いいもの見ぃ~つけた!

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スペルミスで発売中止って恥ずかしい話-サッポロ 開拓使麦酒仕立て

2021-01-09 15:27:23 | お粗末な事件・事故

 「スペルミス」で発売中止って恥ずかしすぎる(笑

 

 サッポロビールとファミマが共同開発したという「サッポロ 開拓使麦酒仕立て」。

 12日から全国のファミリーマート約16300店舗で発売予定だったという。

 各店舗に最低1ケース送り込んでいたとしても「16300ケース」つまり39万1200本程度が既に「販売待ち」だったことだろう。

 まだパッケージ-缶は在庫も工場にあっただろうし・・・

 被害額はえらいものになりそう(笑

 

 でも「発売直前」まで誰も気づかなかったとは・・・

 一番の責任は「デザイナー」のミス。

 そして次に「担当者」のミス。そして上位決裁者・・・

 

 「LAGER」を「LAGAR」と。

 サッポロでは「赤星」がトレードマークのラガー。「瓶ビール」の時代はラベルが目立っていた。

 「LAGER」への愛着がなくなってしまっていたのか?

 

 12日発売に合わせて買って飲んでみようと思っていたけど・・・

 「再発売」できるのかな?

 

 社内処分もどうなるのか?

 サラリーマン時代、数々の失敗もやってきた私としては気掛かりである。

 どうか「寛大な処分」を願う。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-番外編

2021-01-09 07:23:14 | MUSIC

 残念ながら昨年-2020年にご逝去されたミュージシャンの方々を少し。

 「服部 克久」1936年11月1日 - 2020年6月11日

 あの「服部良一」氏のご長男。息子は「服部隆之」。

 こんな音楽一家は珍しい。

 服部克久さん、洗練のサウンドで昭和を彩る
  自宅に作曲・編曲譜延べ6万曲 83歳で死去 2020年6月11日 22:30

 83歳で亡くなった作曲家の服部克久さんは、昭和の高度成長期から平成まで日本のポピュラー音楽界に欠かせない顔だった。音楽番組「ザ・ベストテン」のテーマ曲を書き、山口百恵の引退公演の監督を務め、谷村新司の「昴」の編曲を手がけ、時代劇「江戸の旋風」の音楽を担当するなど、仕事は多岐にわたり、東京・世田谷の自宅には作曲、編曲した譜面が延べ6万曲分残された。膨大な仕事量だった。

 「青い山脈」「東京ブギウギ」「蘇州夜曲」など数々の名曲を生んだ昭和の大ヒットメーカー、服部良一の長男として生まれた。服部さんは取材のたびに「僕にはおやじのような流行歌は書けません。メロディー作りではかないませんからね。僕の進むべき道はサウンドを中心としたインストゥルメンタル(器楽曲)。そう早い時期に悟ったんですよ」と話していた。

 数年前の取材では「僕の生涯の目標はインターナショナルポップス、世界のどこでも通用する音楽を書くことです」と熱心に語った。フランスの音楽人との交流が深く、作曲家のミシェル・ルグランやポール・モーリア、レイモン・ルフェーブルらと親交があった。服部さんの代表曲「ル・ローヌ」「自由の大地」などを聴くと、ルグランやモーリアらの系譜に連なる作曲家だったことが分かる。国際レベルの洗練されたサウンドで昭和を彩った音の仕事師だった。

 長男の服部隆之はNHK大河ドラマ「真田丸」などの音楽を手がける売れっ子作曲家。隆之の長女の服部百音はバイオリニストとして国際的に活躍中だ。「良一から数えて服部家4代、みんな音楽畑なんですよ。音楽の遺伝子を一番色濃く受け継いでいるのは百音かなあ」とうれしそうに笑った顔が今も印象に残っている。(吉田俊宏)

*https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60265880R10C20A6BC8000 より

 

