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いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

昨日の錦織くん-3/3

2021-03-04 11:55:20 | スポーツ

 昨日開催された「ABNアムロ世界テニス・トーナメント(オランダ/ロッテルダム、室内ハード、ATP500)」シングルス2回戦が行われ、世界ランク45位の錦織くんが同23位のA・デ ミノー(オーストラリア)を6-3,2-6,7-5のフルセットで破り、2019年のウィンブルドン以来 約1年8カ月ぶりのツアーベスト8進出を果たした。

 準々決勝では世界ランク26位のB・チョリッチ(クロアチア)と同27位のD・ラヨビッチ(セルビア)のどちらかと対戦する。

*テニス365 より

 

 さて、次は勝てるか?

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ガンバ大ピンチ!

2021-03-04 10:50:52 | スポーツ

 昨日開催予定だった「名古屋グランパス VS ガンバ大阪」が、試合当日突然中止となった。

 

 G大阪によると、1名の選手が2日に発熱を伴う症状があり、同日PCR検査を実施し、陽性判定。これを受け遠征に帯同している選手、チームスタッフにPCR検査を実施したところ、選手2名、スタッフ1名が陽性判定を受けたと明かした。また、遠征に帯同していない選手、チームスタッフにも3日にPCR検査を実施した結果、選手1名が陽性判定を受け、トップチーム選手4名とスタッフ1名の計5名に新型コロナウイルス陽性反応が見られたと発表した。

 なお、2日に陽性判定を受けた選手は現在、自宅で静養し体調回復に努めているという。さらに3日に判定を受けた4名に関しては「現在、発熱や体調不良などの症状はなく、隔離、療養しております」と伝えている。

 また、クラブは「今後、保健所による濃厚接触者の判定等、保健所の指導に沿って適宜対応していきます。また、クラブで管理する行動履歴及び、Jリーグ独自の基準により濃厚接触疑いとする選手1名、スタッフ1名は隔離(無症状)としております」と今後について発表している。

*https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20210303/1209514.html より

 

 まぁ試合中止は仕方あるまい。

 しかし、今年は「試合日程」が厳しい状態にある。

 昨年のJリーグは「降格」がないため、今年J1は20チームに。

 また、ガンバはACL出場。

 そして、「五輪」。

 そのため「過密スケジュール」に。

 

 「代替試合」ができない場合、「試合結果」が「0-3」ということになるルールが。

 ガンバは今年、「優勝」を目指している。勝ち点が「0」となり、得失点差も「-3」となれば厳しくなるやも・・・ たかが「1試合」されど「1試合」。

 無理やりにでも「1試合」都合をつけねばなるまい。

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ワクチンが無駄に-原因があまりにも低レベル

2021-03-04 08:31:32 | お粗末な事件・事故

 先日「ワクチン約1000回分」の入った冷蔵庫が故障し、無駄になったと。

 原因は何か?

 一番に疑われたのは「冷蔵庫の故障」だったが・・・

 

 新型コロナのワクチンが「医療従事者向け」に続々と日本に到着し接種されている。

ただ、まだまだ一般にも回らないし、「数が不足」しているのが現状。

 

 なのに起こった事故。

 「最大1032回分」を保管していた「超低温冷凍庫」が、規定温度を保てず、ワクチンが使えなくなった。

 超低温冷蔵庫のメーカーは驚いたことだろう。

 メーカーは必死に故障個所を探したかも?

 

 しかし、原因は湖沼ではなく、単に「電力不足」だったと。

 電源をほかの機器と共有したことで「電力不足」になったらしい。

 これって設置した人の責任では?

 納入業者なのか、医療機関側なのか?

