いいもの見ぃ~つけた!

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-秋吉敏子

2021-01-28 07:53:08 | MUSIC

 「現役ミュージシャン」などという括りにしていいものかと悩んだ「音楽家」もたくさんいます。

もちろん、まだまだたくさんのミュージシャン・音楽家がいるわけですが、やはり外せない人をちょっと年齢的には上になりますがご紹介を。決して忘れていたわけではありませんのであしからず(笑

 

 「秋吉敏子」

  1929年12月12日生まれの91歳!

 

 秋吉敏子:ジャズ史に輝くピアニスト・作曲家 音楽 文化 2018.11.15 小川 隆夫 

 日本人でただ一人、ジャズ界最高の栄誉とされる「ジャズマスター賞」を受賞した世界的なジャズピアニスト。1956年に単身渡米し、以来米国を拠点に精力的な活動を続けている。

 いまや日本のジャズミュージシャンも世界を股にかけて活躍する時代になった。しかしそれは比較的最近の話で、1950年代から60年代にかけてそんなことはあり得なかった。その時代、唯一と言っていい存在がピアニストの秋吉敏子だった。

 本格的なジャズに開眼
 1929年12月12日に満洲・遼陽で生まれ、小学1年生でピアノを習い始めた彼女は、終戦後、大分県に引き揚げ、16歳の時に別府の駐留軍キャンプでジャズピアニストとしての活動を開始する。仲間のミュージシャンに勧められて上京したのが48年のこと。その頃の東京には、終戦後ということであちこちに駐留軍のキャンプがあった。そこでは夜ごとにさまざまなエンターテインメントが提供され、楽器が弾けるならいくらでも仕事があった時代だ。その中で彼女ももまれていく。

 「バンドはたくさんありました。今のようなフリーランスの時代じゃないから、ミュージシャンは一つのバンドに属しているわけです。いろいろなところにダンスホールがあって、日本人用、アメリカ人用という具合に数が多かった。だから、それだけミュージシャンが必要だったのだと思います。ほとんどが海軍や陸軍の軍楽隊出身。そういう連中の若い人、それと昔、上海あたりのボートで演奏していたミュージシャンたちが親玉みたいな感じでやっていた時代です」と秋吉は当時を振り返る。

 しかしそうした仕事に飽き足らず、秋吉は米国から届けられた最新のレコードを聴きながら、本格的なジャズの演奏に開眼していく。

 日本では、ダンス向けのスウィング・ジャズに人気があり、戦時中に米国で登場したビバップと呼ばれるモダン・ジャズには関心の目が向いていなかった。ミュージシャンにも、それがどのような理論と仕組みで演奏されているのか分からない。まさに手探りの状態で、秋吉を中心とした一部の熱心なミュージシャンは、最新の輸入盤が置かれているジャズ喫茶に通い、それらのコピーに励んでいた。ところが、「そういう演奏はお客さんに受けない。だから、何度も店をクビになった」そうだ。

 それでも秋吉はめげない。最新のジャズを演奏するグループとして彼女が結成したコージー・カルテットには若き日の渡辺貞夫もその後に参加することになる。「お金にはならなかったけれど、好きな演奏ができる喜びの方が大きかった」

 オスカー・ピーターソンとの出会い
 秋吉に大きなチャンスが巡ってきたのは、1953年に「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」と呼ばれるライブイベントが開催され、超一流のミュージシャンによる一座が米国から来日した時だ。その中の一人が、人気ピアニストのオスカー・ピーターソンである。

 「当時の日本にはジャズを聴かせる場所がなかった。みんなダンスホールでしたから。53年10月に日本で最初のライブハウス、いわゆるジャズ喫茶が西銀座にオープンして、名前がテネシー・コーヒーショップ。その店に自分のバンドで出ていて、渡辺貞夫さんがまだ10代で、私のところに入ったばかりの時です」