 「筒美京平」1940年5月28日 - 2020年10月7日

 日本の歌謡曲界において、右に出る人はいない作曲家、編曲家。

 「日本一ヒット曲を生んだ男」の唯一無二の功績
  筒美京平の「王道に見えて異端」な作曲のすごさ スージー鈴木 : 評論家 2020/10/21 13:10

 小泉今日子さんの『なんてったってアイドル』などを手がけた作曲家・筒美京平さんが亡くなられました。筒美京平さんの功績、その大きさと重さを考察します。 小泉今日子 1986年(写真:時事通信)
作曲家・筒美京平が10月7日、誤えん性肺炎で死去した。80歳だった。

 音楽評論家として、氏の巨大な功績を追い続けてきた私だが、そんな私の予想を超えた大きさで、筒美京平の死は、取り扱われた。しかし、一定の年齢以下の層や、意識的な音楽ファン以外の層にとって、筒美京平の功績は、非常にわかりにくいのではないだろうか。当の筒美京平自身が、徹底的に裏方に徹し、メディア露出や積極的な発言を好まなかったから、なおさらである。

 そこで今回は「月間エンタメ大賞」の特別編として、筒美京平の功績、その大きさと重さを、私なりに捉えてみたいと思う。

 小室哲哉をしのぐシングル売り上げ枚数
 筒美京平の功績を一言で言えば「ヒットシングルを量産し続けたこと」に尽きる。

 生涯で3000曲弱の作曲を手がけ、売りも売ったり、作曲家としての売り上げ枚数は7560万枚に上るという(オリコン調べ)。筒美京平に続くのは、作曲家・小室哲哉で7184万枚。筒美京平と僅差なのだが、筒美京平と小室哲哉では活躍した時代が異なる。小室哲哉が最盛期を迎えた90年代は、いわゆる「CDバブル」で、音楽ソフト市場が爆発した年だった。

 日本レコード協会によれば、音楽ソフトの生産金額がピークを迎えたのは1998年で6075億円。その前年1997年に、作曲家・小室哲哉の最高売り上げとなった安室奈美恵『CAN YOU CELEBRATE?』が230万枚を売り切っている。逆に、作曲家・筒美京平としての最高売り上げ枚数(124万枚)となったジュディ・オング『魅せられて』がリリースされた1979年は、1998年の半分以下、2626億円にとどまる市場規模だった。

 つまり小室哲哉の時代に比べて、まだまだ市場が小さかった時代において、小室を超えるヒットシングルを、ロングテールに積み重ねたということが、筒美京平のすごみなのである。

 では筒美京平は、どのような方法論でヒットシングルを生み出し続けたのか。

 方法論の本質は、その時代その時代における最新の音楽潮流を、筒美京平一流の鋭いアンテナでキャッチし続け、日本の「お茶の間」になじむように加工することだった。

 ロック時代に合わせた強いエイトビートをバックに、まるで小唄のような和風の歌い方を乗せて大ヒットした、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)。フォーク/ニューミュージック的なサウンドと、これまでの歌謡界には見られなかった型破りな歌詞が見事にマリアージュした、太田裕美『木綿のハンカチーフ』(1975年)。

 当時、世界的に大流行し始めていたディスコサウンドを、抜群の歌唱力を持つ女性新人歌手の歌に導入して大ヒットとなった、岩崎宏美『ロマンス』(1975年)。エキゾティック・ブームを先取りした大胆なメロディーとアレンジで、作曲家・筒美京平の最高売り上げとなったジュディ・オング『魅せられて』(1979年)。

 と、どの曲も、当時最新の音楽動向を捉えつつ、それを見事に「お茶の間化」することで、大ヒットとなったのだ。筒美京平の才能の根幹は、この「お茶の間化力」だったと、つくづく思う。

 作詞家との柔軟なコラボで市場変化に立ち向かった
 さらには、その時々の有能な作詞家と刺激的にコラボレーションすることでエネルギーを得ながら、音楽市場の変化と戦い続けたことも、ヒットシングル量産の大きな要因と思う。

