いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

昨日のサッカー日本代表U-24-3/26 追記あり

2021-03-27 16:22:18 | スポーツ

 珍しく2日続けてのサッカー(テレビ)観戦。

 東京五輪の前哨戦としては「最高の対戦相手」だった。

 なにせ「アルゼンチン代表」は、南米予選を1位で通過し、東京五輪の大本命と目されている。

 案の定、「攻撃力」は凄まじかった。

 レフェリーがホームの日本に有利と思えるジャッジをしてくれたおかげで「2点」は助かったかも?(笑

 0-3にならなくてよかった(笑

 

 成果がなかったわけではない。

 やはり「背番号11」が躍動していた。

 しかし、まだまだ連携が取れていない。

 でも「背番号11」をつけたなら、もっともっと「結果」を出せたはずなのだが・・・

 

 それにしても、「日韓戦」とこの「アルゼンチン戦」の2試合。

 いろいろな関係各所の協力で成立した。

 そして我々をわくわくさせてくれた。

 それだけで十分だったかも(笑

 

 追記:試合前の黙祷がアルゼンチンで話題に

 試合前、アルゼンチンは全員が「背番号10」をつけて入場。

 これは、「神の手」いや「神の子」と呼ばれたディエゴ・マラドーナを追悼するため。

 アルゼンチン男子代表チームは、マラドーナが亡くなってから初めての試合だったという。

 マラドーナが亡くなって1ケ月後にアレハンドロ・サベーラ氏も亡くなった。彼はアルゼンチン代表監督を務めた人物。

 テレビ中継ではあと一人名前が出ていたと思うのだが・・・誰だろっ?

 対戦国に敬意を払うのは当然。

 それも歴史に残るマラドーナだけに、日本としては当然の「黙祷」。

 それをアルゼンチンで大きな話題になるとは・・・

 

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<苺> あすかルビー

2021-03-27 09:48:01 | 食品

 「あすかルビー」

■あすかルビーとは?
●奈良県が生み出した「赤い宝石」
 「あすかルビー」のは1992(平成4)年に奈良県農業試験場において「アスカウェイブ」に「女峰」を交配し、生まれた約3000の実生から選抜育成されたえりすぐりの品種で、1996(平成8)年出願、2000(平成12)年に品種登録されました。

 登録されている名称は全てカタカナで「アスカルビー」となっており、出願時の名称は「奈良7号」でした。

●あすかルビーの特徴
 果実の大きさは比較的大きく、球円錘形の整った形の物が多い傾向にあります。種のくぼみは浅いです。見た目のイチゴらしい艶のある美しさと、やや丸っこい可愛らしい容姿が特徴です。

 農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果皮の色は橙赤,果形は球円錘,果実の大きさは大,果肉色は橙赤,果心の色は淡赤,果実の光沢はかなり良,果実の溝は少である。

 そう果の落ち込みは落ち込み小,そう果のアントシアニン着色は淡,そう果数はやや粗,果実の香りは多である。

 季性は一季成,開花始期及び成熟期は早,開花位置は葉と同水準,可溶性固形分含量は高,酸度はやや低,日持ちはやや長である。

 「とよのか」と比較して,果皮の色が橙赤であること,果形が球円錘であること等で,「アスカウェイブ」と比較して,小葉が大きいこと,果形が球円錘であること等で区別性が認められる。

-----』以上、抜粋。

●実際に食べてみたあすかルビーの食味

 「あすかルビー」の果皮の色は橙赤で、色自体は濃いほうではありませんがとても艶があり、果肉も薄い橙赤でしかも中心部分にも薄く色が付いています。

 果肉はやや固めでしっかりとしている割りにとても果汁は多く、甘味を引き立てる控えめな酸味によりとても美味しく感じられます。

 外観や味の良さは他の品種の中でもかなりレベルが高く感じられます。粒が揃っている上、果実の中心まで色が入っているので断面も綺麗なので、ケーキのトッピングや様々な菓子の材料としても向いています。

●主な産地

 「あすかルビー」のは奈良県で生まれた品種ということで、奈良県が育成権を持っているので、主な産地は奈良県となっています。

 その他、熊本県などでも作られています。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-AsukaRuby.htm より

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<言 葉> 春の言葉 春時雨

2021-03-27 09:38:58 | 言葉

 「春時雨-はるしぐれ」

 春になって降る時雨のこと。
 時雨とは、晴れていたかと思うと急に降りだし、やんだかと思うとまた降り
 だすというように、照り降り定めない通り雨のこと。
 「時雨」は冬の季語であるが、「春時雨」は春の季語。

