6月13日(土)は三溪園に行ってみました。横浜で生まれ育ったのですが、三溪園に行くのは初めてです。
尚、三溪園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三溪(本名:富太郎)が建てた日本庭園です。
又、三溪園は、横浜駅、桜木町駅や元町・中華街駅から市営バスに乗ってバス停「本牧三溪園前」で降りて徒歩5分位のところにあります。
バスの運転手が、「本牧三溪園前」に着く前に「桜道」で降りた方が良いと教えてくれました(親切な運転手さんで良かったです)。
尚、バス運賃は均一運賃の220円(ICカード216円)でした。
取り敢えず、三溪園の入口脇の「みなと横浜回遊マップ」で現在地を確認します。
三溪園の入口脇で入園切符(500円)を購入して正門から園内に入りますが、三溪園は本牧埠頭にあるので、中に入ると何となく潮の香りがしました。
三溪園案内図で現在地を確認します。水色の大きい池が「大池」で、右側に蓮池(手前)や睡蓮池がありました。
三溪園は大きく内苑と外苑に分かれているので、目の前にある大池沿いの散策路を進んで、内苑から散策することにしました。
<大池>
取り敢えず、船が浮かんでいる「大池」を撮ってみました。
花菖蒲園越しに「三重塔」が見えたので、アップでも撮ってみました。
「大池」のさざ波をバックに花菖蒲をアップで撮ってみました。
散策路の右側の蓮池も撮ってみました。
蓮池の所どころに蓮の蕾があったので、アップで撮ってみました。
<鶴翔閣(かくしょうかく)>
蓮池を超えると、右側に原三溪が自ら命名した「鶴翔閣」があったので行ってみました。
「鶴翔閣」は、原三溪が明治35(1902)年に個人の住宅として建てたもので、延床面積は約290坪もありました。
「鶴翔閣」は市指定有形文化財に指定されていますが、来賓の接遇、披露宴、会議、パーティーなどで使えるみたいですよ!
「鶴翔閣」の外観を撮って散策路に戻りました。
散策路に戻ると、今度はご覧のような睡蓮池がありました。
睡蓮池の所どころに睡蓮が咲いていたので、こちらもアップで撮ってみました。
散策路からの「大池」の眺めが素晴らしかったので、正面に見えた観心橋と涵花亭をアップで撮ってみました。
ついでに、入口の正門方面も撮ってみました。
藤棚の左に見えるのが入る時にあった花菖蒲園です。
睡蓮池を過ぎると管理事務所があって、裏の方から三溪記念館に入れそうなので行ってみることにしました。
管理事務所の前の庭に紫陽花が咲いていたのですが、残念ながら庭の中に入ることは出来ませんでした。
<御門(ごもん)>
内苑の入口(?)に、ご覧のような御門があったので撮ってみました。
御門は京都東山の西方寺にあった薬医門を移築したもので、市有形文化財に指定されています。
<白雲亭(はくうんてい)>
御門をくぐると、右側に原三溪の隠居所の白雲亭があったのですが中へは入れませんでした。
白雲亭の向かい側に、三溪記念館があって入場無料なのでのぞいてみました。
三溪記念館は、原三溪の実績やゆかりの資料・美術品などを紹介していましたが撮影禁止でした。
三溪記念館を見学してから散策路に戻ると、ご覧のような立派な門がありました。
説明板はありませんでしたが、後ろに「臨春閣」があったのでその門かも知れませんね!?
<臨春閣(りんしゅんかく)>
取り敢えず、門の後の方にある「臨春閣」に行ってみました。
「臨春閣」は、紀州候初代の徳川頼信が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘といわれています。
又、三溪園に移築されたのは大正6(1917)年で、重要文化財に指定されています。
パンフレットに、内部には狩野派などの絵師による障壁画があると書いてあったので撮ってみましたが・・・
離れて見ると、「臨春閣」は大きな建物で後ろの方にも続いていました。
右側に見えるのが先程行った建物です。
池を回り込むように散策路を通って「臨春閣」の西側に行ってみることにしました。
散策路の途中に、重要文化財に指定されている「旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)」があったので撮ってみました。
「旧天瑞寺寿塔覆堂」は、豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納める建物で、三溪園には明治38(1905)年に移築されました。
又、散策路にはご覧のような橋(亭謝?)もあったので撮ってみました。
右に見えるのが「臨春閣」の西側の建物です。
階段が付いている「次の間(?)」を撮ってみましたが、障壁画は上手く撮れていませんでした。
説明板には、8代将軍吉宗が幼い時に「臨春閣」で育ったと出ていたので、吉宗になったつもりで庭を撮ってみました。 ⇒ 俺は、徳田新之助だ!?
