話し言葉って、随分変化してきているようですが、書き言葉もなんですね。
文字がなかった
もっとも、漢字文化が入ってくるまでの日本には文字というものがなかった。
もしかしたら、古代文字は何種類か存在していたのかもしれませんが、日常的に使うものではなかったようだから。
一部の人しか使えなかったにしても、歌い継がれてきた歌を漢字で書き起こした。
それも大和言葉で、いや最初は完全な漢文だったのかな?
そして、かな文字を生み出し、どんどん変化させていくんですね。
そのかな文字も、最初はかな文字だけで書かれていたのが、漢字かな交じりだったり、かな漢字交じりだったり。
融通無碍ですよねえ、書体も幾通りもあって、明治になって統一したんですね。
そういえば、シナのそれぞれの地域で発展していた漢字も、秦の始皇帝が度量衡とともに統一したのだとか。
「ジ」と「ヂ」
そうそう、「ジ」と「ヂ」、「ズ」と「ヅ」とかは発音も違っていて使い分けていたんだそうですが、いつの間にか一緒になってしまってる。
和歌を詠むと、繊細だなあと思いますが、それは、ジとヂを使い分けるような繊細さでもあると思いますが、そういう繊細さが失われてきているような💦
本についても同様?私たちが手にする本は完本、作者も明確だし、全て整えられたもの。
昔は、学びのテキストとして、手に取ったそれぞれが訂正したり書き加えたりして、そこからまた新たとも言えるような本が出来上がったのだとか。
手書きのものはもちろん、版木で印刷されたものもそうだった、だから、源氏物語だって本当の作者は?ってことになるようです。
語源のはっきりしない、独自性の強い日本語、これからも変化していくのでしょうか?
それとも、手紙を書くことも激減し、活字は全てデジタル化され、AIが小説を書くような時代、日本語の融通無碍さや繊細さは失われるのか?
淋しくならないで欲しいものです。
ええ~~っ、甕にどべを取ってきて乾かした???
あっ、“どべ”ってわかりますか?堀や水路や田んぼに溜まったとろとろした泥のことなんですが、、、
帰りに受付で尋ねてしまいました。
やはり出雲が本貫
確か出雲が本貫だったと思う忌部氏、忌部の地名だってあるし、、、でも、いろいろな資料を読んでるうちに、記憶が揺らいできて(^^;;
忌部氏(斎部氏)読んでいる資料で、改めて松江の玉造出身ということを再発見!
玉作りの様子や発掘資料をこの目で見たいと、“出雲玉作り資料館を”訪れました。
資料館のドアを開けると、最初は間違えましたが、来館者が数人、玄関すぐのロビーでの井戸端会議が白熱しています(^^;;
展示物を興味深く、穴のあくほど眺めましたが、“どべ”というキャプションの説明に釘付け!
な~~んだ!布志名焼きの粘土、最終工程に流れて来た水と粘土を甕に取って、水分の蒸発を待った、流れてきたとろとろの物質が“どべ”、それを入れた甕でした。
玉がステータスになるはず!
竪穴式の住居で玉作りをする家族の模型、今は見ることがなくなった家内工業、家族での共同作業が紐帯となって、豊かな人が生まれるのかなあ?
山から石を切り出して玉が完成するまで、それぞれの行程を興味深く見ましたが、何と言っても穿孔と磨く工程にはただただ脱帽!
写真は荒砥石って感じ?最後は桐の木で磨き上げる、そりゃ玉ってステータスになるわ~~!
最後に、2階の展示室って、布志名焼きの展示なんだ!
ちょっぴりがっかりでしたが、それはそれで歴史を刻んだ素晴らしい名品でした。
友人の彼なら、展示から離れないかも(笑
僕は、こんな素朴なのが好みかな?
越前との深いご縁
最後に、全国でただ一ヶ所、平安時代まで隆盛を誇った出雲の玉造も灯が消えた!
江戸時代末、越前から技術を再輸入してめのう細工が復活したんですね、越前と出雲の深いご縁を感じました。
夏枯れ(>< お魚がありません。
小さいのでちょっと躊躇しましたが、久しぶりにエノハ。
煮付けましたが、身を外すのが面倒だしちょっぴり(^^;; 美味しいけど、、
分かり易く伝える
筒井功著「縄文語への道」に“神と髪と上“という節があり、興味深く読みました。
著者は、言語学者ではなく元共同通信の記者、現場を踏むことに慣れているし、どう分かり易く説得力のある伝え方ができるか、よくわかっているよなあ。
得てして、専門家と言われる皆さんは、視野が狭くなりがちだし、一般読者に分かり易く伝えるというのが苦手なのかなあと感じています。
もう一冊、やはり専門家ではないようですが、この本と対極にあるような、独りよがりで説得力の全くない本を借りてきたのですが、1/5も読まないで閉じました。
いろんな人がいるよなあ、よくこんな本を出版するわ!そして、出版社って矜持ってものがないのかなあ?と。
本題からズレましたが、以前、欧米では床屋って医者よりもステータスが上だったと聞いたことがあります。
また、米軍では斥候としてインディアンが起用されたが、軍規によって髪を切ると直観力が衰えて使い物にならなくなったとも。
洋の東西を問わず、“髪は神“と考えられていたんでしょうか?
