いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-加藤登紀子

2021-01-24 08:35:42 | MUSIC

 「加藤登紀子」

  1943年12月27日生まれの77歳

 波乱万丈の人生を送ってきた加藤登紀子さん。

 私がまだ幼少の頃、衝撃的な話を聞いた。

 「獄中結婚」というなんとも不思議な言葉。まぁその前には「学生運動」というなんとも恐ろしいことが起こっていた。

 その当時「大学生」にはなりたくないと思ったものだ。

 (何の知識も持ち合わせていないため)理解不能な恐ろしいことがテレビから流れ、戦後の乱れた時代の中に、「加藤登紀子さん」が居たような←私の勝手な考えだが

 

 

 加藤登紀子「乳がんと不調を乗り越えて76歳、今日も私は健康優良児!」2020年12月07日
 すべては歌い続けるために

 〈本日の『徹子の部屋』に登場!〉今年で歌手生活55周年を迎えた加藤登紀子さんは、「今が一番体調がいい」と笑います。その健康的な生活ぶりは医師から太鼓判を押されるほどですが、そこに至るまでには紆余曲折がありました(構成=丸山あかね 撮影=藤澤靖子)
 母に学んだ老いの心構え
 この12月で77歳になります。3人の娘たちがそれぞれに家庭を持ち、気づけば私は7人の孫を持つお祖母ちゃん(笑)。時が経つのは本当に早いですね。母は101歳まで生きたので、私の人生も先が長そうです。でも、「生きる」というのは覚悟のいることなのですよ。生きている限り、日々いろいろ起こることを解決していかなくちゃいけない。実は、ちょうどひと山越えたところなの。少し前まで、猛烈な切なさと無力感と闘っていました。

 私は、他人や家族のために何かをしてあげたくて仕方がないタイプなのね。娘たちから「子どもを預かってほしい」と言われれば、用事がない限り、二つ返事で引き受けてきました。みんなすくすく育って、一番下の孫がもう6歳。成長するのはもちろん嬉しいことなのだけれど、近頃、誰もわが家へ来なくなってしまったのは寂しいと思っていたのです。

 そんなある日、娘に電話をして「たまにはわが家で集まれないの?」と言ったら、「みんな忙しいの。勘弁してよ」という何ともつれない言葉が返ってきて、ショックを受けました。「私はもう必要とされていないのだな」と感じて。

 

 かといって、「私は必死であなたたちを育ててきたのよ」と言ってもしょうがない。その言葉はグッと留めたものの、心の免疫力はガタ落ち。これまで元気印できたのに、気を抜くと鬱々としてしまう……由々しき事態だったのですよ。

 そんな時、思い出したのが3年前に他界した母のことでした。母が91歳の時、「おばあさんになってしまったと考えると落ち込むけど、『長く生きた人』と思えば誇らしい」と言っていたな、と。そこから母は俄然前向きになって自分史を書き始め、『ハルビンの詩がきこえる』という本を出版しました。つまり母は、現実は変えられなくても、考え方を変えることで心を前向きに、強くすることに成功したのです。

 そこで私も、「家族という大きな重荷から解放されて自由になったのだ」と気持ちを切り替えました。「必要とされていないのなら、私も勝手にやらせてもらうわ」って。18年前に夫も見送りましたし、今は気楽な一人暮らし。自分のことだけを考えていればいい、なんて夢みたいに幸せなことでしょう。最初こそ強がりだったのだけれど、今は、家族のなかで自分のポジションを変えるのは大切なことなんだ、と実感しています。

 もう私は「心配されるほう」の人なのだから、なによりもまずは健康であること。自立して暮らし続けるのが、子どもたちにしてあげられる最大のことなのだと悟りました。「病は気から」とよく言うけれど、あれは本当。あのままでは心が免疫力低下に引っ張られて、体調まで崩してしまっていたでしょう。心と体が直結していることをまざまざと思い知らされた出来事でした。

