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見習い百姓のつぶやき

宮仕えも一段落、半農半Ⅹを本格化。農的暮らしとさまざまなⅩを悩んで、楽しんで一歩づつ。

標柱一本の友田遺跡

2024-09-28 20:21:40 | 古代のこと

古代出雲勉強会の後、フィールドワーク。
ちょっと遅くなったけど、夕方の通り雨も去ったし、最後の予定の田和山遺跡に。

その前に、恐らく、田和山の神殿を命を懸けて守ったであろう出雲の勇者達が無念の死を遂げ、取るものも取り合えず葬られたであろう友田遺跡に。

自動車道の建設で墳墓は取り壊され、残るのは標柱一本。
多勢に無勢、圧倒的な武力の差があったであろう中、この故郷をどんな思いで守ろうとしたんだろう?
その気持ちを考えると、胸が締め付けられる思い。語り継ぎたいものと。

今もブログを書きながら、あの標柱の姿に無念さが込みあげてきます。

そして、田和山、この環濠で守ろうとしたものは?って考えました。
弩で武装した攻撃軍に、恐らく、石礫で応戦したであろう出雲のつわもの。
そんな気持ちに思いを馳せながら、新しい時代をどう創っていくのか?
重い課題があるなあって。


新しい時代を創造していくであろう後継の人たち、田和山の頂上に立っていろいろな思いを語っていました。
彼らはどんな思いで新しい時代に向かっていくんだろうなあ?

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東北と出雲、そして聖数3

2024-09-21 14:35:20 | 古代のこと

松本清張の「砂の器」、数年前に一気に読んだ覚えがあります。
重要な舞台設定の一つが“亀嵩駅”でしたが、被害者が蒲田駅の近くで誰かと飲んでいて、傍で飲んでいた客が「カメダ」と話していたことを思い出す。
事件解決の糸口は、東北弁と雲伯方言(出雲弁)がともにズーズー弁でとてもよく似ていることを知ったことでしたね。


写真はWikiからコピーさせていただいた亀嵩駅ですが、ここの駅のソバは美味い!
おっと!脱線しましたね、鉄道だからじゃないですけどね(^^;;

東北と出雲
さて、東北弁と出雲弁、何れもズーズー弁ですよね。
柳田国男の「蝸牛考」でも似ていることにふれられていましたが、筒井功著「縄文語への道」でも言語的にもですが、習俗が似ていることが指摘されています。

三内丸山にも滞在したと言われる出雲の民は、そこに定住することなく
長い時間をかけて日本海沿岸を下って行き、出雲に定着したと伝わっています。
出雲に定着した最大の理由は、チタンの含有が少なく加工が簡便な良質の砂鉄があったからだと言われていますが、まだ鉄を加工した痕跡は見出されていません。
その途中には、秋田の大湯環状列石等の痕跡が残っているとも。

は聖数
出雲の祖神はクナト神、幸姫命の夫婦神、子神のサルタ彦の三神で、は出雲の聖数なんですね(白川静も字統では聖数と書いています)。
で、三内丸山の大型建物の柱は本×2、大湯環状列石にも大きな柱があるそうですが、本の列が少しずれて2列。
田和山の神殿や大社造りはどうなっていますか? そう、基本はなんですよね。

「縄文語への道」には、巨大柱は(諏訪の御柱も)樹木崇拝が本質と書かれています。

また、熊野大社に残る火きり神事、檜の語源は「火の木」で、木から火が出現する故に木を神聖視した、そして、巨大柱を木の主、木の親玉と意識したのではないかと書かれ、そして聖数を並べたのだと。
ついでに、大湯からはヒト型の土版が出土していますが、耳の位置には棒状のようなもので窪みが左右つづつ、古代、耳の付く名は尊い人という意味があったとも。

東北人と出雲人のDNAデータが
そして、東北人と出雲人のDNAデータが・・・そう、とても近いというのです。
この衝撃の事実!斎藤成也著
「日本人の源流」データを添えて書かれています。
のことを知ったので、直ぐに図書館に出向いたら貸し出し中、予約して帰り、戻ったとの連絡を受け、今日借りて帰りました。

斎藤成也氏、国立遺伝学研究所の教授ですから、事実に基づいて書かれています。
このことを知りたいと、取り合えずの所で
斎藤成也氏編著の本を2冊、読みましたが、「日本人の源流」ほどには詳しく書かれていません。
やっと!!

