いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ボズ・スキャッグス

2021-01-26 07:00:03 | MUSIC

 「ボズ・スキャッグス」

  1944年6月8日生まれの76歳。

 ボズ・スキャッグスが語るAOR黄金期、ブルースの再発見「ヨットロックは大嫌いだ」 DAVID BROWNE |2019/04/24 16:45画像を見る

 今年5月より約4年ぶりの来日公演をスタートさせるAORの帝王、ボズ・スキャッグス。今回の来日と全米ソロ・デビュー50周年を記念して、日本独自企画の最新べスト盤『グレイテスト・ヒッツ -ジャパニーズ・シングル・コレクション-』も本日4月24日(水)にリリース。彼が最新作『アウト・オブ・ザ・ブルース』や、ニール・ヤングのカバー、70年代の栄光と失速、レディオヘッドのファンになった経緯などを語った、米ローリングストーン誌による2018年のインタビューをお届けする。

 ボズ・スキャッグスは当たり前なことなど皆無だと思っている。自分の声は特にそうだと言う。最近終えたツアーでは、毎日サウンドチェックの前に声帯の調整をしていた。6〜7分間、「オー」や「アー」と声を出し続けて、喉に最大限の負荷をかけてから緊張を解くという方法だ。「例えるなら、声でウェイトリフティングをするようなものだね」とスキャッグス。現在74歳の彼は「過去を振り返ってみると、今が一番声のケアをしていると思う」と言う。

 今回のツアーでのスキャッグスの声を聞く限りは、「リド・シャッフル」や「ロウダウン」など、彼のランドマーク的な1976年のアルバム『シルク・ディグリーズ』を聞いて育った世代には馴染みのしなやかで心地いい歌声は健在だ。しかし、最新アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルース』を引っさげてのツアーで、スキャッグスはブルースとR&Bのオリジナル曲に加えてカバー曲を披露しながら、デュアン・オールマンとの壮大な曲「ローン・ミー・ア・ダイム」を掘り下げたりしている。

 


 こういった振れ幅の広さは、半世紀を超える長いキャリアに加えて、スキャッグスがあらゆるジャンルを網羅してきたことによってもたらされたと言える。オリジナルのスティーヴ・ミラー・バンド(彼らは50年代後期にテキサス州の私立学校で知り合った)在籍中のサイケデリックな音楽をやっていた若い頃から、ソウルとブルースを取り入れた初期のソロ・アルバムを経て、ポップスへと舵を切ったアルバム『シルク・ディグリーズ』と、スキャッグスは音楽風景を縦横無尽に旅しながら、一聴してわかる音楽性と声ですべての作品に確固とした統一感を持たせてきたのだ。

 スキャッグスは現在、とても生産的な心持ちだという。2003年の『バット・ビューティフル』で始まった、ソウル、スタンダード、R&B、ブルースに特化したアルバム制作に没頭し、それぞれのジャンルの無名の名曲を掘り起こした。ローリングストーン誌は、音楽シーンにボズ・スキャッグスという音楽体験を切り開いたロック・レジェンドに近況を聞いてみた。

 

 ―ここ10年以上、さまざまなジャンルのルーツを徹底的に掘り下げた一番の理由は何ですか?

 クリエイティブな仕事をしている人間ばかりでなく、あらゆる立場の人たちに人生の中で必ず気づきの瞬間が訪れると思う。それこそ、自分が来た場所に戻り始めるとそうなる。自分はいわゆる田舎者だった。オクラホマとテキサスの片田舎にある小さな町で育った。そこにはブルースがあった。まずはそこから話を始めよう。ブルースは進化する音楽の一部だったし、そこを入り口にして、私はさまざまな音楽スタイルやフォームを発見していった。つまり、現在はそうやって自分を音楽へと導いた出発点に戻ろうとしているわけだよ。出発点にあったもののエッセンスに戻ろうとしている最中だ。つまり、初めてリトル・リチャード、チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリーを聞いた自分の形成期にね。あの頃に聞いたものは人生を変えてしまうほどの衝撃を与えたのだから。あの当時に戻って、あの頃にあったものの本質を見つめるのは興味深い作業だよ。