 時雨という言葉にはわびしさとか寂しさが漂いますが、その言葉に「春」の
 一文字が加わるだけで、暖かさや明るさ、清々しさなどまるで違った言葉と
 なってしまいます。
 言葉とは不思議です。

*http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlko/200703310.htm より

 

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ロバート・プラント

2021-03-27 09:11:13 | MUSIC

 「ロバート・プラント」

 1948年8月20日生まれの72歳

 ロバート・プラントが語る「ツェッペリン以降」の音楽人生、亡きジョン・ボーナムの思い出 Kory Grow |2020/10/17 10:00

 ソロ集大成アンソロジーを発表した、ロバート・プラントの最新インタビュー。レッド・ツェッペリン以降のキャリアを振り返りながら、映画『あの頃ペニー・レインと』における「俺は輝ける神だ!」発言や、亡きジョン・ボーナムの思い出についてなど、数々のエピソードを明かしてくれた。

 パンデミックで世界中が閉鎖されてから半年以上が経過したが、わりと順調だとロバート・プラントは言う。「今もちゃんと生きてるし、ひねくれたユーモアも健在だ。歌もまだ歌える」と、何食わぬ顔で言った。「だがそれ以外は何も聞かないでくれ。今日が何曜日だろうと、毎日変わり映えしないんだから」

 2020年の年明け、ロバート・プラントはアメリカにいて、この先1年のスタジオ制作やライブの予定を立てていた。自ら率いるバンド、セイヴィング・グレイス(Saving Grace)とともに、本人曰く「すごく小さくて地味な、こじんまりしたステージで『サイケデリック・フォークロック、アパラチア山脈へ行く』みたいな感じ」の小規模ライブをやれればと思っていた。5月に予定していたツアーはじきに10月に延期され、今では話は宙に浮いたままだ。「明らかに誰もが、そのうち解決して、このパンデミックもどこかに消えるだろうと思っていた。でもよくよく考えれば、どこかに消えるなんてことは到底ありっこなかった」と彼は言う。「あらゆることが先送り、立ち消え、中止、保留だ」


 彼はたくさん本を読んで過ごしているが、ここまでのところ新しい曲を書く気にはなれないという。「どんな形であれ、ものを書く気分にはなれない。少なくとも曲という形ではね。あまりにも多くの出来事や状況に囲まれて、対応に追われ、影響も受けている。作品のアイデアがあまりにも漠然としていて、大衆音楽などまるっきり場違いだ」と彼は言う。「これほど四面楚歌の状態になったことは今までなかったんじゃなかろうか――少なくとも、1世紀前にスペイン風邪が蔓延して以来だ」

 新作をリリースする代わりに、彼は普段やらないことをしている――回想だ。昨年プラントは『Digging Deep』というポッドキャストでこれまで手がけた楽曲の裏話を語り始め、そしてレッド・ツェッペリン解散後の作品を2枚組のアンソロジー『ディギング・ディープ:サブテラニア』としてまとめた。未発表作品3曲を含む楽曲は、年代とは関係なく並べられ、立て続けて聞くと1982年以来のプラントのソロ作品をつなぐ糸が透けて見えてくる。

 ロックの新たな立ち位置を確立した『イン・ザ・ムード』にせよ、バンド「ザ・センセーショナル・スペース・シフターズ」と世界各地の音楽を融合した『エンブレイス・アナザー・フォール』にせよ、はたまたバンド・オブ・ジョイとブルースに挑戦した『チャーリー・パットン・ハイウェイ』にせよ、1曲1曲に懐かしい影や抑揚がうかがえる。プラントはつねに一筋縄ではいかないアーティストだった。ちょくちょく新しい方向性に挑戦し、詳しくは音楽を聴けといわんばかり。だからこそ、本人が歩みを止めて過去の作品を振り返るのは大きな意味がある。

 「実際に聞いてみて、この歌詞を書いて歌ってるやつは休むことを知らないんじゃないか、と自分でも疑問に思うよ」。コンピレーションについて彼はこう冗談を言った。「休暇を取ったことはあるのか? ちょっとはおとなしくして、応用数学とか天文学とか新しいことを勉強すりゃいいのに?ってね。だけどまぁ、(『ディギング・ディープ』は)とにかく勢いにのってるよな。大胆不敵。ただ実際は、たぶん心の奥では自信なんてこれっぽっちもなかった。次から次へと仕事に取りかかって、さあどうなるか見てみようぜ、という感じだった。ここには(ボブ・ディランの)「戦争の親玉」とかに匹敵する曲はひとつもない。ある時ふと、ウェールズの辺鄙なリハーサルルームで生まれたような曲ばかりだよ」