 そこに遊びに来たのがピーターソンだった。

 「彼は私の演奏をすごく気に入ってくれて、それで彼のプロデューサーであるノーマン・グランツに推薦してくれたんです。その結果、レコーディングの運びになりました」

 こうして生まれた『アメイジング・トシコ・アキヨシ』が米国で発売されたことにより、秋吉はバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に奨学生として留学する。


 「54年にレコードが向こうで出たんです。当時、日本人がジャズを演奏すること自体珍しいし、それも女の子となるとましてや、ですよ。それで、端的に言ってしまうと、学校が宣伝材料で呼んでくれたんです。あのころのバークリーは340人ぐらいの小さな学校ですから、生徒を増やすには宣伝が必要だと。だから、レコードが出ていなかったらダメだったと思います」

 とはいっても、それだけの実力があったからこその留学である。秋吉の言葉通り、日本の若い女性が激しくビバップを演奏する姿は注目を集め、本場でも大きな話題を呼ぶ。留学中から、彼女は「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」や、学校があるボストンの人気クラブ「ストーリービル」などに出演し、キャリアを重ねていく。卒業後は拠点をニューヨークに移し、本格的な活動を開始している。

 「自分のトリオとカルテットが中心で、あとはベースの巨匠として知られていたチャールズ・ミンガスのグループなどで演奏していました」

 ジャズ界の最高栄誉に輝く
 次なる転機が訪れるのは、1973年に夫のルー・タバキンと秋吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドを結成した時だ。

 「ルーはテレビの『トゥナイト・ショー』で演奏するようになっていたんです。ある時、番組の収録場所がニューヨークからロサンゼルスに変わったので、私たちも移ったわけです。ロサンゼルスにはスタジオ・ミュージシャンが多く、ジャズがあまり盛んではなかった。でも、ミュージシャン・ユニオンの建物の中にリハーサルルームがあって、これが50セントで3時間借りられる。安いでしょ? 私は67年にニューヨークのタウンホールで自主コンサートをやったんですが、その時ビッグバンド用に5曲を書き下ろした。そのことをルーが知っていて、『自分がミュージシャンを集めるから、君の曲でもやってみよう』というわけね。そういうことでビッグバンドが始まったけれど、最初、このバンドで仕事をしようという考えは誰にもなかった。でも私たちの演奏が人の噂(うわさ)になって、だんだん仕事が来るようになりました」

 秋吉は、原則的にこのビッグバンドで自作の曲しか演奏しない。そこに作曲家としての自負と自信がある。日本で大きなセンセーションを呼んだビッグバンド1作目の『孤軍』は、やや遅れて海外でも発売される。これがさまざまな賞を受けたことで、世界中のコンサートに呼ばれるようになった。


 以後は、世界中で精力的な活動を重ね、99年には日本人でただ一人「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たし、2006年にはジャズ界で最高栄誉となる全米芸術基金の「ジャズ・マスター賞」を受賞している。そして今年米寿を迎えた秋吉は、とどまることを知らない創造性でいまも多くのファンに素晴らしい演奏を聴かせている。

*https://www.nippon.com/ja/features/c03708/ より

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<日本酒> 福島 会津宮泉/宮泉銘醸

2021-01-28 07:51:28 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 会津宮泉/宮泉銘醸

 

 「冩樂」と「會津宮泉」の両銘柄で「SAKE COMPETITION」純米酒部門1位に輝く!福島県・宮泉銘醸の躍進に迫る 2018.12.14

 

 数ある日本酒コンテストのなかで、もっとも出品数の多い「SAKE COMPETITION」。全8部門のうち、最大の出品数があるのは純米酒部門です。

 数多の酒蔵がしのぎを削る純米酒部門で、1位を2度、しかも二枚看板である「冩樂(しゃらく)」「會津宮泉(あいづみやいずみ)」の両銘柄で栄冠を獲得したのが、福島県会津若松市にある宮泉銘醸です。