 ―ブルースのアイコンの多くがすでに他界しているため、あなた自身がこのジャンルの長老的存在、もしくは優れた指導者という感じもします。

 ここしばらく自分が行っている作業を「これはある種のキャンペーンだ」みたいに考えたことは一度もない。それに、一つの音楽フォームを生き長らえさせるために積極的に活動しているつもりもない。ただ、これは以前の私には決して達成できなかったことだ。ボビー・ブランドの曲は初めて聞いたときからずっと、普段ふとしたときに鼻歌で歌ったりしていている。ティーンエイジャーの頃からずっと彼の歌が頭の中で再生され続けているわけだ。でも、これまでの私には彼の歌を表現できる声がなかったから、この領域に触れることができなかった。ところが、現在の私はボビー・ブランドを歌うことができると感じている。やっと自分が子供の頃に感じたボビー・ブランドの表現に似た何かを、ほんのちょっとだけでも、自分の歌声に乗せることができるようになったと思う。自分の歌にしたとみんなは言ってくれるけどね。

 ―近年リリースした数作品に共通するのは選曲の妙です。ブルースであれ、R&Bであれ、スタンダードであれ、これまで何度もカバーされた楽曲ではなく、デューク・エリントンの「Do Nothing Till You Hear From Me」のように、もっと深みのある楽曲を選んで取り上げています。選曲はどのように行っていますか?

 キーワードは「興味深さ(interesting)」だ。過去に何度も人が分け入って踏み固められた道からはずれた曲や、他人の手垢がついていない曲を見つけるのは、いつだって楽しいんだよ。私はせっせとリストを作るタイプで、数年前にマイケル・マクドナルドとドナルド・フェイゲンと一緒にプロジェクトをやったときも(編注:デュークス・オブ・セプテンバーのこと)、リストの交換を行いながら選曲作業を進めた。たくさんの楽曲を3人の間で何度も交換したけど、熱狂的なファン同士の意見交換はとてつもなく楽しいものだよ。


 私はニューオリンズの音楽を見つけ出すのが大好きでね。ニューオリンズの音楽から出てきたミュージシャンやアーティストで、特に古いR&Bの人たちが本当に好きなんだ。50年代〜60年代から生まれ出て、都会的なR&B、モータウン、フィラデルフィア・インターナショナル(・レコード)へと進化した。そういった楽曲をすべて発見するのが楽しいし、自分が発見したものを他の人たちと共有するのも楽しい。それに、今でも何百、何千、何万という楽曲が埋もれたままなんだよ。

 

 ―それでは、アルバム『アウト・オブ・ザ・ブルーズ』の収録曲を例に、(選曲の妙について)教えてもらえますか?

 そうだね、(ブルースピアニスト兼シンガーのジミー・マクラフリンの)「アイヴ・ジャスト・ガット・トゥ・ノウ」は3〜4年前にフィルモア(・オーディトリアム)でロス・ロボスに提案された曲だ。彼らに参加を依頼され、デヴィッド(・イダルゴ)だったか、ルイ(・ペレス)だったかが、一緒に演奏する曲として提案した。私としては、彼らに言われるまでこの曲の存在に気づかなかったのが不思議なくらいだよ。とにかく、この曲を一緒に演奏したら、自分に合っていると実感した。そこでいつか使おうと温めていたんだよ。

 ―ニール・ヤングの「オン・ザ・ビーチ」はどうですか?

 息子のオースティンが数人のパートナーと一緒に、彼らが尊敬するミュージシャンを讃えるコンサートを企画して、大勢の参加者を集めてこのコンサートを何度か開催した。そこでは彼らはニール・ヤングの一連の楽曲を取り上げたのだが、私に持ってきたのが「オン・ザ・ビーチ」だった。これはマイナー・ブルースで、私の好きなスタイルの楽曲だと彼らは確信していたよ。そこで、コンサート当日の午後にこの曲をリハーサルしたら、あっという間に私と結びついたんだ。電撃的だったし、いつかこの曲をレコーディングする機会があると感じたね。このブルース・アルバムの中では少し型破りだったが、私たちの選曲基準に合っていたし、この曲自体がとにかく見事としか言いようのないものなんだ。常に自分の身近にあって、あるとき突然ガツンと殴られるような衝撃を受ける曲を見つけて収録できて嬉しい。最高の気分だよ。

 

 ―ニールの音楽をそれほど知らないとうかがいましたが……。

 そうなんだ。私たちはふたりとも同じ時期に西海岸で活動し始めたし、ニールのことも、彼の作品も知ってはいた。しかし、私はR&Bの方に意識が向いていたからね。彼のことは長い間、非常に高いレベルで意識はしていたけど、彼の音楽を演奏したことも、彼に会ったことも一度もなかったんだよ。


 ―アルバムに収録した楽曲について彼から連絡はありましたか?