コメント (1)
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古代の埋葬

2024-09-13 21:10:13 | 古代のこと

今日の地元紙地方面(26面)に「青谷上寺地遺跡 多数の人骨 奴隷層を再び集団埋葬か 『倭国大乱』との関連に疑問」との記事が掲載されていました。
青谷上寺地遺跡には、7月末に何人かで行き興味深く見てきたばかりでしたから(ブログ)、飛びつくように読みましたが、僕が思っていたものと何か違う???

古代の埋葬や葬送の習俗
最近、古代の埋葬や葬送の習俗に関心を持つようになりました。
最初は、読むとはなしに読んだのですが、南西諸島の風葬と洗骨・再葬の習俗に強い興味が湧きました。
その後読んだ「縄文語への道」に“青木”という地名は葬地を表していたと書かれ、いくつかの葬送の習俗が紹介されていました。

この本に記された美保関町雲津の海洞穴、昔ここは埋葬地だったが、今は葬儀が終わると洞窟に札貼りに来る、それは洞窟葬の名残りと書かれていました。
おっと!!かれこれ10年にもなるかな?子どもの頃に龍を3匹飼っていたと宣うちょっと変わった東京の女性が、何かに呼ばれて雲津の洞穴に行ってきたばかりと。
その話と繋がった!のです。

また、今、「ゲノムでたどる古代の日本列島」を読んでいますが、この本の著者の一人が先史学が専門で、再葬墓などの墓制に強い思い入れがある。
それがまた面白く、渥美半島のある遺跡の再葬墓の話なんて、もうドキドキもの。
死者に対する思いって、そう違ったものではない筈なんだけど、その表現方法は多岐にわたる感じ。

そこで、青谷上寺地遺跡の報道なんですが、まあ、専門家の所見だから素人がうんぬんする話ではないけれど、、、
例えば、この見解を発表した方は、出雲の口伝は眼に入っているかどうか?
出雲の口伝って、いわゆる専門家の皆さんは歯牙にもかけず、って感じかな?と思ってきましたので、、、

多くの遺骨がどんな状態で発見されているのかも分からず、しかも、発掘調査報告書も見ずに云々することじゃないのは重々分かっているつもりですが、、、
ネットで見ることのできる現場の状況は、再葬墓、集骨墓には見えないんだよなあ、それに、そもそも出雲は奴隷制を持っていたのか?
因幡の国って、出雲ととても濃い関係だったようですから猶更。

僕は、“倭国大乱”って出雲が亡びる前後かなあと、想像を逞しくしていますが、出雲を滅ぼしヤマトに政権を樹立した勢力の中に豊国(宇佐国)勢力があったらしいのです。
彼らは、滅ぼした出雲からヤマトに向かう途次で白兎神社を創建したと読んだことがあります。


宇佐国造57世孫・宇佐公康著「宇佐家伝承~古伝が語る古代史」に白兎神社創建の話はありませんが、白兎神社の主、因幡の白兎伝説が書かれています。
それは、隠岐にいた宇佐族が本土に定住する際、和邇族に騙されて途方に暮れているところを大国主に助けられ、八上姫の地を譲り受けて住み着いたとの内容です。
白兎伝説も当の宇佐族の伝承は違うんですね(^^;;

倭国大乱と出雲の国譲り(出雲滅亡)、白兎神社創建と白兎伝説の時系列は?また、相関関係はある?そんなことを妄想するのはとても面白い。
確たる歴史が存在しないのも、またステキなことかも。

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日本語って面白い!