 手術の跡は見えないように
 今でこそ風邪もめったにひかない「健康優良児」で通っていますけれど、ここに至るまでは山も谷もありました。私にとって大きかったのは、48歳の11月に乳がんが発覚したこと。検査の結果を聞いた時は、まさに青天の霹靂で、それは落ち込みましたよ。でも、50の大台が近づいて急に冷え性になったり、疲れやすくなったりして「なんだか調子が悪いな」と感じていたので、納得するところもあったんです。

 ともあれ年明けすぐにコンサートが控えていたので、ぐずぐずしちゃいられない。手術を受ける決断をし、ピンポン玉くらいの大きさの腫瘍とともに左の乳頭を一部摘出しました。術後2日目からの厳しいリハビリを経て、退院した翌日にはステージに立っていたの。コンサートの予定と、夫や娘たちの全面的なサポートがなかったら、あそこまで頑張れなかったでしょう。

 主治医の先生も協力的で、コンサートでは胸の開いたドレスを着ると言ったら、「ドレスのラインがどこまでくるか、肌に油性ペンでしるしをつけてください。手術跡が見えないようにうまく切りますから」って。おかげさまで、完璧でした。「左胸がティーンエイジャーみたいに可愛くなったから、右胸も垂れた部分を取り除いてもらおうかしら」なんて言って、笑う余裕もあったのよ。

 あの時、病気を経験してよかったと今は思える。そうでなければ、私は健康管理に無頓着なままだったでしょう。

 その頃の私を悩ませていた不調のひとつは、低体温です。体が冷えて冷えて、なかなか体温が上がらない。そこで当時は画期的だった赤外線サウナをわが家に設置しました。低温なので、中で歌を作ったり、原稿を書いたり。家のことから離れて一人になれるという意味でも、サウナタイムは大切な時間でした。

 湯船でじっくりと体を温めたら水シャワーを浴びるという、免疫力アップに効果的な温冷交代浴は、50代から始めた習慣。冷え性に効くと聞いて始めた当初は水シャワーに体がしびれてビックリしたけれど、今は浴びないと気持ちが悪いくらい。顔が火照るほど温まり、ポカポカが持続するので病みつきになること請け合いです。

 「歳を重ねるにつれて体がしんどくなっていく」というのが定説ですけど、私、今が一番調子いいの。年を重ねた事実は受け入れるけど、「この歳じゃできない」「もうムリ」と諦めない。自分の体を甘やかしすぎず、力を信じてあげることで、ポテンシャルも引き出せるし、病気を遠ざけることにも繋がるのではないかしら。


  今も夫に守られているよう
 がん以来大病知らずになった私ですが、98年、今度は夫の藤本敏夫に肝臓がんが見つかり、4年の闘病の末に亡くなりました。彼は千葉で有機農業を行う「鴨川自然王国」を設立して、私たち夫婦は千葉と東京の二元生活を送っており、晩年は東京で二人暮らしをしていました。思い出はたくさんあるけれど、どんなに忙しい日でも必ず共にしていた朝食の時間が心に刻まれています。それだけに彼の死後、一人で朝食を食べるのがつらかった。

 ところが鴨川へ行った折に、夫が生前に仕込んだという味噌を発見したのです。それで東京へ持ち帰り、毎朝、お味噌汁にしていただくのが習慣になりました。一緒にいるような気がして、ものすごくリラックスできるの。今もお味噌汁を飲むたびに、夫に守られているのを感じます。

 

 先日、お仕事でお医者様にお会いしたのですが、「加藤さんの朝ご飯は理想的です」と褒めていただきました。大好きな納豆入りのお味噌汁や、フルーツゼリーを入れたヨーグルトなどの発酵食品が、腸内環境を整えてくれるとのこと。さらにゼリーのゼラチンには、コラーゲンが含まれていて、美肌や老化防止に効果があるの。

 トーストにスライスした玉ねぎを挟んで食べていることもいい、とも言われました。パンの小麦粉に含まれるグルテンは分解されにくいタンパク質の一種ですが、玉ねぎと一緒に食べることでグルテンフリーの効果が期待できるのだとか。知らず知らずのうちに、体にいい食事をしていたのね。