 

 なんともお粗末な話である。

 大事な「ワクチン」を無駄にするなんて・・・

 ほんと呆れてしまう。

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<言 葉>春の言葉 三寒四温

2021-03-04 07:45:09 | 言葉

 「三寒四温」

 もとは中国の冬の気候
 「三寒四温」とは、冬の時期に寒い日が3日くらい続くと、そのあとに比較的暖かい日が4日続くという意味の言葉で、寒暖の周期を表しています。

 もとは中国の東北部や朝鮮半島北部で冬の気候を表す言葉として用いられました。冬のシベリア高気圧から吹き出す寒気が7日ぐらいの周期で、強まったり弱まったりすることに由来する言葉とされています。

 日本では春先の天候を示すことが多い

 日本の冬は、”3日間寒い日が続いた後に4日間暖かい日が続く”という周期が現れることはほとんどありません。

 その代わり、日本では早春になると低気圧と高気圧が交互にやってきて、低気圧が通過し寒気が流れ込んで寒くなった後、今度は高気圧に覆われて暖かくなり、周期的な気温の変化を繰り返すことが多くなります。

 このため、日本においての『三寒四温』という言葉は、本来使われる冬ではなく、寒暖の変化がはっきりと現れる春先に用いられるようになりました。

*https://weathernews.jp/s/topics/201802/260175/ より

 

 「三寒四温」が感じられる頃になると、ようやく「春の兆し」があらわれたと実感させられる。

 そろそろ「桜の開花 予想」が発表され、「花見」の予定を立てたり・・・

 しかし、昨年来の「コロナ」の影響で、なかなか心が躍るようなことも少ないことかと。

 と言いつつ・・・なんとか「春」を感じ、心を少しでも安らかに温かくしたいものです。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-小田和正

2021-03-04 07:41:12 | MUSIC

 「小田和正」

 1947年9月20日生まれの73歳

 小田和正、70歳代最初のツアー
 皆で歌うことがこんなにも美しい 2018年11月13日16時46分

  初めての方ご注目!プロミスなら最短1時間融資でお急ぎでも大丈夫!
   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   コンサートの楽しみは、ステージ上の歌や演奏を見たり聞いたりすることだけではない。

   その場の空気を味わうこと、今、この時間にここにいることの臨場感や共有感を確かめること。その日、その会場、その客席だからこそ生まれる一体感。コンサートが「一期一会」と言われるのは、二度と同じ空間は生まれないからでもある。

   そこにもう一つの要素が加わると、その関係は更に濃密なものになる。

   それは「歌うこと」だ。

   ステージと一緒になって歌う。

   その歌声がコンサートの空気を作って行く。

   2018年10月31日、横浜アリーナで行われた小田和正のコンサート「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE!!」はその最たるものだった。

横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二)横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二)横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二)
横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二)
横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二) 横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二) 横浜アリーナで行われた「Kazumasa Oda Tour2018 ENCORE」で歌う小田和正((C)菊地英二)
「今」を生きる、「今」を歌う
   小田和正は、1947年生まれ。ツアー中の9月に71歳を迎えた。

   2000年代に入ってから、彼を語る時には「史上最年長」という形容が定番になっている。

   一昨年に発売されて一位になったベストアルバム「あの日 あの時」に代表されるCDの売り上げやランキング、2011年に行なわれたドームツアーなど、どれも自身が持っていた最年長記録を更新した。70代最初のツアー全48公演は全て完売。台風や地震に見舞われる中での46公演。大阪の2公演が来年に延期になった今回のツアーは「史上最年長アリーナツアー」となった。

   もし、「振り返る資格」というのがあるとしたら何歳くらいなのだろう。

   「資格」という言葉が適切でなければ「適齢期」と言ってもいい。それにふさわしい年齢。あるいは自然にそうなっていく時期である。

   中には若い頃から懐古的だったとか「あの頃は良かった」が早くから口癖のようになっている人もいるのかもしれない。

   でも、多くの人が「振り返らない」とか「立ち止まらない」「走り続ける」ことを自分に課しながら生きているようにも思う。特に、ある程度のキャリアを重ねたアーティストにとっての現役性というのは、その戦いと言って過言でない

   「今」を生きる。

   「今」を歌う。

   「今だから出来ること...忘れないで」「もうここへは戻れない」と歌う大ヒットした代表曲「キラキラ」もそんな一例だろう。

   彼が50代半ばになってからの曲だった。

「振り返ること」と「振り返らないこと」
   「振り返ること」と「振り返らないこと」--。

   小田和正のキャリアはその二つの要素で成り立っているようだ。

   たとえば、オフコース時代の曲をセルフカバーしたアルバム「LOOKING BACK」を発売したのは96年、40代最後の年だ。

   対照的なのが、50代最初のアルバムだった2001年に発売された「個人主義」の中の「the flag」である。

   当時のインタビューでは「バブルの崩壊で苦い思いをしている同世代に聞いてほしかった」という話をしていた。東北大から早大の大学院建築科で学んだ友人たちの多くが建築業界に就職、50代になって「肩たたき」に会うなど、様々な転機に差し掛かっていた。