旱魃に髪を燃やす
オーストラリアのいくつかの部族では、旱魃の時に妖術師が人の髪を燃やした。平素は燃やすことはなかったが、それは洪水を恐れてのこと。また、川の水位が下がると、水の量を増やすために川に人の髪を入れたと。
ニュージーランドでは、刈られた髪は大地の神聖とされる場所に置かれた。酋長の刈られた髪は丹念に集められ、埋葬地に安置された、等々。
日本では、人の髪を燃やすと蛇が集まってくるという俗信が各地にあった、蛇は竜とともに水の神を象徴するからなんですね。
埼玉県草加市の毛長神社は「女性の髪」をご神体としているそうですが、そういう伝承を持つ寺社は全国で少なくとも10カ所はあるのだとか。
髪への信仰があるわけだから、神の霊力を守り、強化するための呪具であった櫛が特別視された。記紀には、伊弉諾は追ってくる黄泉醜女に向かって髪に差していた櫛を投げて追跡を防いだと、櫛の呪力を頼ったんですね。
考古遺跡、特に縄文遺跡から櫛が豊富に出土しているのですが、木製品が良く残っている、それは、黄金や鉄と並ぶ貴重品の漆が惜しげもなく使われているから、櫛にはそれだけの思いが込められていたんですね。
また、縄文の出土品には長い髪の毛を彫った礫や土版などがたくさん出土しているのだとか、あちこち見たけどそこまでは見なかったなあ(^^;;
おっぱいを象った土偶はたくさん見たけど、、、
おっぱいと同様、髪って神として大切に扱われ、礫や土版はお守りのように持たれたのだろうと。
髪は神として、ひいては上も語源を同じくしているのだろうと。
戦いを好まなかった、だから目立たぬように生きるのが出雲人に染み付いた生き方?
派手さはなく、冴えないと言えば言えるのでしょうが、そういう生き方の範を示してきた出雲の先人たちを誇りにさえ思います。
そんな出雲の先達たちの歴史をもっと知りたい、もっと知りたいと乱読、積読の日々ですが、何と言ってもフィールドワークが一番。
活字などの情報は正しいのか?錯綜する情報の中で、本当の歴史とは?
新たなものを掘り起こすことなど到底できませんが、現場と突き合わせ、五感で感じることで見えてくるものがある、だからフィールドワークって面白い。
今日は、広瀬町山佐に出かけてきました。
ダムに水はあります!
折角来たのだからと、ちょっぴり気になっていた山佐ダムの水量をこの目で確認(笑
だって、あの雑草たちでさえ青息吐息のお天気続き、我々が干上がることはない?
なんて思って、でも、ダムの水は減ってはいるけど結構あります。杞憂でした。
天宮山の遥拝地
さて、今日の目的は、弥生の時代、出雲の長達が葬られた天宮山(天狗山)、魂が眠るまさに神奈備山の東の遥拝地であったという山狭神社。
天宮山を挟んで西からは熊野大社が遥拝の地だったとも聞きます。
八雲の地から葬地である磐座には1時間ほどの登山が必要ですから、祭礼の時でもないといつでもという訳にはいかないし、年寄りにはきつい。
ことあるごとに神奈備山である天宮山を遥拝したんでしょうね。ただ、天宮山は見えないけど。
そうそう、出雲国風土記にも所載されている山狭神社ですが、特に下山佐の方は土地のエネルギーが凄い。
参道脇の巨木、尋常ではありません、凄い場所を遥拝の地としているよなあ。
それと拝殿を飾る彫り物が凄い!精緻です、匠の技ですね。
友人が、知り合いの方の叙勲の祝いに出席するんだとか。
僕は、それって?と、特に政治に携わる者は必ず褒章や叙勲の栄に与れるのですが、それって、自分の功績ですか?って。
あっ、そこも含めて人の資質と言ってしまえばそうだけど、どれだけの人たちの支えがあったからなのか、、、
蜻蛉日記
「日本女性史 第1巻 原始・古代」(女性史総合研究会編)を読んでいるのですが、1982年発刊で文字が小さいうえ、玄人筋のための本?でやたら学術的、ってことで?ルビと言うものがない。
古典が苦手だったので、ハードルが高い上、興味のないテーマも多く、スルーしようとしていると、ここ面白!なんてことがあり(^^;;
“王朝女流文学の形成と背景~蜻蛉日記の場合”というテーマ、仮名文字がどう定着してきたのか、興味あって読み始めましたが、ルビのない和歌が数ページも続き、一々の解説が???で、す~~と流して、、、
いよいよ本題の「蜻蛉日記」を著した藤原道綱母の背景や経歴などに入ってくると、俄然面白い。
それで、ほぼ流した最初の数ページに戻り改めて読んだりして。
日記、道綱母の矜持?
道綱母、藤原兼家の2番目の夫人(たぶん)、しかも恐ろしいほどの才媛に名前がないことはないと思うけど、記録がないにしても、女性の扱いってこうなの?
和歌の達人とのことですが、普通女官たちが手にしたと言われる歌集はなく“日記”、ここに道綱母の矜持があるようにも思います。
ネットで兼家を調べていて“光る君へ”が!見たことないけど、道綱母は紫式部と同時代の女性なんですね。
それにしても、兼家って、栄華を独り占めした藤原一門にありながら、栄耀栄華への執着が凄い!
まあ、天皇を取り巻く人間模様も同様で、権謀術数は言うに及ばず、兄弟で殺し合うことさえ少しも厭わない凄い世界です。
それと褒章や叙勲を望む心持が重なって見えてしまう(><
縄文ユートピア論がありますが、本当にそうも思ってしまいます。