2024-09-08 09:12:31 | 古代のこと

話し言葉って、随分変化してきているようですが、書き言葉もなんですね。

文字がなかった
もっとも、漢字文化が入ってくるまでの日本には文字というものがなかった。
もしかしたら、古代文字は何種類か存在していたのかもしれませんが、日常的に使うものではなかったようだから。

一部の人しか使えなかったにしても、歌い継がれてきた歌を漢字で書き起こした。
それも大和言葉で、いや最初は完全な漢文だったのかな?
そして、かな文字を生み出し、どんどん変化させていくんですね。

そのかな文字も、最初はかな文字だけで書かれていたのが、漢字かな交じりだったり、かな漢字交じりだったり。
融通無碍ですよねえ、書体も幾通りもあって、明治になって統一したんですね。
そういえば、シナのそれぞれの地域で発展していた漢字も、秦の始皇帝が度量衡とともに統一したのだとか。

「ジ」と「ヂ」
そうそう、「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」とかは発音も違っていて使い分けていたんだそうですが、いつの間にか一緒になってしまってる。
和歌を詠むと、繊細だなあと思いますが、それは、ジとヂを使い分けるような繊細さでもあると思いますが、そういう繊細さが失われてきているような💦

本についても同様?私たちが手にする本は完本、作者も明確だし、全て整えられたもの。
昔は、学びのテキストとして、手に取ったそれぞれが訂正したり書き加えたりして、そこからまた新たとも言えるような本が出来上がったのだとか。
手書きのものはもちろん、版木で印刷されたものもそうだった、だから、源氏物語だって本当の作者は?ってことになるようです。

語源のはっきりしない、独自性の強い日本語、これからも変化していくのでしょうか?
それとも、手紙を書くことも激減し、活字は全てデジタル化され、AIが小説を書くような時代、日本語の融通無碍さや繊細さは失われるのか?
淋しくならないで欲しいものです。

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出雲玉作り資料館

2024-09-01 20:44:58 | 古代のこと

ええ~~っ、甕にどべを取ってきて乾かした???
あっ、“どべ”ってわかりますか?堀や水路や田んぼに溜まったとろとろした泥のことなんですが、、、
帰りに受付で尋ねてしまいました。


やはり出雲が本貫
確か出雲が本貫だったと思う忌部氏、忌部の地名だってあるし、、、でも、いろいろな資料を読んでるうちに、記憶が揺らいできて(^^;;
忌部氏(斎部氏)読んでいる資料で、改めて松江の玉造出身ということを再発見!
玉作りの様子や発掘資料をこの目で見たいと、“出雲玉作り資料館を”訪れました。

資料館のドアを開けると、最初は間違えましたが、来館者が数人、玄関すぐのロビーでの井戸端会議が白熱しています(^^;;
展示物を興味深く、穴のあくほど眺めましたが、“どべ”というキャプションの説明に釘付け!
な~~んだ!布志名焼きの粘土、最終工程に流れて来た水と粘土を甕に取って、水分の蒸発を待った、流れてきたとろとろの物質が“どべ”、それを入れた甕でした。

玉がステータスになるはず!
竪穴式の住居で玉作りをする家族の模型、今は見ることがなくなった家内工業、家族での共同作業が紐帯となって、豊かな人が生まれるのかなあ?
山から石を切り出して玉が完成するまで、それぞれの行程を興味深く見ましたが、何と言っても穿孔と磨く工程にはただただ脱帽!
写真は荒砥石って感じ?最後は桐の木で磨き上げる、そりゃ玉ってステータスになるわ~~!


最後に、2階の展示室って、布志名焼きの展示なんだ!
ちょっぴりがっかりでしたが、それはそれで歴史を刻んだ素晴らしい名品でした。
友人の彼なら、展示から離れないかも(笑
僕は、こんな素朴なのが好みかな?

越前との深いご縁
最後に、全国でただ一ヶ所、平安時代まで隆盛を誇った出雲の玉造も灯が消えた!
江戸時代末、越前から技術を再輸入してめのう細工が復活したんですね、越前と出雲の深いご縁を感じました。

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