「臨春閣」の脇に、豊臣秀吉が愛用したと伝えられる「瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち)」があったのでアップで撮ってみました。
「瓢箪文手水鉢」の脇に急な石段があったので行ってみました。
<月華殿(げっかでん)>
石段を昇りきると、重要文化財に指定されている「月華殿」がありました。
「月華殿」は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てられたと伝えられています。
<金毛窟(きんもうくつ)>
「月華殿」の隣に、「金毛窟」があったので撮ってみました。
「金毛窟」は、原三溪が大正7(1918)年に建てた一畳台目(1.8畳ほど)の茶室で、重要文化財に指定されています。
<天授院(てんじゅいん)>
更に、散策路を進むと「天授院」がありました。
「天授院」は、建長寺近くの心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂の建物で、重要文化財に指定されています。
内苑の西の外れまで来たので散策路を下って南の方に行ってみることにしました。
<聴秋閣(ちょうしゅうかく)>
散策路を下ると重要文化財に指定されている「聴秋閣」がありました。
「聴秋閣」は、二条城内にあったといわれ、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣で、大正11(1922)年に移築されています。
後ろから団体さんが来たので、正面に回らないで先を急ぎました。
散策路を更に下ると、ご覧のような道標がありました。
道標が判読出来なかったので、取り敢えず右の方に行ってみることにました。
散策路を下ると、ご覧のような石棺が置いてありました。
<春草廬(しゅんそうろ)>
石棺の手前の道を右に行くと「春草廬」がありました。
「春草廬」は、織田信長の弟・有楽(うらく)が建てといわれる三畳台目(3.8畳ほど)の茶室です。
「春草廬」も重要文化財に指定されていて、移築は大正11(1922)年です。
「春草廬」の前に東大寺礎石と伝えられる伽藍石(がらんいし)があったのでアップで撮ってみました。
「春草廬」を後に散策路を下ると、あまり見かけない木があったので撮ってみました。
この木にはノウゼンカズラ科の木大角豆(きささげ)の名札が付いていました。
⇒ 後で調べたら、上の方にある淡い黄色のが花、細長いのは果実だったみたいです。
<蓮華院(れんげいん)>
散策路を暫く下ると、原三溪が大正16(1917)年に建てた茶室「蓮華院」がありました。
「蓮華院」の脇にあった竹林が見事だったので撮ってから海岸門に向かいました。
海岸門の先は外苑になっています。
「三溪園(外苑)をぶらり」に続く。
尚、三溪園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三溪(本名:富太郎)が建てた日本庭園です。
又、三溪園は、横浜駅、桜木町駅や元町・中華街駅から市営バスに乗ってバス停「本牧三溪園前」で降りて徒歩5分位のところにあります。
バスの運転手が、「本牧三溪園前」に着く前に「桜道」で降りた方が良いと教えてくれました(親切な運転手さんで良かったです)。
尚、バス運賃は均一運賃の220円(ICカード216円)でした。
取り敢えず、三溪園の入口脇の「みなと横浜回遊マップ」で現在地を確認します。
三溪園の入口脇で入園切符(500円)を購入して正門から園内に入りますが、三溪園は本牧埠頭にあるので、中に入ると何となく潮の香りがしました。
三溪園案内図で現在地を確認します。水色の大きい池が「大池」で、右側に蓮池(手前)や睡蓮池がありました。
三溪園は大きく内苑と外苑に分かれているので、目の前にある大池沿いの散策路を進んで、内苑から散策することにしました。
<大池>
取り敢えず、船が浮かんでいる「大池」を撮ってみました。
花菖蒲園越しに「三重塔」が見えたので、アップでも撮ってみました。
「大池」のさざ波をバックに花菖蒲をアップで撮ってみました。
散策路の右側の蓮池も撮ってみました。
蓮池の所どころに蓮の蕾があったので、アップで撮ってみました。
<鶴翔閣(かくしょうかく)>
蓮池を超えると、右側に原三溪が自ら命名した「鶴翔閣」があったので行ってみました。
「鶴翔閣」は、原三溪が明治35(1902)年に個人の住宅として建てたもので、延床面積は約290坪もありました。
「鶴翔閣」は市指定有形文化財に指定されていますが、来賓の接遇、披露宴、会議、パーティーなどで使えるみたいですよ!