 先のいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』を作詞したのは橋本淳。筒美京平を作曲の世界に導いたキーパーソンであり、筒美とコラボした楽曲数は500曲を超えるという。橋本×筒美が生んだ、高度経済成長期に合うバタ臭い音楽性は、初期・筒美京平のブレイクに大きく寄与した。

 筒美京平の「第1期黄金時代」とも言える1971年に日本レコード大賞を獲得した尾崎紀世彦『また逢う日まで』や、岩崎宏美『ロマンス』でコラボした作詞家は阿久悠。高度経済成長から、オイルショック、低成長時代へと移っていく中で、厳しい時代を生き抜く、自立した女性のイメージが残る作品群が印象的である。

 70年代後半からの、主にフォーク/ニューミュージックの市場を攻略する局面でのパートナーが、伝説のロックバンド=はっぴいえんど出身の作詞家、松本隆だった。都会的で個性的な筆致を武器に、太田裕美『木綿のハンカチーフ』から、桑名正博『哀愁トゥナイト』(1977年)を経て、近藤真彦『スニーカーぶる~す』(1980年)前後の「第2期黄金時代」を、筒美と共創することとなる。

 80年代になって、筒美京平のそばに現れるのが秋元康。コラボした曲は案外多く約100曲にのぼるという。稲垣潤一『ドラマティック・レイン』(1982年)がコラボの端緒となり、80年代特有の軽薄短小な気分に合わせて、アイドルがアイドルを対象化する小泉今日子『なんてったってアイドル』(1985年)も、このコンビの作品だった。

 以上に見られるように、その時代その時代で、最も勢いのある作詞家と果敢にタッグを組み続けた、逆に言えば、旬の作詞家とコラボし続けられる柔軟性を持っていたことも、筒美京平がヒットシングルを量産し続けられた大きな要因だと考えるのだ。

 少しばかり教科書的に、筒美京平の功績をひもといてみたが、ここまでを読んでも、作曲家・筒美京平の真の功績や価値は、十分に伝わらないのではないかと懸念する。とくに80年代、『スニーカーぶる~す』以降、筒美京平が名実ともに「王道」となった中で、幼少時代を過ごした40代の人々にとっては。

 逆に90年代以降の、主に「渋谷系」ムーヴメントにおいて、小沢健二やピチカート・ファイヴとのコラボに象徴される「筒美京平リスペクト」の気運を知っている30代の方々には、もろもろが違和感なく伝わっているのかもしれないのだが。

 私は80年代に青春時代を過ごした口だが、70年代の筒美京平作品も、子どもながらにリアルタイムで聴いていた世代でもある(54歳)。その世代感覚から思うのは、1979年=『魅せられて』までの作品群のほうに、ひきつけられる度合いが強いということだ。言い換えれば、1979年と1980年の間、『魅せられて』と『スニーカーぶる~す』の間あたりに「筒美京平フォッサマグナ」があるということ。

 確かに80年代以降にも、好きな筒美京平作品は山ほどある(小泉今日子『夜明けのMEW』など)。ただ、筒美京平作品が、音楽シーンの中で、明らかに斬新だった、まだまだ異端だったのは、筒美が40代になる前に生み出した1979年までの作品群だったと思うのだ。

 このあたりは意見が分かれるところかもしれないが、まだ未聴の方がいるならば、まずは本稿で述べた60~70年代の筒美京平作品に耳を澄ませ、「お茶の間化力」を駆使しながら、キレッキレの作詞家との刺激的なコラボの中で、斬新でハイカラなヒット曲を量産し続けた筒美の本領を感じてほしいと思う。

 今後現れることのない無二の作曲家
 ビーチ・ボーイズに『ペット・サウンズ』(1966年)という独創的な傑作アルバムがある。山下達郎は、そのライナーノーツにこう書いている。

