北朝鮮政府がまたICBM弾道ミサイルを発射した。今度は深夜の闇に紛れて。何度も何度も威嚇を繰り返す。世界中を不穏にする。不穏に巻き込む。それがそんなに楽しいか。自国の防衛のためだというが、行き過ぎじゃないのかなあ。挑発行為に等しいのじゃないのかなあ。今度のは北海道沖合に落下した。戦慄を覚える。戦闘能力をひけらかすのはいいことではないと思うがなあ。節制能力を問われるところだ。軍事費も高く付いているはずだろうになあ。
恐い顔をして脅すことなかれ。そこのお偉いさん、恐い顔をするな。脅すな。人を虐げるな。足で踏み潰すな。そこの暴力行使屋さん、つんつんするな。威張り散らすな。威圧するな。暴力でものを言うな。「おれは偉いぞ」「だからおれに逆らうな。おれに従え」を人前まで出て来て何度も何度も繰り返すな。
穏やかな顔をいていられないお偉いさん。優しい目をしていられない暴力行使屋さん。穏やかな顔もいいと思うがなあ。優しい目もいいと思うがなあ。
不思議だなあと思う。80才の人が生きている。隣には90才の人が生きている。その隣には100の人が生きている。そのまた隣には0歳児の赤ん坊が這い回っている。どれだけ短くても、どれだけ長生きしてても、生きているのは今日ただ今である。是が有り得ている。ここのところが不思議だなあと思う。かく瞬間瞬間を生きているのなら、風のようだと思う。雲のようだと思う。水のようだと思う。光のようだと思う。
「おはようさん」の「さん」は「おはよう」を愛らしくする。擬人化効果が出て、イキモノのようになる。ことばを掛けられる相手になる。すると話し相手になれる。こちらのことを聞いてくれそうにも思う。
そこに人がいなくても、いるような錯覚に陥る。この世は一人ではないという気持ちになる。孤独が癒される。「さん」は愛称の「さん」であり、[相性]のいい「さん」ともなる。おはようさん、おはようございます。
今日は僕は友人のところへ出掛けます。10時を過ぎた頃には。ちょっと遠いところだから、到着はお昼を過ぎるでしょう。途中で何が果物を買うことにします。これで元気を出してくれたらいいがなあ。高校時代の仲間です、彼は。長居をしないで戻ります。
おはようさんにお願いします。彼を元気にして下さい。またいっしょに花見弁当が食べられるようにして下さい。大勢の仲間たちといっしょに愉快に遊べるようにして下さい。人格を持つおはようさんにお願いします。
昨夜ふと目覚めてそれからいきなり精神不安状態になった。そうなるべき理由がなかった。助けを呼びたくなった。錐揉みになって落下して行くジェット機のようだった。なんだか落ち着かなくなった。押し止めようとするのだが、コントロールが効かないのだ。老人に特有の症状なのだろうか。どうしていいか分からなかった。一種のノイローゼなのかも知れない。呼吸を正す努力をした。瞑想が出来た。これで改善できた。やれやれだった。
三界は皆仏国なり。仏国其れ衰ん哉(や)。十方は悉(ことごと)く宝土也。宝土何ぞ壊(やぶ)れん哉。 日蓮宗経典「立正安国論」より
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三界は欲界・色界・無色界。この何処をとってもみな仏の国である。だから、衰退がない。上下四方八方は何処でもみな宝の国である。宝から成る国が壊されるというこがあろうか。
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わたしは日蓮宗徒ではない。だから自由に読みこなす。好き勝手に読んでそこから滋養をもらう。
この句の前には但し書きがある。「実乗の一善に帰せよ、然れば則ち」という条件文が付いている。「実乗」とは真実の乗り物、すなわち法華経である。法華経信仰こそが善であるとしている。此処が仏国土になるのも宝国土になるのも、揺るぎない法華経信仰があるからである。そこに安心があるということを勧めている。
わたしは条件文がなくてもいいと思っている。仏国土を感得することが帰結ではなく、むしろ条件にしてもいいと思っている。此処を仏国土と見做すこと、此処を宝の国土と受け取れることが出来るようになれば、法華経の経典が身に滲みて有り難く迎え取られてくるのだと思う。
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日蓮聖人の覚悟は巌のように堅固である。わたしのそれは豆腐のようにやわである。だから、並列には出来ない。「仏国其れ衰ん哉」「宝土何ぞ壊れん哉」聖人の語調は力強い。有無を言わさず押し切ってしまわれそうである。