   若かったころの僕ら。「汚れなき想い」と「譲れない誇り」を胸に「この国を変えよう」と語り合っていた日々と「変わってしまった」僕ら。歌の中で彼は「僕はまだ諦めない」「戦える武器を見つけてここに並ばないか」と歌っていた。タイトルの「the flag」は、「時の風の中」で揺れている「あの時掲げた僕らの旗」だった。

   「振り返りつつ」も「戻らない」。

   彼は50代以降もずっとそうやって生きてきたように思う。

   小田和正のコンサートには合唱がつきものだった。それは彼の方から求めることもあれば、客席から自然発生的にそうなることもあった。

   そんな例でファンの誰もが思い浮かべるのが1982年6月30日のオフコースの日本武道館だろう。当時、日本の音楽史上最多となった10日間公演の最終日。アンコール最後の曲「愛を止めないで」が終わった後のBGMの「YES-YES-YES」が客席の大合唱となった。誰が指示したわけでもない一万人近い大合唱は今も語り草になっている。その歌詞も「振り返らないで」だった。

   その一方、60代最後のツアーとなった2016年のツアー「君住む街へ」は前半がほぼオフコース時代の曲。自分の音楽人生を真正面から振り返ったようだった。

でも、泣いてもいいんだと思わせてくれる
   今年のツアー「ENCORE!!」は、70代最初のツアー。「ENCORE!!」というのは、人生のアンコールという意味もあるように思った。

   「次がいつになるかという約束が出来ない年齢になった」というMCは、毎回繰り返されていたのではないだろうか。

   同世代や同時代を生きた音楽仲間や友人知人の訃報。意識的に「振り返る」ことをしなくても、そういう人たちとの時間が思い出される年齢。生きて来たこれまでと、今生きている自分、そして、この後に残されている時間。どんな風に生きてきて、どんな風に終わって行くのか。恒例となった全国各地でのふれあい映像を挟んだコンサート時間は3時間20分。何と32曲に及んだ曲の多くがそういう曲が選ばれているようだった。

   オフコース時代の曲「生まれ来る子供たちのために」の中の「力の限り漕いでゆく」「その力を与え給え」や「君住む街で」の「その生命が尽きるまで」などという歌詞が、当時とは違う切迫感を持って聞こえたのは筆者だけではないだろう。

   「みんなで作って行くコンサートにしたいと思います」と彼が言ったのはコンサートが始まってすぐだ。彼の合図で1万人を超す観客が声を合わせる。2008年のシングル「今日もどこかで」では、客席のコーラスも歌声を「会場のみんなとバージョン」としてCDになった。

   みんな一緒に歌うだけではない。客席に降りて行き歩きながら「ラブストーリーは突然に」を一人一人にマイクを向けて歌わせる。最終日らしくステージ横に集まっている全国のイベンターも合唱に参加する。「また会う日まで」ではミュージシャンがアカペラコーラスに参加していた。声を張り上げるとか、大声で歌うというのではない。「心のハーモニー」とでも言おうか。合唱がこんなに美しく聞こえるコンサートがあるだろうかと思った。

   振り返ることで何かが浄化される。

   どんなに強気に、どんなに躓いて、どんなにはみ出しながら生きて来たとしても、誰も間違っていない。全てが許される。音楽がそう感じさせてくれる「教会」のような場所というのだろうか。宗派もないし、教祖もいない。誰かに"捧げる"祈りも"拝む"こともない。でも、泣いてもいいんだと思わせてくれる。

   70代の到達点。「優しさ」というのは、こういうコンサートを言うのだと思った。

(タケ)

*https://www.j-cast.com/trend/2018/11/13343621.html?p=all より


 小田和正が「みんなのうた60」記念ソングを書き下ろし!
 「みんなのうた60」プロジェクト 2021.02.27

 放送開始60年を記念し、一年を通して「みんなのうた」の魅力を余すことなくお届けする「みんなのうた60」プロジェクト。
60年の節目を迎えたことし、シンガーソングライターの小田和正さんが記念ソングを書き下ろしました!