 『ペット・サウンズ』のような響きを持ったアルバムは、あらゆる意味でたった1枚きりであり、このような響きは今後も決して現れることはない。それゆえにこのアルバムは異端であり、ゆえに悲しい程美しい。
筒美京平を強くリスペクトする山下達郎のこの文章になぞらえながら、筒美に対する私の思いを記して、本稿を終わりたい。

――筒美京平作品のような響きを生み出せる作曲家は、あらゆる意味でたった1人きりであり、あのような響きは今後も決して現れることはない。それゆえに筒美京平作品は、一見王道に見えて、でも、だからこそ異端であり、ゆえに悲しい程美しい。

*https://toyokeizai.net/articles/-/382884 より

 

 「中村 泰士」

 1939年5月21日 - 2020年12月20日

 作曲家・作詞家。

 

 中村泰士さんが死去 作詞作曲家「喝采」や「北酒場」 2020年12月24日 17:38

 ちあきなおみさんのヒット曲「喝采」などを手掛けた作詞作曲家の中村泰士(なかむら・たいじ、本名=たいし)さんが12月20日午後11時50分、肝臓がんのため大阪市内の病院で死去した。81歳だった。告別式は近親者で行った。喪主は長男、修士氏。

 1957年に歌手デビュー。楽曲の制作を中心に活動するようになり、昭和の歌謡界でヒットメーカーとして活躍した。「喝采」のほか、細川たかしさんの「北酒場」を作曲し、72年、82年の日本レコード大賞をそれぞれ受賞した。

 代表曲はほかに、園まりさん「夢は夜ひらく」、佐川満男さん「今は幸せかい」、桜田淳子さん「わたしの青い鳥」、五木ひろしさん「そして…めぐり逢い」、細川さん「心のこり」など。

*https://www.nikkei.com/article/DGXZQOHC247PH0U0A221C2000000 より

 

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<日本酒> 山形 出和ノ雪 酒のいのち/渡會本店

2021-01-09 07:21:03 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(仙台国税局)】
 〈山形〉 出和ノ雪 酒のいのち/渡會本店

 

 環境

 米どころ庄内平野

 出羽丘陵、朝日連峰に囲まれた緑豊かな山形・庄内平野は、良質な水に恵まれた米どころ。その南部に位置する鶴岡市は徳川四天王の筆頭・酒井氏14万石の城下町として栄えました。庄内藩は藤沢周平作品に登場する「海坂藩」のモデルとされ、時代小説ファンにも馴染み深い土地かもしれません。蔵のある大山地区は鶴岡市郊外に位置し、藩政時代には庄内藩ではなく幕府直轄の天領であったところで、かつては数十軒の造り酒屋が軒を連ね「東北の小灘」と称されていました。大山川の舟運と日本海航路を利用して松前、新潟、赤間関、江戸等に盛んに沖出しされた記録も残されています。蔵元はかつて大山川の船着き場があったところに建ち、併設されている「酒造資料館」では、その400年近い歴史をを知ることができます。

 歴史

 蔵元の祖先は橘氏で、伊勢神宮の外宮の鎮座する伊勢國度會郡よりこの地に移住してきたといいます。徳川二代将軍秀忠の頃、酒井家が庄内14万石の領主として鶴岡に入部する以前の元和年間(1616~1623年)、中祖・橘屋新右衛門の代にはすでに酒造りを行っていました。以来、400年近く、17代にわたり酒造りを続けてきた老舗蔵です。江戸時代には「志ら雪」「八薫」「冨士正宗」「大洲一等」の名で親しまれていましたが、大正時代に銘柄名を「出羽ノ雪」に統一。昭和43年(1968年)には株式会社に法人化しました。平成11年(2000年)秋から蔵元の長男で専務の渡會俊仁氏と実弟の俊男氏が酒造りの現場に入り、平成15年(2004年)からは俊仁氏が杜氏を努め、2008年現在、全国新酒鑑評会で過去7年間で4年連続を含む通算5度の金賞受賞など、酒質を飛躍的にアップさせました。

