ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『鵜飼』(その3)

2006-02-04 00:31:33 | 能楽
おしらせ→《翁付き『賀茂』素働 の項に画像を追加しました!》

舞台に入ったシテは「鵜舟にともす篝火の」と一セイを上げ(なぜか一セイの謡だけは「謡う」と言わない)、ついでサシ・下歌・上歌を謡います。切能としては珍しく正格な構成で、その内容も鵜飼舟にともす篝火と月の影の二つの光によそえて罪を重ねざるを得ない運命を対比させたり、牽牛・織女伝説の下敷きとなっている遊子・伯陽夫婦に言及するなど、ぬえは『鵜飼』の中ではこのあたりの謡に世阿弥の文体を感じるのですが。。ところが前述のように、『申楽談儀』で批判されているのもこの文章。世阿弥が「悪き所をばのぞき、よきことを入れ」たはずであるのに、批判されたこの文章が改められていないので、世阿弥以後にさらなる改変の手が加えられた、という説もあるようですが、ぬえは むしろ「悪き所をばのぞき、よきことを入れ」た、という世阿弥の言葉の方を再検討してみる必要もあるのではないか、と思います。

シテは謡の中ではわずかに二足ツメたりクツログ程度で、上歌を謡い終えると「いつもの如く御堂に上がり鵜を休めうずるにて候」と松明を振り立てながら脇座の方へ行き掛かり、松明を上げて二人の僧を見つけます。

解説が前後しますが、この曲のワキは「安房の清澄」から「甲斐」に向かう僧とその従僧で、言外にこの僧が日蓮であることが暗示されています。理由は定かではありませんが、同じく日蓮がワキとして登場する『身延』『現在七面』も同じくその名が明示されていません。

ワキは能の冒頭に名宣笛で登場し、ワキツレと共に定型通り道行を謡い終えるとアイ(里人)を尋ねて宿を貸してくれるよう頼みます。ところがアイは「所の大法で往来の者に宿を貸すことはできない」と言って断ります。その後は ワキが諦めて行き過ぎようとする→アイは気の毒なことだ、と呼び止める→ワキは喜ぶが、「川崎の御堂」に泊まることを勧められると、誰のものでもない御堂ならばあなたに借りる恩義はない、と言って御堂に向かう→アイはその御堂には夜な夜な光るものが出るから気を付けるように言うと、ワキは振り向きもせずに「法力をもって泊まり候べし」と答える。。という展開になりますが、これ、同じく世阿弥の作とされる『鵺』とまったく同じなのです。二つの曲の成立に何か関連があるのかも知れません。

さて御堂で出会ったシテとワキは問答を交わしますが、ワキはシテの生業=鵜飼は殺生戒に触れるのでほかの職業に就く事を勧め、シテは「若年よりこの業にて身命を助かり候程に、今さら止まっつべうもなく候」と答えます。シテの登場の時と同じく、罪を自覚しながらそれから逃れられない運命が繰り返し述べられていて、優れた作詞ですねー。このとき、それまでのやりとりを聞いていたワキツレが突然口を挟みます~二三年前にこの川下の岩落というところで同じような鵜使いに会い、私も殺生戒の事を教え諭しましたが、もっともだと思ったのか、その鵜使いは私を家に連れて行き、ひと晩もてなしてくれました~それを聞いた鵜使いは驚き、「さてはあなただったか」と言うとその鵜使いは亡くなった事を告げます。ワキに理由を問われて、説諭もむなしく、結局その後も鵜を使ったために命を落とした、と答えたシテは、鵜使いの最期を物語ります。

ここでシテは舞台の中央へ行って下居、松明をもみ消して前へ置き(こういう細かい型がちゃんと付けられているのが能の面白いところですね。もっともあとでシテが立ち上がる時に、拾い上げた松明を振り立てるとすぐに炎が上がることになっているので、下に置く時にもみ消しても、火種は松明の中でくすぶっているのでしょう。松明なんて、さすがに ぬえも実際に使った事はないのですが、メカニズムがようやくわかってきた。。)

『鵜飼』(その2)

2006-02-03 00:07:25 | 能楽
すっかり『鵜飼』についての書き込みをしそこなっていましたが、今日は稽古能で、お囃子方とはじめて合わせる機会となりました。じつはひとりで稽古している時に気づいたのですが、どうも太鼓の手組と型が合いにくいのでは。。と思っていたところがあって、稽古能が始まる前に太鼓方に伺ってみました。

すなわち後シテが橋掛りからはじめて舞台に入るところ、謡の分量に比べて型が多いのです。太鼓はどうしても謡に合わせて打つところなので、シテはよほどシッカリ謡わないと型がその中に納まりきれない。かと言って、後シテは早笛で走り出る鬼神ですのであんまり重く謡うわけにもいかない。いつもどうやっているのか太鼓方のKくんに聞いたところ、「そこは謡が延びる事が多いので、こちらも手を延ばして打つ事も多いです」という答えでした。やっぱり。