 栄光の背景にはどんな努力があったのでしょうか。現地で探りました。

 現在の状態とはかけ離れていた
 昭和30年に宮森啓治酒造場として創業した宮泉銘醸は「會津宮泉」を主力銘柄とした酒造りを続けてきました。

 3代目・宮森泰弘さんの長男として生まれた現社長の義弘さんは、若い頃から跡を継ぐつもりでした。ただ当時は、酒造りを杜氏に一任し、自分は経営を見ていればいいという気持ちだったそうです。

 大学を卒業してすぐに実家へ戻るつもりでしたが、父の泰弘さんは「まだ帰ってくるな」の一点張り。ようやく「帰って来い」という連絡があったのは、義弘さんが26歳の時でした。

 蔵に帰ってみると経営状態は芳しくなく、何年も赤字が続いていました。当時の生産量はわずか180石。設備の老朽化は著しく、毎年同じ普通酒をただ漫然と造っている状況でした。

 また、酒造りに使用する米は一般加工米や等外米で、農家の顔が見えるような米は皆無だったそうです。

 出品酒の技術を反映させた市販酒を造りたい
 作業中の写真義弘さんは帰郷する直前、日本各地のお酒を飲む機会があったそうで、実家のものとは比べ物にならないほどの美酒に出会い、衝撃を受けました。

 そのひとつが、同じ福島県にある廣木酒造本店の「飛露喜」でした。

 同郷の酒蔵が素晴らしいお酒を造っていること、さらに、蔵元自身が杜氏を兼任していることを知り、義弘さんも「酒造りを学んで、みずから酒質設計をしなければならない」という思いを募らせます。

 その後、福島県清酒アカデミーで3年間、勉強しました。

 それまでにも全国新酒鑑評会で何度か金賞を獲得していた宮泉銘醸ですが、「出品酒で培った技術が他のお酒にまったく反映されていない。出品酒の造りで学んだ知識をすべて投入した市販酒を造って、世に問いたい」と義弘さんはさらに思いを強めていきます。

 そして2007年のシーズンから、純米酒と純米吟醸酒をみずからの手で造ることにしたのです。

 「冩樂」を引き継ぎ、蔵の改革へ
 冩樂と會津宮泉のボトル酒造りをすると決めたものの、どんな味わいのお酒を造るかは手探りだったといいます。

 「昔から淡麗辛口の日本酒が苦手で、醸造アルコールを強く感じる普通酒も飲めませんでした。当時の會津宮泉のようなお酒は敬遠していたんです。結局、口に合ったのは『飛露喜』や『十四代』でした。ただ、すべてを真似しても個性がないので、両銘柄よりも甘味と酸味がバランス良く広がるお酒にしようと考えました」と、義弘さんは振り返ります。

 手塩にかけて醸した新商品を販売するにあたって、新しい銘柄を決めなければなりません。

 その時、同じ会津若松市にある本家筋の酒蔵を引き継いでいた会社が廃業することになってしまい、「銘柄を引き取ってほしい」という話になりました。そこで、その蔵の「冩樂」を継承し、宮泉銘醸の新ブランドとしたのです。

 同年の夏、義弘さんは福島県酒造組合が主催する東京でのイベントに新商品を持参したところ、いきなり大きな評判を呼びました。

 義弘さんは「使っている酒米などについて胸を張って説明できるのが初めての体験で、とてもうれしかったのを覚えています。多くの人に『美味しい』と言っていただき、『やり方は間違いない。あとは磨きをかけていけばいいんだ』と確信しました」と、当時の様子を思い返します。

 その後、酒造りの軸足を特定名称酒に移し、仕込みの単位を小さくするなどの改革を進める一方で、酒質向上に繋がる設備改善にも矢継ぎ早に取り組みました。

 「父がすべてを任せてくれたので、やりたいことに次々と着手することができました。醸造のみを任されて、経営は父が握っているという状態だったら、こんなスピードでの改革はできなかったと思います」

