また、萩屋の作物を笛座前に置いた場合は、『安達原』とは逆に、地謡側の方が開くように扉を取り付ける事になります。型の要領は『安達原』と同じで、シテが扉を開いて身を作物から出すときにツレを認めるので、常座の方が開くように扉を取り付けてしまっては、その扉自体が邪魔になって、お客さまからシテがツレを見る型がよく見えないのです。
萩屋を笛座前に出した場合、舞台の前方が広く使えるメリットがありますが、今度は岩屋を二つに割るときに萩屋が大いに邪魔になります。バタンと岩を舞台の上に倒してしまわないなど、岩を割るのに工夫が必要になりますね。
こんなワケで、『一角仙人』の作物の置き場所には一長一短があって、そもそも広いようでいて狭い、また狭いようでいて広い、という三間四方の絶妙の空間を持つ能舞台に、岩屋と萩屋の作物を共存させること自体に多少の無理はあるのです。それを承知で作者はショー的で派手な舞台演出をこの能の第一の見どころとして演出したのに違いなく、舞台の使い勝手については演者の処理に任されているきらいが感じられます。だからこそ、でしょう、観世流では演者によって萩屋の作物を置く場所にいろいろな工夫が試みられています。
いろいろ考えて、ぬえは『一角仙人』のシテは初役ですけれども、今回は萩屋の作物は笛座前に置くことにしました。
さて萩屋の作物が出されると、ついで一畳台が大小前に出され、そのあとに龍神が入った岩屋の作物がその上に据えられます。前述しましたが、この岩屋の作物はのちに二つに割る都合から、上から見たら半円形というか三日月形のような形状で、要するに正面からだけ、その内側。。正確に言えばその「裏側」に隠れている役者の姿が見えないように造られています。これが二つに割れるように さらに半分にあらかじめ分けられて作られていて、それぞれ竹で骨組みを造った上に紺地などの緞子の生地を張って仕立ててあります。二つの岩はこれを割る場面になる前にバラバラにならないよう内側で2~3箇所 紐で繋がれていて、岩を割る場面の直前に後見がこの紐を解いて、二つの岩が独立して立っている状態にします。そしてやはり後見が、あらかじめ決められた地謡の文句で一気に岩を割るのです。
ちなみにこの岩屋の作物は、現行曲ではこの『一角仙人』と『殺生石』の2番にしか用いられません。ところがこの二つの能では岩屋の作物の使われ方はかなり違うのです。
『殺生石』では『一角仙人』と同じように、まず大小前に一畳台が置かれ、そのうえに岩屋の作物を据えるのですが、この曲では能の冒頭では岩屋の作物の中には誰も入っておらず、カラのまま。そして前シテが登場して、この前シテが岩屋の作物の中に中入するのです。間狂言が語リをされている間に岩屋の作物の中、という裏側でシテは扮装を改めて、さて後場では岩を割って後シテがその中から登場する、という趣向です。
これに対して『一角仙人』では能の冒頭に、あらかじめ龍神役が入った状態で岩屋を出します。この龍神役は下掛りでは子方が勤め、観世流ではツレ、つまり大人が勤めるのを本来とし、子方が勤めてもよい、という事になっています。いかに大きな岩屋の作物であっても、大人二人がその後ろに隠れるのはムリで、観世流で龍神が大人の場合は、二人のうち一人だけが岩屋の作物に入って能の冒頭に舞台に出ていて、もう一人は楽屋に控えていて、のちに幕から登場することになります。
龍神が子方であれば、今回はまさにそうなワケですが、この岩屋の作物に二人とも入って能の冒頭から舞台に出ていることになります。これにも少々問題がありますが。。
いわく、あらかじめ大小前に出された一畳台の上に岩屋の作物は載せられるのですが、このとき、岩屋の蔭に隠れて幕から登場した子方は、大小前の一畳台の前に岩屋が到着すると、そこから「よっこらしょ」と一畳台の上に上がり、このとき岩屋を運んできた後見は間髪を入れずに子方の動作にタイミングを合わせて岩屋を一畳台の上に載せます。ところが。。タイミングが合わないと、見所からは一畳台に載せられる岩屋の作物の下側から、一瞬、一畳台に上ろうとする子方のちっちゃな足袋が見えてしまうのですよ。。(^_^;)
もちろん小さな足袋が一瞬見えたお客さまは大喜びで、(かわいい~、あの中にずっと隠れているんだ!)と心の中で思いながらも、心の中だけにはどうしても収まりきれない気持ちから、見所にはどよめきが起こりますね。それだけならばいいんだが、ぬえはこの場面の小さな失敗で、見所から拍手が起きたのも見たことがあります。
