「ボズ・スキャッグス」
1944年6月8日生まれの76歳。
ボズ・スキャッグスが語るAOR黄金期、ブルースの再発見「ヨットロックは大嫌いだ」 DAVID BROWNE |2019/04/24 16:45画像を見る
今年5月より約4年ぶりの来日公演をスタートさせるAORの帝王、ボズ・スキャッグス。今回の来日と全米ソロ・デビュー50周年を記念して、日本独自企画の最新べスト盤『グレイテスト・ヒッツ -ジャパニーズ・シングル・コレクション-』も本日4月24日(水)にリリース。彼が最新作『アウト・オブ・ザ・ブルース』や、ニール・ヤングのカバー、70年代の栄光と失速、レディオヘッドのファンになった経緯などを語った、米ローリングストーン誌による2018年のインタビューをお届けする。
ボズ・スキャッグスは当たり前なことなど皆無だと思っている。自分の声は特にそうだと言う。最近終えたツアーでは、毎日サウンドチェックの前に声帯の調整をしていた。6〜7分間、「オー」や「アー」と声を出し続けて、喉に最大限の負荷をかけてから緊張を解くという方法だ。「例えるなら、声でウェイトリフティングをするようなものだね」とスキャッグス。現在74歳の彼は「過去を振り返ってみると、今が一番声のケアをしていると思う」と言う。
今回のツアーでのスキャッグスの声を聞く限りは、「リド・シャッフル」や「ロウダウン」など、彼のランドマーク的な1976年のアルバム『シルク・ディグリーズ』を聞いて育った世代には馴染みのしなやかで心地いい歌声は健在だ。しかし、最新アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルース』を引っさげてのツアーで、スキャッグスはブルースとR&Bのオリジナル曲に加えてカバー曲を披露しながら、デュアン・オールマンとの壮大な曲「ローン・ミー・ア・ダイム」を掘り下げたりしている。
こういった振れ幅の広さは、半世紀を超える長いキャリアに加えて、スキャッグスがあらゆるジャンルを網羅してきたことによってもたらされたと言える。オリジナルのスティーヴ・ミラー・バンド(彼らは50年代後期にテキサス州の私立学校で知り合った)在籍中のサイケデリックな音楽をやっていた若い頃から、ソウルとブルースを取り入れた初期のソロ・アルバムを経て、ポップスへと舵を切ったアルバム『シルク・ディグリーズ』と、スキャッグスは音楽風景を縦横無尽に旅しながら、一聴してわかる音楽性と声ですべての作品に確固とした統一感を持たせてきたのだ。
スキャッグスは現在、とても生産的な心持ちだという。2003年の『バット・ビューティフル』で始まった、ソウル、スタンダード、R&B、ブルースに特化したアルバム制作に没頭し、それぞれのジャンルの無名の名曲を掘り起こした。ローリングストーン誌は、音楽シーンにボズ・スキャッグスという音楽体験を切り開いたロック・レジェンドに近況を聞いてみた。
―ここ10年以上、さまざまなジャンルのルーツを徹底的に掘り下げた一番の理由は何ですか?
クリエイティブな仕事をしている人間ばかりでなく、あらゆる立場の人たちに人生の中で必ず気づきの瞬間が訪れると思う。それこそ、自分が来た場所に戻り始めるとそうなる。自分はいわゆる田舎者だった。オクラホマとテキサスの片田舎にある小さな町で育った。そこにはブルースがあった。まずはそこから話を始めよう。ブルースは進化する音楽の一部だったし、そこを入り口にして、私はさまざまな音楽スタイルやフォームを発見していった。つまり、現在はそうやって自分を音楽へと導いた出発点に戻ろうとしているわけだよ。出発点にあったもののエッセンスに戻ろうとしている最中だ。つまり、初めてリトル・リチャード、チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリーを聞いた自分の形成期にね。あの頃に聞いたものは人生を変えてしまうほどの衝撃を与えたのだから。あの当時に戻って、あの頃にあったものの本質を見つめるのは興味深い作業だよ。
―ブルースのアイコンの多くがすでに他界しているため、あなた自身がこのジャンルの長老的存在、もしくは優れた指導者という感じもします。
ここしばらく自分が行っている作業を「これはある種のキャンペーンだ」みたいに考えたことは一度もない。それに、一つの音楽フォームを生き長らえさせるために積極的に活動しているつもりもない。ただ、これは以前の私には決して達成できなかったことだ。ボビー・ブランドの曲は初めて聞いたときからずっと、普段ふとしたときに鼻歌で歌ったりしていている。ティーンエイジャーの頃からずっと彼の歌が頭の中で再生され続けているわけだ。でも、これまでの私には彼の歌を表現できる声がなかったから、この領域に触れることができなかった。ところが、現在の私はボビー・ブランドを歌うことができると感じている。やっと自分が子供の頃に感じたボビー・ブランドの表現に似た何かを、ほんのちょっとだけでも、自分の歌声に乗せることができるようになったと思う。自分の歌にしたとみんなは言ってくれるけどね。
―近年リリースした数作品に共通するのは選曲の妙です。ブルースであれ、R&Bであれ、スタンダードであれ、これまで何度もカバーされた楽曲ではなく、デューク・エリントンの「Do Nothing Till You Hear From Me」のように、もっと深みのある楽曲を選んで取り上げています。選曲はどのように行っていますか?