 それで調子に乗って、「先生、私、交感神経と副交感神経をコントロールするのも得意なんです」と言っちゃった(笑)。でも、あながち嘘でもないのよ。自律神経には心身の活動を活発にする交感神経とリラックスさせる副交感神経があって、両者がいいバランスで働くことによって血流が良くなる。それには深く呼吸するのがいいと。つまり、私がいつもしている「歌う」という行為は、お腹を使って呼吸をしますから、最適。


 おトイレで歌うと、お通じも良くなるんです。副交感神経が優位になって腸の動きも活発化するのか、力まなくてもスルッと。一度お試しください。リラックスしなくちゃ、出る物も出ないのよ。(笑)

 50代半ばの頃、目がかすむようになったので病院へ行ったら、医師が「老眼です。加齢ですからどうしようもない」と。こちらはなんとかしてほしくて行ったのに、もう、しょんぼり。

 ところが、知人で「見えるようになると思えばそうなる」と力説する人がいて、「目の周りの筋肉を鍛えればいい」と言うのです。実践してみたら、前よりよく見えるようになりました。老化や不調が「マイナス」の状態だとしたら、私はこれまでよくも悪くもない「ゼロ」にすることを目標にしてきた。でも、鍛えれば「プラス1」になるし、さらに積み上げていくことだってできるとわかり、やる気が出ました。

 私は一人暮らしですから、何でも自分でやらなければいけません。でも、「自分しかいない」という危機感があるからこそ、気持ちに張りがあるのかなと思ったりして。ただし、老いはある日を境にガクンとくるもので、昨日できたことが今日はできなくなってしまう。私たちの世代は、「老化(廊下)の段差にご用心」なんです。(笑)

 

 いつかは一人で暮らせなくなるかもしれない。でも、ただ怯えていても仕方ないから、体や病気のことは自分で調べて、あらかじめ知識を得ておく。あと、自分の内面と対話して、「私はどうしたいか」というものさしを作り、物事を判断すること。それから好奇心と責任感を大切にしています。

 私はツイッターをやっていますので、間違った情報を流してはいけないという思いから、新聞記事を切り抜いて、環境問題と文化と政治に分けてスクラップするのを日課にしているの。実はそんなに深くは読んでいなくて、切り抜くのが喜びだったりするのだけれど(笑)。

 でも、ニュースを見聞きしながら想像力を駆使して、報じられている人たちの気持ちになるということが大事だと思う。楽しいことだけでなく、怒りや悲しみも人が生きるうえでのエネルギーになるというのが持論です。

 

 私なりの健康法や免疫を保つための方法についてお話ししてきましたが、すべては「歌い続けたい」という思いでやっていることです。年内にも「ほろ酔いコンサート」が控えていて、今はその準備中。コロナ禍のさなかで作った歌「この手に抱きしめたい」は、大切な人を見送った方、今苦しんでいる方に救いが訪れますようにと祈りを込めました。

 自分の体が動く限りはステージに立ち続けたい。歌を通じてたくさんの人と出会い、繋がり、エネルギーのキャッチボールをする……。歌は私の原動力であるとともに、免疫力を上げてくれる一番の薬でもあるんです。

構成: 丸山あかね 出典=『婦人公論』2020年12月8日号

*https://fujinkoron.jp/articles/-/2957 より

 

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<日本酒> 福島 奥の松/東日本酒造協業組合

2021-01-24 08:28:46 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 奥の松/東日本酒造協業組合

 技・水・風土 

 杜氏の磨きぬかれた技が生きる

 「伊兵衛の吟醸蔵」と讃えられた十六代伊兵衛。

 その流れを汲む歴代の名杜氏たちが生んだ技は、現在は殿川慶一へと伝承されました。

 そして、飲みやすく味のある酒といわれる「越後流・南部流の技による二本松の酒」を醸し、各地の鑑評会においても高い評価を得ております。

 

 豊かに湧き出る清冽な水脈
 安達太良山に降り積もった雪は、やがて地面に染み込み、約四十年余りの歳月をかけて清冽な水脈となります。

 この「安達太良山の伏流水」は、酒造りに必要なミネラル分をバランス良く含み、仕込み水として、まさに理想的な名水です。

 

