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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-カルロス・サンタナ

2021-03-02 07:57:15 | MUSIC

 「カルロス・サンタナ」

  1947年7月20日生まれの73歳

 

 《哀愁のギタリスト》カルロス・サンタナ(Carlos Santana)
 カルロス・サンタナ氏は複雑に絡み合うラテン・パーカッションのリズムを初めて本格的にロックに取り入れたギタリストです。なおカルロス・サンタナ氏の率いるバンドが「サンタナ」という名前です(ややこしいですね)。
サンタナの音楽は、当時流行していたブルース・ロックにラテンのエッセンスを融合させたもので、躍動するラテン・パーカッションのリズムセクションと、哀愁あふれる“泣き”のギターソロのコントラストは、それまでにない新鮮なサウンドをロックシーンに吹き込みました。

 特に日本では、名曲「哀愁のヨーロッパ”Europa (Earth’s Cry Heaven’s Smile)”」のイメージが強く、「哀愁のギタリスト」という異名がつけられました。ファッションにもこだわりがあり、近年では必ず帽子をかぶっていますが、

 Carlos Santana:男性用帽子のブランド
 CARLOS by Carlos Santana:男性用、女性用靴のブランド
というように、自らの名を冠したファッションブランドも展開しています。今回は、カルロス・サンタナ氏に注目していきましょう。

 Biography
 最初から凄かった
 1947年7月20日 生 メキシコ ハリスコ州アウトラン・デ・ナヴァロ
 メキシコの小さな町、オートランの生まれ。13歳でサンフランシスコに移住し、69年にはレコード・デビュー前にもかかわらず、あの歴史的な「ウッドストック・フェスティバル」に出演するほどの人気を獲得していました。同フェスティバルでの熱演で世界にその名をとどろかせた後、ともにミリオン・セラーとなったデビュー・アルバム『サンタナ(1969)』、セカンド・アルバム『天の守護神(Abraxas。1970)』を発表。当時17歳の若き天才ギタリスト、ニール・ショーン氏(のちに「ジャーニー」を結成)がバンドに加入し、「サンタナIII(1971)」からしばらくは超絶ツインリードのラテンロックというサウンドを展開します。

 精神性の変化と活動の多様化
 精力的に活動する合間、ジョン・マクラフリン氏の紹介で1973年、ニューヨーク在住の導師シュリ・チンモイ氏に弟子入りします。チンモイ氏から「神のランプ、光、目」を意味するDevadip(デヴァディプ)という名前が与えられ、サンタナ氏はヨーガを通してインドの精神世界を学び始めます。

 1970年代のサンタナ氏はジャズ/フュージョンの分野で活動していましたが、いっぽうでファンク/ラテン色を強めた「アミーゴ(1976「哀愁のヨーロッパ」収蔵)」を発表、ジョン・マクラフリン氏やハービー・ハンコック氏等、名だたる名手と共演するなど幅広く活動しました。1980年代にはジャズ/フュージョン路線と並行してロック/ブルース方向のサウンドを模索、ジョン・リー・フッカー氏やウェザーリポート、グレイトフル・デッドらと共演します。その後、妻デボラに捧げたアルバム「Blues for Salvador(1987)」で初のグラミー賞を受賞します。

 コラボレーションによる新たな可能性
 90年代は不振が続いてレコーディング契約すらなくなったサンタナ氏でしたが、ローリン・ヒル女史のアルバム「The Miseducation of Lauryn Hill(1998)」収録の「To Zion」に参加したことで可能性が開けます。妊娠を機に制作したアルバムで、出産への苦悩と決意を歌うという重要な楽曲に、サンタナ氏のギターは優しく美しい花を咲かせます。このアルバムの成功をヒントに、若手アーティストとのコラボレーションを中心としたアルバム「Supernatural(1999)」が制作されました。この作品は「アルバム・オブザイヤー」を含む8つのグラミー賞、3つのラテングラミー賞を受賞する大成功となりました。
 のちにサンタナ氏は、2014年に発表した回想録「The Universal Tone:Bringing My Story to Light(洋書)」について「私はラテン系でもスペイン系でない、光の子です」と語った上で、「ダライ・ラマや教皇、マザー・テレサ、イエス・キリストでなくても、祝福と奇跡を生み出すことはできる」と語っています。