キーワードは「興味深さ(interesting)」だ。過去に何度も人が分け入って踏み固められた道からはずれた曲や、他人の手垢がついていない曲を見つけるのは、いつだって楽しいんだよ。私はせっせとリストを作るタイプで、数年前にマイケル・マクドナルドとドナルド・フェイゲンと一緒にプロジェクトをやったときも(編注:デュークス・オブ・セプテンバーのこと)、リストの交換を行いながら選曲作業を進めた。たくさんの楽曲を3人の間で何度も交換したけど、熱狂的なファン同士の意見交換はとてつもなく楽しいものだよ。
私はニューオリンズの音楽を見つけ出すのが大好きでね。ニューオリンズの音楽から出てきたミュージシャンやアーティストで、特に古いR&Bの人たちが本当に好きなんだ。50年代〜60年代から生まれ出て、都会的なR&B、モータウン、フィラデルフィア・インターナショナル(・レコード)へと進化した。そういった楽曲をすべて発見するのが楽しいし、自分が発見したものを他の人たちと共有するのも楽しい。それに、今でも何百、何千、何万という楽曲が埋もれたままなんだよ。
―それでは、アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルーズ』の収録曲を例に、(選曲の妙について)教えてもらえますか?
そうだね、(ブルースピアニスト兼シンガーのジミー・マクラフリンの)「アイヴ・ジャスト・ガット・トゥ・ノウ」は3〜4年前にフィルモア(・オーディトリアム)でロス・ロボスに提案された曲だ。彼らに参加を依頼され、デヴィッド(・イダルゴ)だったか、ルイ(・ペレス)だったかが、一緒に演奏する曲として提案した。私としては、彼らに言われるまでこの曲の存在に気づかなかったのが不思議なくらいだよ。とにかく、この曲を一緒に演奏したら、自分に合っていると実感した。そこでいつか使おうと温めていたんだよ。
―ニール・ヤングの「オン・ザ・ビーチ」はどうですか?
息子のオースティンが数人のパートナーと一緒に、彼らが尊敬するミュージシャンを讃えるコンサートを企画して、大勢の参加者を集めてこのコンサートを何度か開催した。そこでは彼らはニール・ヤングの一連の楽曲を取り上げたのだが、私に持ってきたのが「オン・ザ・ビーチ」だった。これはマイナー・ブルースで、私の好きなスタイルの楽曲だと彼らは確信していたよ。そこで、コンサート当日の午後にこの曲をリハーサルしたら、あっという間に私と結びついたんだ。電撃的だったし、いつかこの曲をレコーディングする機会があると感じたね。このブルース・アルバムの中では少し型破りだったが、私たちの選曲基準に合っていたし、この曲自体がとにかく見事としか言いようのないものなんだ。常に自分の身近にあって、あるとき突然ガツンと殴られるような衝撃を受ける曲を見つけて収録できて嬉しい。最高の気分だよ。
―ニールの音楽をそれほど知らないとうかがいましたが……。
そうなんだ。私たちはふたりとも同じ時期に西海岸で活動し始めたし、ニールのことも、彼の作品も知ってはいた。しかし、私はR&Bの方に意識が向いていたからね。彼のことは長い間、非常に高いレベルで意識はしていたけど、彼の音楽を演奏したことも、彼に会ったことも一度もなかったんだよ。
―アルバムに収録した楽曲について彼から連絡はありましたか?
いや、なかった。シャンパンも送られてこなかった(笑)。彼の感想はわからずじまいだよ。
―『シルク・ディグリーズ』や『ミドル・マン』系譜のポップアルバムをまた作る気はありませんか?