 いや、なかった。シャンパンも送られてこなかった(笑)。彼の感想はわからずじまいだよ。

 

 ―『シルク・ディグリーズ』や『ミドル・マン』系譜のポップアルバムをまた作る気はありませんか?

 ああ、あるよ。時々考えるもの。私はいろいろなサウンドを演奏したいし、さまざまなテクスチャーや要素を試してみたい。これはロサンゼルスでスタジオ・ミュージシャンとして仕事をしていた頃にしょっちゅうやっていたし、凄腕ミュージシャンが集結して、彼らの想像力がこの手にあるとなったら、何でもできる気になるものだ。

 あの頃、つまり70年代半ば〜後期だが、最高に楽しかった。名高い最高のミュージシャンたちと仕事したからね。例えばデヴィッド・ペイチ。彼はTOTOの創始者の一人だ。そしてデヴィッド・フォスターもいた。これまで聞いた音楽で最も洗練された音楽がそこにあった。あの頃の私は自分の本領から少しはずれたところにいたが、それでも私自身のスタイルを少し加えたり、ブルージーな要素を加えたりできた。あのタイプの音楽の、ああいったソフトでジャジーでプログレッシブな側面が大好きだし、とてもクールで満足度の高いなにかがあのスタイルにはある。でも、あのスタイルにどっぷり傾倒することはないと思う。

 ―「ヨットロック」は聞いたことがありますか? スティーリー・ダン、クリストファー・クロス、マイケル・マクドナルドなどと一緒に、あなたもこのカテゴリーに入っていました。

 ああ、聞いたことがある。大嫌いだけどね。この言葉が醸すイメージがとにかく陳腐すぎる。このカテゴリーに関係したプログラミングや活動、船でのツアーなどの依頼を受けたことがあった。彼らは「ヨット」にこだわりたいんだろうね。今、君が挙げたアーティストたちと一緒のカテゴリーに入るのはやぶさかではない。クールだとすら思うし、あのスタイルにはプログレッシブ・ミュージックとジャズの要素がいくつも入っている。でも「ヨットロック」という名称がどうしても好きになれない。そんなカテゴリーに自分が入れられるのも嫌だ。カテゴリー名を変えればいいのにって思うよ。

 ―80年代に行ったインタビューで、『シルク・ディグリーズ』の頃だと思うのですが、「自分はこのイメージに縛られたくない」と言っていました。成功がもたらした不都合な点は何でしたか?

 あの成功が自分にはしっくりこなかっただけだ。成功が嬉しい時期もあったが、そのあとは喜ぶふりをしていただけだったよ。確かに『シルク・ディグリーズ』は大ヒット作品だったけど、それ以降にリリースされたレコードも同じ路線上の内容だった。そうやって活動することがキャリアとなり、果たすべきこととなり……パブリシティ、名声、落とし穴など、すべて経験したんだ。自分の音楽が迷子になった感じだったよ。だから、しばらく時間が欲しかった。それが6年になり、7年になり、8年になった。とにかく、音楽に戻りたいと思えなくてね。音楽に見捨てられたんだよ、私は。いつもなら音楽で頭がいっぱいなのに、そのときは音楽に近づけなかった。アーティストの仕事として要求されることが、自分にとってはつらすぎたのだと思う。つまらなくて、疲れるものだったから。

 


 ―若い頃の自分にもしアドバイスするとしたら何と言いますか?

