2021/03/23(火)
第34期 竜王戦 2組ランキング戦 準決勝 (持ち時間:5時間)
VS 松尾歩八段
75手で勝利!
今期最終戦を勝利で飾った。
2組ランキング戦・決勝は、渡辺名人 or 八代七段。日時未定です。
次戦は、第34期 竜王戦 2組ランキング戦 決勝の予定です。
3/25追記:対戦相手は「八代弥七段」に決定しました。
2021/03/23(火)
第34期 竜王戦 2組ランキング戦 準決勝 (持ち時間:5時間)
VS 松尾歩八段
75手で勝利!
今期最終戦を勝利で飾った。
2組ランキング戦・決勝は、渡辺名人 or 八代七段。日時未定です。
次戦は、第34期 竜王戦 2組ランキング戦 決勝の予定です。
3/25追記:対戦相手は「八代弥七段」に決定しました。
現在流れているカップヌードル「DO IT NOW! エコカップ 篇」。
「カップヌードルの容器は紙製」と。
以前に「ECO容器」に変更したと思っていたから、もう少し詳しく調べてみた。
日清食品のHPに、
Q:「カップヌードル」は、いつから紙容器に変えたのですか?
A:2008年4月から紙容器に変更しました。
「カップヌードル」シリーズの容器を紙製の「ECOカップ」に変更しました。紙は「バイオマス」の一つで、燃焼時にCO2が発生しますが、木が生長する際にCO2を吸収するため、ライフサイクル全体でCO2は増加せず、地球に優しい資源です。
「ECOカップ」は、「移り香」対策の一つとして、2008年12月には従来の重層構造にPET (ポリエチレンテレフタレート) を加えた5層構造に改良しました。
ちなみに「ECOカップ」の名前の由来は、「For Ecology (地球のために)」「For Customer (みんなのために)」「For Originality (おいしさのために)」の頭文字です。
とある。
*https://www.ec-life.co.jp/blogs/plastic-20210226/ より
そして、
2019.06.11
日清食品
お知らせ
「カップヌードル」は「バイオマスECOカップ」で業界初のバイオマス度80%以上を実現 ~2019年から順次切り替え、2021年全量切り替え完了~
日清食品株式会社 (社長:安藤 徳隆) は、「カップヌードル」ブランドの商品で使用する容器に、プラスチック使用量と焼却時のCO2排出量を削減した「バイオマスECOカップ」を採用します。切り替えは2019年12月から順次開始し、2021年度中には全量の切り替えが完了する予定です。
日清食品は、インスタントラーメンのパイオニアとして、おいしさを支える "品質" や商品の "安全・安心"、さらには "環境" や "未来" を追い求めてきました。
1971年に世界初のカップ麺として誕生した「カップヌードル」は、断熱性、保温性に優れた発泡スチロール (発泡ポリスチレン) 製の容器を採用しました。2008年には、石油のような限りある資源をできるだけ削減し、再生可能資源である紙を使用した「ECOカップ」に変更しました。
そして今回、CO2問題への取り組みを強化すべく、「ECOカップ」をさらに進化させた環境配慮型容器「バイオマスECOカップ」に切り替えます。この「バイオマスECOカップ」は、従来の「ECOカップ」が持つ断熱性や保香性を維持しながら、容器に使用している石化由来のプラスチックを植物由来のバイオマスプラスチックに一部置き換えることで、バイオマス度を81%に引き上げた容器です。また、従来の「ECOカップ」に比べて1カップあたりの石化由来プラスチック使用量をほぼ半減、焼却時に排出されるCO2量を約16%削減しています。
「バイオマスECOカップ」への移行は2019年末から開始し、「カップヌードル」が発売50周年を迎える2021年度中を目途に、すべての「カップヌードル」の容器を「バイオマスECOカップ」へと切り替える予定です。「カップヌードル」は、これからも時代の変化に対応し、"地球のために。未来のために。" 常に進化し続けていきます。
と。
つまり「ECOカップ」から「バイオマスECOカップ」へと進化させたわけね。
「あかねっ娘」
■あかねっ娘/ももいちごとは?
●愛知県生まれの「あかねっ娘」
「あかねっ娘」は愛知県農業総合試験場園芸において1985(昭和60)年に「(アイベリー×宝交早生)×とよのか」の選抜系に、「アイベリー×宝交早生」の選抜系の花粉を交配し生まれたものから選抜育成された品種で、1992(平成4)年に登録出願され、1994(平成6)年に登録されました。出願時の名称は「愛知2号」となっています。
この品種は各地で栽培されていましたが、果実が柔らかく輸送性の問題などで他の品種に転換が進み、今ではほとんど見かけなくなりました。ただ、徳島県では栽培方法を工夫し、大粒に仕上げた「ももいちご」というブランド商標で出荷しています。この「ももいちご」の知名度が非常に高く、「あかねっ娘」の影が薄くなっている気がします。また、「ももいちご」は「あかねっ娘」なのですが、JA徳島市佐那河内支所以外の各地で作られた「あかねっ娘」は「ももいちご」ではなく、その名称で販売することは商標違反となります。
●ももいちご/百壱五は徳島県の登録商標
あかねっ娘/ももいちご/百壱五<イチゴ
「ももいちご」はJA徳島市佐那河内支所と大阪中央青果(株)が共同で作ったブランドイチゴで、「あかねっ娘」の栽培環境にマッチした寒暖差の大きい山間部で、より甘く、そしてより大きい実に育て上げるために、一株あたりの花を間引きし、選ばれた少ない果実に栄養を集中させるなど栽培方法を工夫した末、地域限定、数量、期間限定の希少性が高い高級ブランドに育て上げられています。
生産者は徳島県佐那河内村の28軒だけで、JAを通していないものは「ももいちご」として出荷することが出来ません。また、出荷された「ももいちご」はそのまま大阪中央青果へ出荷されます。
「ももいちご」は漢字では「桃苺」ではなくく「百壱五」となっています。