 みんなのうた60記念ソング
 「こんど、君と」
 うた・作詞・作曲・編曲:小田和正

 アニメーション:半崎信朗

 「みんなのうた」初回放送月:2021年4月〜5月

 【放送予定】
 4月1日(木)[Eテレ]前8:55〜
 4月1日(木)[R2]後3:10〜

 「みんなのうた」以外でも、ミニ番組で曲の制作ドキュメントや小田和正さんのコメントをご紹介! 3月以降随時放送します!

 また、4月3日(土)夜7:00〜7:55(Eテレ)放送の「みんなのうた60 生放送 ~バースデースペシャル!~」でも、小田さんの大ファンで、記念ソングについて対談を行った阿部 涉アナウンサーが詳細をお伝えします!


 小田和正さん コメント

 僕が中学生のときに始まった「みんなのうた」。テレビから流れてくると、必ずチャンネルを止めてどんな曲が流れているかチェックした記憶があります。どの世代の誰に聞いても、みんな当たり前のように「みんなのうた」を知っている。それほど長い間愛されてきた番組なのだということに、改めて驚きます。
 「こんど、君と」は、「みんなのうた」60年に向けた思いと、コロナに対する気持ちという、2つの色合いが違うことをどう両立させるか、どう言葉に置き換えて一つのストーリーを紡いでいくか悩みました。そんな中で、みんなの気持ちを少しでも明るくしたいという、その1点で書きました。皆さん、我慢の日々が続いていることと思いますが、頑張っていきましょう。流れてくる音楽が、みんなの心を少しでも軽くしてくれれば、うれしく思います。

 プロフィール
 小田和正(おだ・かずまさ) 1947年、神奈川県出身。1969年オフコース結成。翌70年にプロとして音楽活動を開始、「愛を止めないで」「さよなら」「言葉にできない」などのヒット曲を発表。89年にオフコース解散後、ソロとして活動。91年に発表し、270万枚を超える大ヒットとなったシングル「ラブ・ストーリーは突然に」をはじめ、各年代でヒット作を生み、今なお音楽業界の第一線で活躍しつづけている。

*https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=28138 より

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<日本酒> 群馬 赤城山/近藤酒造

2021-03-04 07:36:33 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈群馬〉 赤城山/近藤酒造

 

 関東信越国税局鑑評会 最優秀賞・首席受賞
 全国新酒鑑評会金賞受賞蔵 4年連続金賞受賞した日本の銘酒
 淡麗、辛口。飲み口がスッキリとして飽きがこないその味わいは、まさに“男の酒”。群馬で辛口といえば「赤城山」との呼び声も高い銘酒の作り手は、開蔵から140有余年の歴史を刻む〈近藤酒造〉。日本古来の酒造りを伝承する岩手県南部杜氏が蔵人を束ねる同蔵は、上州名物赤城おろしが吹き渡るみどり市大間々に蔵を構え、赤城山の伏流水を仕込み水とし、辛口一口にこだわる老舗である。

 代表銘柄「赤城山特別大吟醸」は、平成18年に「関東信越国税局鑑評会」最優秀賞首席受賞。平成4年・5年・11年・12年・15〜18年・20年・24年・26年・30年・令和元年に「全国新酒鑑評会金賞受賞蔵」にて金賞を受賞の経歴を持つ正真正銘の銘酒である。洗米は手洗い。酒の温度も毎夜2時間おきに杜氏が温度を測り管理する等、全てが手作りの逸品で、フルーティーで上品な吟醸と気品あふれる味わいに魅了される。

 この老舗の伝統に遠心分離機という現代技術を融合させた「遠心分離搾り」は、もろみを酒と粕に分離させる作業を遠心分離機で行う画期的なもの。搾りに圧力がかからないため、雫酒のような自然な最高品質の酒の製造を可能としている。使用米と精米にもこだわり抜いた数量限定の銘酒となっている。

