引き続きまして幽玄堂さんへのレスですー
あ、その前に、
>>…「融の大臣の能に、鬼になりて、大臣をせむる」と有る。大臣を責める。大臣が
怨霊になるのではなく、責められる方だったとは…。
これはやはり融が「鬼になり」「大臣をせ」めた、読むのが自然ではないでしょうか。いまの「白式舞働之伝」という小書がこの古い形の『融』の名残だ、という説もあるけれど。。どうなんでしょうね。。
さて「石」に経文を書く、という事について、幽玄堂さんのおっしゃるように「賽の河原」のイメージは、なるほど確かにこの場面に埋め込まれているように感じます。そう考えてくると、ぬえのイメージもふくらんできました。
「賽の河原の石積み」のイメージ。。贖罪のために石を積んでも積んでもそれを壊しに来る地獄の鬼。。でも『鵜飼』の鬼はそのような 罪人に責め苦を与える存在ではなく、仏による救済の代理人です。。すると、そもそも「石積み」に我々が持つイメージの方がどこかで歪曲されてきたのでは?
贖罪のための石積みの行為と、それが永久になし得ない事は、そのまま『鵜飼』の前シテの姿~死後、僧に懺悔のために見せる鵜飼の有り様の中でも、やっぱり「後の世も忘れ果てて面白や」と言ってしまう欲望に負ける人間の業の姿~と重なって見えてきます。すると、石積みを邪魔しに来る鬼、というのも じつは永久に続く石積みという輪廻を断ち切る役目なのかも。。
この能が作られた頃は末法思想の絶頂期ですし、『地獄草紙』『病草紙』が流布したように、むしろ来世への恐怖から地獄が「悪人が連れて行かれる恐ろしい場所という観念ばかりが先行して、ある種の「俗化」をしたように ぬえには感じられて、ひょっとすると『鵜飼』の作者は、それをもう一度仏の慈悲との関係にリンクさせて再構築しようとしたのかも。するとこの曲は作者の「忘れられた鬼」へのオマージュ。。?
う~~ん。。この曲は脚本に本当に破綻がないので、あるいは二重三重に作者の意図が込められているのかもしれません。。でも ぬえにはいまそれを証明する証拠がない。。
『鵜飼』は研究者によって「護法型」と分類される好例の曲だそうで、それについても言いたい事もあるし、また「鵜飼」という職業そのものについても、鵜は本来「神聖な鳥」だという見解があったりで、知っておくべき事は多いのだけれども。。今回は問題提起、というところで諦めざるを得ません。また機会があれば調べてみましょう。
。。閑話休題。
>>…この曲の発祥とされる石和付近では、丸石を積み上げた“道祖神”が現在でも祭られている。
石和には『鵜飼』に関係する数々の寺宝が伝えられる「鵜飼山 遠妙寺」というお寺がありまして、そこには「南無妙法蓮華経」の七字を記した経石、鵜の形をした「鵜石」、そして鵜を入れる「魚篭(びく)石」というものまであるそうです。う~ん、これはどうなんだろう。。
おまけに この「七字の経石」は一つが割れていて、それは同寺の記録に「正保年中 松江少将松平出羽守直政公 当山へ参詣霊宝等拝礼あり、七字の経石墨薄く文字判明ならず、住職立善院日祐上人と交渉 鉄扇を以て割りたるに、妙字の墨色石中に通徹しあるを見、感涙を流し、この霊跡を幕府へ上奏、慶安元年七月 三代将軍家光より御朱印を賜る」とのこと。
事実はさておき、ぬえは「ここにも家光さんが!」と思いました。この人は本当にスゴイ人で、東照宮を造った事は有名ながら、信仰厚く精力的にいろいろな寺社の援助を惜しまなかった人。東京にいると家光さんの功績はすぐに気がつくけれど、地方に行っても「ここにも!」と思う事がよくあります。まあ、伝説のようなものもあるでしょうけれど。。
あ、その前に、
>>…「融の大臣の能に、鬼になりて、大臣をせむる」と有る。大臣を責める。大臣が
怨霊になるのではなく、責められる方だったとは…。
これはやはり融が「鬼になり」「大臣をせ」めた、読むのが自然ではないでしょうか。いまの「白式舞働之伝」という小書がこの古い形の『融』の名残だ、という説もあるけれど。。どうなんでしょうね。。
さて「石」に経文を書く、という事について、幽玄堂さんのおっしゃるように「賽の河原」のイメージは、なるほど確かにこの場面に埋め込まれているように感じます。そう考えてくると、ぬえのイメージもふくらんできました。
「賽の河原の石積み」のイメージ。。贖罪のために石を積んでも積んでもそれを壊しに来る地獄の鬼。。でも『鵜飼』の鬼はそのような 罪人に責め苦を与える存在ではなく、仏による救済の代理人です。。すると、そもそも「石積み」に我々が持つイメージの方がどこかで歪曲されてきたのでは?