 豊かな自然、恵まれた風土
 安達太良山の麓、安達郡の気候は昼夜の温度差が大きく、まさに酒米の生育条件に恵まれた里。

 美しい渓流、清らかな大気が名酒を育み、貯蔵酒を守ってくれる絶好の環境です。

 奥の松酒造は、厳選された酒造好適米を使用しています。

 

 

 奥の松酒造株式会社 福島県二本松市長命69番地

 ブランド一覧

 「奥の松」大吟醸雫酒 十八代伊兵衛 入賞酒・あだたら吟醸・大吟醸 など

 「殿川」大吟醸雫酒-「現代の名工」受賞記念酒

 「遊佐」純米吟醸

 「醸侍」純米大吟醸 ”ブラック・ジョージ” など

 

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 30.  東根さくらんぼ

2021-01-24 08:22:43 | 食品

 登録番号 第30号 東根さくらんぼ

 特定農林水産物等の区分 第3類 果実類 おうとう

 特定農林水産物等の生産地 山形県東根市及び隣接市町の一部
 登録生産者団体 果樹王国ひがしね6次産業化推進協議会

 特定農林水産物等の特性 栽培に適した気象や土壌、栽培方法や規格管理の徹底により、大玉で甘さと酸味のバランスに優れた食味が特徴。

 地域との結び付き さくらんぼの最高級品種「佐藤錦」発祥の地。生産者の栽培技術や品質向上に向けた取組により、高品質のさくらんぼを広く提供できるようになり、日本一の生産量を誇っている。東根市をはじめ地域全体のさくらんぼによる町おこしの取組みが、「東根さくらんぼ」の知名度の向上に繋がっている。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i30.html より

 

 「東根さくらんぼ」は、味わい、見た目ともに最高品種といわれる「佐藤錦」を主要品種とする、食味にも優れた赤い果実であり、山形県東根市を代表するバラ科サクラ属の桜桃(オウトウ)の果実です。
 東根市は「佐藤錦」発祥の地であり、誕生以来、当地で試行錯誤を繰り返しながら栽培技術を確立してきました。「東根さくらんぼ」は長い栽培の歴史を有し、佐藤錦の栽培技術の確立を通じ、さくらんぼ全ての品種において品質が飛躍的に向上し、高品質で安定した生産量が確保できるようになりました。大玉で糖度が高く、そのさわやかな甘さと程よい酸味のバランスに優れた食味の良さが、初夏の味覚として贈答用をはじめ需要者に高い評価を得ています。山形県主催の「さくらんぼ品評会」では毎年東根市産が上位を占め、これまで数々の栄誉ある賞を受賞しています。生産量は、山形県が全国の7割を占めますが、東根市はその中でもトップに位置します。
 「東根さくらんぼ」の栽培においては、品質を保持するため、雨除け施設等を用いて割果を防止し、さらにその側面に防鳥ネットを張り、野鳥等から果実を守ります。この雨除け施設は東根市で開発されたもので、導入以来生産が安定化し、佐藤錦の栽培の急速な拡張に寄与しました。さらに、樹の下に反射シート等を使うことにより、果実の着色を促進します。また、芽の時と青い実の時に摘果するとともに、着色開始時期に葉摘みを行うことで果実と葉に太陽の光を多く当て、果実の成長を促します。