また、徳島県ではももいちごに次いで「さくらももいちご」というブランドも展開しています。
■あかねっ娘/ももいちごの特徴や味
●あかねっ娘の特徴
あかねっ娘の果実はやや大きめで、ふっくらとした球円錘形をしています。果皮の色は鮮紅色で全体に色のまわりはよく、ガクの付け根近くまで色付きやすいです。そう果の窪みは浅く、ややそう果の表面が果実の表面より出ているものが見られます。
あかねっ娘/ももいちご/百壱五<イチゴ
果肉の色は中心部が白く、まわりは少し黄色みを帯びた白といった感じです。果心の空洞はできやすく大果の物は空洞もそれなりに大きくなります。
農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。
『-----
果皮の色は鮮紅、果形は球円錘、第1番果と第2番果の果形の差は少、果実の大きさは大
果肉色は黄白、果心の色は白である。
果実の光沢は良、空洞は中、溝は少である。
果実の硬さはやや硬、無種子帯はほとんどなし、そう果のおち込みはおち込み小である。
果実の香りは多、可溶性固形物含量は高、酸度はやや低、うどんこ病抵抗性は中である。
「とよのか」 と比較して、果形が球円錘であること、第1番果と第2番果の果形の差が少ないこと、休眠性が長いこと等で、「女峰」と比較して、果形が球円錘であること、果肉色が黄白であること、花房当たりの花数が少ないこと等で区別性が認められる。
-----』以上、抜粋。
●ももいちごの特徴
あかねっ娘/ももいちご/百壱五<イチゴ
ももいちごとして出荷されているものは果実が大きいものが中心となっています。ブランド化が進んでいるため、通常の苺の透明パックに詰められているものは無く、クッションなどが敷かれた容器や贈答用の箱物が中心となっています。
右上の黒い箱に入ったものは一粒45~60gもありました。
香りがとても甘く、大粒で食べ応えがありましたが、果肉は適度に柔らかくとてもジューシーで、甘さは凄く甘いと言う程ではありませんが、酸味がなく十分な甘さが口に広がります。この苺一粒を皿の真ん中に乗せてそのまま出しても十分過ぎるくらい豪華なデザートになります。
*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Momo.htm より
「桜始開-さくらはじめてひらく」
七十二候の第十一候「桜始開」。
言葉そのまんま「桜」が咲き始めるころという意味。
今年は平年より早く咲きはじめました。
といっても、中部・東北などは今から。
この言葉が似あうのは・・・今どこ?
「由紀さおり・安田祥子」
「由紀さおり」1946年11月13日生まれの74歳
「安田祥子」 1941年9月9日生まれの79歳
スペシャルインタビュー Academic Milestones - 学びを究める力 019/07/12更新
Vol.056 声楽家 安田祥子さん
歌いかけは親子をつなぐ大切な時間
童謡が持つ日本語の豊かさを大切に
安田 祥子 (やすだ さちこ)
子どものころ、ひばり児童合唱団に所属し童謡歌手として活躍。東京芸術大学大学院修士課程修了。1966年オペラ「フィガロの結婚」のスザンナ役で声楽家としてデビュー。1969年NYジュリアード音楽院、1976年ロチェスターイーストマン音楽院に学ぶ機会を得て、帰国後、日本歌曲によるリサイタルなどを開催。1986年から妹、由紀さおりと四季の移ろい・小動物や相手を思いやる気持ちなどを、きれいな日本語で歌っている歌の数々を次代に手渡したいという思いで、活動を続けている。2013年7月には、童謡、唱歌などを通じ日本語の美しさや日本人の心を広く伝えた活動が評価され、文部科学大臣表彰を受ける。
「日本の美しい言葉の歌を大切にして、次世代に歌い継ぎたい」――そんな願いをこめて、妹の由紀さおりさんとともに童謡コンサートを続けている安田祥子さん。保育専門学校の特任講師や、特定非営利活動法人の顧問も務められるほか、ツイッターでコンサート活動や日々の四季の移ろいを発信されるなど、新しいことにも取り組みながら精力的に活動されています。働く母親が増えて忙しい時代だからこそ、短い時間でも子どもと真剣に向き合うことが大切であり、そのツールとしてぴったりなのが童謡だと説く安田さん。歌い聴かせのコツやご自身の子育て経験から、いつまでも若々しく元気にいられる秘訣まで教えていただきました。
姉妹でのコンサートは今年で34年目、私の大切なライフワーク
姉妹で始めた童謡コンサートの活動は、今年でもう34年目になります。多い時は1年間で157ステージに立ったこともあります。でもスタートした頃は「なぜ今、また童謡なの?」と、周囲から疑問を持たれました。私は音大の講師をしていたこともあり、専門はクラシック音楽でしたので、そうした疑問を持たれたのかもしれません。童謡は低く冷たい目線で見られていたのです。
でも、日本には四季の移ろい、小動物や相手を思いやる気持ちなどをきれいな日本語で歌っている、すばらしい歌がたくさんあります。それをお伝えしたいという思いでスタートし、現在まで活動を続けています。こんなに長く続けられるなんて夢にも思っていませんでしたが、うれしいことです。
コンサート活動のほか、保育士専門学校で特任講師もしています。昔の歌は言葉が難しいから子どもたちに歌を教えられない、といったことがあるのです。童謡の『シャボン玉』の中にある歌詞を、「屋根も一緒に飛んじゃった」と思う今の子どもたち。歌詞の解釈をしながら、日本の歌の言葉の響きやメロディの美しさを伝えています。
もうひとつ、私のライフワークとなっているのは、若い音楽家たちをサポートし、オペラ歌手の故・中島啓江さんが始められた、東京を中心に地域住民の合唱を通じた交流を促す、スマイル合唱団を支援している「NPO法人 音楽で日本の笑顔を」という特定非営利活動法人の顧問・応援団長としての活動です。若い音楽家と一緒にチャリティコンサートを開催したりしています。