 とある土曜の午後遅く、現在住むイギリスで、プラントはたっぷり1時間――お気に入りのサッカーチームの試合中継が始まるまで――ローリングストーン誌の取材に応え、音楽人生の数々の節目をひもといた。現在72歳のシンガーは物思いにふけり、現在に至るまでの道程をしみじみ反芻する場面もあった。

 「いまは不確かなことばかりだが、団結の精神にもあふれている」。イギリスの現状について彼はこう語る。「だが悲しいかな、みんなをまとめるルールブックがない。1973年にヘプトーンズが『Book of Rules』を収録したのが最後だ」

 70年代に別れを告げること

—シャットダウンが敷かれて以来、日々をどのように過ごしているんですか?

プラント:仲のいい友達や支えてくれる家族、近くや遠くにも友人がいる。だがずっと気心の知れた連中に囲まれて暮らしているから、同胞意識や楽観的な雰囲気がある。俺自身もこの時期強くいられるのは、知人に囲まれているからさ。コミュニティとして機能しているんだ。みな良心的で、思慮深く、それほど強くない人たちを思いやる。自分の存在を実感させてくれるんだ。最高だよ。

 それから歌も歌う。いいだろ。歌わなきゃやってられない。エルヴィスばっかりじゃないぜ、今じゃほとんどパブで歌うことはできないからな。何人かおとなしい連中と一緒にソーシャルディスタンスしながらやってる。いい感じさ、暇を持て余すってことはないよ。

—ツアーができなくなって今回の『ディギング・ディープ』アンソロジーを出すわけですが、ソロ時代初期の曲も収録されています。ソロ作品はレッド・ツェッペリン時代とはまったく違いますよね。いま振り返ってみて、バンドが解散した後ご自身はどうやって前に進んだのでしょう?

プラント:俺は32歳だった。あの当時メディアでは、当然といえば当然だが、32になったら一線を退いて次の奴らに道を譲るもんだと思われていた。明らかにツェッペリンは(バンド)メンバーの誰よりも大きな存在だったから、バンドの全体像をとらえるのが難しかった。それとは別に、しばらくはある種の依存状態――慣れ親しんだ顔ぶれ、習慣、気心――それを変えるとなると、全体のバランスが一気に崩れてしまう。俺はやりたいことは何でもできた。実際にやってみなきゃならなかった。それがころころ変わるもんだから、一箇所に落ち着くことはなかった。


 70年代に別れを告げることに関してはとくに意識した。あの年代は、ものすごく大きな躍動感にあふれていた。辛いなことに、もちろん楽しいこともたくさんあった。だが前に進まないとな。

—当時コラボレーションした人々は、ソロ黎明期のサウンドにどんな影響を及ぼしましたか?

プラント:最初の2枚目かその途中、おそらく(1985年の)『シェイクン・アンド・スタード』辺りまで(が一区切り)かな。それからまるっきり違う方向に向かった。ローウェル・ジョージが死んだあとリッチー・ヘイワード(リトル・フィートのドラマー)が加入して、そのあと俺はアーメット・アーティガン(アトランティック・レコード創業者)とニューヨークへ渡り、ハニードリッパーズの仕事を始めた――そこでも別の奴らが加わった。俺にしてみれば、多彩なミュージシャンの才能と音楽が入り乱れる巨大な万華鏡だった。それまで11年、ずっと4人で最高の関係を築いてきたから、他のやり方はまったく分からなかった。いわば秘密結社の一員として引きこもっていたから、大勢のミュージシャンと付き合っていく上でのごたごたとは無縁だった。

 俺はたいていの場合、ミュージシャンとはかなり上手くやっている。それもあって、変化を続けるほうが刺激的だと感じるんだろう。来る者もいれば去る者もいる。別の者がやってきては、再び戻ってくる者もいる。それが自然な流れになった。だから誰も長期間拘束されることなく、プロジェクトに取り組める。そうしてると、たまにものすごいアイデアがひらいめたり、ものすごいことが起きたりするんだ。

—ソロとしての最初のヒットは「ビッグ・ログ」でした。あの曲を書いたとき、ヘヴィじゃなくてビッグにしたかった、と最近どこかでおっしゃっていましたね。なぜですか?