 スタジオ作業や曲作り、レコーディングからしばらく離れたことを後悔していない。でもライブを中断したことは後悔している。数回行ったけど、基本的にはコンサートを一切行わないと決めていた。今ではコンサートをしていればよかったと思うね。ファンや自分をフォローしてくれる人々、つながりを感じて長い間一緒に過ごした人々との絆というのは本当に大切なものなんだ。それから離れてしまうと、その絆が切れてしまう。だからカムバックしたいと思ったとき、作り直さなければいけないことが本当に多かったんだ。

 

 ―1988年に『アザー・ロード』でカムバックしたとき、コロンビアは最初、拒否しましたよね。

 ああ、状況が変わっていたんだ。少なくとも、私が活動していた70年代とは違うレベルになっていて、レコード会社はどこも型にはまっていた。『アザー・ロード』を完成してレコード会社に渡したら、当時の社長はヒット曲がないからもっと録音しろと言ってきてショックだったよ。ほら、私たちはヒット曲を出すために音楽をやっているわけじゃないから。でも、社長の言葉に従って新たに曲を録音したよ。そして、それがあの会社でリリースした最後のレコードとなった。

 ―当時はMTVの全盛期でしたからね。

 怖い時代だったよ、本当に。シンセサイザーも登場した時期だ。シンセサイザーに異論はないけど、あちこちで間違った使い方をされていた時代だった。

 ―活動休止期間中に、サンフランシスコのスリムズというナイトクラブの共同オーナーになりましたよね。このクラブも今年で30年です。出演したアーティストで記憶に残る人はいますか?

 (90年代に)スリムズで初めてパティ・スミスを見たんだ。バーに立って、彼女がクラブの天井を吹き飛ばすくらいの演奏を見るまで、彼女の作品の凄さを知らなかった。そういう体験をすると、自分がそれまで何を見ていたのか不思議になってしまう。あとは、カーティス・メイフィールドが演奏したときのことも覚えているね。それに自分のヒーローにもたくさん会うことができた。ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ、ジョニー・テイラー、ボビー・ブランドなどね。

 ―グリーン・デイとレディオヘッドも早い時期にあのクラブに出演しましたよね。彼らのライブは見たのですか?

 いいや。でもレディオヘッドは後からコンサートを見たよ。1万4000〜6000人の会場だったが、彼らの音楽と演奏に圧倒されたし、畏敬と称賛を伝えようと思った。そしたら、一緒に行った人が「彼らはここまで人気が出る前に君のクラブに8回出演したよ!」と教えてくれた。そんなことばかりなんだよ。いつでも好きなときに入れたのに、見逃したものが本当にたくさんある。


 ―コロンビアは今、火事に炎に囲まれていて、あなた自身も1年ほど前にカリフォルニア北部の山火事で自宅が焼失しましたよね。
(訳註:この記事は2018年11月28日掲載)

 本当に打ちのめされた。妻と私は25年間かけてあの家を作り上げたんだよ。焼けたあとには、道も、水も、電気もなかった。そして私たちは自宅が燃え落ちるのを最後まで見ていて……この火事の最悪の結末はまだ見ていないと思う。世間的に見れば私たちはまだラッキーな方だが、衝撃の度合いはかなりのものだよ。もう一度、家を建て直すつもりだけど、これにはしばらく時間がかかりそうだ。

 ―失ったもの中で最も価値のあるものは何ですか?

 歌詞を失った。アイデアも、スケッチも、デモも、何もかも失った。みんな、なくして悲しいものばかりだよ。もちろん、そういうものは他の方法で再現しようと思えばできるけど、何が悲しいかって、何年もベッド脇に置いていたノートを失ったことだ。たくさんの楽曲のメモをとったノートだったし、これまで自分が作った曲のメモが全部書いてあった。それが何箱も燃えてしまったんだよ。

 火災がおきたとき、私はツアー中だった。おかげで、ギターやアンプの大半を自宅に置いていなかったのがラッキーだったよ。置いていたら全部焼けていたはずだからね。それ以外のものはすべて焼失してしまったし、新しいもので代替できないわけじゃない。ただ、こういう衝撃のあとは、自分の人生に戻るために牽引力となる何かを探す時期というのが一定期間あって、もう失ってしまったものを来る日も来る日も、何ヶ月間も求め続けるものなんだ。まるで、まだそこにあるような気分でね。ある種、見えないものを見ている感じだよ。

 ―あなたが最初に成功したのはスティーヴ・ミラー・バンドの最初の2枚のアルバムでした。彼らとは今でも交流がありますか?

 ないよ。ほら、人生とは、誰かと知り合って、一緒に何かをして、それぞれの道を歩くから。

 ―スティーヴ・ミラーと再び一緒にやってみたいと思うことはありますか?