 カルロス・サンタナのプレイスタイル
 サンタナ氏は、「情熱的」とも「官能的」とも、また俗に「エロい」ともいわれるリード・プレイを最大の持ち味にしています。

 一聴してサンタナだとわかる、太く甘い音色
 フィードバック奏法を駆使した、長く伸びるロングトーン
 ピッキングのニュアンスや音の切り方などの表情付け
 一見カンタンそうなフレーズでもニュアンスの再現は至難の技で、70歳を越えた今なお豪快な速いフレーズもラクラク弾きこなします。こうした持ち味が、強豪ひしめく音楽界においてサンタナ氏を唯一の存在にしています。
 また、プレイ中の恍惚とした表情も大きなポイントです。あまりビブラートに頼らないこともあって、一部で「音の気持ちよさのあまり、ビブラートをかけることすら忘れてしまっている」とささやかれることすらありました。もちろん必要な場面ではしっかりビブラートをかけますから、むしろビブラートを使うかどうかの選択も表現のバリエーションにしているわけです。

 *https://guitar-hakase.com/1733/ より抜粋

 

 デビュー半世紀 サンタナは今もエネルギー全開! 連載「知新音故」 小倉エージ2019.7.12 16:00週刊朝日
  半世紀前、ウッドストックのロック・フェスティヴァルに出演し、デビュー・アルバム『サンタナ』で聴く者たちに衝撃を与えた。そんな語り継がれるバンドが、アニヴァーサリー・イヤーの今年6月、『アフリカ・スピークス』を発表した。テーマはずばり“アフリカ”だ。

 「サンタナ」のリーダー、カルロス・サンタナはメキシコ出身。米国との国境の街ティフアナで暮らし、耳に届いたカリブの音楽、さらにブラジル音楽、アメリカのR&Bなどから“アフリカ”を感じとっていたと明かす。そもそもアフリカ音楽に関心を抱いていたわけだ。

 実際、アフリカ音楽に取り組もうと考え始めたのは、1988年、欧州公演の際にパリでアフリカ音楽のCDを100枚あまり買い込んでからのこと。曲を吟味してプレー・リストを作り、それらを“ひな型”としてアイデアを練ってきたという。

 ヒップ・ホップやカントリー、ポップスを手掛けてきたリック・ルービンに制作を依頼。リック所有のスタジオでわずか10日で49曲を録音したという。今回収録されたのはボーナス・トラックを含め13曲だ。

 スペインのマジョルカ島出身の歌手、ソング・ライターのブイカが起用された。ギニアからマジョルカに政治亡命した両親のもとに生まれたブイカは、フラメンコをベースに活動をはじめ、ジャズ、ソウル、レゲエ、ヒップ・ホップなどの要素を取り入れたスタイルだ。ザラッとした乾いた感触のある歌声、インパクトは強烈で、そんな彼女は作詞とヴォーカルをまかされた。

 カルロスとブイカによるオリジナルは2曲のみ。オリジナルの曲名や創唱者が明記されているのもあるが、作詞こそブイカだが曲の大半は改変したもので、原曲作曲者の名前も併記されている。

 アフリカこそ“文明のゆりかご”というナレーションで始まる表題曲「アフリカ・スピークス」。早々にカルロスのギターとブイカが掛け合いを聴かせる。「ヨ・メ・ロ・メレスコ」は、70年代のロック風で、プログレ風味を取り入れたもの。テンポ・アップしてからのカルロスの超絶的なギターが、往年の彼を思い起こさせる。

 ゲスト参加したカリブ系のローラ・マヴーラが作詞、ヴォーカルで加わった「ブルー・スカイズ」は、9分を超える本作でのハイライト曲。スローなジャズ・テイストによる演奏をバックに、ローラがしっとりとした歌を聴かせる。途中からワイルドなブルース・ロック調へと変化。カルロスのエネルギッシュなギター・ワークに息をのむ。

 R&B/ソウル・テイストの「パライソス・ケマードス」での伸びやかなギターもファンを喜ばせるに違いない。陽気なカリプソ調の「ブレイキング・ダウン・ザ・ドア」は、ライヴで盛り上がりそうだ。