「鶴翔閣」の外観を撮って散策路に戻りました。
散策路に戻ると、今度はご覧のような睡蓮池がありました。
睡蓮池の所どころに睡蓮が咲いていたので、こちらもアップで撮ってみました。
散策路からの「大池」の眺めが素晴らしかったので、正面に見えた観心橋と涵花亭をアップで撮ってみました。
ついでに、入口の正門方面も撮ってみました。
藤棚の左に見えるのが入る時にあった花菖蒲園です。
睡蓮池を過ぎると管理事務所があって、裏の方から三溪記念館に入れそうなので行ってみることにしました。
管理事務所の前の庭に紫陽花が咲いていたのですが、残念ながら庭の中に入ることは出来ませんでした。
<御門(ごもん)>
内苑の入口(?)に、ご覧のような御門があったので撮ってみました。
御門は京都東山の西方寺にあった薬医門を移築したもので、市有形文化財に指定されています。
<白雲亭(はくうんてい)>
御門をくぐると、右側に原三溪の隠居所の白雲亭があったのですが中へは入れませんでした。
白雲亭の向かい側に、三溪記念館があって入場無料なのでのぞいてみました。
三溪記念館は、原三溪の実績やゆかりの資料・美術品などを紹介していましたが撮影禁止でした。
三溪記念館を見学してから散策路に戻ると、ご覧のような立派な門がありました。
説明板はありませんでしたが、後ろに「臨春閣」があったのでその門かも知れませんね!?
<臨春閣(りんしゅんかく)>
取り敢えず、門の後の方にある「臨春閣」に行ってみました。
「臨春閣」は、紀州候初代の徳川頼信が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘といわれています。
又、三溪園に移築されたのは大正6(1917)年で、重要文化財に指定されています。
パンフレットに、内部には狩野派などの絵師による障壁画があると書いてあったので撮ってみましたが・・・
離れて見ると、「臨春閣」は大きな建物で後ろの方にも続いていました。
右側に見えるのが先程行った建物です。
池を回り込むように散策路を通って「臨春閣」の西側に行ってみることにしました。
散策路の途中に、重要文化財に指定されている「旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)」があったので撮ってみました。
「旧天瑞寺寿塔覆堂」は、豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納める建物で、三溪園には明治38(1905)年に移築されました。
又、散策路にはご覧のような橋(亭謝?)もあったので撮ってみました。
右に見えるのが「臨春閣」の西側の建物です。
階段が付いている「次の間(?)」を撮ってみましたが、障壁画は上手く撮れていませんでした。
説明板には、8代将軍吉宗が幼い時に「臨春閣」で育ったと出ていたので、吉宗になったつもりで庭を撮ってみました。 ⇒ 俺は、徳田新之助だ!?
「臨春閣」の脇に、豊臣秀吉が愛用したと伝えられる「瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち)」があったのでアップで撮ってみました。
「瓢箪文手水鉢」の脇に急な石段があったので行ってみました。
<月華殿(げっかでん)>
石段を昇りきると、重要文化財に指定されている「月華殿」がありました。
「月華殿」は、徳川家康が慶長8年(1603)京都伏見城内に建て、諸大名伺候の際の控室に当てられたと伝えられています。
<金毛窟(きんもうくつ)>
「月華殿」の隣に、「金毛窟」があったので撮ってみました。
「金毛窟」は、原三溪が大正7(1918)年に建てた一畳台目(1.8畳ほど)の茶室で、重要文化財に指定されています。
<天授院(てんじゅいん)>
更に、散策路を進むと「天授院」がありました。
「天授院」は、建長寺近くの心平寺跡にあった禅宗様の地蔵堂の建物で、重要文化財に指定されています。
内苑の西の外れまで来たので散策路を下って南の方に行ってみることにしました。
<聴秋閣(ちょうしゅうかく)>
散策路を下ると重要文化財に指定されている「聴秋閣」がありました。
「聴秋閣」は、二条城内にあったといわれ、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣で、大正11(1922)年に移築されています。
後ろから団体さんが来たので、正面に回らないで先を急ぎました。
散策路を更に下ると、ご覧のような道標がありました。
道標が判読出来なかったので、取り敢えず右の方に行ってみることにました。
散策路を下ると、ご覧のような石棺が置いてありました。
<春草廬(しゅんそうろ)>
石棺の手前の道を右に行くと「春草廬」がありました。
「春草廬」は、織田信長の弟・有楽(うらく)が建てといわれる三畳台目(3.8畳ほど)の茶室です。
「春草廬」も重要文化財に指定されていて、移築は大正11(1922)年です。
「春草廬」の前に東大寺礎石と伝えられる伽藍石(がらんいし)があったのでアップで撮ってみました。
「春草廬」を後に散策路を下ると、あまり見かけない木があったので撮ってみました。
この木にはノウゼンカズラ科の木大角豆(きささげ)の名札が付いていました。
⇒ 後で調べたら、上の方にある淡い黄色のが花、細長いのは果実だったみたいです。
<蓮華院(れんげいん)>
散策路を暫く下ると、原三溪が大正16(1917)年に建てた茶室「蓮華院」がありました。
「蓮華院」の脇にあった竹林が見事だったので撮ってから海岸門に向かいました。
海岸門の先は外苑になっています。
「三溪園(外苑)をぶらり」に続く。
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