 造り

 低温管理のできるサーマルタンクと、発酵中の醪の様子。

 仕込み水には日本有数の豪雪地帯月山・朝日山系花崗岩質山岳からの豊富で良質な伏流水を独自に精製して使用。原料米は米どころ庄内平野で栽培された高品質の酒造好適米や特別栽培米を平均60%にまで磨き込みます。特定名称酒の割合も高く、昭和50年代には、裏張りで原材料名の種類や製造方法、内容等をわかりやすく説明する方法をすでにスタート。小さな蔵ながら、自社酵母を培養するなど設備や研究体制が整っているのも特徴です。平成15年(2004年)に専務・俊仁氏が杜氏、実弟俊男氏が製麹責任者となってからは、特定名称酒の麹は「蓋麹」、最新の洗米機をあえて封印し酒米を全量「手洗い」に戻すなど、酒質向上のためには手間暇惜しまない手造り。基本に忠実に妥協を許さず、蔵人・社員一丸となって、酒造りの精度を高めています。

 味わい&合う料理

 夏の味覚、鶴岡市白山地区のだだちゃ豆と吟醸生酒。

 (純米)吟醸酒は軽く華やかな上立香と奥行きのある含み香、幅のある深い味わいのバランスを重視した香味が特徴。また生もと造りにも力をいれており多様な原酒をブレンドして味の広がりをひき出す製法を得意にしています。さらに長期貯蔵熟成の原酒や樫樽貯蔵酒等ヴィンテージも豊富です。

 蔵元おすすめ酒に合う地元のうまいもん

 春には湯田川でとれる竹の子と油揚げを中心に酒粕と味噌仕立てで作る孟宗汁や多種多様な山菜類、全国的に有名になった鶴岡市白山地区を中心に栽培されている庄内の夏の味覚だだちゃ豆(枝豆)、日本海の荒波にもまれ身のひきしまった各種の魚介類、冬には脂ののった寒鱈を丸々一匹豪快に使って作るどんがら汁。

 四季を通じて旬の食材に恵まれている庄内地方。お酒も夏にはキーンと冷やした吟醸の生酒「出羽ノ雪 吟醸 生原酒」、秋には純米大吟醸のひやおろし「若蔵」やきもと純米原酒のひやおろし「ないしょ」、冬には生もと造りの特別純米「自然酒」や「出羽ノ雪  生もと純米酒」のお燗や搾り立ての新米新酒、早春には純米吟醸「無垢之酒」や(純米)大吟醸「瓶囲い」の新酒等それぞれの旬の食材に合わせたバラエティでご用意しております。

*https://www.meimonshu.jp/modules/xfsection/html/gallery2/kura/seishu/dewanoyuki/outline_dewanoyuki16.html より

*http://www.e-yamagata.com/eyamab/0235333262/2019/07/26/new/69 より

 (株)渡會本店 山形県鶴岡市大山二丁目2-8

 ブランド一覧

 「出羽の雪」酒(ささ)のいのち 全国新酒鑑評会『金賞酒』大吟醸・大吟醸・純米大吟醸 雪女神仕込み など

 「和田来」特別純米 出羽の里 など

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 15. 谷田部ねぎ

2021-01-09 07:18:05 | 食品

 登録番号 第15号 谷田部ねぎ

 

 特定農林水産物等の区分 第2類 野菜類 ねぎ

 特定農林水産物等の生産地 福井県小浜市谷田部

 登録生産者団体 谷田部ねぎ生産組合

 特定農林水産物等の特性 2度植え替えし、斜めに植え替えることで、軟白部が釣り針状に曲がるとともに、肉質が柔らかく、独特の粘りと甘みを有する。葉も食するタイプのねぎで、軟白部は12~15cmと短く、葉の色は淡く柔らかい。

 地域との結び付き 生産地は砂地で排水が良く、ねぎ栽培に適している。当地で栽培されてきた在来品種を用い、斜めに植え替える栽培方法はこの地の伝統的な栽培方法である。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i15.html より