ああ、あるよ。時々考えるもの。私はいろいろなサウンドを演奏したいし、さまざまなテクスチャーや要素を試してみたい。これはロサンゼルスでスタジオ・ミュージシャンとして仕事をしていた頃にしょっちゅうやっていたし、凄腕ミュージシャンが集結して、彼らの想像力がこの手にあるとなったら、何でもできる気になるものだ。
あの頃、つまり70年代半ば〜後期だが、最高に楽しかった。名高い最高のミュージシャンたちと仕事したからね。例えばデヴィッド・ペイチ。彼はTOTOの創始者の一人だ。そしてデヴィッド・フォスターもいた。これまで聞いた音楽で最も洗練された音楽がそこにあった。あの頃の私は自分の本領から少しはずれたところにいたが、それでも私自身のスタイルを少し加えたり、ブルージーな要素を加えたりできた。あのタイプの音楽の、ああいったソフトでジャジーでプログレッシブな側面が大好きだし、とてもクールで満足度の高いなにかがあのスタイルにはある。でも、あのスタイルにどっぷり傾倒することはないと思う。
―「ヨットロック」は聞いたことがありますか? スティーリー・ダン、クリストファー・クロス、マイケル・マクドナルドなどと一緒に、あなたもこのカテゴリーに入っていました。
ああ、聞いたことがある。大嫌いだけどね。この言葉が醸すイメージがとにかく陳腐すぎる。このカテゴリーに関係したプログラミングや活動、船でのツアーなどの依頼を受けたことがあった。彼らは「ヨット」にこだわりたいんだろうね。今、君が挙げたアーティストたちと一緒のカテゴリーに入るのはやぶさかではない。クールだとすら思うし、あのスタイルにはプログレッシブ・ミュージックとジャズの要素がいくつも入っている。でも「ヨットロック」という名称がどうしても好きになれない。そんなカテゴリーに自分が入れられるのも嫌だ。カテゴリー名を変えればいいのにって思うよ。
―80年代に行ったインタビューで、『シルク・ディグリーズ』の頃だと思うのですが、「自分はこのイメージに縛られたくない」と言っていました。成功がもたらした不都合な点は何でしたか?
あの成功が自分にはしっくりこなかっただけだ。成功が嬉しい時期もあったが、そのあとは喜ぶふりをしていただけだったよ。確かに『シルク・ディグリーズ』は大ヒット作品だったけど、それ以降にリリースされたレコードも同じ路線上の内容だった。そうやって活動することがキャリアとなり、果たすべきこととなり……パブリシティ、名声、落とし穴など、すべて経験したんだ。自分の音楽が迷子になった感じだったよ。だから、しばらく時間が欲しかった。それが6年になり、7年になり、8年になった。とにかく、音楽に戻りたいと思えなくてね。音楽に見捨てられたんだよ、私は。いつもなら音楽で頭がいっぱいなのに、そのときは音楽に近づけなかった。アーティストの仕事として要求されることが、自分にとってはつらすぎたのだと思う。つまらなくて、疲れるものだったから。
―若い頃の自分にもしアドバイスするとしたら何と言いますか?
スタジオ作業や曲作り、レコーディングからしばらく離れたことを後悔していない。でもライブを中断したことは後悔している。数回行ったけど、基本的にはコンサートを一切行わないと決めていた。今ではコンサートをしていればよかったと思うね。ファンや自分をフォローしてくれる人々、つながりを感じて長い間一緒に過ごした人々との絆というのは本当に大切なものなんだ。それから離れてしまうと、その絆が切れてしまう。だからカムバックしたいと思ったとき、作り直さなければいけないことが本当に多かったんだ。
―1988年に『アザー・ロード』でカムバックしたとき、コロンビアは最初、拒否しましたよね。
ああ、状況が変わっていたんだ。少なくとも、私が活動していた70年代とは違うレベルになっていて、レコード会社はどこも型にはまっていた。『アザー・ロード』を完成してレコード会社に渡したら、当時の社長はヒット曲がないからもっと録音しろと言ってきてショックだったよ。ほら、私たちはヒット曲を出すために音楽をやっているわけじゃないから。でも、社長の言葉に従って新たに曲を録音したよ。そして、それがあの会社でリリースした最後のレコードとなった。
―当時はMTVの全盛期でしたからね。
怖い時代だったよ、本当に。シンセサイザーも登場した時期だ。シンセサイザーに異論はないけど、あちこちで間違った使い方をされていた時代だった。
―活動休止期間中に、サンフランシスコのスリムズというナイトクラブの共同オーナーになりましたよね。このクラブも今年で30年です。出演したアーティストで記憶に残る人はいますか?
