書いてありました。

更に、千本鳥居をくぐって先に行きます。

千本鳥居を全て通り抜けたので、後ろに見える楼門と一緒に鳥居を撮ってみました。
尚、千本鳥居を通り抜けると、邪気がきれいに祓われるみたいです。

正面から楼門を撮ってみました。


楼門の左右に隋身像があったので撮ってみました。
尚、左側の随身像は、第5代将軍・徳川家綱公、右側は水戸光圀公がモデルと言われています。

折角なので、楼門を斜めからも撮ってみました。

ツツジの時期ではありませんが、取り敢えず、楼門の左にあった「つつじ苑」を撮ってみました。


折角なので、アップでも撮ってみました。

神橋を渡って先に行くと、境内案内図があったので現在地を確認しました。
取り敢えず、表参道の大鳥居まで行ってみることにしました。

表参道の大鳥居に着いたので撮ってみました。

大鳥居の右側に、ご覧のような「根津神社略記」があったのですが、御祭神(須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公)の文字が微かに読めました。

大鳥居を正面から撮って、根津神社に入り直して西口に向かいました。

神橋から、桜門と右側に大きなカヤの木(?)があったので一緒に撮ってみました。

ついでに、桜門も撮ってみました。

西口へは、千本鳥居の下にある西参道から行ってみました。

先程は気が付かなかったのですが、乙女稲荷神社近くに途中から切られてる倒木がありました。
⇒ 若しかしたら、先日の台風で倒れたのかも知れませんね!?

最後に、重要文化財の案内板を撮って根津神社を後にしました。
根津神社の次は、千駄木2丁目交差点に出て谷中銀座に行ってみるとにしました。
<日本医科大学付属病院>

根津裏門坂を下って千駄木2丁目交差点に向かっていると、左側に日本医科大学付属病院が見えたので撮ってみました。
この病院は、丸山ワクチン(ガンを免疫療法で治す薬)を貰いに何回か来院したことがあります(昭和50年頃?)。
<千駄木2丁目交差点>

千駄木2丁目交差点に着いたので、右側のビルに挟まれた細い道から「へび道」に出ることにしました。
谷中銀座へは、「へび道」を通って三崎坂に出てから行きます。
尚、「へび道(旧藍染川)」は、ダウンロードした阿部建設の「散策マップ・谷中」に載っていました。



「散策マップ・谷中」に従って進むありませんが、藍染保育園の右側を通つてSincerite(サンセリテ)の前の道に出ました。
「へび道」の案内は出ていませんでしたが、この道が「へび道」のようでした。


「へび道」に、鞄・バック専門店「大崎バッグ」があったので撮ってみました。




「へび道」は、ご覧のようにクネクネした路地道になっていますが、文京区千駄木と台東区谷中の境界になっています。

「へび道」を10分程歩くと、ご覧のような蕎麦店「大島屋」のある三崎坂に着きました。

振り返って、歩いてきた「へび道」を撮ってみました。
「谷中をぶらり(谷中銀座・諏方神社編)」に続く。
前回は、観光マップが手に入らなかったので、今回は事前に阿部建設の「散策マップ・谷中」をダウンロードして千代田線の根津駅から西日暮里駅まで歩いてみました。
<不忍通り>

根津駅で降りて「不忍通り」に出ると、ご覧のような案内が出ていたので、根津神社へは問題なく行けそうです。

傍にあった旧町名案内板には、『現在の町名「根津」は昭和40年までは「根津八重垣町」で、根津神社の祭神(須佐之男命)の歌「八雲起つ 出雲八重垣つまごみに 八重垣造る その八重垣を」に由来し、根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多く書かれていて、ネズミは大黒天(大国主命)の使いであると言われている。』のようなことが書いてありました。