プラント:「ビッグ・ログ」はインパクトがあったが、とても美しい曲だったとも思う。開放感もあった。あの時の俺は、今までやってきたことから敢えて離れようと過剰に意識していたんだと思う。おかしなコンセプトだった、70年代にずっとやってきたことから逃れようとして、1982年になって、「いやいや、アンディ・ウィリアムスってわけじゃないが……」って感じさ。

 あらゆることを、かたっぱしからヘヴィにしようとした。ただしああいうヘヴィじゃなく……ちょっとばかりギアを上げるみたいな感じさ。180度方向転換して、いままでと正反対のことをしようとして、大胆で無茶なこともたくさんやった。当時世間が求めていたものとは違っていたかもしれないが、あれが今の俺の礎になった。そのおかげで、去年の今頃サンフランシスコのHardly Strictly Bluegrassでスペース・シフターズと最後のギグをするところまでこれたんだ。つねに紆余曲折しながら、常に全力で、たまにはバカもやりながら、流れに身を任せてやってきた。それはそれで良かったと思う。

「ポスト・トリップホップ」時代

—アンソロジーの曲目は年代順に並んでいませんが、ヴォーカルの背後に曲と曲をつなぐ音楽の糸が見えます。ご自身は気付いていますか?

プラント:ああ、エネルギーが充満して、相当パワーが凝縮されている。初期のころは、その時々で最高だと思ったものは何でもかんでも取り入れていた。80年代のテクノ革命も……今思えば恐ろしいがな。いや、恐ろしいとは違うか。今振り変えれば、「おいおいロバート、なんでまたあんなクソにわざわざ首つっこんだんだよ?」って言いたくなるが、答えはずばり「強い好奇心とやかましいノイズのせい」。本当、笑えるよ。だが中にはそれなりにうまくいったものもある。俺も長いことこっぱずかしかった。とくに1993年の『フェイト・オブ・ネイションズ』をリリースしてからはね。あれが大きな転換点だったな。つまり、誰しもその時はとくに深く考えてなくて、ただ気の向くままに次々いろんなアイデアや陽気な考えに没頭してるだけなのさ。

—2002年の『ドリームランド』もターニングポイントでしたね。ティム・バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」やヤングブラッズの「ダークネス、ダークネス」などをカバーしていますが、深みを増し、音楽的にも幅が広がりました。当時ご自身の中で何か変化があったんでしょうか?

プラント:90年代中期から後期は、ジミー・ペイジと『ノー・クォーター』プロジェクトや『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』をしばらくやっていた。確かにあの頃の俺にとって、ビッグなサウンド――オリジナルかどうかはさておき、とにかくビッグなことに挑戦すること――が、なんとなく自然な流れだったんだろう。それで別の道を模索し始めた。Priory of Brionっていう少人数の(カバー)バンドを組んでいたんだが、あれはゴドーを待ちわびる1万5000人をひき連れてジャーマン・インダストリアルな連中の前でプレイすることからの逃げ道だった。当時のマネージャーにも言われたよ、「こいつはひどいな、これじゃあんたから委託料を取るなんて無理だろうな」って。だから俺は言ってやったのさ、「そりゃ良かった、どのみち俺たちは一晩で200人相手にしかプレイするつもりはないからな」って。


 ストレンジ・センセーション(当時のバックバンド)を結成したころ、チャーリー・ジョーンズ(Ba)から、ロニ・サイズのところにいたクライヴ・ディーマー(Dr)を紹介された。彼はポーティスヘッドの『ダミー』にも参加していたんだが、ビートの刻み方が独特で、俺の音楽にも取り入れたいと思った。他のメンバーはもちろんだが、彼のドラムはすごく重要だった。それで自分が本当に好きな音楽に立ち戻って、その雰囲気を再現したいと思ったんだ。ジェシ・コリン・ヤング(ヤングブラッズのヴォーカル)の声や彼の歌はどれも60年代後期を代表する曲であるだけじゃなく、単刀直入で重みがある。それで「ダークネス、ダークネス」のような曲をやってみることにした。ティム・バックリィの曲に関しては、コクトー・ツインズが4ADからティス・モータル・コイルとして出てきて、バックリィの「ソング・トゥ・ザ・サイレン」をカバーしたんだが、それがまたすごくいい出来だった。