 それは考えないね、うん。それに、一緒にやったとしても「今更どうして?」と思う人がけっこういると思うな。

 ―これまで受けた最高のアドバイスは何ですか?

 20代初めの頃、私はインドに滞在していて、何かを探し求めていた。その年の頃というのは誰もがそうだろう? インドでスピリチュアルなリーダーと出会った。その人の存在感は並外れていた。私はその人と座って話す機会を得たんだよ。彼と自分の間に強力なつながりを感じたね。すると、その人は「目の前の決まった道を進むべきじゃない」と言い、私には「決まった道はない」と言ったんだ。つまり、彼は自分の心に従う勇気を持てと言っていて、自分の本能と好奇心に従うことを勧めた。それがどんな未来に導くとしてもね。

 ―あなたのキャリアはそのアドバイスを証明しているように思えます。

 今でもあのときの彼の言葉に安堵するよ。あの頃自分が探していた答えを未だに見つけてはいないけど、きっと彼の言葉の中にヒントがあるんだろうね。

*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/30672/1/1/1 より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<日本酒> 福島 名倉山/名倉山酒造

2021-01-26 06:50:07 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈福島〉 名倉山/名倉山酒造

 

 不易流行の心で、とことん酒質にこだわり続けたい

 名倉山は大正7年、今で言うところの酒の鑑定官のような仕事をしていた初代・松本善六によって創業。以来、とことん酒質にこだわり、南部杜氏の流れを組み、革新的な酒造りに取り組んでいます。

 昭和48年、まだ全国的には甘口の酒が全盛で、ここ会津地方の蔵元でも鑑評会への出品をしていないときに「吟醸造りで一般の消費者に飲んでもらえる純米酒を造りたい」と考え、吟醸・純米酒造りに着手したのも、その表れのひとつです。

 松尾芭蕉が提唱した俳諧哲学のひとつですが「不易流行」という言葉があります。永遠の本質は、新しさを求めて常に変化する流行の中にこそあるという考えですが、私ども名倉山も先代達が守り、受け継いできた真摯なまでの伝統的な酒造りを基本に時代が求める新しい味わいを柔軟で豊かな発想で日々追求しております。

 ぜひ一度、とことん酒質にこだわった蔵人の一献をお試しください。

*https://monogatari-sake.com/kuramoto/nagurayama-shuzou/ より

 名倉山酒造株式会社 会津若松市千石町2番46号

 ブランド一覧

 「名倉山」大吟醸 鑑評会出品酒・大吟醸

 「善き哉」純米吟醸酒

 「歓喜の歌」純米吟醸酒

 「会津の八重」純米吟醸酒

 「月弓 かおり」純米吟醸酒 など

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 32. 大館とんぶり  

2021-01-26 06:44:32 | 食品

 登録番号 第32号 大館とんぶり

 

 特定農林水産物等の区分 第17類 野菜加工品類 その他第1号から前号までに掲げるもの以外の野菜加工品(とんぶり)

 特定農林水産物等の生産地 秋田県大館市

 登録生産者団体 あきた北農業協同組合

 特定農林水産物等の特性 アカザ科ホウキギ属の一年草であるホウキギ(昔は茎を束ね、ほうきとして利用)の実を原料とした加工品。直径1~2mmの粒状で、味はないが、プチプチした魚の卵に感じられる食感を楽しむ食材。その食感から「畑のキャビア」などとも呼ばれる。

 地域との結び付き 山に囲まれ風が少ないことが、実が落ちやすいホウキギ栽培に適している。加工処理に必要な豊富な湧き水に恵まれている。江戸時代から「とんぶり」を食す習慣があったとされ、加工に必要なノウハウが伝承。「とんぶり」の語源は「ぶりこ(秋田の県魚であるハタハタの卵)」といわれ、秋田を代表する特産品の一つ。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i32.html より

 