今日の稽古能では ぬえも初役なので、とりあえず定めの通り謡に合わせて打って頂いて、具合を見てみることにしました。で常寸通りで打って頂いたのですが、やってみると案の定 少々型が窮屈になってしまうようで。。K君は研能会当日も本役の太鼓方として ぬえの『鵜飼』を打ってくれる事になっているので、申合では謡を本位としながらも、型も見ながら打ってもらって頂いて、また研究する事になりました。

さて世阿弥が書き記した『鵜飼』についての記述の続きー

『申楽談儀』にはちょっと変わった記述があります。

◆ 鵜飼の初め、直面に竹笠着る。かやうのことは田舎などにてのことなり。時に
  よるべし。

ええっ!? 直面? 竹の笠。。。? (@_@)
「田舎などにて」と使用例が限定されているとはいえ、世阿弥時代には前シテの扮装が工夫され、「時により」それらの工夫が選択された事がわかります。世阿弥時代の能が現在よりかなり自由な形で上演されていたらしい事は世阿弥の伝書類や当時の上演記録からわかるのですが、また一方、世阿弥は「観阿の音曲」という表現や「当流」という言葉も使っていて、能の新作法や演出、また演技の技法についても、現在のように伝承に重きを置いていた事が認められるのも事実で、実際のところはどうだったのか。。この記述はその中間のような発言に思えます。

すくなくとも現在の『鵜飼』の前シテはごく一般的な「着流し尉」の出で立ちで、鵜を使うという労働に従事している役なので水衣の肩はあげていて、また水に関係する労働であるために腰蓑を着けています。中啓は中入の「鵜之段」だけで使うため、左の後ろの腰に挿していて、特徴的なのは右手に松明を持って登場する事でしょうか。じつは ぬえは松明を持って出るのは今回が初めて。

「一声」で幕を揚げて、右にウケて松明を二つ振り、それから橋掛りを歩み出ます。松明は橋掛りの幕放れと二之松、一之松で一度ずつ振り、後見座で正へ向いて舞台に入る時にまた二つ振りながら舞台に入り常座でトメます。松明というものはときどき振り立てないと炎が小さくなってしまうものなのだそうで、それで松明を振りながら歩むのですが。。幽霊が持つ松明でもやはり現実の松明と同じなんですかね?

『鵜飼』

2006-02-02 01:34:57 | 能楽
いろんな事を書いていたら研能会で『鵜飼』のおシテを勤めるまであと10日になっちゃったい。

1月の研能会で『翁』と『賀茂』のツレという大役を頂き、年末からずっとその稽古にかかりきりだったので、これが終わってからすぐに翌月に控えている『鵜飼』の稽古を始めました。ぬえは今回はいまだに正月休みを取れないでいます。。『鵜飼』が終わったら少し休みたいもんだ。。

さて『鵜飼』という曲は上演時間もせいぜい1時間という小品ですが、ぬえにとっては久しぶりの切能で嬉しいかぎり。。それでもこの曲はそれほど飛んだり跳ねたり、って感じじゃありませんね。稽古してみて感じるのは、『鵜飼』は切能であるのに、後シテは非常にあっさりしていて、むしろ「前シテを見せる能」という感じがありますね。極言すれば「謡の能」という気もします。

もうあまり日が残されていないのですが、『鵜飼』を勤めるにあたって考えたことなどをしばらく記そうと思います。

この曲はじつはとっても古い能で、世阿弥の伝書類にもたくさん引用されていて、それを信じるならば、作者や演出についてもある程度はっきりしています。

◆ 又、鵜飼、柏崎などは、榎並の左衛門五郎作なり。さりながら、いづれも、悪き所
 をばのぞき、よきことを入れられければ、みな世子の作なるべし。(『申楽談儀』)
◆ 鵜飼の初めの音曲は、ことに観阿の音曲をうつす。くちびるにて軽々と言ふこと、
 かのかかりなり。この能、初めより終りまでみなたけたる音曲なり。おもしろの
 有様やより、この一うたひばかり同音なり。後の鬼も、観阿、融の大臣の能の
 鬼をうつすなり。かの鬼のむきは、むかしの馬の四郎の鬼なり。観阿もかれを学ぶ
 と申されけるなり。さらりききと、大様大様と、ゆらめいたる体なり(同)

摂津で活動していた榎並座の左衛門五郎の原作を世阿弥が改作したこと、その改作にあたっては父・観阿弥の作風(節付けや後シテの鬼)を下敷きにしていること、初同(はじめて地謡が謡う小段)が俗に「鵜之段」と呼ばれる中入の部分という特異な構成も世阿弥時代にはすでにそうであったこと。。などが、この記述によってわかるのですが、もっとも世阿弥は別の箇所では

◆ また同じことを書くべからず。(中略)其能の肝用の開聞のところに一つ書くべし。
  「かひも波間」「その心さらに夏川」「助くる人も波の底」三所までも同じことば
  あり。せめて「かひもなき身の鵜舟漕ぐ」などいふべし。(同)

と、『鵜飼』の本文を批判してその代案まで用意していながら現行の本曲は改訂されていない事を考えると、現行の『鵜飼』が世阿弥の手によって改作されたものがそのまま伝えられている、とは必ずしも断定はできないのかもしれません。ぬえは本曲文体の印象としては「世阿弥らしさ」を感じるのですが、そうなるとこの記述とは矛盾してしまうけれど。。