取り敢えず、ご覧のような「不忍通り」を歩いて根津神社に行ってみました。

根津小学校の信号に遣って来ると、向かい側に、ご覧のような施設(不忍通りふれあい館?)があったので撮ってみました。

又、パネル看板が面白い「くし家串猿」があったので撮ってみました。
<根津神社>

「不忍通り」を暫く歩いて千駄木2丁目の交差点を左に曲がって坂を上ると、ご覧のような鳥居のある根津神社の北口に着きました。

取り敢えず、立派な扁額を撮ってみました。

近くに、境内案内図があったので現在地を確認しました。

鳥居をくぐると、参道は二股(東参道、西参道)に分かれていました。
取り敢えず、人が歩いていない社務所や客殿のある東参道に行ってみました。

客殿の先に、ご覧のような苔生した古木があったので撮ってみました。
尚、奥にみえるのは社殿(拝殿・本殿・幣殿)の透塀(すかしべい)です。

取り敢えず、客殿を撮ってみましたが、11時から行われる挙式の案内が出ていました。


参道に戻ると、ご覧のような古木があって保護樹木の名札が付いていました。

参道に、ご覧のような案内があったので撮ってみました。

根津神社は、日本武尊が千駄木の地に建立したと伝えられていて、五代将軍・徳川綱吉は家宣(六代将軍)の産土神として宝永3年(1706)千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営したようです。
尚、国の重要文化財に指定されているのは、社殿(拝殿・本殿・幣殿)・唐門・西門・透塀・楼門で、銅燈籠のことは記述されていませんでした。

ついでに、「東京十社めぐり」(根津神社、神田神社、亀戸天神社、富岡八幡宮、芝大神宮、品川神社、氷川神社、日枝神社、白山神社、王子神社)の案内もあったので撮ってみました。
取り敢えず、社殿に行ってお参りしてから千本鳥居を通り抜けることにしました。

国宝に、本殿・幣殿・拝殿・唐門が指定されている大きな掲示板(昭和6年12月14日付)があったので撮ってみましたが、国の重要文化財との違いが分かりません。


左側に、ご覧のような舞殿があったのでアップで撮ってみました。

又、参道の背後に、堂々とした楼門(ろうもん)の後姿が見えたので撮ってみました。

取り敢えず、手水舎に行って身を清めることにしました。

手水舎には、『この水盤は300年程前、真鶴産本小松石の一枚岩から切り出して造られたものです。・・・』の説明板が立っていました。

ご覧のような唐門(からもん)を通って、社殿に行ってみました。

取り敢えず、立派な拝殿を撮ってお参りをしました。

拝殿では、客殿に挙式の案内が出てた二人が式を挙げている最中でした。

お参りしてから、拝殿の向拝を撮ってみました。


ついでに、左右の向拝柱にあった立派な木鼻をアップで撮ってみました。

社殿の左側に、「願掛けカヤの木」があったので撮ってみました。

社殿から西参道に出て、右側に透塀を見ながら西口に向かいました。

透塀も国の重要文化財に指定されているので改めて撮ってみました。

西参道の左側にある池の上には、千本鳥居の途中にある乙女稲荷神社が見えました。


折角なので、舞台風の乙女稲荷神社をアップで撮ってみました。

根津神社の西口に着きました。

折角なので、根津神社の西口の鳥居を正面から撮ってみました。

根津神社の西口・北口の前を通っている坂は、根津裏門坂と言われているみたいです。
尚、根津裏門坂の左側には日本医科大学付属病院がありました。

千本鳥居は手前にある石段を登って回ることにしましたが、奥の鳥居が気になったので行ってみました。

奥の鳥居には、乙女稲荷神社の扁額が掛かっていました。

手前にあった石段を登ると、駒込稲荷神社があって、手前の岩には何か屯していました。

岩に近づいてみると、ご覧のような小さな狐(?)がいました。


お参りしてから駒込稲荷神社の祭壇を撮ってみました。
尚、駒込稲荷神社は、六代将軍の父徳川綱重公の山手屋敷の守り神として寛文元年(1661)に祀られた社みたいです。

駒込稲荷神社でお参りしてから、手水舎の横を通って鳥居の先にある朱色の千本鳥居に向かいました。
ところで、この手水舎と鳥居の管轄は駒込稲荷神社にあるのですかね!?