 酒質が年々向上し、売上も伸びていくのに伴い、さらなるレベルアップを求めて、蔵の建物全体を空調で管理できる状態にしました。

 搾ったお酒に火入れをする場合は急速に温度を上げて、目標の温度に達したところで急冷し、お酒へのダメージを最小限に抑えています。

 さらに、もっとも神経を使う原料米の水分量については、洗米・浸漬した直後だけでなく、翌朝に米を蒸す直前・直後にも測定し、さらに、麹室に米を引き入れた後はロードセルというセンサーで、刻一刻と変わる麹の重量を常に管理しています。

 さまざまなデータと照らし合わせながら、完成した麹の出来をチェックすることで、理想の麹が常に再現できるような体制を整えたのです。

 「會津宮泉」も育てて恩返しがしたい
 冩樂と會津宮泉の腰掛け「冩樂」がデビューした当時、「冩樂」の製造責任者は義弘さん、「會津宮泉」はそれまでの杜氏がひきつづき担うという2人杜氏の体制でした。

 しかし、「冩樂」が軌道に乗って余力が生まれてきた2012年、杜氏が北海道の酒蔵へ移籍することになりました。これを機に、義弘さんが酒造りのすべてを統括することになります。

 その頃、「冩樂」の売上が伸びる一方で、「會津宮泉」は10年前と変わらない状態でした。製造量を徐々に減らして、「冩樂」の酒蔵にしてしまう選択肢もあったそうです。

 しかし、「酒蔵の屋台骨だった『會津宮泉』を守り続けてきた杜氏や蔵人、そして蔵元への感謝を忘れてはならない。恩返しをするつもりで『會津宮泉』を『冩樂』に負けないお酒に育てる」と、義弘さんは蔵人に宣言しました。

 それから、酒造りの全行程をすべて「冩樂」と同じレベルに切り替えていったのです。

 作業中の写真義弘さんによると、現在の「冩樂」と「會津宮泉」はまったく同じレベルにあるのだとか。

 異なるのは味わいの方向性。「冩樂」は、ふくよかな甘味を酸味が下支えしアクセントをつける味わいですが、「會津宮泉」は酸味を抑え、さっぱりとした後味と旨味を出しているそうです。

 また、「冩樂」には多くのファンがいるため、味わいを再現することが重視されているのに対し、「會津宮泉」は新たに挑戦したいと思った造りを試験的に商品化するのに活用する面も強まっています。

 「冩樂」は全国の特約店のみで販売しているため、宮泉銘醸に足を運んでも直売所で購入できるのは「會津宮泉」のみ。しかし、日本酒ファンの間では「蔵に行くと、宮泉銘醸の未来を感じられるようなお酒が買える」と、密かな話題になっているのだそう。

 會津宮泉を持っている写真「冩樂」は2014年の「SAKE COMPETITION」で、純米酒と純米吟醸酒の両部門で1位に輝き、脚光を浴びました。

 そして、2018年には純米酒部門で「會津宮泉」が1位、「冩樂」が5位になりました。多くの酒蔵が主力銘柄のほかに、伝統的な地元向けの銘柄をもっていますが、それが1位に輝くのはとても珍しいことです。

 宮泉銘醸の躍進は驚くべきもので、今後、多くの酒蔵のお手本になることでしょう。

(取材・文/空太郎)

*https://jp.sake-times.com/knowledge/sakagura/sake_g_miyaizumi より

 宮泉銘醸 株式会社 福島県会津若松市東栄町 八番七号

 ブランド一覧

 「冩樂」純米大吟醸 極上二割・純米酒・純米吟醸 など

 「會津宮泉」純米酒・吟醸 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 34. すんき

2021-01-28 07:49:30 | 食品

 登録番号 第34号 すんき 

 特定農林水産物等の区分 第17類 野菜加工品類 野菜漬物のうち、(一)から(八)までに掲げるもの以外の野菜漬物(乳酸発酵漬物(無塩))