 明治時代、全国各地に配布・試作されたさくらんぼですが、現在では数カ所の産地に限られています。これは、さくらんぼが気象条件、地理的条件、土壌条件を選ぶ品目だからです。
 一般的に昼夜の寒暖差は果樹の生育に好影響を与え、果実は甘みを増すとされています。「東根さくらんぼ」の生産地は昼夜の寒暖差が大きく、果実成熟期の6月においては、最高気温26.2℃、最低気温14.0℃と、寒暖差が日平均の最高と最低で12℃と大きく条件のよい地域になっています。また、6月は梅雨の時期とも重なりますが、この生産地は比較的降雨量が少なく日照時間が長いことも、食味に好影響を与えています。土壌は、奥羽山系の乱川(みだれがわ)扇状地をはじめ、白水川、村山野川など河川により形成された水はけの良い礫質褐色低地土などです。これらの土壌は排水と通気性を好むさくらんぼ栽培に適しており、土壌水分が少ないことが甘みにつながり、そのさわやかな甘さと程よい酸味のバランスに優れた良食味のさくらんぼが生産されます。
 さくらんぼは明治初期から導入が始まりましたが、現在の最高級品種「佐藤錦」は東根市発祥の品種であり、昭和3年(1928年)、東根町(当時)で佐藤栄助氏により生み出され、その後、岡田東作氏が命名、努力と研究によりさくらんぼを代表する品種に成長し、普及することとなりました。
 明治時代からの栽培の歴史において、先人たちの弛まぬ努力、栽培意欲、そしてその信念は現在も地域の生産者に引き継がれており、「東根さくらんぼ」の生産量は日本一を誇り、その8割以上が「佐藤錦」となっています。地域内では、生産者独自の研究会や勉強会、最新の栽培技術導入に向けた情報収集などが活発で、さらなる高みを目指した取り組みが行われています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/30.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 20.回答 21.出題

2021-01-24 08:17:16 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 飛鷹走狗-ひようそうく-たかを飛ばし、犬を走らせる意で、狩りをすること。▽「飛鷹」はたかを飛ばすこと。「狗」は犬で、猟犬のこと。

 


 問2 繁劇紛擾-はんげきふんじょう-多忙を極めて、混乱すること。「繁劇」は多忙を極める。「紛擾」はまとまりがなく、わけがわからなくなること。

 


 問3 禾黍油油-かしょゆうゆう-植物の稲や黍が勢いよく成長している様子。「禾」は稲のこと。「油油」は植物などにつやがあって勢いがよい様子。

 


 問4 呑雲吐霧-どんうんとむ-神仙術を行う方士(ほうし)が、その術で雲を呑のみ霧を吐くこと。また、方士が修業するとき、食事をせずに気を養うこと。

 


 問5 加持祈祷-かじきとう-病気や災難から身を守るためや、願いを叶えるために神や仏に祈ること。「加持」は仏の加護を祈る、密教の法。「祈祷」は神や仏に祈ること。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 阿鼻叫喚

 

 問2 蓋棺事定

 

 問3 紅毛碧眼

 

 問4 臥薪嘗胆

 

 問5 曲学阿世

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より 

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮城 鳴子漆器

2021-01-24 08:08:49 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「鳴子漆器」

 「鳴子漆器(なるこしっき)」は、宮城県大崎市鳴子で生産される伝統工芸品の漆器である。経済産業大臣および宮城県知事から伝統的工芸品として指定されている。

 歴史
 近世
 鳴子における漆器生産がいつどのように始まったのか、確かな記録はない。1910年刊行の『玉造温泉誌』によれば、江戸時代の慶安年間(1648年から1652年)に紀州の塗物師が鳴子の挽物を塗りそれを浴客に売ったのが鳴子漆器の始まりであるという。また、漆工研究家の沢口悟一が1933年に書いた『日本漆工の研究』では、寛永年間(1624年から1645年)に鳴子漆器の生産が始まったとする。ただ、これらは言い伝えの範疇だろうとされる。

 鳴子漆器が史料に登場するのはそれらよりも遅い。鳴子を含む一帯を治めていた岩出山伊達家の文書によれば、伊達敏親の代に、塗師の村田卯兵衛と蒔絵師の菊田三蔵が京都に派遣され、修行したという。安永年間(1772年から1781年)に成立した『安永風土記』と通称される仙台藩の地誌史料のうち、鳴子村の項目において「鳴子のぬりもの」と「鳴子の木地挽もの」が特産物として言及されている。また、1805年(文化2年)および1820年(文政3年)の史料には、漆がこの地方で採取されていたことが窺え、塗物店として忠蔵や万七の名が見られる。1827年(文政10年)の小宮山昌秀『浴陸奥温泉記』、1862年(文久2年)の保田光則『撫子日記』は当時の鳴子の状況に詳しく、木地挽と漆器店が多いと言及している。『撫子日記』には、鬼首産製品が多いとも記されている。忠蔵の遊佐家の史料として、1866年(慶応2年)に江戸の朱座が発行した朱の取次販売の許可状が残っている。江戸時代の鳴子漆器がどのようなものだったか不明だが、明治時代の状況から、縦木取りの挽物の皿や椀に渋下地を施して塗ったものだったと推測されている。鳴子には出羽仙台街道が通り、その関として尿前番所があった。鳴子漆器の生産は関所警備の下級武士の内職として行われ、鳴子温泉の湯治客などに売られていたと見られている。