 カルロスのハード・ロック・ギターに、妻でドラマーのシンディ・ブラックマンのソロなどを織り込んだ「カンドンベ・クンベレ」はラテン・ロックとアフリカ音楽を融合させ、本作の意図を感じさせる。

 この新譜でブイカとの共作による新しいオリジナルを手掛け、サンタナ本来のラテン・ロックやジャズ、フュージョン的要素を加味したスタイルを生み出した。

 ベスト・セラーとなり、グラミー賞9部門で最優秀賞を得た『スーパーナチュラル』から20年。サンタナが、今なおエネルギー全開であることに興奮を覚えずにはいられない。(音楽評論家・小倉エージ)

*https://dot.asahi.com/wa/2019071000049.html?page=2 より

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<日本酒> 群馬 鳳凰聖徳/聖徳銘醸

2021-03-02 07:53:33 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈群馬〉 鳳凰聖徳/聖徳銘醸

 聖徳銘醸と聖徳の酒造り
 「以和為貴」(わをもってとうとしとなす)
 当社は1959年8月11日、富岡市の株式会社横山酒造店、下仁田町の株式会社深沢酒造店、南牧村の甘楽酒造株式会社の3社並びに、吉井町の株式会社馬場酒造店の計4社が製造する清酒を共同壜詰めし、共同販売をすることを目的として誕生しました。

 酒名「聖徳」は、この4社統合でのスタートに際し、「人の和をもって発展につなげて欲しい」と、上州一ノ宮貫前神社の三島宮司に、聖徳太子の「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」の教えにあやかり、つけていただいたものであります。

 創業の背景や地域の皆様の想いを酒名と社名に刻み、以来「人の和、地域の和」を重要視し、地元で愛される酒造所を目指し、酒造りに精進しております。

 私たちの目指すのは、正直な酒造りです。独自性の強い酒ではなく、自分たちが呑みたいと思える日本酒作りにこだわり、「万人に好まれるスッキリとした味わいの日本酒」をお届けします。

 造り手の想い
 たくさんの皆様に支えられ、数々の輝かしい賞をいただくことが出来ることに感謝申し上げます。私どもは、現状に甘んじず、常に醸造技術力を確かめるとともに、全国各地の様々な造り手から新たな刺激を受け、より高品位な清酒製造に邁進する目的で、名誉ある国内での鑑評会(全国新酒鑑評会、関東信越国税局酒類鑑評会)への出品を行っております。

 また、近年海外での日本酒の消費が増え、全米日本酒歓評会やJOY OF SAKEなど、多くの方々に日本酒を理解していただくイベントが誕生しています。さらに世界最大規模のワイン品評会「IWC」に「SAKE部門」が設けられました。海外の品評会への参加は、日本酒の味わい方、楽しみ方、コストパフォーマンスに至るまで、造り手である我々の視野を大きく広げてくれるものです。また、本当に愛される酒造りができているか、など改めて普段を省みる良い機会を与えてくれます。

 酒蔵としての根底にある「お酒を楽しく味わっていただきたい」という想いを、国内外の皆様にお伝え出来るよう、これからも様々な場面において、高い評価をいただけるような酒造りに務めてまいります。

 

 聖徳銘醸株式会社 群馬県甘楽郡甘楽町大字白倉686-1 

 ラインナップ

 「鳳凰聖徳」大吟醸原酒・大吟醸・純米吟醸 など

 「聖徳」 別撰 など

 「妙義山」本醸造 など

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 67.  くまもとあか牛

2021-03-02 07:49:22 | 食品

 登録番号 第67号 くまもとあか牛
 
 特定農林水産物等の区分 第6類 生鮮肉類 牛肉
 
 特定農林水産物等の生産地 熊本県
 
 登録生産者団体 熊本県産牛肉消費拡大推進協議会
 
 特定農林水産物等の特性 肉質は赤身が多く適度な脂肪交雑。赤身の特徴的なあっさりした味わいとやわらかさ、ヘルシーさを兼ね備えている。黒毛和種に比べてうま味を感じさせる遊離アミノ酸が多く、甘味を呈するグリコーゲンも豊富。

 地域との結び付き 熊本系の褐毛和種は、熊本県の在来牛にスイスのシンメンタール種等を交配させて改良し、昭和19年に高知系の褐毛和種、黒毛和種等とともに和牛の品種として成立。阿蘇地域を中心とする牧野への適応を考慮し、脂肪交雑に特化した改良ではなく、足腰の強さや粗飼料の利用性を活かした改良を行うことで、赤身が多い肉質となった。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i67.html より