 

 「谷田部ねぎ」は、福井県小浜市谷田部で生産され、2回の植え替えにより軟白部が釣り針状に曲がって生育する独特の形状と、柔らかい肉質を特徴とするねぎです。品種の「谷田部ねぎ」は、九条系品種からの系統分離が進んだものであると言われており、軟白部分は短く12~15cm程度です。葉も軟白も食するタイプで、ひとつのねぎが2~3本の茎に分かれて育ちます。草の姿は横に広がり、葉の色は淡く、柔らかい肉質を持っています。外観的には他産地の一般的なねぎと異なり、軟白部が釣り針状に曲がっているのが特徴です。この形状は、葉の肉質がやわらかいという品種の特性から、立てて植えられないため、斜めに植える栽培方法によるものです。通常のねぎは播種(または植え替え)から収穫まで同じ場所で栽培しますが、「谷田部ねぎ」は2度植え替えをします。その2度目の植え替え時に斜めに植えることで、軟白部が釣り針状に曲がるとともに、土に埋まっている部分が柔らかく、独特のねばりと甘みを有する味わい深いねぎとなっています。

 「谷田部ねぎ」の栽培は、谷田部集落で継続的に栽培、採種されている品種「谷田部ねぎ」を用います。種子は生産者各自が圃場内の30~40本を残し、6月に種子を採り次期の播種用とします。前年の9月に播種し収穫年の4月上旬頃に1回目の植え替え、8月中旬~9月上旬に2回目の植え替えを行います。この2回目の植え替えでは、V字に溝を掘り、斜めの面に沿って傾けて植えます。この方法により軟白部が釣り針状に曲がって生育します。
 収穫は多くは10~3月ですが、一部早いもので9月からになります。この場合、播種時期は同じすが、2回目の植え替えを6月下旬~7月初旬に早めることで栽培が早まります。軟白部が釣り針状に曲がっており、かつ、長さ70~80cm、軟白部12~15cmを基準として収穫したものが出荷されます。

 小浜市口名田郷土誌によりますと、少なくとも明治初期には谷田部村の農業でねぎが生産されていたと推察されています。「谷田部ねぎ」品種の来歴は良く判っていませんが、九条系品種からの系統分離が進み、現在のような品種として当生産地で栽培されてきたことから、土地の名をとり「谷田部ねぎ」と名付けられました。
 小浜市谷田部集落を流れる河川に沿って広がる畑地の土質は砂地で排水が良く、ねぎ栽培に適した地帯となっています。「谷田部ねぎ」は、当地の在来品種であり、生産者自身が種子を管理することにより系統が維持されており、当生産地のみで栽培されている品種です。植え替え時に斜めに植える栽培方法は、この地での伝統的なものです。
 「谷田部ねぎ」は、①生産者自らが種を取り栽培していること、②100年以上前から栽培されていること、③地域に根差した作物であることが認められ、「伝統の福井野菜振興協議会」より「福井の伝統野菜」に認定されています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/15.html より

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<漢字検定> 準1級 四字熟語 5.回答 6.出題

2021-01-09 07:10:45 | 漢字検定

 前回の回答

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 


 問1 焚琴煮鶴-ふんきんしゃかく-琴を焼いてつるを煮る意で、殺風景なこと。また、風流心のないことのたとえ。▽「焚」は焼く意。「琴ことを焚やき鶴つるを煮にる」と訓読する。

 


 問2 忍気呑声-にんきどんせい-怒りや悔しさを声に出さずに抑え込むこと。「忍気」は怒りをこらえること。「呑声」は息を呑んで声にしないこと。

 


 問3 聡明叡知-そうめいえいち-聖人のもつ四つの徳のこと。転じて、生まれつき才能があり、賢くて先々まで見通せること。物事に通暁していて、すぐれた才知があること。▽「聡」はすべてを聞き分けること。「明」はすべてを見分けること。「叡」はすべてに通ずること。「知」はすべてを知っていること。「知」は「智」とも書く。