 和洋いずれの料理にも相性が良く、軽やかな飲み口の純米スパークリングは、日本酒初心者や女性にもおすすめ。また、春の特別本醸造・夏の辛口・秋の純米吟醸・冬の大吟醸各180㎖がセットになった季節の飲み比べセットのご用意もあるので、まずは色々と試してみたいという方はこちらもおすすめだ。

 旨い地酒には、根っことなる土地の魅力が必ずある。周囲には、わたらせ渓谷鐵道や、高津戸峡、岩宿遺跡といった見どころも満載なので、蔵の建つ気候風土を肌で感じる小旅行に出てみてはいかがだろう。

*https://jbc-web.info/%E8%BF%91%E8%97%A4%E9%85%92%E9%80%A0/ より

 近藤酒造 群馬県みどり市大間々町大間々1002

 ラインナップ

 「赤城山」遠心分離搾り純米吟醸 黒檜・大吟醸・純米吟醸酒 など

 

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 69.  越前がに

2021-03-04 07:32:53 | 食品

 登録番号 第69号 越前がに

 特定農林水産物等の区分 第12類 その他水産動物類 ずわいがに・第24類 加工魚介類 その他第1号から前号までに掲げるもの以外の加工魚介類(ゆでずわいがに)

 特定農林水産物等の生産地 福井県
 
 登録生産者団体 福井県漁業協同組合連合会
 
 特定農林水産物等の特性 漁獲獲後水揚げまでの間、冷温で保管されるため、鮮度が良く、身質が良く、鮮度低下の早いカニミソや内子(卵巣)も濃厚な旨味を持ち、品質が高いずわいがに。福井県により90年以上にわたり皇室に特産品として献上され、同県を代表する水産物として全国的に高い知名度を有し、重量当たりの単価は全国平均を上回っている。

 地域との結び付き 越前海岸沖の急深な地形によって沿岸から近距離にずわいがにの好漁場が形成されたため、古くからずわいがにの産地として知られている。ずわいがにの取引の経験を豊富に有する、いわゆる「目利きの力」のある流通業者が満足する品質のずわいがにを安定して水揚げする必要があったことから、漁獲後の船上での選別作業や鮮度維持のための冷温保管が徹底されている。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i69.html より

 

 「越前がに」及び「越前かに」(以下、「越前がに」)は、福井県沖及びその周辺海域(能登半島(1)以西の日本海)において、底びき網漁船により漁獲され、福井県内の港に水揚げされたずわいがにです。
 漁獲後水揚げまでの間、冷温で保管されるため、鮮度や身質が良く、鮮度低下の早いカニミソ(2)や内子(卵巣)も濃厚な旨味を持つことが特徴です。
 福井県により90年以上にわたり皇室に特産品として献上されてきた歴史を持つとともに、同県を代表する水産物として全国的に高い知名度があり、重量当たりの単価は全国平均を上回っています。

 生産方法としては、「越前がに」は、福井県沖及びその周辺海域(能登半島以西の日本海)において、沖合底びき網漁業又は小型機船底びき網漁業により漁獲され、福井県内の漁港に水揚げされた「ずわいがに」としています。
 漁獲から水揚げまでの間に海水冷却装置により海水を冷温状態にした水槽内又は下氷を並べた魚箱に保管されます。

 出荷規格は、雄の場合、「甲幅9センチメートル以上。ただし、水がに(脱皮後の甲羅の柔らかい状態のかに)ではないものに限る」、雌の場合「産卵を行い腹部に卵を抱えた成熟がに。ただし、発眼前の赤色の卵を抱えた「あかこ」ではないものに限る」としています。

 日本海の能登半島以西の海域では、ずわいがにの生息域が広がり、我が国の主要な漁場となっています。中でも福井県は、越前海岸(3)沖の急深な地形によって沿岸から近距離にずわいがにの好漁場が形成されたため、古くからずわいがにの産地として知られています。ずわいがにの取引の経験を豊富に有する、いわゆる「目利きの力」のある流通業者が多く、彼らが満足する品質のずわいがにを安定して水揚げする必要があったことから、漁業者は漁獲後の船上での選別作業や鮮度維持のための冷温保管といった取組を行ってきました。
 「越前がに」は、流通業者、料理店や宿泊業者向けに生鮮の状態で出荷され、また、小売の段階では主にゆでずわいがにとして販売されており、品質の良さが高く評価され、福井県の一大特産品となっています。