「歌う」ということは、気持ちを優しくしてくれます。歌うことが元気なのか元気だから歌えるのか、どちらでもいいのですが、私がいつも言っているのは「歌うことは副作用のないサプリメント」ということ。うれしい時も悲しい時も歌は力になってくれます。中島さんのモットーも同じで、私は以前、ゲストとして招かれたご縁もあり、その思いを大事にしていかなくてはと、顧問として、若い音楽家のみなさんとコンサートをしたりしています。若い演奏家のみなさんとの関わりは、こちらもパワーをいただきます。
亡き夫の実家、鳥取県の最北端に位置する岩美町の「いわみふるさと大使」もさせていただいています。この町は海がものすごくきれいで、お魚はびっくりするほどおいしい。ツイッターでもたびたびPRしていますので、のぞいてみてくださいね。
童謡や唱歌を歌っていると、日本語の豊かさに気がつくようになります
保育専門学校の授業では、最初の授業で「歌のカレンダーを作ってください」と話しています。4月から授業が始まるので、『若葉』という歌からスタートして、卒業する3月までを作ります。すべての月に当てはまる歌があるんですよ。
昔ながらの歌だけでなくても、もちろん新しい歌もありますから、自分の思った季節の歌をはめ込んでいく。そうして自分だけのレパートリーを増やしていけば、それがあなたの財産になりますよ、と伝えています。
2月であれば『豆まき』の歌もありますが、『鬼のパンツ』なんていう歌もありますよね。これはイタリアの『フニクリ・フニクラ』の替え歌です。そういった、日本の歌だけじゃなくって、リズミックな外国の歌も身に付いていくのは楽しいですよね。
歌というのは、余裕がなければ口をついて出ません。お母さま方が、お洗濯しながら、お料理しながら鼻歌が出るというのは、機嫌がいい証拠です。お子さんたちも、お母さんが機嫌いいほうがいいですよね。
上手に歌おうと思わなくていいのです。お散歩の途中で、ありを見つけたら『おつかいありさん』、トンボが飛んでいたら『赤とんぼ』でもいい。雨の季節になれば『カタツムリ』、運動会が近くなれば、『てるてる坊主』……そんなふうに、自然と口をついて出てくるような環境ができていったらいいな、と思っています。
そうした歌が進化して、今の音楽があるわけです。ですから、童謡や叙情歌、愛唱歌は歌の基本形といえますよね。童謡や唱歌を歌っていると、言葉の豊かさ、日本語の豊かさに気がつくようになります。「おいしい」も「まずい」も「いい」も「悪い」も、「やばい」のひと言で済ませるのではなくて、日本語の表現の豊かさを忘れないでほしいですね。
小さいお子さんに対して発する言葉であれば、なおさらです。子どもは海綿体のように、良いことも悪いことも吸収していきます。とくに小学校に入るまでの間がすごく大事。それまでに、ご家庭でも保育所でも幼稚園でも、きちっと日本語の豊かさをインプットする努力をしていただきたいなと思います。
オペレッタの練習風景が音楽を始めるきっかけに
私は群馬県桐生市に疎開していたので、そこで幼稚園に通いました。そして当時の先生が、「声がきれいだから歌を習わせたらいいかもしれません」と母に伝えたそうです。その後、小学4年生で横浜市の小学校に編入します。そのころは学校が終わったらみんなカバンを家に放り投げて、また校庭で遊ぶのが普通。私も日曜も校庭で遊ぶような子でした。
ある日も学校に行ったら、たまたま講堂でひばり児童合唱団が秋の公演の練習をしていたんです。それがフンパーディンク作曲の『ヘンゼルとグレーテル』というオペレッタでした。子どもたちがお化粧して、ひらひらの衣装を着て歌っている。そんなの初めて見るので、もう、びっくり。お昼ご飯を食べに帰るのも忘れて聴き入っていたら、探しに来た母が、熱心に見続けている私を見て、幼稚園の先生がおっしゃったことを思い出して「この合唱団に入る?」と勧めてくれて入団、妹も後に一緒に通うことになりました。
入団翌年、幸運なことにオーディションに受かり、ソロデビューすることに。大人の歌手の方と一緒に舞台にあがる機会もあり、「大人の歌い手さんは、こんなふうに歌っているのか」と、自分も大人になっていくことを意識するようになります。そして、やっぱり大人になっても歌っていきたいなと思い、先生に相談すると、私の声の質を考えて「ポップスではなくてクラシックに行ったら?」とアドバイスされました。別の先生を紹介していただき、プライベートレッスンを受け、音大受験を考えるようになりました。
そして東京芸術大学に進学、修士コースまで進みました。その後は助手などを経て、非常勤の講師として18年間音大に勤めました。1969年に結婚して、夫の仕事先であるニューヨークに移ったその年に、妹が由紀さおりとして『夜明けのスキャット』でデビューします。紅白歌合戦に初出場というのをニューヨークで聞いて、泣いて喜びました。
大きな刺激を受けたジュリアード音楽院での学び
ニューヨーク滞在中、幸運なことにジュリアード音楽院に通うことができました。ジュリアードの学生たちは皆、自分が世界一だと思っていて、プライドがものすごく高い。先生方も、英・独・仏語を話すことができ、あらゆる音楽に通じています。音楽学校ってこういうものなのだなと、ものすごく刺激を受けました。
ここで私のターニングポイントというか、音楽探しがまたスタートします。でもオペラ歌手としてやっていくのには、あまりにも声が細いし、私のような声の人はたくさんいて、競争が激しい。オペラ歌手としてやっていくのは無理だなと、自分の限界を悟ってしまったのです。
では、自分の音楽とは何だろうと、ニューヨーク滞在中、いろいろな方のコンサートに行きました。すると、皆さんアンコールに母国の歌を歌われる。日本の方は、日本の歌はたくさんあるのに、なぜか皆さん『荒城の月』ばかり。そこで気づきました。私はそういう歌を勉強してこなかった……と。それで帰国してから、後輩たちと一緒に日本の歌を勉強して、コンサートをやるようになりました。