贖罪のための石積みの行為と、それが永久になし得ない事は、そのまま『鵜飼』の前シテの姿~死後、僧に懺悔のために見せる鵜飼の有り様の中でも、やっぱり「後の世も忘れ果てて面白や」と言ってしまう欲望に負ける人間の業の姿~と重なって見えてきます。すると、石積みを邪魔しに来る鬼、というのも じつは永久に続く石積みという輪廻を断ち切る役目なのかも。。
この能が作られた頃は末法思想の絶頂期ですし、『地獄草紙』『病草紙』が流布したように、むしろ来世への恐怖から地獄が「悪人が連れて行かれる恐ろしい場所という観念ばかりが先行して、ある種の「俗化」をしたように ぬえには感じられて、ひょっとすると『鵜飼』の作者は、それをもう一度仏の慈悲との関係にリンクさせて再構築しようとしたのかも。するとこの曲は作者の「忘れられた鬼」へのオマージュ。。?
う~~ん。。この曲は脚本に本当に破綻がないので、あるいは二重三重に作者の意図が込められているのかもしれません。。でも ぬえにはいまそれを証明する証拠がない。。
『鵜飼』は研究者によって「護法型」と分類される好例の曲だそうで、それについても言いたい事もあるし、また「鵜飼」という職業そのものについても、鵜は本来「神聖な鳥」だという見解があったりで、知っておくべき事は多いのだけれども。。今回は問題提起、というところで諦めざるを得ません。また機会があれば調べてみましょう。
。。閑話休題。
>>…この曲の発祥とされる石和付近では、丸石を積み上げた“道祖神”が現在でも祭られている。
石和には『鵜飼』に関係する数々の寺宝が伝えられる「鵜飼山 遠妙寺」というお寺がありまして、そこには「南無妙法蓮華経」の七字を記した経石、鵜の形をした「鵜石」、そして鵜を入れる「魚篭(びく)石」というものまであるそうです。う~ん、これはどうなんだろう。。
おまけに この「七字の経石」は一つが割れていて、それは同寺の記録に「正保年中 松江少将松平出羽守直政公 当山へ参詣霊宝等拝礼あり、七字の経石墨薄く文字判明ならず、住職立善院日祐上人と交渉 鉄扇を以て割りたるに、妙字の墨色石中に通徹しあるを見、感涙を流し、この霊跡を幕府へ上奏、慶安元年七月 三代将軍家光より御朱印を賜る」とのこと。
事実はさておき、ぬえは「ここにも家光さんが!」と思いました。この人は本当にスゴイ人で、東照宮を造った事は有名ながら、信仰厚く精力的にいろいろな寺社の援助を惜しまなかった人。東京にいると家光さんの功績はすぐに気がつくけれど、地方に行っても「ここにも!」と思う事がよくあります。まあ、伝説のようなものもあるでしょうけれど。。