 (1)能登半島:北陸地方の中央付近から日本海に北に向けて突き出した半島です。周辺は水産資源が豊富で、タラやブリ、イカなども有名です。また、輪島の朝市、輪島塗、禄剛崎や外浦・内浦などの海岸景勝地、和倉温泉など観光資源が豊富な地域です。
 (2)カニミソ:カニの甲羅をはがしたときに見られる味噌状・ペースト状のもので、生物学的には肝膵臓(中腸腺)という器官です。日本では独特の食味から愛好者も多く、珍重された食材となっています。
 (3)越前海岸:福井県中北部の越前岬を中心に日本海に面する海岸線の呼称で、地理学的に明確な区画はありません。隆起による海岸段丘の地形や海食による岩石海岸や断崖風景が続き、観光スポットにもなっています。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/69.html より

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<漢字検定> 1級 読み 7.回答 8.出題

2021-03-04 07:30:19 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 懐孕 - かいよう-子をはらむこと。懐妊。懐胎。

 


 問2 明礬- みょうばん-カリウム・アンモニウム・ナトリウムなどの一価イオンの硫酸塩と、アルミニウム・クロム・鉄などの三価イオンの硫酸塩とが化合した複塩の総称。硫酸カリウムと硫酸アルミニウムとが化合したカリ明礬KAl(SO4)2・12H2Oが古くから知られ、これをさすことが多い。いずれも正八面体の結晶をつくり、水に溶ける。媒染剤・皮なめし・製紙や浄水場の沈殿剤など用途が広い。 

 


 問3 放曠 - ほうこう-物事にこだわらず、心のおもむくままに振る舞うこと。

 


 問4 神饌-しんせん-神祇 (じんぎ) に供える飲食物。水・酒・穀類・魚・野菜・果実など。御食 (みけ) 。供物。  

 


 問5 恐懼-きょうく-
 1 おそれかしこまること。

 2 候文の手紙の末尾に記し、敬意を表す語。「再拝恐懼」「恐懼謹言」

 3 昔、朝廷からとがめを受け、家にこもって謹慎すること。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 簷滴  

 

 問2 靉靆  

 

 問3 竿檣  

 

 問4 午餉  

 

 問5 拘繋

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 江戸からかみ

2021-03-04 07:25:17 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「江戸からかみ」

 江戸からかみの歴史
 「江戸からかみ」は和紙に様々な装飾を施して作られた工芸品です。歴史は古く平安時代まで遡ります。「からかみ」は唐紙とも書きますが、その字の如く中国から伝来した模様のある紋唐紙(もんからかみ)『北宋の彩牋(ほくそうのさいせん)』をお手本にして、平安時代に早くも国産化したものです。
 からかみの加飾のルーツには2系統あり、ひとつは仏教の経典を装飾した、奈良や平安時代の装飾経の金銀箔砂子を中心とする加飾技法です。その頂点は国宝平家納経といわれます。
 もうひとつは、やまとうたの詠草料紙(えいそうりょうし)を装飾する、木版からかみを中心とする料紙装飾の世界です。その最高峰が国宝本願寺本三十六人歌集といわれます。経典とやまとうたの詠草料紙を装飾した技法が、のちに書院造りや数奇屋造りの襖(ふすま)や壁面を飾り、室内空間を広々と豊かに彩る大画面に展開してきました。400年の歴史をもつ「江戸からかみ」の技法の奥にはさらに1000年余の和紙の加飾の歴史が重ねられています。
 

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に開いた、いわゆる大江戸八百八町は約270年にわたり繁栄を続け、江戸城や諸大名の屋敷、神社や仏閣、町人や職人の住居や長屋、各種の店屋の襖に貼られる、からかみの需要は増大しました。からかみの発生の地、京都の唐紙師(からかみし)の流れを汲む職人たちが江戸に移住して、この需要増に応えました。