取り敢えず、スタート地点の鳥居を撮って、千本鳥居の通り抜けを開始しました。


途中に、ご覧のような庚申塔があったので撮ってみました。

ここには6基の庚申塔がありますが、一番古いのは寛永9年壬申(1632)に建立されたものです。

ここからは、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行きます。


乙女稲荷神社に着いたので、下の西参道を撮ってみました。


取り敢えず、乙女稲荷神社の扁額と祭壇を撮ってみました。

ここからも、ご覧のような千本鳥居をくぐって先に行ってみました。


途中の西参道に、ご覧のような鳥居があったので下りてみました。

この鳥居の扁額は乙女稲荷神社になっていました。


石段を上って千本鳥居に戻ると、右側に徳川家宣胞衣塚がありました。

徳川家宣胞衣塚の説明案内板には、『六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えら、十数個の割り石が雑然と積み重ねられてある。・・・胞衣(えま)とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。・・・』と書いてありました。

更に、千本鳥居をくぐって先に行きます。

千本鳥居を全て通り抜けたので、後ろに見える楼門と一緒に鳥居を撮ってみました。
尚、千本鳥居を通り抜けると、邪気がきれいに祓われるみたいです。

正面から楼門を撮ってみました。


楼門の左右に隋身像があったので撮ってみました。
尚、左側の随身像は、第5代将軍・徳川家綱公、右側は水戸光圀公がモデルと言われています。

折角なので、楼門を斜めからも撮ってみました。

ツツジの時期ではありませんが、取り敢えず、楼門の左にあった「つつじ苑」を撮ってみました。


折角なので、アップでも撮ってみました。

神橋を渡って先に行くと、境内案内図があったので現在地を確認しました。
取り敢えず、表参道の大鳥居まで行ってみることにしました。

表参道の大鳥居に着いたので撮ってみました。

大鳥居の右側に、ご覧のような「根津神社略記」があったのですが、御祭神(須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公)の文字が微かに読めました。

大鳥居を正面から撮って、根津神社に入り直して西口に向かいました。

神橋から、桜門と右側に大きなカヤの木(?)があったので一緒に撮ってみました。

ついでに、桜門も撮ってみました。

西口へは、千本鳥居の下にある西参道から行ってみました。

先程は気が付かなかったのですが、乙女稲荷神社近くに途中から切られてる倒木がありました。
⇒ 若しかしたら、先日の台風で倒れたのかも知れませんね!?

最後に、重要文化財の案内板を撮って根津神社を後にしました。
根津神社の次は、千駄木2丁目交差点に出て谷中銀座に行ってみるとにしました。
<日本医科大学付属病院>

根津裏門坂を下って千駄木2丁目交差点に向かっていると、左側に日本医科大学付属病院が見えたので撮ってみました。
この病院は、丸山ワクチン(ガンを免疫療法で治す薬)を貰いに何回か来院したことがあります(昭和50年頃?)。
<千駄木2丁目交差点>

千駄木2丁目交差点に着いたので、右側のビルに挟まれた細い道から「へび道」に出ることにしました。
谷中銀座へは、「へび道」を通って三崎坂に出てから行きます。
尚、「へび道(旧藍染川)」は、ダウンロードした阿部建設の「散策マップ・谷中」に載っていました。



「散策マップ・谷中」に従って進むありませんが、藍染保育園の右側を通つてSincerite(サンセリテ)の前の道に出ました。
「へび道」の案内は出ていませんでしたが、この道が「へび道」のようでした。


「へび道」に、鞄・バック専門店「大崎バッグ」があったので撮ってみました。




「へび道」は、ご覧のようにクネクネした路地道になっていますが、文京区千駄木と台東区谷中の境界になっています。

「へび道」を10分程歩くと、ご覧のような蕎麦店「大島屋」のある三崎坂に着きました。

振り返って、歩いてきた「へび道」を撮ってみました。
「谷中をぶらり(谷中銀座・諏方神社編)」に続く。