 特定農林水産物等の生産地 長野県木曽郡(木曽町、上松町、南木曽町、木祖村、王滝村、大桑村)、塩尻市の一部(旧楢川村)

 登録生産者団体 すんきブランド推進協議会

 特定農林水産物等の特性 木曽郡の伝統野菜である赤蕪の茎葉等を原料に無塩で乳酸発酵させた国内外でも珍しい漬物。べっこう色で乳酸由来の酸味が特徴。

 地域との結び付き 標高が高く寒さの厳しい気候・風土が赤蕪栽培に適している。塩が貴重な時代に山深い地で冬季の野菜を保存する必要があったことから、塩を一切使わない製法が発達。300年以上続く木曽地域の伝統食。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i34.html より

 

 「すんき」は、長野県木曽郡に古くから伝わる伝統食で、この地域の伝統野菜である赤蕪の茎葉若しくは茎葉と葉の付け根部分にあたる胚軸の一部を原料として、複数の植物性乳酸菌によって発酵させる、国内外でも極めて珍しい無塩の乳酸発酵による漬物です。

 「すんき」の外観は、長野県で良く漬けられる野沢菜漬けに似た、べっこう色をしています。赤みを帯びた胚軸の一部を刻んで入れるため、その赤みによって漬け汁が薄いピンク色を呈している場合もあります。
 乳酸菌発酵による独特の酸味があり、そのまま食することもありますが、木曽郡では古くから、味噌汁に具としてすんきを入れた「すんき汁」や、温かいそばの上にすんきをのせた「すんきそば」が食べられています。
 また「すんき」は、木曽郡では古くから健康維持に効果があると言われており、最近では、整腸作用や抗アレルギー作用などの機能性が注目され、研究が重ねられています。1950年に世界初となる「すんき」の乳酸菌についての論文が発表されて以来、栄養成分や機能性等についての研究が行われ、その乳酸菌の免疫調整機能や疾病予防作用が報告されています。

 「すんき」の作り方は、赤蕪の茎葉若しくは胚軸の一部を湯通しし、「すんき種」を加えて漬け込みます。「すんき種」は乳酸発酵のスターターであり①前年に製造したすんきを冷蔵、冷凍、又は乾燥したもの、②前年に製造したすんきの漬け汁を冷蔵したもの、③すんきから分離培養された4種類の乳酸菌を利用します。漬け込んだ後、概ね1日後までは保温した状態を保ち、良好な発酵が確認されたら冷涼な場所に置いて、じっくり発酵させます。
 最初の漬け込みにはすんき種を利用し、出来上がった「すんき」を種としてさらに漬け込みを行う作業を数回繰り返して、漬け込み量を確保します。

 発祥の地である木曽郡木曽町開田高原及び木曽郡王滝村は標高が1000m~1300mと高く、年平均気温がそれぞれ7.4℃、10.5℃と寒さの厳しい地域であり、原料となる赤蕪の品質にも影響を与えていると考えられます。特に、収穫期を迎える直前の10月終わりから11月頃に、赤蕪畑に2、3回、霜が降り霜に当った赤蕪が、美味しいすんき作りには重要であると経験的に知られています。
 「すんき」は江戸時代から今日に至るまで日常的に食されてきた伝統食ですが、かつて塩が貴重な時代に、山深い信州木曽の地で冬に不足しがちな野菜を保存するために、塩を一切使わず、乳酸によって保存性を高める食品として発達したと考えられています。元々家庭の味として伝承されてきた「すんき」ですが、1972年には地元の農業協同組合が販売を開始し、地域資源として広く見直されるようになった1985年ころから、木曽郡内の農産加工組織等によって「すんき」が広く商品化されるようになりました。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/34.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 24.回答 25.出題

