何処へ行っても、あっはっは、あっはっは、おっほっほおっほっほである。
すべては、良い方へ良い方へ繋がっている。歩く道はこの一本の明るく光り輝く大きな道しかない。
けっしてけっして悪い方には行かない。
あっはっは、あっはっは、おっほっほおっほほに、迎え入れられる。
*
此処は神様の世界・仏様の世界である。慈愛慈悲が満ち渡った世界である。
ここは、わたしの成長と向上を促す絶対愛の宇宙意識の世界である。
*
此処にわたしがいるのである。
何処へ行っても、あっはっは、あっはっは、おっほっほおっほっほである。
すべては、良い方へ良い方へ繋がっている。歩く道はこの一本の明るく光り輝く大きな道しかない。
けっしてけっして悪い方には行かない。
あっはっは、あっはっは、おっほっほおっほほに、迎え入れられる。
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此処は神様の世界・仏様の世界である。慈愛慈悲が満ち渡った世界である。
ここは、わたしの成長と向上を促す絶対愛の宇宙意識の世界である。
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此処にわたしがいるのである。
死は、むやみやたらに、悼むことではない。取り乱して悲しむことではない。
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莊子のおっかあが身罷った。荘子は、おっかあの棺の上で,酒盛りをして祝った。村人が来て、泣き屋が来て、泣け泣け泣け,泣かないのは親不孝だとやじったが、荘子は平気の平左。
死んだこともないくせに、一方的に、死を真っ黒黒の暗黒にしてしまうことはなかろう、と。
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どっちともつかぬから、オレはいい方に賭けて、おっかあを祝っているんだと。おっかあはいいことをしたんだ、と。祝っていいことをしたんだ、と。死を蹴破れば生に快晴する。
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一概念に固定しない。一概念の束縛を受けない。一概念の執着をしない。そこを飛び出してみる。自由自在の宇宙に出てみる。い。老荘思想は自由自在をほのめかしている。
わたしの物質体が死ぬのであって、わたしの非物質体は死ぬことはありません。非物質体は現象体ではないからです。
(これはわたしの受け取りです)
死なないから生きています。活動をしています。過去も現在も未来も同じ座標軸に列べて、生きて、活動をしています。
わたしは生きて活動をして、いつでもいつでも、何処にいても、どんな形態をしていても、わたしの成長を楽しんでいます。
わたしはわたしの向上を楽しんでいます。楽しむと楽しむだけ、わたしは光り輝きます。光の輝き度がどんどん上がります。
(これはわたしの見解です)
では、どんな活動をするのか。自利利他の活動をします。自利が利他を促進します。
わたしの輝きの度合いが増すごとに、わたしのこの利他の活動は広範囲に渡っていきます。宇宙中に拡大して行きます。
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肉体を終わりにすれば、わたしは肉体を離れて生きる次のステップに移動します。活動自体は終息をしないで永続します。わたしまますます明るくなります。
これはわたしの後生楽(ごしょらく)の見解です。これでわたしを安らがせ、ゆるゆる暢気にさせています。
歌謡曲・演歌の歌詞が取り上げる男女の恋は切ないなあ。
巷の男女はあんなに切ない恋をして生きているのかなあ?
だとしたら、凄いなあ。
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求め合って求め合って求め合っているのに、それが成就していない。
それでますます男女の情念が、炎になって天空を焦がすまでになって、まわりの雲までが真っ赤だ。
男女が演歌を我が身に取り込んで石川さゆりの「天城越え」をしている。
ふうう、だ。
演歌は炎歌だ。
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事実は小説よりも奇なり。演歌よりも奇なり。だろうか。
そういう男女は人生を100倍の濃さで、100人分ほども生きたことになるのだろうなあ。
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この僕はそんな激しい恋とは無縁だった。引き合うことも求め合うこともなく、至って静かだった。
で、静かなお爺さんの暮らしで終わっている。
あみちゃんはアカシックレコードのリーデイングができるリーダーです。
でも気さくな人です。
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(そんな特異才能の持ち主を気軽に「あみちゃん」だなんて呼んでいいのかなあ?)
(もちろん、わたしひとりが居る夜中の部屋の中での呼び名です、これは)
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十年くらい前に一度だけ、京都駅のビルの屋上レストランで、リーデイングをしてもらったことがありました。
お父さんとお母さんが住んでいる南の島を訪れたことともありました。ちょうどあみちゃんも京都から帰って来ていました。お母さんがジュアリーを販売していました。幾つか買って帰りました。
もう一度会いたいなあ。
あみちゃん、僕のこの願望を長距離透視できるかなあ?
わたしのブログを売っている夜店の屋台を訪れてくれる人がいません。
お祭りなので、浴衣掛けの人が、わたしの屋台の前を通り過ぎて行きます。幾人も幾人も。
でも、立ち寄ってくれる人がいません。
夜も更けてきました。人々も帰りを急いでいます。
わたしのブログの夜店で立ち止まってくれる人はいません。
蝉が、雪洞(ぼんぼり)の灯りに釣られて飛び込んできたくらいです。
夜風がときおり冷たく吹きすぎて行きます。
中に甘い小豆餡子が詰めてあるお菓子の「もなか」は、「最中」って書きます。
どうしてなのかなあ?
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これが今日のわたしのおやつです。ちいっさい最中を二個食べました。
コーヒーも淹れてもらいました。
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糖尿病患者なのに、最中が大好きです。二個ではタリナイくらいでしたが、ここで我慢しました。
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あ、先程からの疑問が解けました。
「中の餡子がもっともうまい」ので、最中。
あっているかなあ?
時間を費やして書いても、読まれないで、その多くが水没します。
その逆現象もあります。
たくさんの目に取り上げられることがあります。
(何人の人が読んで下さっているのか記録されていますから、分かります)
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わたしのブログもいろいろな運命を辿ります。
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たくさんの人の目に止まるような、喝采ブログを書けたらいいなと思います。
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でも、どの運命を辿っても,ブログはわたしの心を移したわたしの分身です。(分身になって生きていてくれます)
かわいいです。
美しいと見たら,美しいのです。
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醜く見たら、醜く映ります。
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美しく見たら、それだけの量で、わたしのこころが美しくなります。
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醜く見たら、それだけの量で、わたしのこころが醜くなります。
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どう見てもいいのです。見た通りに現実がなってしまいます。
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それ自体はx軸Y軸0の位置にいます。
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どちらかにずらして見ると、その通りの現実が形作られます。
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右へ左へ上へ下へずらして、現実を美しく醜く造形して、それで遊ぶこともできます。
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面白く生きられるようにしてあります。
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裏庭は夕暮。いま野草の朝鮮朝顔が、庭を埋め尽くすようにして、たくさん咲いています。わたしはこれを、醜いわたしを美しくするために、美しく見ています。
午後3時半を過ぎています。日が少しだけ翳って来ています。
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翳って翳って,夕暮が来て、ラストの日没になります。
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夜明けから早朝には、日が昇ります。半日掛けて日は昇りきります。瞬間ですが、最大最高マッハ状態を呈します。
そしてピークを迎えて、それから下降に向かいます。
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下降を示すサインが、翳りです。
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翳るのも美学です。翳りを受けると、周りの風景がいろんな表情を見せてくれます。風景が落ち着きを見せてくれます。
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死に向かうわたしの風景も、同様に、翳りの中で、いろんな表情を見せているのかもしれません。それもそれで結構な美学なのかもしれません。