 「くまもとあか牛」は、最長かつ最終飼養地が熊本県内である褐毛和種(あかげわしゅ)(1)の牛肉です。
 肉質は赤身が多く、適度な脂肪交雑で、あっさりとした味わいとやわらかさを兼ね備えています。黒毛和種に比べてうま味を感じさせる遊離アミノ酸が多く、甘味を呈するグリコーゲンも豊富に含まれています。

 「くまもとあか牛」の品種は、一般社団法人日本あか牛登録協会発行の子牛登記証明書またはこれに準じる証明書を有する褐毛和種としています。

 生産の条件は、「肥育期間が12ヶ月以上であること」、「最長かつ最終飼養地が熊本県内であること」としています。
 また、枝肉の条件は、「去勢牛または未経産雌牛であること」および「公益社団法人日本食肉格付協会の定める牛枝肉取引規格の肉質等級が2等級以上(おおむね4等級以下)であること」としています。

 「くまもとあか牛」の生産地である熊本県は九州の中央に位置し、世界最大級のカルデラがある阿蘇地域(2)を中心に、古くから牧野を利用した「あか牛」の生産が行われてきました。
 明治時代(3)に入ると、外国種の導入による「あか牛」の品種改良が図られるようになり、スイスのシンメンタール種を種雄牛として交配させることで、体格の小さかった「あか牛」の大型化を達成しました。その後、品種の固定に取り組んだ結果、1944年に熊本系褐毛和種として品種登録されました。

 また、品種改良の過程において、阿蘇地域を中心とする牧野への適応を考慮し、脂肪交雑に特化した改良ではなく、足腰の強さや粗飼料の利用性を活かした改良を行ったことで、赤身が多い肉質となりました。
 熊本系褐毛和種の種雄牛の管理は、全国で唯一、熊本県農業研究センターが行い、全国に先駆けた受精卵移植技術による種雄牛の生産や希少系統の育種保全、県内酪農家が飼養する乳用種を活用した褐毛和種の生産など、褐毛和種の改良および保全に取り組んでいます。

 2017年現在、熊本県では、全国の褐毛和種の約70%を占める14,500頭が飼養されています。特に、褐毛和種が誕生した阿蘇地域は、県内の褐毛和種繁殖雌牛の約70%が飼養され、その多くが産地で放牧されています。

 (1)褐毛和種:黒毛和種、無角和種、短角和種と並ぶ日本固有の肉用品種和牛のひとつです。体格が大きく温厚な性質で放牧に適している品種です。食味は脂肪交雑が適度でうま味を豊富に含む赤身が多いことが特徴です。
 (2)阿蘇地域:活火山の阿蘇山を中心に、東西約18km,南北約25kmの世界最大級のカルデラが広がる地域です。阿蘇くじゅう国立公園に指定されており、温泉や観光・レジャースポットが点在する有数の観光エリアとなっています。
 (3)明治時代:1868年~1912年。日本の時代区分の一つ。日本が幕府による封建制から近代化に移行した時代です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/67.html より

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<漢字検定> 1級 読み 5.回答 6.出題

2021-03-02 07:44:38 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 器皿- きべい-うつわ。皿や小鉢。 

 


 問2 圧状 -おうじょう-
 1 脅しつけて強制的に書かせた文書。

 2 無理に押しつけて同意させること。当て字で「往生」とも書く。

 


 問3 一掬 - いっきく-水などを両手ですくうこと。ひとすくい。また、わずかな量をいう。

 


 問4 仏龕- ぶつがん-仏像・位牌などを安置しておく厨子 。

 


 問5 弛張-しちょう
 1 ゆるむことと張ること。

 2 寛大にすることと厳格にすること。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 盥漱  

 

 問2 佚遊  

 

 問3 嫩草  

 

 問4 諛言  

 