2021-01-28 07:41:25 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 栄耀栄華-えいようえいが-財産や権力を得て、ぜいたくの限りを尽くすこと。また、おごりたかぶること。

 


 問2 改弦易轍-かいげんえきてつ-意味 法律や制度を変えること。「改弦」は弦楽器の弦を張りかえて調子を改めること。「易轍」は車輪の軸幅を変えること。「弦を改め轍を易う」とも読む。「改絃易轍」とも書く。

 


 問3 自家撞着-じかどうちゃく-同じ人の言動や文章などが前後で矛盾していること。自分で自分の言行に反することをすること。▽「自家」は自分、自分自身のこと。「撞着」は突き当たること。矛盾すること。「撞着」は「とうちゃく」「どうじゃく」とも読む。「着」は「著」とも書く。

 


 問4 鳩首凝議-きゅうしゅぎょうぎ-人々が集まり、額を寄せ合って熱心に相談すること。▽「鳩」は集める意。「鳩首」は頭を集めることで、人々が集まり額を突き合わせる意。「凝議」は熱心に議論すること。「凝」はこらす、集中する意。

 


 問5 鴻雁哀鳴-こうがんあいめい-流浪の民が、その苦しさを訴えることのたとえ。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 鳶飛魚躍

 

 問2 紫電一閃

 

 問3 窮鼠噛猫

 

 問4 憐香惜玉

 

 問5 落月屋梁

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より 

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 秋田 川連漆器

2021-01-28 07:37:24 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「川連漆器」(かわつらしっき)

 川連漆器について

 川連漆器は、秋田県の南端、湯沢市川連町に受け継がれる伝統工芸品です。今から約八百年前の鎌倉時代(1193)に、この地の城主だった小野寺重道の弟・道矩が、奥羽山脈の豊富な木材と漆を利用して、家臣の内職として武具に漆を塗らせたのが始まりと言われています。
 本格的に漆器作りが始まったのは元和(1615)から元禄にかけての頃で、椀師稼業を営んだという記録が残されています。江戸時代中期(1815)になると、他国にも販路が開かれ、以来、藩の保護政策のもとに椀や膳、盆、重箱など幅広い漆器が作られるようになりました。
 一つ一つ手づくりで、堅牢で実用的な漆器を作り続けたことで、昭和51年、川連漆器は国の伝統的工芸品に指定されました。今では、全国でも有数の漆器産地として成長を続けています。
 

 製法の特徴

 漆器作りは、主に木地作り、下地作り、塗り、加飾と4つの工程から成ります。とくに下地作りは、木地を丈夫にする大切な作業で、一般的に丈夫な漆器には「本堅地」や「渋下地」の下地法が用いられています。本堅地は、生漆に水で練った地の粉という土の粉を混ぜたものを塗り、乾いたら研ぎ、また塗るという作業を繰り返すもの。一方、渋下地は、生漆の代わりに柿渋汁、地の粉の代わりに炭粉を使うもので、本堅地より値段を抑えることができます。

 川連漆器(かわつらしっき)の下地法は、渋下地の中でも特にその丈夫さから「堅地仕上げ」といわれる技法。柿渋汁にホウやヤナギなどを焼いた炭粉を混ぜたものを塗り、乾いたら研ぎ、続いて生漆を塗る、という「地塗り」を数回繰り返すもの。水を一切使わないため、木地がゆがみにくく、本堅地に並ぶ丈夫な下地になります。

 普段使いするには、丈夫で使い勝手が良く、さらに手ごろな値段であることも大切。「堅地仕上げ」は、川連の作り手たちのそうした漆器作りの姿勢を象徴しています。

 地塗りの後は、中塗、上塗を6~7回繰り返して完成となりますが、仕上げには「花塗」と「呂色塗」の2種類の技法が用いられます。花塗は油分を含んだ朱漆か黒漆を塗り、そのまま乾燥して仕上げる方法で、しっとりと美しいツヤが得られます。呂色塗は油分を含まない黒漆を塗り、乾燥後に磨いてツヤを出す方法。川連の呂色塗は、下塗や中塗に生漆から水分を取り除いた素黒目漆を塗るため、研ぎすまされた中にも、どことなくやわらかな雰囲気が漂います。

