全国で唯一ほぼ完本の形で伝えられてきた「出雲国風土記」、風土記編纂の詔から1300年を記念して東京・大阪・出雲で 連続講座が開催されました。
その講座の記録集「古代出雲ゼミナール」を紐解いてみました。
出雲国風土記の最初に記されたあの八束水臣津野命の国引き神話、その講座で平城宮から出土した隠岐からの木簡、荷物を送った荷札が紹介されていました。
下の写真は、その複製品です。
出雲国庁と隠岐を結ぶ官製ルート
それを見た前日、美保関町千酌に行ってきました。奇しくもです!
いつ頃からだったのか?律令制が敷かれる頃には間違いなく、出雲国庁(政治の中心)と隠岐を結ぶ人や物を運ぶための官製のルートがありました。
それは、国庁から大橋川へ、朝酌促戸(今の矢田の渡しあたり)を渡り、長海町から山越えをして千酌に、千酌から船で隠岐に渡るルートです。
千酌から隠岐へは丸木舟か丸木舟に側板を付けた準構造船だったと思うので、砂浜に乗り上げるか、川を少し遡るか。
今は殆ど埋まっていますが、千酌川はそういう船を着けて荷の上げ下ろしをしたのかなあ?
千酌に着いた荷は朝酌促戸から国庁に、恐らく手続きを終えて山陰道を平城宮に向かったのだろうと思います。
木簡には、加工されたイカやフグが大量に送られたことが読み取れます。
そんな隠岐との航路の要衝、千酌の地勢をを改めて見ておこうと出かけました。
千酌に着いて一番気になったのは、千酌湾越しに見える東の小高い三角の山。
これはきっと!と思って出雲風土記に記載され、延喜式にも式内社と記載のある尓佐神社の境内から鳥居越しに見ると、やっぱり!予想通り。
神名火山
鳥居の真ん中に三角の山が!きっと、神名火山だっただろうと。
あのお山の名前は?地元の人に聞けばよかったのですが、調べればわかると思って帰ったけど、あれこれ検索しても出てこない💦💦
諦めかけた頃に、あった!「麻仁祖山」というんだ!
吉野裕子さんは著書で、古代の人たちは三角形の山容を持つ山を神の籠る山・神名火山として崇拝していた、それは蛇がドグロをまく姿だからと書いていました。
古代人は「蛇」を豊穣・再生のシンボルとして崇めていた、それが注連縄の形として造形されたとも。
この山は、必ず神名火山として崇められていたんだろうと思ったのはそんな訳だったのです。
山の名を調べる中で、地域の古老たちからの聞き書きをまとめた凄い資料に出会いました。そこには、2月9日は「山の神祭礼」で供物はオコゼだとありました。
吉野裕子さんは、古来山の神は「蛇」だったと記し、全国的に供物はオコゼだと、確かオコゼは女陰の象徴だと書かれていたように思います。
きっと、麻仁祖山が山の神祭礼で大きな役割を果たしているんだろうなあ。
最後に、4月初旬、ダイヤモンド麻仁祖山が見られると!
山頂から輝く太陽が昇る!!