そうこうしているうち、母から「良い歌にジャンルは関係ない。妹のリサイタルで一緒に歌ったら?」とゲスト出演を提案されました。はじめは、親孝行のつもりで引き受けました。元の歌いはじめの原点である童謡をメドレーで歌うと、お客さまから「こんなにいい歌があったのに、あの時代の歌はどこ行っちゃったのでしょう」と、懐かしむお声をたくさんいただきました。そこで母が「これよ!」と、レコード作りと二人の活動がスタートしたのです。皆さん、こういう歌を待ち望んでいたのですね。
童謡は子どものための歌なので、作詞家の方々は優しい言葉を選びます。でもたった2行でも大きな想像力を働かせてくれる言葉であり、推敲に推敲を重ねた美しい日本語です。プロデューサーからは、「そういう優しく美しい言葉の歌たちを提供する」という想いで歌わないとダメだと教えられました。
テレビがなくラジオの時代の歌は、聴いて思い出す風景は人それぞれ。ひとつではありません。それが童謡や唱歌の強さです。ですから私たち姉妹が、自分たちが気持ちよく、自分たちの思いだけで歌ってしまうと、皆さんの思ってらっしゃる風景が吹き飛ばされてしまいます。「皆さんの歌」として歌わないといけないということです。
わずかな時間でも子どもと本気で過ごすことを大切に
ご家族向けのコンサートの時、「子守歌を歌っているお母さんは?」とたずねると、100人くらいのうち大抵4~5人しかいません。でも童謡や愛唱歌というのは、3分もあったら2曲くらい歌えるんですよ。
たとえば『ゆりかごのうた』をゆっくり歌いながら、背中をトントン、お尻をポンポンすると、お母さんも落ち着きますし、お子さんもすぐ寝入ります。でもお母さんは忙しいから「早く寝てちょうだい」という気持ちで歌っていたら、それはお子さんに伝わってしまい、寝なくなる。すると、お母さんはイライラ、子どももイライラ。だからゆっくりトントンとしながら、自分の気持ちも落ち着かせる。そのちょっとの時間がすごく大事だと思います。
仕事で忙しくても、わずかな時間を本気でお子さんと付き合えば、それは子どもにも伝わります。それが安心感や感謝の気持ちになっていけば、その後家庭で何か問題が起こっても解決できるのではないでしょうか。
私も仕事をしながら一人娘を育てました。小さい頃から娘はいわゆる「鍵っ子」でしたが、おとなりの奥さまが息子さんたちと一緒にみてくれました。そういう仲間がいてくださったので、すごく助かりました。その奥さまからは、「漢字の書き順も自分たちの頃とは違ったりするから、学校の勉強には関わらない方が良い」とアドバイスをもらい、娘には「わからないことは学校でちゃんと解決してらっしゃい」といっていました。だから娘は全部自分でやっておりましたので、手がかからない子どもでした。娘はその後成長して一人で外国へ行き、現在も海外で頑張って仕事に取り組んでいます。私は今も娘に対して、本人がハッピーならばそれがいい、と思っています。
私自身も自分で解決するよう育てられました。合唱団にいた時、辞めたくなったことがあり、母に「辞めたい」と言ったら「自分でやりたいって言ったんでしょ」と諭されました。そう言われたら、ぐうの音も出ません。一人の人間として、信頼されていたのだと思います。
「親は子どもをどう育てればいいか」というのは、本当に難しいですね。今のように多様化している時代と私たちの時代とでは、環境があまりにも違いますし、「これはお手本になります」とは言えません。正解はないと思います。与えられた一日24時間は同じなので、どうしていくかは、それぞれに努力しないとならないのだと思います。
「毎日がスタート」と思うと、新しい発見があります
今後の目標についてきかれたりしますが、目標を決めて勢いよく突っ走るのではなく、一日一日を大事にして、毎日がスタート、今日も新しい一日がスタートする、という思いで過ごしています。すると、新しい発見があったりします。
妹とのコンサートについていえば、主要都市はほとんど行きましたが、まだお邪魔してない地域があるので、そうした場所にうかがって歌をお届けしたいですね。そのためには自分が心も体も健康でなくてはいけません。私がしているのは、一日何回も鏡を見ること。歩いていても一日何回もウィンドウで自分を映してみます。
そして寝る前にはニコッと笑ってから寝て、朝起きて洗顔したらニコッと笑う。そうやって自分の気持ちを奮い立たせています。これ、お金もかからないし、お勧めですよ。
ステージでは今も7cmのヒールを履いて一時間半あまり歌っています。ロングドレスですから、そのバランスが大切です。教壇に立つことも、ステージに立つのと同じだと思っていて、立ち姿を美しく見せる努力をしています。「美しく」というのは、心も体も、真摯な気持ちということも含めて、美しくありたいということです。ジムにも通っています。努力は欠かせません。
ほかには、「風邪をひかない」「食べ過ぎない」「転ばない」そして最近加えたのが、「老け込まない!」これらをポリシーにしています。それから、若い方とはコミュニケーションをうまくとり、若い方のパワーを上手にいただくよう心がけているのも、元気の秘訣かしら。
これから先、保育の仕事でもAIに任せるような場面が出てくるかもしれませんが、人間じゃなきゃできないことがまだまだあります。豊かな感性があるのは人間ならでは。専門学校への通学路には、庭のあるお家が結構あって、私は学生さんに、「毎朝見てきている?」と聞いています。目を向けていれば「あじさいの季節になったな」など、季節の変わり目に敏感になりますから、そうしたことを大切にしてほしいと思うのです。
皆さんも朝は忙しいでしょうが、周りの景色を見ながら歩いたり、家を出る前にニコッと笑ってみたりしてはどうでしょうか。ちょっとした一瞬に、それができているかいないかで、一日のスタートが違うと思います。そして歌のレパートリーを、ぜひ増やしてください。歌うと元気になりますよ。私もこれからも、自分も周りも元気になるよう、日本の歌を伝え続けていきたいと思っています。
*https://www.kumon.ne.jp/kumonnow/special/056_1/ より
安田祥子と妹・由紀さおりの姉妹ハーモニーが美しい!娘は国連に所属!
安田祥子と妹・由紀さおりの姉妹セッションが美しい!クラシック界から活躍の場を広げる
童謡歌手で、クラッシック音楽のソプラノ歌手でもある安田祥子(やすださちこ)は、同じく歌手として活躍している由紀さおりの実の姉としても有名です。小学生の頃には、日本を代表する児童合唱団「ひばり児童合唱団」に姉妹揃って所属。音楽事務所の大手コロムビアに所属するようになった安田祥子は、童謡歌手として活動しました。
その後は、名門・東京芸術大学と大学院に進んだだけでなく、ニューヨークのジュリアード音楽院や、ロチェスターのイーストマン音楽院など海外でも音楽を学んだ安田祥子。帰国後は、母校である東京芸術大学講師を18年務めるなど、主にクラッシック界で活動していました。
実は、ボイストレーナーとしての功績も大きく、劇団四季では、安田祥子の教え子たちが今も多数活躍しているそうです。そして1982年、由紀さおりのコンサートに安田祥子がゲスト出演したことがきっかけに、姉妹としての音楽活動をスタート。今では、姉妹が一緒にいる姿もすっかりおなじみになりました。
姉妹ならではの息の合った美しいセッションは、清水アキラがモノマネするほど浸透しています。ちなみにモノマネされることは姉妹にとって「大変嬉しいこと」で、すでにモノマネ公認済みだそうです。
安田祥子の夫や家族がスゴイ!娘は国連に所属していた!
安田祥子の夫は、澤田久雄と言います。京都大学卒業後に外務省に入り、在日オーストリア通商代表部理事を務めたという華やかなキャリアの持ち主です。そんな夫の家系は、父が国連大使も務めた外交官で、母は三菱財団の創始者岩崎弥太郎の長男・岩崎久弥の長女。名前にある「久」という字は、母方の祖父・岩崎久弥と同じ誕生日だったことからつけられたと言います。
そもそも安田祥子と夫の出会いは、「合唱団員とソリスト」という、音楽を通したものだったそうです。結婚する際には、あまりにもスゴい一族であることから不安も感じた安田祥子でしたが、義母から「身ひとつで来てください」と言ってもらえ安心できたと語っています。
結婚後は、夫の勤務先であったニューヨークのマンハッタンに行き、新婚生活をスタートさせた安田祥子。2人の間には一人娘がいますが、この長女の職業もスゴいものです。なんと、ニューヨークの国連本部にある国連人道問題調整部(OCHA)に所属しており、世界で起こっている災害の救援活動に従事しています。
安田祥子は現在も全国コンサートを開催中!「トルコ行進曲」ほか人気曲は?
安田祥子は現在も全国コンサートを開催中!これまでのステージは2000回以上
安田祥子と由紀さおりの姉妹コンサートは、1982年に始まってから30年以上が経過しています。国内外で公演を続けた結果、2006年11月には、姉妹としての公演が2000回になるなど、精力的に活動してきました。2018年には77歳になりますが今なお現役の安田祥子。年内には、日本通運presents「童謡 生まれて100年」と題した、全国5カ所での公演も決定しています。
妹の由紀さおりも、姉妹コンサートのほかに単独コンサートも開催するなど、70歳という年齢ながらとてもパワフルです。姉妹を若い頃から知っている年配のファンも多く、姉妹のコンサート会場には、手を引かれながら訪れる人や杖をついている人も少なくないそう。「ソプラノ歌手の歌声を初めて生で聞いて感動した」「あまりの気持ちよさに眠ってしまいそうになった」と姉妹の美声を称賛する声が多く見られます。
安 田祥子と由紀さおりの代表曲「トルコ行進曲」ほか人気曲は?
安田祥子と由紀さおりの代表曲は、やはり「トルコ行進曲」。「ダバダバダ~」から始まる、2人の息もぴったりな、美しくも力強いハーモニーを一度は聞いたことがある方も多いことでしょう。よくあそこまでタイミングを合わせて歌えるなあと、歌唱力の高さを実感させることしきりな姉妹の「トルコ行進曲」は、今なお完成度を高めながら進化中です。
安田祥子と由紀さおり姉妹は、これまで紅白歌合戦に10回も出場。「トルコ行進曲」以外にも、「この道」や「赤とんぼ」「故郷」など、多くの唱歌を披露してきました。歌のダウンロードサイトで有名なレコチョク調べでは、最近は「東京の屋根の下」や「月の砂漠」「どこかで春が」などが多くダウンロードされているようです。
2017年11月にリリースされたベストアルバム「ゴールデン☆ベスト 由紀さおり 安田祥子」には、これまでに歌ってきた膨大な数の唱歌や童謡の中から選りすぐりの20曲を収録。郷愁あふれる曲の数々が、ファンから高く評価されています。
安田祥子が伝えたい日本の童謡の魅力とは?
2018年2月に沖縄県那覇市で行われた、第88期新報女性サロンの第2回講座に安田祥子が出席しました。この日のテーマは、「残したい 伝えたい 日本の歌」で、講師を務めた安田祥子は、童謡の魅力について語っています。明治時代以降から始まったという日本の童謡は、「テレビのない時代にラジオから聞こえてくる童謡に多くの子供たちが楽しんだ」と当時を振り返って話した安田祥子。
童謡といえば、親しみやすいメロディと、美しい日本語で綴られた歌詞です。時には四季折々の情景を歌い、またある時には人を思いやる優しい気持ちを歌います。今も小・中学校の音楽の授業で代表的な曲は学びますが、接する機会は年々減ってきているのが現状でしょう。
そんな失われつつある童謡に新しい息吹を吹きかけたのが、安田祥子と由紀さおり姉妹ではないでしょうか。2人が活動してきた30年以上の間には、妹・由紀さおりの病気など苦難もありました。声に影響を与えたくないという理由から、由紀さおりが子宮の全摘手術を選択したということもあったそうです。安田祥子自身も、コンサート活動に専念するため、長年勤めた東京芸術大学講師を辞めるなど、さまざまな選択をして歩んできました。
姉妹の歌う楽曲は、幼い頃から知っている曲が多いため、口ずさみやすいものばかり。しかし、ただ親しみやすいだけでなく、プロが歌うとここまで変わるのかと、レベルの高い音楽の世界を堪能できるところも魅力です。70歳を越えた安田祥子・由紀さおり姉妹の後継者が育つことにも期待しつつ、これからもその美しい歌声で、日本の心である童謡や唱歌を歌い続けていってほしいと願っています。
*https://anincline.com/yasuda-sachiko/ より
【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
〈新潟〉 〆張鶴/宮尾酒造
淡麗旨口――当蔵「〆張鶴」の酒質を言葉にすれば、こんな表現になるでしょうか。少しでも“いい酒”を造ろうと、蔵が一丸となって築きあげてきた味わいです。
当蔵の創業は文政2年(1819)。蔵を構える村上は、五百万石や高嶺錦など良質の酒造好適米を産出する米どころ。また、酒の味に影響を与えると言われる水は、敷地内の清冽な井戸水を仕込みや洗い水などに使用しています。この地下水は、鮭の遡上で知られる三面川の伏流水で、きめ細かな甘みを持つ軟水です。
当蔵に脈々と受け継がれてきたのは、酒造りに対する真摯な姿勢。良質の米と清冽な水を原料に、より皆様から喜んでいただける“うまい酒”を目指し、杜氏と若い蔵人らが日々、酒造りに努めています。
首都圏でも「新潟の酒」として出会う機会が多い〆張鶴。地元・村上に根ざした地酒だ。新潟県の最北部に位置する村上市は鮭が遡上する町として知られ、100種類をゆうに超えるともいわれるさまざまな郷土料理とともに食文化を育んできた。「〆張鶴」は、そんな村上の恵まれた風土の中で醸される銘酒である。
料理とともに杯を重ねて飽きない酒
杯を重ねてなお次の一杯を欲する。そんな「〆張鶴」の酒は、すっきりとした旨みと控えめな香り、すっとキレる後口のよさで、数多の飲み手を魅了する。
「鮭や近郊の港に揚がる旬の魚介など、私たちが普段口にする食材を使った料理に合う酒」と代表取締役で十一代蔵元の宮尾佳明さんが自負するように、「〆張鶴」は代々、村上の風土に寄り添った酒を醸してきた。
時代とともに酒造技術が進化し、酒質もわずかずつ変遷しているとはいえ、持ち前の清らかでキレのよい味わいは、これまでもこれからも変わることはない。
飲み手は、そんな一本筋の通った酒を造り続ける宮尾酒造のひたむきな姿勢を、一杯の酒に重ね合わせて愛飲するのだ。
よい酒は優れた原料から
酒の品質に全力を注ぎ込む宮尾酒造では、原料米の「五百万石」には「コシヒカリ」三大産地のひとつである岩船産の中でも良質とされる岩船地区で収穫されたものを、「越淡麗」は新潟県村上市産を使用。
仕込水には朝日連峰を源流とする伏流水を地下から汲み上げて使うことで、村上の風土や食に馴染む味わいを生み出している。
年々異なる米の出来具合や特性をいち早く見極めることも、上質な酒を醸す上で重要なことだと宮尾社長は語る。
酒を搾る時、さらには出荷前のきき酒も厳しい目で行い、飲み手のもとにベストな状態で行き届くよう細心の注意を払う。
「精米から出荷まで全ての工程において手を抜かないというのが、私たちの酒造りなのです」。誠実な造り手の心意気は、確かに「〆張鶴」の味わいに通じている。
連綿と受け継がれる実直な酒造り
蔵元の宮尾家には、二代目又吉氏が遺した酒造書「酒造伝授秘法之巻」が受け継がれている。創業当時の酒造りの手法が記された技術書である。
宮尾社長は「時代とともに酒造環境が変わり、技術も進化を遂げた今では、それを踏襲する酒造りは行っていない」と話すが、その一方で同書に記されているある和歌に込められた「品質第一」の教えを頑なに守り続けている。
造るなら面や匂ひにかかはるな 味ひこそ大事なりけり
「酒造りは酛や醪の面や匂いに関わらず、とにもかくにも出来上がった酒の味こそが大切だ」と。和歌に込められた心意気は、これからも変わることなく宮尾酒造の酒造りに生き続けることだろう。
飲み手の評価を糧に、ますます真摯に
宮尾社長:お酒の品質を第一に掲げて酒造りを続ける中、長年にわたり多くの方から変わらぬ味わいを評価いただけることは大変ありがたいことです。私たちにとっては、酒造りに向き合う姿勢を評価いただいていることにつながるからです。これからも飲み手の声を大切に受け止め、「〆張鶴」の品質を一層高めていきます。
蔵元が勧めるお酒をいくつか紹介しよう。
*http://www.niigata-sake.or.jp/interview/k16.html より
宮尾酒造株式会社 新潟県村上市上片町5-15
ラインナップ
「〆張鶴」純・大吟醸 金ラベル・純米吟醸 山田錦 など
新潟駅前の居酒屋それも地元民の愛する居酒屋で呑んだことがある。
日本酒を呑もうとメニューを眺めていると、近くの席の常連さんらしきおっちゃんから声が飛んできた。
「やっぱり〆張だよな」と。
常連さんのおすすめに応じて呑んだ。
その店の料理とも非常に相性が良く、常連さんに感謝した。
登録番号 第90号 大鰐温泉もやし
特定農林水産物等の区分 第1類 農産物類 野菜類(もやし)
特定農林水産物等の生産地 青森県南津軽郡大鰐町
登録生産者団体 大鰐温泉もやし増産推進委員会
特定農林水産物等の特性 湯量の豊富な大鰐温泉の温泉熱と温泉水を活用して約1週間かけて土耕栽培される、江戸時代から引き継がれてきた津軽伝統野菜。
長さが30cm以上で、太さは一般的な豆もやしのおおよそ半分以下。
その特有の形状により食感がシャキシャキしており、甘み・うま味を呈するアラニンが一般的な大豆もやしに比べて多く含まれている。
地域との結び付き 大鰐町は青森県内でも有数の豪雪地帯であり、冬場の貴重な栄養源として古くから栽培されてきた。
大鰐温泉は湯量が豊富で、潅水と土の保温、収穫後の洗浄に使用する大量の温泉水を確保できるほか、世襲制により独自の栽培方法が伝承されてきた。
*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i90.html より
「大鰐温泉もやし」は、大鰐温泉の温泉熱と温泉水を活用して約1週間かけて土耕栽培されたもやしです。
長さが30cm以上で、太さは一般的な豆もやしのおおよそ半分以下といった形状が特徴です。味の濃さと甘さ、独特の食感が評価され、一般的な大豆もやしよりも高値で販売されています。
「大鰐温泉もやし」の栽培には、在来品種「小八豆(こはちまめ)」を使用します。
直射日光を防いだ建物のなかで土耕栽培し、播種や栽培の潅水と保温は大鰐温泉の温泉水を利用して行います。
長さ30cm以上を出荷規格としていますが、製品の特性上、長さ30cmに満たないものが僅かに混入する場合も規格の範囲内としています。
大鰐町は青森県内でも有数の豪雪地帯であり、冬場の貴重な栄養源として古くからもやしが栽培されてきました。
大鰐温泉は湯量が豊富で、潅水と土の保温、収穫後の洗浄に使用する大量の温泉水を確保できるほか、世襲制により独自の栽培方法が伝承されてきました。
1975年以降、地域に大鰐もやし組合を設立し、生産者間の情報共有をとおして品質の向上に取り組んできました。
これまで世襲制により栽培技術を継承してきたため、後継者不足が懸念されてきましたが、現在は、大鰐町が中心となり新規就農を受け入れ、生産者数は6戸12名、2018年度の生産量は72,000束となっています。
*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/90.html より
前回の回答
次の漢字(熟語)の読みを答えてください。
問1 楔状 -けつじょう-頭部が大きく、末端が平たくとがっている形。くさびがた。
問2 吶喊 -とっかん-
1 ときの声をあげること。
2 「突貫3」に同じ。
-ときの声をあげて、敵陣へ突き進むこと。吶喊 (とっかん) 。
問3 輓近 -ばんきん-ちかごろ。最近。近来。
問4 歿年 -没年-ぼつねん-
1 死んだときの年次。
2 死んだときの年齢。享年 (きょうねん) 。行年 (ぎょうねん) 。
問5 酥油 -蘇油-そゆ-牛乳から製した、バターに似た油。食用にし、また密教で護摩の修法で用いる。
今回の出題
次の漢字(熟語)の読みを答えてください。
問1 咨詢
問2 蝴蝶
問3 婀娜
問4 硯箱
問5 慳吝
*漢字検定Web問題集 HP より
*goo辞書 より
「加茂桐箪笥」
Description / 特徴・産地
加茂桐箪笥とは?
加茂桐箪笥(かもきりたんす)は、新潟県加茂市周辺でつくられている桐の箪笥です。現在、全国の桐箪笥の多くが加茂で生産されています。
加茂桐箪笥の特徴は、衣類を湿気や害虫から守り水害や火災にも強いという点にあります。これらの優れた特徴は、加茂桐箪笥の材料となる桐に大きく起因しています。
桐の板は軽くて柔らかく、気密性が高いため隙間のない箪笥を製作するのに適した素材です。実際に、水害で桐箪笥が流された際、水が引いたあとに乾燥させてから開けてみると、泥水は全く入っておらず中の衣類は守られていたという逸話がある程です。また、表面が焦げて炭化しても燃え広がりにくいのも木材の中でも熱伝導率が低い桐ならではの特性です。タンニン、パウロニン、セサミン等の成分により細菌や害虫を寄せ付けず、湿気に強いため、湿度の高い日本の風土で衣類を収納するのに重宝されてきました。
実用性の高さは元より、加茂桐箪笥の他にはない気品と暖かみが今日まで人々を惹き付けています。色白で絹のような木肌、くっきりと刻まれた美しい木目には凛とした存在感があり、現代でも熟練の職人たちにより作られ続けています。
History / 歴史
加茂桐箪笥は、約220年前の江戸時代・天明の頃に家具などを作る指物師(さしものし)である丸屋小右エ門が杉材で箪笥を作ったのが始まりと言われています。
現存する最古の桐箪笥の裏板には、「文化11年(1814年)購入」と記されており、1820年(文政3年)頃には、桐箱や桐箪笥が船に乗せられ、加茂川から信濃川を通って新潟や東北方面へと運ばれたと言われます。
明治時代の初期には、北海道から東北地方にかけて加茂桐箪笥が出荷されるようになり、更に加茂は桐箪笥の産地として発展していきました。
1877年(明治10年)に編纂された「加茂町誌資料」に「箪笥400棹、長持200棹、造出」と記されていることからも、加茂の活性ぶりが伺えます。昭和初期には現在の桐箪笥のデザインの元となる「矢車塗装(やしゃとそう)」が開発され、現代においても全国各地に広く出荷されています。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kamokiritansu/ より