 問5 囃子

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 江戸和竿

2021-03-02 07:42:14 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「江戸和竿」

 江戸和竿の概要
 1.江戸和竿とは

 江戸和竿は、江戸時代に江戸で誕生し、研鑽を積み重ねた竿師により育まれ伝承された釣竿です。タナゴ竿やフナ竿、ハゼ竿、キス竿など、太さや長さ、継ぎの本数など、釣る魚の種類によって様々なタイプの竿を使い分けるのが、江戸の庶民の粋な文化だったのです。

 2.江戸和竿の特徴

 江戸和竿には、3つの特徴があります。1つ目は、竿1本1本に個性があるということ。天然の竹を使う和竿は、竿の調子や長さなど、1つとして同じ物はありません。

 2つ目は、見た目の美しさです。江戸和竿には漆を塗りますが、この漆が竹に強度と見た目の美しさを与えます。

 3つ目は、長く使えるということです。素材が天然の竹のため、使って行くうちに曲がりが生まれることもありますが、再度火入れをすれば直すことが出来ます。漆は熱に強いため、高温で処理することが出来、機能面でも優れた塗料と言えます。しっかりとメンテナンスすれば、長く付き合えるのが江戸和竿の魅力です。


 江戸和竿の材料
 1.日本特産の竹

 主に布袋竹(ほていちく)、矢竹、真竹などを用い、それぞれの特徴を生かして使い分けます。

 2.絹糸

 継ぎ口の補強のために日本特産の絹糸を巻き付けます。

 3.国産の漆

 表面に漆を塗ることで、見た目の美しさと強度を兼ね備えた竹の竿として仕上がります。


 江戸和竿の歴史
 1.発祥

 江戸和竿は、江戸時代の天明年間(1781~1788年)に泰地屋東作が上野広徳寺前に開業したのがその発祥とされています。

 2.発展

 江戸時代末期、二代目東作のもとで修業し、後に独立して明治期に和竿作りで活躍したのが釣音こと中根音吉です。その釣音の長男が名人の誉れが高い竿忠こと中根忠吉で、この竿忠が活躍した明治から昭和初期頃が、江戸和竿の名作が多く誕生した全盛期と言えます。

 3.現代の江戸和竿

 戦後、グラスファイバーやカーボンなどの軽くて強い新素材が釣竿に使われるようになり、竹竿の需要は急激に落ち込み、多くの竿師が廃業に追い込まれました。現在では、こだわりを持った釣り師の贅沢品として、愛好家の間で親しまれているのが江戸和竿の実情です。

 4.国の伝統的工芸品に指定

 平成3年、江戸和竿は通産大臣(現経済産業大臣)より伝統的工芸品に指定されました。

*https://www.japan-kogei.com/wasao-about.html より

*https://kougeihin.jp/craft/0608/ より

 

 江戸和竿は、江戸前の海と川の豊かさの象徴
 巷では、欧米由来のバスフィッシングやフライフィッシングが盛んらしい。それらに使われるロッド(竿)の素材は、ほとんどがグラスファイバーやカーボンファイバーといった量産のきくケミカルなもの。対して日本で竿といったら、本来何はなくとも竹、である。竹には縦の繊維が通っているから、魚を釣り上げたときの横ぶれがない。その感触は、新素材では味わえない竹独特のものだ。が、それだけではない。漆と絹糸を使って加工を施した和竿は、単なる実用品の枠を超え、工芸品として見ても美的感覚にあふれている。
 釣りは日本全土で行われてきたから、各地に竿の産地はある。京竿、紀州竿、庄内竿、郡上竿、いずれの竿も銘品には違いない。それらと江戸和竿とが一線を画するのは、圧倒的な種類の多さだ。はぜ竿、磯竿、きす竿、たなご竿、鮎竿、ふな竿……。それはとりもなおさず、江戸和竿発祥当時の、江戸前の海と川の豊かさを象徴していた。