 「江戸からかみ」とは、江戸の地元で出来るからかみのことで、はじめは「地唐紙(じからかみ)」とよばれていましたが幕末の頃になると、「江戸からかみ」の呼称にかわってきました。
 「江戸からかみ」の加飾(かしょく)の技法の中心は、唐紙師(からかみし)の技術の展開であり、和紙に版木の文様を写しとる、「木版手摺り」です。この唐紙師の技法が、狭義の江戸からかみでありますが、江戸は巨大な人口をかかえるとともに火災が多かったので、からかみの需要は増大し、木版だけでなく、かさばらない伊勢型紙(渋型紙)を用いる襖(ふすま)の更紗師(さらさし)も増えました。
 さらに金銀箔(きんぎんはく)を平押し、または砂子(すなご)にして和紙に蒔(ま)く砂子師(すなごし)も、からかみの装飾に加わってきます。
 これら唐紙師・更紗師・砂子師の三つの加飾技法をもって、「江戸からかみ」と称するようになりました。三技法は、それぞれ専門職化し、必要に応じて互いに協力し、お互い技を競いながら発達しました。

 

 江戸開府から90年ほどたった元禄2年(1689)には、早くも江戸の唐紙師は、北の浅草から南の新橋までの地域に13軒の名匠がいたことが記録に残されています。江戸の唐紙師が用いる文様の木版の種類は『享保千型(きょうほうせんがた)』(享保年間1716~1736)とよぶ言葉が今も業界に伝わっており、数千種、或いは万余に及ぶ多彩な「江戸からかみ」の文様の世界が展開されました。

 当時のからかみはヨーロッパの美術館や博物館に保存されております。中でも、幕末の駐日英国公使の「オルコック・コレクション」の「からかみ」などが代表例です。また「シーボルト・コレクション」や「パークス・コレクション」なども当時の貴重な資料です。

    
 大正12年(1923)、突如発生した関東大震災により、江戸時代から東京下町に伝わった小判の「江戸からかみ」の版木、『享保千型』とよばれる万余の版木は灰燼に帰しました。
 昭和5年(1930)アトリエ社発行の『工芸美術を語る』には「京都から興ったからかみは、文化文政には最盛期に達し、大正の震災では東京で四、五千枚の版木が焼尽された」とあります。
 震災後、再び復刻したり、新刻した何百にのぼる版木も、昭和20年(1945)の東京下町大空襲で、またも焼尽してしまいました。伊勢型紙(渋型紙)は、井戸や土中に埋め、数百枚の型紙が、戦災をのがれて今に伝わりました。

 震災後と終戦後に復刻された版木や伊勢型紙(渋型紙)は、明治時代末の手漉きのふすま紙の大判化(巾3尺×丈6尺:約900×1800mm)に対応して、版と型の大きさも、大判(巾3尺×丈1尺2寸~2尺:約900×360~600mm)になりました。

  
 大正末~昭和戦前期の版木・伊勢型紙(渋型紙)の大判化によって、従来の小判(巾1尺4寸8分~1尺5寸5分×丈9寸5分:約450~470mm×290mm)の版木や型紙の意匠・文様に較べ、より大きな構図の、絵画的でさらにのびやかさが強調された文様が多く考案されました。「蔦」「玉萩」「秋草」など草花のおおらかな絵柄の文様が代表的です。

    
 平成3年(1991)に、「江戸からかみ」の復興と技術の継承と永続を願い、「江戸からかみ」の職人衆10軒の加飾の職人工房と、版元和紙問屋東京松屋は、「江戸からかみ振興会」のちの「江戸からかみ協同組合」を結成し、団体として行政へのはたらきかけに取り組みました。平成4年(1992)、東京都の伝統工芸品の指定、平成11年(1999)に、経済産業大臣より国の伝統的工芸品の指定を受け、平成19年(2007)には、特許庁に出願した地域団体商標(地域ブランド)を「江戸からかみ」は取得いたしました(商標登録第5100407号)。

