振りをするのである。姿や形を似せてそれらしく振る舞うのである。そしてその気になるのである。右へ倣いして真似事をするのである。嘘者で我慢するのである。
一日駅長さんのように、帽子と服とを借りて来て着込んで、即身成仏する。いやいや、その振りをする。ただちにこのままで仏に成ったという気持ちになる。そこのところを想像してみる。「我は大日如来なり」を誇示喧伝する。もちろん一人密かに。己の内側で。そして成りきって見る。宇宙一杯に広がってみる。涅槃の境地に入り込んで息をしてみる。すると落ち着くのである。しばらく安らげるのである。
気分を繕って陀羅尼を唱える。アビタウンケンバザサラサトバーンの陀羅尼を発声する。目を閉じる。瞑想をする。息と姿勢とこころの脈拍を整える。そして成りきって見る。1cmくらいの深さだろうが、10cmを装ってみる。ちょっと無理があるかもしれないけれども。これは児戯に等しい。まあそれでも、児戯に同じだが、自足すればいいだけの話だ。
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自己暗示なのかも知れない。わたしは大日如来の仏弟子なりという暗示を掛けて、図々しくなってみる。それで加護されている己を味わってみる。安上がりと言えば安上がりだ。お金は掛からない。何処ででも出来る。いつでも始められるし、いつでも止められる。道具は要らない。なにより一人でできる。そしてにんまりができる。
精神統一を図るが、各地で何度も豪雨が襲い堤防決壊して、寸断される。それでもお構いなし。それもこれも一連のプロセスと見做すのだから。愉快な見做し遊びなのだから。