ぬえの能楽通信blog

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『朝長』について(その33=懺法について その3)

2006-06-18 09:03:38 | 能楽
結局、このように前シテは持ち物などのほかには通常の『朝長』とは演出に大きな違いはありません。しかし地謡には大切な心得があって、中入する前に地謡の上歌「悲しきかなや」の中で「答ふる者もさらになし」と謡ったあとに大小鼓がひとクサリ(1小節)だけ特殊な手を打ち、地謡はそれを聞いてからあらためて「三世十方の」と謡い出すところがあります。「三世十方ノ出」として独立した小書として挙げられている演出ですが、実際には「懺法」のときに自動的に付随して演じられているようで、「懺法」のときにはわざわざ「三世十方ノ出」と明記していなくても、現在では必ずこの演出で演じられています。

こうして前シテが中入して、通常の能ではここで間狂言の「語リ」となるのですが、「懺法」の際にはしばしばワキが「大崩ノ語」を語ります。おワキの流儀により内容には異同があるでしょうが、ぬえが拝聴した経験では、義朝の挙兵から都六波羅での奮戦、朝長の負傷、源家一族の敗走、朝長の最期、そして野間での義朝の最期までが語られるようで、ワキの「語リ」としてはかなり長大なものではないでしょうか。

中入の通例では間狂言が登場してワキと対面し、ワキの方から前シテから聞いた物語についての解説を間狂言に頼み、それを受けて間狂言が語る、というのが常套の演出ですが、このようにおワキが語る場合は、間狂言は「語リ」をせずに、逆に間狂言からワキヘ「語リ」の所望をしておワキがそれを受ける、という形になります。

ところで、ぬえはこれまで拝見した「懺法」のお舞台で必ずこの「大崩ノ語」を拝聴していると思うのですが、最近「懺法の時には間狂言の語リとワキの語リのふたつが演じられる」という解説を読みました。「語リ」がふたつ。。 どうも記憶違いか、ぬえにはそういう「懺法」の上演に接した覚えがなかったのですが。。そうしたらやはり最近、間狂言とワキのそれぞれが「語リ」を演じるお舞台に接する機会がありました。

この時は、間狂言(前シテ女長者に仕える者)が「長者に命じられて僧の世話をしよう」とワキの前へ出ると、その僧が、さきほど朝長の墓のありかを尋ねられた僧だと知って驚き、やがてワキから朝長の最期の有様を語るよう所望されて「語リ」となります。ついで間狂言から「都での大崩の次第」を語るようワキに所望があって、おワキの「大崩ノ語」となりました。中入だけで30分近くを要したのではないでしょうか。重厚なこの小書の一端をこの二つの「語リ」が担っている、と強く印象を持ちました。

なお、このワキの「大崩ノ語」は下掛宝生流では単に「語」と称し、番組に明記しない、という解説も見たことがあります。たしかに「大崩ノ語」ではなく「語」とする番組もあるので、それはお流儀の主張に従ったのでしょうでしょうが、「明記しない」わけではありませんでした。これはお客さまに親切になるように、おワキと相談のうえ、そう定められたのかもしれません。

ちなみに「小書」として謡本にも明記されていながら、実際には番組に書き出さないで演じたり、ある小書で演じるときに、それに付随して必ず別の小書も演じられ、その小書は番組に明記しない、という例はほかにもたくさんあります。

上記のように「懺法」には必ず「三世十方ノ出」は付属して演じられますが、これはほとんど番組には記される事がありません。また、たとえばお笛の重い習いとして『清経』の「恋之音取」がありますが、これは必ず番組に明記されて上演されるのに、同じくお笛の習いである『景清』の「松門之会釈」は番組に書かれたり書かれなかったり。ですからお客さまにとっても『景清』の上演に接するときには「今日は「松門之会釈」はあるのだろうか。。」という期待があります。

「恋之音取」はシテ方の演技と密接に関係して、シテもその譜についての充分な理解と知識を持った事前の稽古が欠かせないのに対して「松門之会釈」は「恋之音取」とくらべるとずっと短い譜で、しかもシテが作物の中で「松門ひとり閉ぢて。。」と謡い出す前にひとしきり吹かれ、シテはその譜が終わるのを作物の中で待って、それから謡い出すので、シテの演技とは直接の関連がありません。シテは笛の譜について、極端には自分の謡い出すキッカケさえわかっていれば上演に支障は来さないのです。それが番組への明記の有無の直接の理由ではないでしょうが。。

ところが、あるとき笛方とこの「松門之会釈」について話していたとき、面白い話も聞きました。やはりこのような笛の一管による演奏というのは、笛方にとってもかなり神経を遣う演奏なのだそうで、本当の事を言えば「松門之会釈」は番組に明記せず、演能の当日に吹くかどうかを決めさせてもらえるとありがたいのだそうです。これは一管という演奏には自分の体調の善し悪しまでもが直接影響をおよぼしてしまうからで、さすがに「恋之音取」のようにシテの演技や能の演出全体に影響がある小書の場合はそうもいかないが、シテの登場前に舞台に彩りを添える「松門之会釈」のような場合は笛方に上演の裁量を任せてほしいのだそうです。これはこれで見識のある意見だと思って ぬえは大変感心しました。

【おことわり】
この稿のポリシーについては→ 『朝長』について(その31=懺法について その1)をご参照ください。


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