 とんぶりは、一年草であるホウキギ(ホウキグサ)の成熟果実を原料とし、それを加熱加工したものです。とんぶりは加工が難しいことなどから国内他地域での生産が普及しない中、秋田県大館市において「大館とんぶり」の栽培、生産が継続して行われ、秋田の特産品として広く知られるようになりました。
 「大館とんぶり」は、直径1~2mm程度の粒状で、味は無味無臭ですが、食感を楽しむ食材として使われることが多く、いわゆる「畑のキャビア」などとも呼ばれるように、プチプチとした如何にも魚の卵に感じられる歯触りが絶妙で、新物の出る10月になると県内外の多くのファンから注文がくるほどの人気があります。現在、国内で商品としてのとんぶりを継続して生産・出荷している産地は大館市のみと言われています。
 「とんぶり」の名の由来については「ぶりこ(秋田の県魚ハタハタの卵)に似た、唐伝来のもの」を意味する「とうぶりこ(唐ぶりこ)」が省略され、訛ったとする秋田の方言説が有力であると言われています。
 ホウキギの栽培は、収穫時期に合わせ、4月~5月頃に播種、5月~6月頃に移植を行います。成熟した実はコンバイン等で収穫し、一週間ほど天日または乾燥機を利用し乾燥します。乾燥した実を釜で十分に煮て、24時間湯温で処理し、ふやかします。その後、実を揉み、果皮(外皮)を取り除き、脱水して出来上がります。

 かつては、日本各地で「ホウキ(箒)」を作るためホウキギが栽培されていました。大館市を流れる米代川流域でも、ホウキギ栽培が盛んでしたが、やがて、国内での箒生産量が減少するのに伴い、ホウキギ栽培も衰退していきましたが、現在の大館市一帯には、江戸時代からホウキギの実を食用とする習慣があり、ホウキギ栽培やとんぶりの加工の生産技術が現在に至るまで継承されています。
 もっぱら、農家が自家消費で食していたと考えられているとんぶりですが、1973年に大館市にとんぶり加工場がつくられ、商品として安定した出荷ができるようになると、それが契機となり、「大館とんぶり」は全国的に周知され、栽培・加工量が増加していきました。

 ホウキギの栽培にあたっては、風が強い土地柄ですと風に実を落とされてしまい、効率よく実を収穫することができません。その点、ホウキギ栽培の主産地である大館市比内地区は、山に囲まれ、風が少ないため、実を得るための条件に恵まれています。また、同地区の米代川の支流である炭谷川流域では、集落の各所で、とんぶり加工に必要な豊富な湧き水に恵まれているなど、自然条件の面でも「大館とんぶり」の生産に適しています。
 このような地理的、気候的好条件を背景に、加工用機械の開発や流通利便性の発展とともに「大館とんぶり」は全国的に周知され、作付面積が1980年からの約10年で倍以上に拡大しました。現在、市場では、他産地産のとんぶりが流通しているという情報が無く、全てが大館とんぶりであると言われています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/32.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<漢字検定> 準1級 四字熟語 22.回答 23.出題

2021-01-26 06:37:40 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 孝悌忠信-こうていちゅうしん-真心を尽くし、誠意をもって、父母や兄など、目上の人に仕えること。

 


 問2 温文爾雅-おんぶんじが-心がおだやかで礼儀にかない、文章、言語、風俗などのかどがとれて美しいこと。

 


 問3 蚕食鯨呑-さんしょくげいどん-力の強い大きな国が、弱く小さい国を侵略していくこと。虫の蚕が桑の葉を食べていき、鯨が魚を丸呑みにするという意味から。

 


 問4 嘉辰令月-かしんれいげつ-めでたい月日のこと。よい日とよい月の意。▽「嘉」も「令」も、よい意。「辰」は日のこと。

 


 問5 焚書坑儒-ふんしょこうじゅ-言論・思想・学問などを弾圧すること。書物を焼いて儒学者を穴埋めにする意から。▽「焚」は焼く意。「坑」は穴埋めにする意。「儒」は儒学者・学者の意。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 鳶目兎耳

 

 問2 四面楚歌

 

 問3 旧套墨守

 

 問4 光輝燦然

 

 問5 狼子野心

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<経産大臣指定伝統的工芸品> 宮城 宮城伝統こけし

2021-01-26 06:35:05 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「宮城伝統こけし」