(90年代に)スリムズで初めてパティ・スミスを見たんだ。バーに立って、彼女がクラブの天井を吹き飛ばすくらいの演奏を見るまで、彼女の作品の凄さを知らなかった。そういう体験をすると、自分がそれまで何を見ていたのか不思議になってしまう。あとは、カーティス・メイフィールドが演奏したときのことも覚えているね。それに自分のヒーローにもたくさん会うことができた。ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ、ジョニー・テイラー、ボビー・ブランドなどね。
―グリーン・デイとレディオヘッドも早い時期にあのクラブに出演しましたよね。彼らのライブは見たのですか?
いいや。でもレディオヘッドは後からコンサートを見たよ。1万4000〜6000人の会場だったが、彼らの音楽と演奏に圧倒されたし、畏敬と称賛を伝えようと思った。そしたら、一緒に行った人が「彼らはここまで人気が出る前に君のクラブに8回出演したよ!」と教えてくれた。そんなことばかりなんだよ。いつでも好きなときに入れたのに、見逃したものが本当にたくさんある。
―コロンビアは今、火事に炎に囲まれていて、あなた自身も1年ほど前にカリフォルニア北部の山火事で自宅が焼失しましたよね。
(訳註:この記事は2018年11月28日掲載)
本当に打ちのめされた。妻と私は25年間かけてあの家を作り上げたんだよ。焼けたあとには、道も、水も、電気もなかった。そして私たちは自宅が燃え落ちるのを最後まで見ていて……この火事の最悪の結末はまだ見ていないと思う。世間的に見れば私たちはまだラッキーな方だが、衝撃の度合いはかなりのものだよ。もう一度、家を建て直すつもりだけど、これにはしばらく時間がかかりそうだ。
―失ったもの中で最も価値のあるものは何ですか?
歌詞を失った。アイデアも、スケッチも、デモも、何もかも失った。みんな、なくして悲しいものばかりだよ。もちろん、そういうものは他の方法で再現しようと思えばできるけど、何が悲しいかって、何年もベッド脇に置いていたノートを失ったことだ。たくさんの楽曲のメモをとったノートだったし、これまで自分が作った曲のメモが全部書いてあった。それが何箱も燃えてしまったんだよ。
火災がおきたとき、私はツアー中だった。おかげで、ギターやアンプの大半を自宅に置いていなかったのがラッキーだったよ。置いていたら全部焼けていたはずだからね。それ以外のものはすべて焼失してしまったし、新しいもので代替できないわけじゃない。ただ、こういう衝撃のあとは、自分の人生に戻るために牽引力となる何かを探す時期というのが一定期間あって、もう失ってしまったものを来る日も来る日も、何ヶ月間も求め続けるものなんだ。まるで、まだそこにあるような気分でね。ある種、見えないものを見ている感じだよ。
―あなたが最初に成功したのはスティーヴ・ミラー・バンドの最初の2枚のアルバムでした。彼らとは今でも交流がありますか?
ないよ。ほら、人生とは、誰かと知り合って、一緒に何かをして、それぞれの道を歩くから。
―スティーヴ・ミラーと再び一緒にやってみたいと思うことはありますか?
それは考えないね、うん。それに、一緒にやったとしても「今更どうして?」と思う人がけっこういると思うな。
―これまで受けた最高のアドバイスは何ですか?
20代初めの頃、私はインドに滞在していて、何かを探し求めていた。その年の頃というのは誰もがそうだろう? インドでスピリチュアルなリーダーと出会った。その人の存在感は並外れていた。私はその人と座って話す機会を得たんだよ。彼と自分の間に強力なつながりを感じたね。すると、その人は「目の前の決まった道を進むべきじゃない」と言い、私には「決まった道はない」と言ったんだ。つまり、彼は自分の心に従う勇気を持てと言っていて、自分の本能と好奇心に従うことを勧めた。それがどんな未来に導くとしてもね。
―あなたのキャリアはそのアドバイスを証明しているように思えます。
今でもあのときの彼の言葉に安堵するよ。あの頃自分が探していた答えを未だに見つけてはいないけど、きっと彼の言葉の中にヒントがあるんだろうね。
*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30672/1/1/1 より