美しい塗り肌の無地の製品を中心に、蒔絵や沈金を施した華麗な製品、現代感覚のイタリアデザイン漆器など、日常生活に潤いを与える川連漆器の豊かな世界を味わってください。

*https://ldt.co.jp/crafts/guide/guide1.html より

*https://kougeihin.jp/craft/0505/ より

 歴史
 国の伝統的工芸品、川連漆器の産地である湯沢市は、秋田仏壇の産地でもあり、稲庭うどんの里でもある。
 秋になり収穫の時期を迎える頃、この地を治めた小野寺氏の居城した高台から見ると、一面の黄金色の稲穂、これはまるで稲の庭…稲庭の名前の由来である。その地に立つと皆うなずく絶景である。

 今からさかのぼること800年、農業主体の川連村は1年の半分は雪に覆われ、何か副収入を得なければ生活できないほど困窮していた。
 その折、源頼朝の家臣である小野寺重道公が、平氏討伐に出陣し、大きな手柄をたて、この地を支配することになる。
小野寺氏は稲庭に居城し、その弟である道矩は、川連に住まいを移し、農民に内職として武具に漆を塗ることを教えた。漆は藩の計らいで容易に調達でき、また、何よりも自然に恵まれるなど好条件が重なった。
奥羽山脈の山ふところに位置し、雄大な皆瀬川を利用した、栗駒山系のブナの原木が木流しされた。
漆は、当時の職人が豊富な山林に自ら赴いて漆掻きをするという自給が可能であった。

 武具から始まった漆塗りも、やがて江戸時代の後期になり、日用食器としての椀づくりが始まるのである。この頃になると商人も現れ椀師工程絵図も描かれ、いよいよ産業基盤が確固たるものになって行く。
途中、何回も危機に直面し、特に天保の飢鐘、戦後の大不況と大きな危機があり、産地が消滅しかねない状態もあったが、当産地は地道に着実に発展を遂げていった。
昭和31年、稲庭、川連ほか二村が合併して稲川町なり、更に平成17年の市町村合併により湯沢市となった。

 川運漆器の主流は椀であり、6割以上を占めているが、今では幅広いアイテムを開発している。
伝統を守りながらも時代に即応したものづくりにチャレンジし、また、関東を中心として徐々に販路を拡大し、全国に川連漆器の良さが浸透している。


 特徴
 何回も繰り返される「地塗り」と「中塗り」を経て塗り立てと言われる「花塗り」で仕上げ乾燥するのが特徴。丈夫で使い易く廉価なため、普段使いに喜ばれている実用漆器である。
お椀などの原材料は、ブナと栃が主。また、重箱などは朴の木を使う。堅牢な下地、中でも「地炭付け」「柿研ぎ」及び生漆を塗る「地塗り」は、代表的な下地工法である。この堅牢さが川連漆器の特徴の一つである。

 二つ目の特徴は、上塗りは塗り立てともいわれる「花塗り」である。これは、ムラなく平滑に漆を塗り、かつ埃もつけないようにするために気を引き締める瞬間でもあり、最も高度な技術を要するところである。

 三つ目は、沈金技術である。蒔絵よりも歴史は新しく、明治からと言われている。
ノミのような沈金カンナで彫刻刀のように押し出すのが輪島に代表される一般的な技術であるが、当地では、手前に引いていわば逆動作をする沈金カンナを開発した。これにより浅彫りが可能となり、繊細で立体感のある沈金ができるようになった。

*https://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/akita_02.htm より

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