 竿作りに使われるすべての道具

 「お前のおやじはすごい竿師だった」その言葉がきっかけとなって
 名人の誉れ高い初代竿忠、そのひ孫にあたる4代目竿忠・中根喜三郎さん(江戸和竿協同組合理事長も兼ねる)を、荒川区は南千住に訪ねた。東京に一路線だけ残るチンチン電車(都電荒川線)を三ノ輪橋で降りる。下町の情趣あふれる町並みをのんびり歩きながら、中根さん宅へ。玄関先には、晒し竹が足の踏み場もないほど積み上げられている。店の奥に胡座する中根さん、そのたたずまい、パキパキした語り口は江戸っ子そのものだ。
 喜三郎さんは、初代に劣らず名人の誉れ高かった3代目竿忠・中根音吉さんの三男。竿忠では長男だけの一子相伝と決まっていたから、喜三郎さんは父から何も教わってはいなかった。が、東京大空襲で一家は被災。喜三郎さんと妹さん(海老名香葉子さん)だけが遺された。兄弟を不憫に思った父のなじみ客であり釣り仲間でもある、先代・三遊亭金馬師匠が喜三郎さんに父の贔屓(ひいき)の客を紹介したことから、人生が大きく動いた。
 「お前の親父はすごかった、こんなにいい竿は二度と手にすることはできないと、だれもが父の作った竿を見せてくれる。そんなこんなを見聞きするうちに、無性に自分も竿を作りたいと思うようになってね」


 中根喜三郎さん。「初代の頃は、上野の山にいい竹があったそうだよ。だけど今じゃ地方まで調達しにいかないとね」

 ものづくりの基本は、それが好きでたまらないこと
 19歳で竿師に内弟子入り。生半可な気持ちでは修行などできないと、頭を丸めた。身を切られるほど寒いなか、堀割で竹洗いをしたこともある。それでも、つらい、苦しいという気持ちより、とにかく仕事を覚えたい、立派な竿作りになりたいという気持ちのほうが勝っていた。竿忠の看板に恥じない竿を作れるようになるまで襲名はすまい、心に誓った。
 「はじめはとにかく、初代や父の仕事を真似しながら、腕を磨いたよ。30歳、40歳、50歳、60歳、年をへるうち、その年齢なりの見方ができるようになった。同じ親の竿を見ても、自分の見方のほうが変わってくる。ものの奥行きが見えるようになってくるんだねえ」
 そうしてしだいに、自分にしかできない独創を入れていくようになった。
 「もの作りの基本は、それを作るのがたまらなく好きだということ。いやいやじゃあ、何だってできやしないよね」


 中根さんに後継者はいない。が、注文品以外にも後世に残すための竿をつくっている

 世界で1本、自分のためだけの品を手に入れる幸せ
 喜三郎さんの腕にほれ込んだお客は多く、注文は全国から入ってくる。受注するときは、一度だけでいいからお越しくださいとお願いするという。何をどこで釣りたいのか、その人がどんな好みをもっているのか、膝を交えてじっくり話をきくためだ。難しい注文であればあるほど、やりがいがある、とも。
 「あたしの竿が好きで贔屓にしてくれるお客様がいる限り、作り続けていきますよ。釣竿は大人の玩具。実用的なだけじゃだめ、見た目にもきれいで楽しい竿じゃなくっちゃ」
 世界でたった1本、自分の好みに合わせて作られた自分だけの逸品を手に入れる幸せ――。江戸和竿、何と贅沢な大人の遊び道具だろう。


 鮒竿。釣りは鮒に始まって鮒に終わる、という格言も


 同じ鮒竿でも、注文主の好みによって色合いや漆塗りを変える

 職人プロフィール

 中根喜三郎

 1932年生まれ。
 51年、19歳のとき竿師の道に入り、56年に独立して「竹の子」を名乗る。74年、4代目「竿忠」を襲名。

 こぼれ話

 幻の逸品に出会う

 江戸和竿が作られ始めたのは、江戸は享保(1716~36)年間の頃。その後、天明年間(1781~88)に初代・泰地屋東作が竿師の店を開いて以来、質も量も飛躍的に伸びました。現在活躍している竿師の元をたどれば必ずこの人にたどりつくという江戸竿師の祖です。
 時は明治に移り、名人と呼ばれる竿師が生まれました。3代目東作、初代竿忠、初代竿治です。ここでは、伝説の竿師・初代竿忠がつくった幻の釣り具ともいわれる逸品を紹介しましょう。竿から釣りに必要な小道具まですべてが煙草入れ仕立てにまとめられた、粋の極致のような携帯釣り具一式。竿は尺2本継ぎと尺5寸3本継ぎの2本、印籠継ぎの芯には象牙が使われ、箱は桑材製です。もちろん、竿には一寸たりとも狂いはありません。

*https://kougeihin.jp/craft/0608/ より

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