 歴史
 今より1300年前、称徳天皇の時代(718年~770年)に、四種類の陀羅尼経を納める入れ物(塔婆)が作られました。
百万個も作られたことから、「百万塔」とも呼ばれたこの作品こそが、木地師が作った最古のこけしと言われています。
 その後、清和天皇の第一王子である惟喬親王(844年~897年)が、近江国愛知郡小椋谷にて、ろくろ挽きの技術を指導されました。 そこで技術を修得した木地師達は、東は関東・東北へ、西は四国・九州へと移り、木地屋の集落を形成して行きました。彼らは、更に各地の湯治場(温泉街)へも移って行きました。
 木地師達は、お盆やお椀などを作る一方で、男の子には「独楽(こま)」を、女の子には「きぼこ(こけし)」などの木地玩具を作ってあげました。その後、それらは子供の玩具から大人のコレクションへと変化していったのです。
 なお、現在のこけしの形が完成されたのは、今から283年前の享保年間頃であったと言われています。

 特徴
 こけしは、最も簡略化された造形の美しさに加え、清楚にして可憐な姿は山村の自然に囲まれた素朴な工人の心を通じて表現した美しさであり、産地の独特の形・模様を通じて今日に受け継がれています。
 宮城県内には、「鳴子こけし」「作並こけし」「遠刈田こけし」「弥治郎こけし」「肘折こけし」の5つの伝統こけしがあり、系統作者により形・描彩にちがう特徴があります。

 産地PR・最近の取り組み、課題など
 東北の山間地に生まれた伝統こけしは、大きく11の系統に分けられます。
次の世代へと継承されるうちに、それぞれの地域で特徴的な形や顔、胴模様が表れるようになってきました。 どれをとっても美しく、愛らしく、鑑賞者によって好みが分かれるのも、こけし鑑賞の楽しさのひとつと言えましょう。 そのうちの五系統(遠刈田系、弥治郎系、作並系、肘折系、鳴子系)が「宮城伝統こけし」として、国の伝統的工芸品に指定されました。
 宮城伝統こけし連合会は、鳴子木地玩具協同組合、仙台地区伝統こけし工人組合、弥治郎こけし業協同組合、遠刈田伝統こけし木地玩具業協同組合という四地区の協同組合によって、産地の振興に努めているところです。
 課題は、後継者の育成です。育成指導を始め、体験教室などを通じてこけし作りに親しんでもらえるよう取り組んでいます

~イベント~
こけしまつり
全国のこけしを一堂に集めたこけしまつりやこけしコンクールを、各産地で毎年盛大に開催しており、あたたかなぬくもりのある「こけし」や「木地玩具」と出会うことができます。
◆全日本こけしコンクール(白石市)5/3~5/5
◆全国こけし祭り(大崎市鳴子温泉)9月第1土曜日・日曜日
◆全国伝統こけしろくろまつり(蔵王町遠刈田温泉)10月初旬

*https://www.tohoku.meti.go.jp/s_cyusyo/densan-ver3/html/item/miyagi_01.htm より

*https://kougeihin.jp/craft/1301/ より

 宮城伝統こけし五系統

 「遠刈田系」-宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉・川崎町青根温泉他

 頭が大きく、胴は直胴
 頭部に赤い放射状の模様を描く
 構造は差し込み式
 ※描彩はこけしの中で最も華麗と伝われる
 

 「弥治郎系」-白石市

 頭は、ベレー帽のようなロクロ線の下に2~3色の飾りや赤に手絡(てがら・日本髪の髪の飾り)が付き、上品な色気が漂っている。
 模様は太いロクロ線の組み合せのほか、簡単な衿や裾で着物を表現したもの、花や蝶をあしらったものなど、色彩を主体としている。

 「作並系」-仙台市・作並温泉

 山形作並系ともいう。また山形を独立系として扱う場合もある。
 頭頂に輪形の赤い飾りを描き、胴は上下のロクロ線の間に菊模様が描かれる。

 「肘折系」-仙台市近郊

 遠刈田系と鳴子系が混合して生まれた系統で、頭部は赤い放射線か黒頭で、胴はやや太く肩が張っている。胴模様は菊が多いが、石竹などもある。

 「鳴子系」-鳴子町

  頭は、独特な髪型である。
  胴模様は、写実的な花模様で、菊が多い。
  胴が太く、頭との調和がよく安定感がある。
  首は、特殊なはめ込み方式で、回すと「キイキイ」と鳴る。

*Wikipedia・http://www4.famille.ne.jp/~a-kougei/index.html より

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする