いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<言 葉> 春の言葉 卒業式

2021-03-17 07:34:41 | 言葉

 「卒業式」

 3月17日は、堺市立中学校の「卒業式」が行われる。

 学校は2月から3月にかけて「卒業式」が行われるが、地域によってもまちまちなので、各地で行われる卒業式はいつなのかよく知らない。もしかして北国と南の方ではかなり季節感が違うのかも?

 

 小学校の時はなんとなく卒業式を終えた。公立小学校から公立中学校への進学だったから、殆どの卒業生が同じ道に進んだ。

 ただ、中学校からは「人生の岐路」が待ち受けていた。

 私は私立高校の受験に失敗したもんだから、公立高校に賭けていた。ただまだ進学する高校も決まらぬままの「卒業式」。日程がおかしくないかい?なんて思った。

 その後、無事進学する高校も決まったが、殆どの友にどこの高校に行くのか報告もできずに慌ただしい「春」を迎えたように気がする。

 高校の卒業式は、とても思い出深いものとなった。

殆どの男の友人たちは、既に「浪人」を決めていた。一足先に、あまり気の進まない大学に進学するうしろめたさがあった。まぁこれも「自分の人生」だと諦めての進学だった。

 大学の卒業式は、とんでもなくつまらないものとなった。

 友人の何人かは「留年」を決めていたから。ほかの友人も「どの会社」に就職するのか知らないままだった。

 私は夏には「内定」をもらっていたから、「卒論」を提出するだけでなんとか4年で卒業。それも中途半端なものになったが。

 「あの大学」は何のためだったのか?なんてその時は思っていたが、立派に「大学生という身分保障」された上で「たくさんの社会経験」を積ませてくれたありがたい大学であった。

 頭が悪く、勉強嫌いだったが、たくさんの「経験」と「(勉学ではない)勉強」をたくさんしたんだと今では思っている。

 

 「卒業式」は、小学校から中学、そして高校、大学と「学校を卒業」するというイベントなんて簡単には思えない。

 「卒業式は人生の大きな岐路-節目の大切な儀式」のように思う。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-寺尾聡

2021-03-17 07:33:10 | MUSIC

 「寺尾聡」

 1947年5月18日生まれの73歳

 寺尾聰は『ルビーの指輪』でヒット歌手に! 父は俳優の宇野重吉 By - grape編集部  公開:2019-08-27  更新:2019-11-15

 俳優そしてミュージシャンとして活躍している寺尾聰(てらおあきら)さん。高い音楽的才能とすぐれた演技力で、男女問わず多くの人から支持されています。

 そんな寺尾聰さんのヒット曲や代表作、これからの活躍といったさまざまな情報をご紹介します!

 寺尾聰の音楽活動
 寺尾聰さんがバンド活動を始めたのは法政大学第二高校時代です。文化学院大学へ進み、アマチュアバンド『ザ・サベージ』を結成しました。寺尾聰さんはベースを担当しています。

 『ザ・サベージ』は学生の間で人気となり、大学卒業を控えた1966年に解散記念としてテレビのコンテストに出場しました。

 コンテストではグランプリに輝き、ホリプロ社長である堀威夫さんからスカウトされます。バンドは解散を取りやめてプロデビューしました。デビュー曲は『いつまでもいつまでも』です。

 寺尾聰さんは翌年に俳優となるため『ザ・サベージ』を脱退し、ホリプロから石原プロモーションへ事務所を移籍しました。

 バンド『ザ・ホワイト・キックス』に加入したのもこのころです。ところが『ザ・ホワイト・キックス』はシングル1枚で解散しました。

 その後、寺尾聰さんは音楽活動を続けてソロアルバムをリリースしています。ソロアルバムは1970年発売の『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』でした。

 後の代表曲となる『SHADOW CITY(シャドーシティ)』や『出航SASURAI(さすらい)』をリリースしたのは1980年です。翌年にはミリオンセラーとなった名曲『ルビーの指環』を発売しました。

 『ルビーの指環』はオリコン1位、そして『第23回日本レコード大賞』に輝きます。寺尾聰さんは同曲で『第32回 NHK紅白歌合戦』に出場しました。

 寺尾聰さんが作詞・作曲した『ルビーの指環』を編曲したのがミュージシャンの井上鑑さんです。薬師丸ひろ子さんや松田聖子さんの曲を手掛けることになる実力派でした。

 『ルビーの指環』は『ヨコハマタイヤ』のCMにも採用されるスタンダードナンバーとなります。

 寺尾聰の父は俳優の宇野重吉
 寺尾聰さんは俳優・宇野重吉さんの長男として生まれました。宇野重吉さんは劇団民藝を作った新劇の俳優で、大河ドラマ『赤穂浪士』(NHK)などに出演しました。

 俳優である父をもつ寺尾聰さんですが、「俳優を志したことは全然ない」といいます。しかし石原プロモーションに入った後、1968年に映画『黒部の太陽』で映画デビューを飾りました。

 寺尾聰さんの当たり役といえば、4千台以上の車を壊した派手なアクションで知られる刑事ドラマ『西部警察』(テレビ朝日)のリキこと松田刑事でしょう。サングラスをかけたクールな刑事で人気となりました。

 TVドラマにも出演しており、『おくさまは18才』(TBS)や『男は度胸』(NHK)といった作品に顔を出しています。

 寺尾聰・宇野重吉 親子共演
 1976年に発表された映画『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』で、寺尾聰さんは父の宇野重吉さんと共演を果たしています。

 寺尾聰さんと宇野重吉さんは親子だけあって「よく似ている」と評判です。

 黒澤明作品にも登場
 娯楽作品だけではなく、映画も多数出演しています。黒澤明監督が手がけた『乱』や『夢』、『まあだだよ』といった名作に登場しました。

 『乱』はオーディションから参加しています。黒澤明監督は若い寺尾聰さんに教えることが楽しかったようで、喜んで質問に答えてくれたとか。

 寺尾聰 21世紀の活躍
 寺尾聰さんは21世紀になってから映画『雨あがる』や『半落ち』で『日本アカデミー賞』最優秀主演男優賞を授与されています。

 『半落ち』は作家・横山秀夫さんの小説を映画化しました。同作は『2002年週刊文春ミステリーベスト10』で第1位を獲得したベストセラーです。

 2006年には代表曲『ルビーの指環』をCMソングにした『キリンラガービール・キリンクラシックラガー』のCMに出演しました。

 また、2011年からは東京六本木のライブハウスで洋楽のカバーを歌う『Cover Live』をたびたび開催しています。

 CDもアルバム『Flying Bassman -COVER LIVE RECORDING AT ROPPONGI- / CD』をリリースしました。精力的に活動しています。

 TVドラマにも出演があり、『陸王』(TBS系)や『特捜9』(テレビ朝日系)といった話題作に登場しました。

 寺尾聰の現在・これから
 寺尾聰さんは2019年4月スタートのドラマ『特捜9 -season2-』(テレビ朝日系)に宗方朔太郎役としてキャスティングされています。

 5月からは『平松剛法律事務所』のCMに出演しました。同月にはドラマ『5夜連続ドラマスペシャル「山崎豊子 白い巨塔」』(テレビ朝日系)に出演しています。

 同作は山崎豊子さんの原作で名高い作品で、寺尾聰さんが演じるのは第一外科の教授・東貞蔵役でした。寺尾聰さんの演技力が重厚な作品を支えています。

 10月にはライブ『寺尾聰 Cover Live in October 2019』が行われることとなりました。

 寺尾聰さんはミュージシャンとして素晴らしい楽曲を発表しただけでなく、俳優としても大きな足跡を残しています。

 これからも、音楽活動や俳優業を通じて活躍していくことでしょう。寺尾聰さんに期待が集まっています。

 寺尾聰 プロフィール
 生年月日:1947年5月18日
 出身地:神奈川県横浜市
 血液型:A型
 身長:176㎝
 所属事務所:寺尾音楽事務所

 俳優・宇野重吉の長男として1947年に生まれる。大学在学中に結成したバンド『ザ・サベージ』で、1966年デビュー。翌年ホリプロから石原プロモーションへ移籍し、ドラマ『西部警察』などに出演した。銀幕デビューは1968年の『黒部の太陽』。音楽活動も続け、ソロデビュー11年目の『ルビーの指輪』が大ヒットした。黒澤監督映画『乱』や映画『半落ち』に出演する。2008年に『紫綬褒章』、2018年に『旭日小綬章』受賞。

[文・構成/grape編集部]

 *https://grapee.jp/724120 より

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<日本酒> 新潟 越の誉/原酒造

2021-03-17 07:27:00 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈新潟〉 越の誉/原酒造

 新潟県柏崎市は、16の海水浴場と刈羽三山に囲まれた自然豊かな町です。

 原酒造が創業した文化11年(1814)、当時日本海に面した柏崎は北国街道の宿場町、そして北前船の要所として活気に溢れていました。

 江戸時代後期から200年以上の長きに渡り、このふるさとに育まれ酒を醸し続けてきた原酒造。
 日中国交正常化の折には記念晩餐会の乾杯酒に。
 その後も代表銘柄「越の誉」をはじめ、数々の受賞を頂いてきました。

 【鋳物師屋からの転身】

 日本海に面し、江戸時代初期から製塩業が盛んだった柏崎。

 原酒造の創始者である原幸太郎は、海水を煮るための鍋を作り、またそれの修理を請け負う鋳物師屋(いもじや)でした。屋号はその文字どおり「なべや」。現代に至ってもその屋号は酒蔵に刻まれた「な」の文字に受け継がれています。

 「なべや」の嫡男として生まれた幸太郎でしたが、その家督を妹に譲り、心機一転の起業に踏み切ります。これが文化11年、原酒造店誕生の瞬間です。

 港町で栄えた柏崎の地で原酒造店は順調に繁盛し、明治時代には柏崎を代表する銘醸へと成長。順風満帆な歩みに、その先に待ち受ける困難など誰も知る由無かったことでしょう。

 【先人たちの決意】
 明治44年、1911年に最初の窮地が訪れます。

 それは柏崎で起こった大火災、柏崎大火。強い海風に煽られた炎は町を飲み込み、原酒造店の蔵までもを容赦無く焼き尽くしました。建物は全焼、重なるように取引銀行は破産。原酒造はそれまでに積み上げてきた全ての財産を失いました。

 酒というものは得てして負の価値を持つもの。度重なる不幸に見舞われてもなお、本当に酒を醸し続けるのか…… 一度は廃業を考えたという当時の蔵元・四代目原吉郎。しかし葛藤の末、酒が人にもたらす喜びと慰めの価値を見出し、改めて酒造りの意義を知ります。

 形ある財産を失っても、歴史が育んだ蔵人の精神と情熱は潰えることがなかったのです。

 先人たちは奮起し原酒造を再興。威風堂々たる「東蔵」、36間もの長さを持つ「西蔵」を完成させ、その後、天皇陛下御巡幸の際には天覧の栄誉を賜りました。

 【再び失われる蔵、試される不屈の精神】
 しかし、原酒造に再び天災が降り懸かります。

 まだ記憶に新しい2007年7月に発生した「中越沖地震」。柏崎市は震度7の地震によって甚大な被害を受け、それは歴史ある建物を多く有する原酒造も例外ではありませんでした。

 先人が建て上げた「東蔵」「西蔵」は全壊。煙突は折れ、貯蔵タンクは瓦礫に埋もれ、社屋の七割が倒壊。明治時代以前の歴史資料の紛失。原酒造の築いてきたものはまたしても瓦解しました。

 しかし、希望はありました。

 生産設備、精米機、瓶詰め工場の被害は比較的軽微。

 そして何より、この甚大な被害の中にあっても「社員全員が無事」だったのです。

 もし震災が平日だったなら、冬場の仕込み期間であったなら、被害は免れなかったことでしょう。

 瓦礫の山となってしまっても、原酒造は生きていました。

 震災翌日から社員業者一丸となって復旧作業にあたり、割れた日本酒1万本の撤去、倒壊した土蔵のがれきから重機で酒の貯蔵タンクを救出。満足にとはいかずとも、二ヶ月半でなんとか通常業務ができる体制まで戻します。

 一時は陸の孤島と化した、うだるような真夏の柏崎。

 「こんな時でも、こんな時だからこそ、絶対に質の悪いものは出さない。」

 原酒造の精神と情熱は、100年越しの現代に至ってもなお健在でした。

 その後、新蔵である和醸蔵、蔵元直売所である酒彩館が完成し現在に至ります。

 柏崎大火や中越沖地震の他にも中越地震など様々な災害や困難に遭い、その度に乗り越えてきた原酒造。社員たちは誇りを持って今日も酒造りに向き合っています。

*https://www.aeondewine.com/shop/goods/goods.aspx?goods=A106-4956547005113 より

 ラインナップ

 「越の誉」純米大吟醸・袋取り雫酒・純米吟醸封印酒・純米吟醸 清吟 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 82.  善通寺産四角スイカ

2021-03-17 07:20:20 | 食品

 登録番号 第82号 善通寺産四角スイカ
 
 特定農林水産物等の区分 第1類 農産物類 野菜類(すいか)

 特定農林水産物等の生産地 香川県善通寺市

 登録生産者団体 香川県農業協同組合

 特定農林水産物等の特性 サイコロ状の四角い形をしたスイカの果実で、スイカの外皮は縞がほぼ垂直で整った縞模様であることから、美しい外観を有している。ユニークな四角い形や美しい外観が市場において評価され、高価格で取引されている。善通寺市のふるさと納税の返礼品にも採用されるなど、善通寺市を代表する特産品となっている。

 地域との結び付き 善通寺市は、スイカ栽培に適した温暖寡雨な気象条件であり、毎年安定的に四角スイカの生産が行われている。
スイカ作りが盛んな善通寺市において、昭和40年代から、成型栽培容器を始めとした栽培技術の研究を重ねてきており、栽培技術については、登録団体が中心となり、地域で伝承する体制を整えている。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i82.html

 

 「善通寺産四角スイカ」は、一般的な丸いスイカとは異なり、サイコロ状の四角い形をしたスイカです。
 外皮は、縞がほぼ垂直で整った縞模様で美しい外観を有しています。
 ユニークな四角い形や美しい外観が市場で評価され高価格で取引されるなど、善通寺市を代表する特産品となっています。

 「善通寺産四角スイカ」の栽培品種としては、「縞王(1)」を使用します。また「縞王」と同等の性質を満たしている他の品種も使用することができます。
 四角い形に成型するために、生育良好な果実を選抜し、実が小さいうちに立方体の成型栽培容器に入れて栽培を行います。生育後、果皮にキズ等が生じない適切なタイミングで収穫を行います。
 「善通寺産四角スイカ出荷規格表」に基づき選別を行い、秀L、優Lの規格を満たすスイカのみを「善通寺産四角スイカ」の名称で出荷します。

 「善通寺産四角スイカ」は、温暖寡雨な気象条件によりスイカ栽培に適する善通寺市において、付加価値の高いスイカの生産を目的に、1965年頃から開発が始まりました。
 登録生産者団体が中心となり、成型栽培容器を始めとした栽培技術の研究を重ねた結果、1975年頃に最初の四角スイカが誕生しました。
 現在の生産者は9名、2018年度は約500個が出荷されています。

 (1)縞王:濃緑の地肌にくっきりとできる黒い縞が特徴的で、重さ6~8kgになる大玉のスイカの品種です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/82.html より

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<漢字検定> 1級 読み 20.回答 21.出題

2021-03-17 07:15:07 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 俊髦 -しゅんぼう-衆にぬきんでてすぐれた人。俊英。

 


 問2 宏闊 -こうかつ-広々と開けていること。また、そのさま。

 


 問3 驚懼 -きょうく-おどろきおそれること。

 


 問4 婚娶 -こんしゅ-夫婦となること。結婚。

 


 問5 諠鬧 -喧鬧-けんとう-さわがしいこと。また、そのさま。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 訥弁

 

 問2 袒裼  

 

 問3 馳騁  

 

 問4 疆域  

 

 問5 諡号

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 新潟 本塩沢

2021-03-17 07:09:11 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「本塩沢」

 「本塩沢(ほんしおざわ)」とは、新潟県南魚沼市で織られる絹織物で、「塩沢お召し」と愛称でも呼ばれる。

 始まりは江戸時代(17世紀中期)と言われ、「越後上布(越後縮)」のような「シボ」の持ち味を絹織物に応用しようと、技術・技法を絹に生かした絹縮が前身である。1976年(昭和51年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品となっている。

 湯の中で揉んでだす「シボ」立ちの独特な風合い、緻密な絣(かすり)模様が特徴である。

 生糸を使用し、横糸に強い撚りをかけた強撚子(きょうねんし)を用いて、織り上げた後に湯もみをして作られる。湯もみによって、強撚子が戻る力を利用して「シボ」と呼ばれる、独特の地風を持つ絹織物となる。

 さらりとした肌触りに、十字絣(じゅうじがすり)、亀甲絣(きっこうがすり)で構成された絣模様で、上品さと優雅さが魅力となっている。

*Wikipedia より

 洗練され完成された先人の技術の結晶、本塩沢
 国の重要無形文化財「越後上布」より受け継がれた技術・技法を絹織物に取り入れ「塩沢お召」として長く愛されている本塩沢。

 
 越後上布からの流れを受け継ぐ
 上布とは、特に上質な麻織物の総称で、越後で生産される麻縮は越後上布と呼ばれた。これは、芋麻(ちょま)と呼ばれる麻を手のつめで引き裂き、撚り掛け、糸繰り(いとくり)、のりつけなどによりできあがった糸を手でくくることによる絣作りなどの数々の工程を経て織にかけるものだ。また、この織も、機具(はたぐ)は地機(じばた)という道具を使用し、人と機具、そして糸が一体となり始めて布が織上がる。一反織るのに二カ月以上を要するものであった。また、越後上布より昔、1200年前の奈良時代に、すでにこの地方で織られた麻布が存在していたという。(なお、現在、この麻布は奈良の正倉院に保存されている。)これらのことからも、塩沢の織物の歴史の長さがうかがい知れる。この越後上布の製織技術の中から生まれたのが本塩沢だ。今回は、塩沢織物の伝統工芸士である中島清志さんにお話を聞いた。


 繊細に織り込まれ、その姿をあらわす絣
 本塩沢を説明するときの表現に「シャリ感」がある。中島さんは「しぼ(波状の凹凸)のある布を手でこすると、シャリシャリというんですよ。そこからこの言葉ができたんでしょう。」と言う。独特のしぼのあるその布を持ってみると、確かに小気味よい音が響く。「このシャリ感が、越後上布から受け継がれている部分です。」中島さんは、何よりこの地風を守ることが大事だと言う。「私が織物にはじめて携わったとき、先代から教えられたのは、原料に非常に気を使い、何よりも地風を大切にしろ、地風を完成させろ、これが完成しなければ、色柄が載せきれないということでした。」土台がしっかりしていなければよい建物ができないのと同じことだそうだ。本塩沢もこの「シャリ感」という地風の土台がしっかりしているからこそ、柄や色合いが生きてくる。確かに、本塩沢の反物はうわべだけではない芯の通った雰囲気を漂わせていた。一番根幹となる部分を何よりも大切にしているからこそ、「塩沢お召」と言う名前で一世を風靡(ふうび)し、今もなお、人々に受け入れられ続けているのだろう。


 繊細に織り込まれた絣文様と上品な色合い
 「十字絣・亀甲(きっこう)絣を組み合わせ、蚊絣と呼ばれる細かな絣で柄を構成する」その絣技術は、昔ながらの手くくり、手摺込みの技法を用いて、経絣糸、緯絣糸を一本一本ていねいに織重ねて柄を構成する。小さいしぼの地風に、絹絣特有の針の先で描いたような繊細な織り物は、織りだけでなく、色合いも紺藍の濃淡を用いて、一色一色の微妙な変化に趣向を凝らす。そのため、本塩沢の中には落ち着いた上品さが秘められている。


 織り上げる人の気遣いが生きている
 織具は高機(たかはた)と呼ばれる織機を使用しているが、この織技術は、越後上布の持っていた人と糸とが一体となって織り上げる技術を継承している。「経糸の張りの調整をしっかり行いますね。糸に無理を掛けて伸ばしてはいけないし、経絣、緯絣を一本一本合わせながら織り上げます。さらに、本塩沢の緯の地糸には右撚りの強撚糸と左撚りの強撚糸があり、互いに間違えないように織り込まなければなりません。」本塩沢を作る人たちの気の使いようが見て取れる。


 これからまだ挑戦です
 今にいたるまでの長い歴史の中で、すでに洗練されて伝わってきているものだけに、「それこそこの本塩沢というのは奥が深くて、これでいいというのが全然ない。」という。やはり、中々納得のいくほどのものはできないそうだ。一端途絶えたら復興不可能な技法と言われる技に対し、つねに意欲を持って取り組もうとしている中島さん。「これからまだ挑戦して行きたい。」という言葉に職人の本塩沢に対する真摯な姿勢が垣間見えた。


 職人プロフィール

 中島清志

 織物に従事してから半世紀、ずっとこの仕事一筋。

 こぼれ話

 雪さらしは着物の里帰り

 雪さらしは、雪という自然条件を生かした独特の技法であり、この地方の早春の風物詩です。
 雪が解け、水蒸気となり、紫外線を吸収するとオゾンが生成されます。このオゾンには殺菌・漂白作用があり、布目を通り抜ける際に麻の色素と化学反応を起こし漂白します。化学的なことが知られていない昔から行われていたのは、原理を知っていた人たちの知恵のなせる技。
 また、年月を経て、色が褪せたり汚れた縮は、再び何度も雪さらしをすることにより、鮮やかさがよみがえり、綺麗になります。クリーニングではどうしても地風が硬くなってしまうそうですが、この雪さらしならそのようなことはありません。そうして「里帰り」した縮は、再び持ち主のところで長く着られ、愛用されていくのです。

*https://kougeihin.jp/craft/0114/ より

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