 近代・現代
 東北地方の著名な漆器の一つとして会津漆器がある。会津漆器は江戸時代から江戸という大市場を持ち、また進んだ問屋制度や分業制度を持っていた。戊辰戦争による会津の荒廃と、時代の進捗による往来の自由化により、明治時代に何人かの塗師や蒔絵師が会津から鳴子へ移り、鳴子漆器の生産に刺激を与えその発展に寄与した。特に蒔絵師の塩沢栄一は鳴子に永住して徒弟を育成した。1888年(明治21年)には沢口吾左衛門を組合長とする鳴子漆器改良組合が結成された。沢口は木地挽に用いる動力の改良と横木取りによる大型挽物の生産を考え、先進的な漆器生産地である会津や小田原、東京を視察した。1890年(明治23年)に大谷川の水力を利用した木地工場が造られたが、これは2年後に水害で流失した。明治20年代末から30年にかけて、東京の木地師が鳴子にきて新技法を工人に伝授した。しかし、横木取りによる挽物生産技術は鳴子で定着せず、加美郡宮崎村田代の横木物木地が鳴子漆器に用いられた。また、膳などの板物木地や通盆などの曲物木地は鬼首から供給された。明治時代末頃の鳴子漆器製品は種類が豊富であり、家族従業員を含めて200名ほどの漆工がその生産に携わっていたという。この頃が鳴子漆器生産の最盛期だったと言われる。

 大正時代になると、鳴子に陸羽東線が開通した。これにより、鳴子の産業は漆器業から観光業へと移り変わり、鳴子の塗物店は温泉街の土産店に変わるようになった。1922年(大正11年)には宮城県立鳴子工業講習所が設置され、木地工や漆工がここで育成されたが、1925年(大正14年)に宮城県工業学校への統合という形で講習所は閉鎖された。この間、1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、一大消費地である東京が大打撃を受けると、大市場を失った各地の漆器問屋が地方への販路を開拓しはじめた。鳴子の漆器業はこれに圧迫され、塗り賃の値下げが行われた。昭和に入ると、電動機具の利用により、横木取りの大型挽物がようやく鳴子で生産されるようになった。茶櫃や丸重が製造され、また花吹雪塗が盛んとなった。1937年(昭和12年)頃にガソリン発動機を備えた木地工場が造られ、木地の生産力が増したが、日中戦争の勃発で軍隊用食器の生産が行われるようになった。漆の統制や工人の軍隊への招集が行われて、日用品の生産は衰退した。

 戦後、人々の生活様式の変化、技術者の高齢化、後継者不足、プラスチック製品やカシュー塗料の進出、普及といった問題が、漆器業全体を脅かした。1952年(昭和27年)、鳴子では有志が鳴子漆工株式会社を立ち上げ、沢口吾左衛門の息子で、漆工研究家である沢口悟一をこれに迎えた。沢口が考案した竜文塗は鳴子漆器特有のものとして広まったが、この技法は後に公開されて、漆器業だけでなく、プラスチック製品ならびに化学塗料でも行われるようになった。沢口は竜文塗の特許申請を行ったが、特許庁は竜文塗の模様や色彩が一定でないことを理由に、この申請を認めなかった。

鳴子漆器は1982年(昭和57年)に宮城県知事指定伝統的工芸品となり、1991年(平成3年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品となった。

*Wikipedia より

*https://kougeihin.jp/craft/0504/ より

 

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