 


 問4 光彩陸離-こうさいりくり-光が乱れ輝き、まばゆいばかりに美しいさま。▽「光彩」は美しく輝く光。また、鮮やかないろどり。美人の形容ともなる。「陸離」は光がきらきらと入り乱れて輝くさま。「彩」は「采」とも書く。

 


 問5 禽獣草木-きんじゅうそうもく-命があるもの全てのもののこと。鳥や動物、草、木ということから。

 

 今回の出題

 

 問1から問5の四字熟語の読み方を答えてください。
 ※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。

 

 問1 偏僻蔽固

 

 問2 碧血丹心

 

 問3 膏火自煎

 

 問4 牝鶏牡鳴

 

 問5 万里鵬翼


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・四字熟語辞典ONLINE より

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<プライドフィッシュ> 大分-冬 かぼすブリ

2021-01-09 07:03:58 | 食品

 旬:11月~3月頃 味よし、香りよし、見た目よし。生産者の挑戦が生んだ、冬限定ブランド

 プライドストーリー:“豊(とよ)の活ぶり”として人気の高い大分の養殖ブリ。かぼす効果で変色や臭みを防ぎ、爽やかな風味に

 大分県が日本一の生産量を誇る“かぼす”(全国9割)を食べて育った“かぼすブリ”。かぼすと同じく、大分ではブリ養殖の生産量も盛んで全国第3位を誇ります。主に臼杵市や津久見市、佐伯市など、豊後水道の恵まれた環境で育てられたブリは、身が締まって脂ののりが良いと評判で、“豊(とよ)の活ぶり”として大分ブランドに位置づけられています。そんな中で新しく2010年から、ブリに脂がのり、美味しさのピークを迎える冬限定で生産に取り組み始めたのが、“かぼすブリ”です。
 一般的に、ブリは締めてから数日間はおいしく食べられますが、ひらまさやかんぱちに比べて血合いが早く変色してしまうため、見た目の悪さから商品価値が下がるという問題を抱えていました。しかし、柑橘系の抗酸化作用をもつ“かぼす”をエサに添加することで、より鮮度を長く保つことができ、くさみのない“かぼすブリ”の開発に成功しました。さらには、“かぼす”に含まれるリモネンの効果により魚臭さが抑えられ、脂がのってさっぱりとした肉質に仕上がります。
 全国さまざまな地方で食べられるブリ料理ですが、冷えた体を温めてくれる“ブリしゃぶ”にすると食も進むのでオススメです。その他には、刺身はもちろん寿司、照り焼き、煮物と幅広い料理に用いることができます。
 

 水揚げ漁港や漁法:かぼすを混ぜたエサを、出荷前に30回以上投与。 一尾一尾大切に育て、トレーサビリティー体制も整備

 主に臼杵市や津久見市、佐伯市などで養殖され、とりわけ夏の海水温が上がりすぎない臼杵の海は周年で身の締まったブリが育てられています。臼杵地区では“かぼす果汁”、佐伯市米水津地区では“かぼすの果皮粉末”を添加したエサを出荷前に30回以上与えて、“かぼすブリ”へと成長させます。
 養殖場では一尾一尾丁寧に管理し、病気を起こすウイルスや細菌などから魚を守るため、ワクチンを使用し、安全・安心な育成を行っています(ワクチンは残留等の心配もないことから安全性が保証されています)。さらに出荷時には魚体を締めたのち、直ちに海水氷(冷却時間60分)で冷却し鮮度保持を図っています。また、トレーサビリティー体制も整え、いつでも生産履歴をたどることができるため安心です。
 一方で、漁業者は生産するだけではなく、漁場環境に配慮した養殖(漁場改善計画の実施)を行っており、持続的な漁場の利用を心掛けています。

*プライドフィッシュHP より

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