*http://www.tokyomatsuya.co.jp/knowledge/edokarakami.html より

*https://kougeihin.jp/craft/1403/ より

 江戸唐紙師、これにあり
 光を浴びて、あるときはそこはかとなく、あるときは艶やかにきらめく雲母。朽木雲、光琳波、撫子、青海波、五七の桐、百花……。花鳥風月の風情を愛でる日本ならではの文様が、あるいは雅やかな金銀砂子が、和紙の上に浮かび上がる。からかみを眺めていると、いつまでも飽くことがない。からかみの源流は、平安時代にまでさかのぼるという。当時の中国(唐)から渡来した「紋唐紙」を和紙に模造し、和歌を筆写する詠草料紙として貴族の間で好んで使われていた。中世以降は屏風や襖などにもはられるようになり、徳川が政権を握って江戸の町が繁栄すると、その技法は東へと伝わっていく。
 現在でも、京都と東京に数軒の「唐紙師」が残っている。東京のほうは震災やら空襲やらで江戸の版木は焼失してしまったが、それでもたくましく再興の道をたどっているのだ。いなせな江戸っ子が喜びそうな雪見桜の日、天神さまからほど近い湯島に小泉さん宅(小泉襖紙加工所)を訪ねた。

 冬の時代を乗り越えて……
 小泉家の先祖である小泉七五郎が唐七を創業したのは、1800年代後半、幕末の頃。そこから数えて4代目の哲さんは、19の年に先代の父親が亡くなって家業を継いだ。「門前の小僧」よろしく、技術は自然と身についていたという。哲さんの息子で5代目の幸雄さんは、すでに小学生の頃からセンチやミリより尺寸単位のほうがなじみ深かった、と笑う。
 「20歳ぐらいから襖の仕事はしていましたが、本格的に江戸からかみの技法を覚えようと思い立ったのは、元号が昭和から平成に代わる頃。見よう見まね、40の手習いですよ」
 高度経済成長期以来、建築業界ではローコストで量産のきく新建材がもてはやされ、大量に市場へ出回るようになった。繊細な美的感覚にあふれてはいても量がつくれずコストも高い江戸からかみは、需要がなくなり冬の時代を迎えたこともある。
 「技はもっているのにそれを生かす場がない……こんなつらいことはないよ。経済的には、襖の商売で採算がとれてはいたけれどもね」と、往時を振り返る哲さん。“仕事”は楽しいけれど“商売”は一つも楽しくない――幸雄さんも口をそろえた。


 未来の6代目のためにできること
 幸雄さんには、4人の息子がいる。そのうちの2人(雅行さんと哲推さん)が父と祖父の仕事に興味をもち、後を継ぐべく修行中だ。「今の時代、“盗め”と突き放すだけじゃなく、ある程度“教える”ことも必要。その後は、壁にぶち当たりながらも自分で試行錯誤していってほしいね」と、幸雄さんは目を細める。まだ20代前半、未来の6代目たちは「おじいちゃんの仕事はすごいよ。どうせやるなら国宝級を目指したい」と意気盛ん。
 「じつはね、行く末をそう悲観してはいないんです。どこのうちにも、子供がいれば必ずお雛様や兜はあるでしょう。ライフスタイルが洋風になったとはいえ、一戸建もマンションも和室がなくなることはないしね。息子たちのためにできることは、私の代で江戸からかみを残していく環境の下地を作ることかな」


 「雲母の調子は、その日の天気や湿度によって変わってくるんだ。もちろん、こっちの気分によってもね」

 古くて新しい江戸からかみの伝統美
 大量生産・大量消費を前提としていた世の中の流れは、ここへ来て少しずつ変わり始めている。建築業界にもその波は及び、最近では健康や環境への関心の高まりとともに伝統回帰の指向性も加わり、インテリアとしての和紙が再び見直されているのだ。
 「建築家や表具師にも、からかみは京都にしかないと思っている人が多いんです。西に勝るとも劣らないからかみが東にもあること、そして襖だけではなく壁紙としても使えることを、どんどん世間にアピールしていきたいですね」
時は移ろい、暮らし向きは変わろうとも、本物の伝統美はちっとも古さを感じさせない。雲母のほのかなきらめきは、見る者にそう語りかけている。

*https://kougeihin.jp/craft/1403/ より

 

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