お客さまは大喜びでも、これでは能は失敗です。。
萩屋を笛座前に出した場合、舞台の前方が広く使えるメリットがありますが、今度は岩屋を二つに割るときに萩屋が大いに邪魔になります。バタンと岩を舞台の上に倒してしまわないなど、岩を割るのに工夫が必要になりますね。
こんなワケで、『一角仙人』の作物の置き場所には一長一短があって、そもそも広いようでいて狭い、また狭いようでいて広い、という三間四方の絶妙の空間を持つ能舞台に、岩屋と萩屋の作物を共存させること自体に多少の無理はあるのです。それを承知で作者はショー的で派手な舞台演出をこの能の第一の見どころとして演出したのに違いなく、舞台の使い勝手については演者の処理に任されているきらいが感じられます。だからこそ、でしょう、観世流では演者によって萩屋の作物を置く場所にいろいろな工夫が試みられています。
いろいろ考えて、ぬえは『一角仙人』のシテは初役ですけれども、今回は萩屋の作物は笛座前に置くことにしました。
さて萩屋の作物が出されると、ついで一畳台が大小前に出され、そのあとに龍神が入った岩屋の作物がその上に据えられます。前述しましたが、この岩屋の作物はのちに二つに割る都合から、上から見たら半円形というか三日月形のような形状で、要するに正面からだけ、その内側。。正確に言えばその「裏側」に隠れている役者の姿が見えないように造られています。これが二つに割れるように さらに半分にあらかじめ分けられて作られていて、それぞれ竹で骨組みを造った上に紺地などの緞子の生地を張って仕立ててあります。二つの岩はこれを割る場面になる前にバラバラにならないよう内側で2~3箇所 紐で繋がれていて、岩を割る場面の直前に後見がこの紐を解いて、二つの岩が独立して立っている状態にします。そしてやはり後見が、あらかじめ決められた地謡の文句で一気に岩を割るのです。
ちなみにこの岩屋の作物は、現行曲ではこの『一角仙人』と『殺生石』の2番にしか用いられません。ところがこの二つの能では岩屋の作物の使われ方はかなり違うのです。
『殺生石』では『一角仙人』と同じように、まず大小前に一畳台が置かれ、そのうえに岩屋の作物を据えるのですが、この曲では能の冒頭では岩屋の作物の中には誰も入っておらず、カラのまま。そして前シテが登場して、この前シテが岩屋の作物の中に中入するのです。間狂言が語リをされている間に岩屋の作物の中、という裏側でシテは扮装を改めて、さて後場では岩を割って後シテがその中から登場する、という趣向です。
これに対して『一角仙人』では能の冒頭に、あらかじめ龍神役が入った状態で岩屋を出します。この龍神役は下掛りでは子方が勤め、観世流ではツレ、つまり大人が勤めるのを本来とし、子方が勤めてもよい、という事になっています。いかに大きな岩屋の作物であっても、大人二人がその後ろに隠れるのはムリで、観世流で龍神が大人の場合は、二人のうち一人だけが岩屋の作物に入って能の冒頭に舞台に出ていて、もう一人は楽屋に控えていて、のちに幕から登場することになります。
龍神が子方であれば、今回はまさにそうなワケですが、この岩屋の作物に二人とも入って能の冒頭から舞台に出ていることになります。これにも少々問題がありますが。。
いわく、あらかじめ大小前に出された一畳台の上に岩屋の作物は載せられるのですが、このとき、岩屋の蔭に隠れて幕から登場した子方は、大小前の一畳台の前に岩屋が到着すると、そこから「よっこらしょ」と一畳台の上に上がり、このとき岩屋を運んできた後見は間髪を入れずに子方の動作にタイミングを合わせて岩屋を一畳台の上に載せます。ところが。。タイミングが合わないと、見所からは一畳台に載せられる岩屋の作物の下側から、一瞬、一畳台に上ろうとする子方のちっちゃな足袋が見えてしまうのですよ。。(^_^;)
もちろん小さな足袋が一瞬見えたお客さまは大喜びで、(かわいい~、あの中にずっと隠れているんだ!)と心の中で思いながらも、心の中だけにはどうしても収まりきれない気持ちから、見所にはどよめきが起こりますね。それだけならばいいんだが、ぬえはこの場面の小さな失敗で、見所から拍手が起きたのも見たことがあります。
お客さまは大喜びでも、これでは能は失敗です。。