木肌のやさしさをそのままに 加茂桐箪笥
美しい柾目に描き出された桐の表情。自然のぬくもりの中に凛とした趣を漂わせ、歳月とともにその深みを増していく。桐箪笥を見ているだけで、不思議と姿勢を正したい気持ちになるのは、日本人の心が呼び起こされるからなのだろう。
箪笥の街並、加茂市
加茂の街並を歩けば箪笥店が並び、少し足を伸ばせば点在する材木店の風景をあちらこちらに見ることができる。加茂市の周辺はもともと天然桐が豊富で、桐箪笥の歴史は200年もの昔からはじまっている。今でも地場産業としてしっかりと加茂の地に根づいている。桐の美しい木目と木肌のぬくもりを生かした風合いが加茂桐箪笥の特徴だ。
美しさと実用性を兼ね揃えた桐箪笥
館農義明さんは、加茂市で桐箪笥を作り続けて約50年になる。伝統工芸士の制度ができて初めての認定を受けた方だ。箪笥の製作現場に入ったとたんに桐の香りに包まれる。桐箪笥づくりで第一に譲れないポイントが原材料だ。良質の桐を約3年間じっくりと天然乾燥して使用する。「乾燥が不十分だとアク(渋み)が残って、赤く変色してしまいます。乾燥といっても雨にもさらすんです。水にあてなければアクは出ません。天気半分水半分といきたいところだけど、なかなかそうもいきませんね。」天然乾燥させた桐は、見た目では黒く変色しているが、カンナをかければすぐに本来の白い木地が顔を出す。長い年月を経て渋抜きされた桐材は変色だけではなく、狂いも生じなくなる。
第二に、ひとつひとつ丹念に仕上げる手づくりの妙技。職人の技が特に必要とされるのが、最終工程における正面の「仕上げ」である。手カンナで削って箪笥の表面を整えていくこの作業は熟練した微妙な力加減が必要なため「機械に置き換えるのは不可能ですね。」とのこと。「桐は柔らかいゆえに傷つきやすいという面を持っています。作業で一番緊張するのは、やはり“仕上げ”の時ですね。」引き出しや扉の引っかかりをカンナで微妙に削って、すき間ができないように本体に入れ込んでいく。この高い密閉性も桐箪笥の特長の一つだ。湿気を桐自体が吸収することで膨張し、衣類を湿気から守ってくれる。また、桐箪笥は古くなったとしても表面を少し削れば新しい木肌が現れるため、いつでも美しい桐の色を再現できる。そして、加茂桐箪笥の特徴の一つである木釘を使用していることが、この“箪笥のクリーニング”に一役買っている。「桐箪笥は表面が汚れても、木釘ごとカンナで削ることができるんです。金釘を使ってしまうとそうはいきません。しかも金釘は錆びますし、抜く時にも柔らかい木地に傷をつけてしまいます。」
一人前になるための三拍子
満足した箪笥を作れるようになったのは、仕事をはじめて4年ほど経った頃です、と館農さんは言う。十代の頃から桐箪笥づくりを始めた館農さんは、20歳になって会社からカナモノ(道具類)一式を手渡され、はじめて箪笥一本を任されるようになる。桐箪笥づくりに使う道具は、カンナだけでも20~30種類にも及ぶ。「手加工なので、同じ箪笥を作ることはできませんし、同じ箪笥などありえません。なにしろ、日によってカンナの調子も使う木も違うわけですからね。そうは言っても、高い品質の箪笥を作らなければなりません。それにはやはり職人の勘というものが必要になります。」「カンナの切れ、仕上がりのきれいさ、能率の良さ、この三拍子が揃えば一人前ですね。」と、長年に渡って技術性の高い桐箪笥づくりを手がけてきた館農さんからは自信と誇りがひしひしと伝わってくる。昔、女の子が生まれると桐の苗木を植え、嫁ぐ日にはその桐で嫁入り箪笥をつくる風習があった。ライフスタイルの洋風化が進み消費者の生活環境が変化した現代でも、結婚を機に桐箪笥を購入する人は少なくない。「自分が手がけた箪笥とともに幸せな生活を送って欲しいですね。」そう思いながら箪笥を製作しているのだと館農さんは言う。
箪笥への意欲は薄れず
素材の桐板を作るなど、極めて手間暇のかかる様々な工程を経て、あの気品漂う木肌のぬくもりが生み出される。時代がどうあれ、桐が日本の収納家具に最も適した材料であることは、これからも変わらない。「一人でも多くの人に桐箪笥が持つ経済性というものを知って頂きたいですね。そして桐の良さを実際に触れて感じて欲しい。この仕事は70過ぎても続けて、もっと技術度の高いものを手がけていきたいです。」と、桐箪笥づくりにかける館農さんの強い意欲はまだまだ続きそうだ。
職人プロフィール
館農義明
昭和10年北海道稚内市に漁師の家に生まれる。17歳の時に株式会社高橋新吾タンス店へ弟子入りし現在に至る。
こぼれ話
桐箪笥の金具の変遷
加茂から6キロのところに位置する三条市は古くから金物の産地として栄え、今日に至っています。この三条市も以前は加茂桐箪笥に深く関係する都市でした。昭和25年頃までは加茂桐箪笥に使用される金具類は、三条でほとんど生産されていたのです。
ところが、昭和30年代以降の生活様式の洋風化によって箪笥の需要と生産量が激減していきました。それに伴い、桐箪笥用金具業者も他工具・家庭金物などの製造に転業を余儀なくされました。そのため自然と桐箪笥専門の金具業者は大都市に集約されていき、東京・大阪・京都などでしか生産されなくなりました。この状態は現在でも続いており、三条市で作られる金具の割合はさほど高くはありません。
金具の形状も時代とともに変わっています。江戸時代末期から明治にかけては重厚を表す大型の鉄金具が用いられていましたが、時が過ぎるにつれ本来の桐材を生かしたものに変わっていきました。金具には小型化と機能性が求められるようになっていったのです。
*https://kougeihin.jp/craft/0611/ より