雨が降り出した。大粒だ。雨音が高い。このところ連日今の時刻になると降り出している。同じように大粒の雨が。部屋の中で見ているだけだから、ちいとも構わないのだけど。雨が降るとさすがに気温が下がる。此処はいいところだ。日が射さないだけでも気温は急変する。畑の野菜類もその時間は高温の熱射から逃れられる。それで幾分ほっとしているようにも見える。里芋の葉っぱがじっとして立っていられないらしい。あの広い葉っぱだから、雨を受ける量もただごとではないようだ。
話はまるっきり変わるが、ふっと癒されたいと思う時が来る。理由は格別ないのにそうなる。そしてそれに耐えることになる。欲しい癒やしがすぐに手元にやって来るわけではないのだ。おんなの人がいてやさしさをそこに感じると癒されることがある。だから、男性にとっておんなの人は大きな価値を有している。でもおんなの人は得がたい。音楽に癒やしを求めることもある。これはCDを聞けば済むから楽だ。仏像を見に行くこともある。そしてそこでしばし癒される。友人も癒やしを与えてくれる。文学もそうだ。わたしは詩などの韻文を読むととりわけ落ち着きをもらう。
雨は人に癒やしを提供するだろうか。するように思う。雨に濡れるとこころも濡れる。しっとりとなる。潤う。水分があると潤うのかも知れない。
妙音 観世音 梵音 海潮音 勝彼世間音 「妙法蓮華経・観世音菩薩普門品」偈より
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みょうおん かんぜおん ぼんのん かいちょうおん しょうひせけんのん
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これには様々な解釈があるようだ。わたしは仏教学者ではない。僧でもない。勝手に次のように読みこなしてみた。
観世音菩薩の救済の浄土では、妙音がしている、観世音菩薩の音声がしている、梵音がしている、海潮音がしている、彼(か)の世間に勝る音がしている。どの音も観世音菩薩の救済慈悲のやさしい音である。
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妙音は妙なる音。観世音はそのまま観世音菩薩の音声としてみた。梵音は仏教の守護神である大梵天王の立てる音。海潮音は寄せては返す海の波の音。世間に勝る音とは、前に述べたそれぞれの音を指しているのか。通俗なわれわれの穢土にはない音なのだろう。観世音菩薩の音声(おんじょう)が妙音であって、梵音のようであって、耳に響く海潮音のようであって、何にも勝れていると。そんなふうに解釈をしてみた。
「念彼観音力 彼(か)の観音の力を念じよ」の句が先導しているから、音によって観音の救済力をイメージをする方法を示唆されているのではないだろうか。
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「海潮音」は「観世音菩薩の音」を想起させる音であるというのはなかなか洒落た譬喩であると思う。たしかに浜辺に行って遠くの海鳴りを静かに聞いていると心安らぐことがある。観音さまの力がわたしに打ち寄せて来るという発想は心強い発想である。
あしびきの国上(くがみ)の山の山畑(やまはた)に蒔きし大根(おおね)ぞあさず食(を)せ君 良寛禅師
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ほう。良寬様は大根を畑に蒔いておられたのか。国上山の五合庵の近くには山畑があったとみえる。お客人があった。夕方になった。禅師は大根の煮付けをおふるまいになった。さあどうぞ食べて下さい、と客に勧められたのであろう。「あさず」は「余さず」だろう。お酒はたぶん客人が携えて来たはず。大根だから、秋だろうか。もうすぐ冬に入るころだろうか。新潟の山はさぞ寒いだろう。五合庵はとっても狭い。煮炊きは枯れ木を拾って来て土間の竈でされただろう。煮炊きをされる禅師のエプロン姿を想像してふっと笑みがこぼれる。「あしびきの」は「山」にかかる枕詞。客人とはどんな話をされたのであろうか。お互い短歌を交わしあって遊ばれたのだろうか。この日、良寛禅師と会って帰っていった客人は、山を下りながら、胸の内がほかほかして温まったことだろう、さぞかしさぞかし。
いま11時を過ぎたところ。お昼は昨日買ってきておいた冷凍食品の肉うどんにする。温めるだけでいいからラクチン。1袋200円しない。しかし、運動をしないからだろうが、食欲がさっぱり。みなさん何を食べておいでだろう? 栄養剤を飲まない主義なのだが、暑い最中、ヤクルトの販売員さんが回ってこられたので、滋養強壮ドリンクを買ってしまった。飲みやすかった。夜は我が家の苦瓜を豚肉で塩炒めしてもらおうかな。思い切って1時間ほどサイクリングに出たら食欲不振なんて解消するんだろうけどな。