ぬえの能楽通信blog

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義経への限りないオマージュ…『屋島』(その6)

2023-04-08 03:11:19 | 能楽
能「屋島」で前シテによって語られる合戦の経緯はこういう感じ。
①源氏の大将・義経の名乗り、言葉戦い
②平家の軍船から景清らが降り立ち源氏からは三保谷らが応戦→錣引きへ
③これを見て義経が馬で汀に出陣
④佐藤継信が能登守教経の矢に当たって戦死
⑤平家の軍船でも菊王丸が討たれる
⑥この二人の戦死を境に源平は興覚めして陸と海に別れて合戦が終了

この順番に語られ、これはもっぱら「錣引き」についてだけ語ったわけで、「扇の的」のエピソードも「弓流し」も出てきません。ここで「平家物語」での屋島合戦の全体の経緯を確認してみると次のようになります。

①義経ほか源氏の武将が沖に逃げた平家軍に対して名乗り
②宗盛の命により教経ら五百余人が陸上に上がり合戦に臨む
③言葉戦いの末、教経は義経を弓で狙うが佐藤継信が立ちはだかって戦死
④菊王丸が継信の首を狙って走りかかるが反対に忠信の射た矢に当たり戦死
⑤これに興覚めた両軍が引き上げ合戦が中断するが平家からの挑発(扇の的)
⑥那須与一が扇に命中させ両軍が褒め称えたが義経の命により与一はさらに敵を射殺す
⑦これにより合戦が再開。→美尾屋十郎と景清の「錣引き」
⑧源氏は騎馬で海に打ち入れて戦い義経も参戦する
⑨ところが義経が弓を海に取り落とし、敵の手にかかる危険を冒して拾い上げた(弓流し)
⑩夜に入り休戦となり翌朝には志度浦で小規模の戦闘があったが平家は壇ノ浦彦島に退いた

補足すれば佐藤継信は弟・忠信とともに奥州の藤原秀衡から義経に差し向けられた秀衡の家臣です。幼少期を鞍馬寺で過ごしながら仏道修行にはなじめず天狗から兵法を習い、五条の橋で弁慶を家来にしたエピソードがあるように、平治の乱以後正統な武家の棟梁としての成長からはずれた義経には家格に似合う家臣はおらず、元猟師とか元山賊とかとされる生没年不詳の怪しげで実在も疑問視されるような者ばかり。この屋島の合戦でも教経の矢面から義経を守ろうとした家臣たちは教経から「そこのき候らへ 矢面の雑人ばら」と罵られています。こんな中で幼少期に自分を頼った義経をかわいがった秀衡が、頼朝の挙兵に際して差し向けたのが佐藤兄弟で、義経の家来の中では比較的、ではありますが出自が明らかな人物です。

屋島の合戦で平教経の矢面に立って身を投じて義経を守った継信。その首を取ろうと駆けつけたのが菊王丸で、これは教経の子どもではなく彼の身辺の世話をする侍童。童とはいいますが「平家物語」では「大力の剛の者」と屈強の若者と記されています。兄の首を討たせじと忠信に射られた菊王丸。教経はこれも剛腕で、片手で菊王丸を船に投げ入れ、継信も源氏の陣に運ばれてそれぞれ介抱されますがどちらも絶命。

「平家物語」ではこの二人の従者の死で源平両軍に厭戦気分が起こり、また日暮れも迫って合戦は休止となります。ところがそこに平家軍の中から飾った舟が現れて、十八九歳ほどの女房が扇を竿の先につけて立て、陸の源氏の方を差し招く挑発が起きます。有名な「扇の的」で、屋島の合戦の代名詞のように思われていて、能「屋島」では替えの間狂言でかなりクローズアップして演じられる事はあるものの、この替えの間狂言が演じられない普段の上演では能「屋島」ではこの話題に触れません。まあ、「錣引き」や「弓流し」と違って敵と戦う場面ではないからシテ方からすれば演じにくいエピソードとも言えます。

話は脱線しますが、この「扇の的」で射手として選ばれた那須与一は「この矢はづさせ給ふな」と神仏に祈りを込めるのですが、その神仏がまずは八幡大菩薩、さらに故郷下野の那須の神である日光権現、宇都宮と続いて最後に現れるのが「温泉(湯泉とも)大明神」。不思議な名ではありますがこれは那須高原の茶臼岳の中腹にある殺生石の史跡のすぐそばにあります。殺生石のように今でも噴煙をあげる茶臼岳の付近では火山活動の影響が大きく、この神秘への崇敬が生んだ神社なのでしょう。そして殺生石も去年 突然二つに割れる事件が起こり話題になりました。

ところで敵将・平教経は屋島合戦でもこのように欠くことのできない主要登場人物で、「屋島」ではキリでも死後修羅道に堕ちた義経が永遠の闘争の相手として名前が現れ、「平家物語」では壇ノ浦でも義経と壮絶な戦いを繰り広げるのですが。。

なんと「吾妻鏡」では教経はすでに屋島合戦の1年前、一の谷の合戦で戦死した、と書かれています。