 昔だったら、こういう音楽は絶対やれなかっただろう。当時の環境や音楽業界やミュージシャンの状況は、こういう曲にはそぐわなかっただろう。あのころイギリスにもポスト・トリップホップ系のミュージシャンが出てきていたおかげで、俺も60年代後期のトリップ時代に好きだった曲を再発見することができたんだだけじゃなく、自分でやってみることができた。ここまでくるのに相当長かったよ。おかげでどっぷりつかって、こういう曲を出すことができた。ストレンジ・センセーションは今やスペース・シフターズだけど、何人か交替ややめた人間もいた。柔軟性があったからこそ、俺たちもこういう音楽を取り入れ、再構築することができた。

ツェッペリンとソロ、作風の繋がり

—個人的に気になったのは、レッド・ツェッペリンの歌詞をはさみこんでいますよね。「ダンス・ウィズ・ユー・トゥナイト」では“ダンシング・デイズ”と歌っていますし、「グレイト・スピリット」では"祝祭の歌”(sing in celebration)とか“永遠の偶然”(the accident remains the same)といったフレーズが出てきます。前作の「メイ・クイーン」という曲も、「天国への階段」を思い起こさせます。意識的に過去を引き合いにしているのですか?

プラント:ああ、その通りさ。だがメイ・クイーンは俺にとって、歴史や民族芸術、民話という意味でも俺にとって大きな存在だった。(『ディギング・ディープ』の中では)「チャーリー・パットン・ハイウェイ」が最高だと思う。「この車は堂々巡り、永遠の道のり」(This car goes ’round in circles, the road remains the same)

—私も気づいていました。

プラント:君、さすがだな。俺も「こいつはウケるな」と思った。本当のことを言うと、あの曲は(曲を書いた日に起きた)実話なんだ。あの日俺はミシシッピー州コモにいて、クラークスデールに向かって車を走らせていた。そしたら「ぐるぐる回ってばかりじゃねえか、おいおい、日が暮れちまう」。そしたらちょうど聞いていた地元のラジオ局で(チャーリー・パットンの音楽が)流れてたのさ。

 だが、そういうことをするのは確かに好きだ。一貫性をもたせる――いや一貫性というより、別のタイミングで触れる、というのがな。そういうのは山ほどある。いろんな曲でね。

—「ニュー・ワールド」は現代版「移民の歌」という印象を受けました。ご自身ではどう思いますか?

プラント:まあそうだな、ある意味ではそうだ。確かに、ペイジと俺が(「移民の歌」を)書いたのは、アイスランド公演を終えた後だった。もちろん、子供のころからずっとこういう島国の(侵略の)歴史、民族運動や文化運動にはずっと興味があった……北部イングランドもすべて、ずっとバイキングの領地だったんだ。リバプール北西部のマン島も、たしかデンマークの王様が14回だかそこら入れ替わり立ち代わりしていた。だから確か、そうかもしれない。

 だいぶ経って「ニュー・ワールド」を書く前に、サウスダコタを旅してケント・ネルバーンという作家と会ったことがある。『Neither Wolf Nor Dog』から始まる3部作の小説を書いた作家だ。俺も彼の作品に相当傾倒したよ。ネイティヴ・アメリカンとアングロサクソン文化の一部を扱った作品だ。俺もアメリカに来てからずっとアメリカの構造や複雑さついてそれなりに考えていた。だがそれぞれの州に都市や地方がいくつもあって、世界中のいたるところから人が集まって暮らしているから俺も本腰入れて考えたことはなかった。オースティンの中心で数年間滞在してみて初めて、とくに南北ダコタやワイオミングの実際の状況の概要や詳細に目がいくようになった。おかげで現実や実際の状況が前よりもずっと理解できるようになったよ。

トニー・アイオミとの再会

—最近お気に入りの音楽は何ですか?

プラント:いまイギリスのラジオは非常に厳しい。完全に終わったとは言わないが、ラジオはもはや時代遅れだ。ニューオリンズにはいくつか素晴らしいラジオ局があって、アプリをダウンロードすれば多彩なルイジアナの音楽を聞くことができる。最近ずっと聞いてるのはロウ・アンセムだ。パワフルな高音のメロディが気に入っている。それから地元の音楽もチェックしている。ちょっと前にナッシュビルにいたんだが、地元の若いシンガーや作曲家の曲をたっぷり聞かせてもらった。全体的に、いまは新旧の音楽が入り混じる万華鏡のようなものだ。ディランの最新アルバムはかなりポイントが高かった。オープニング曲にはガツンとやられたよ。人生の幕引きであり、同時に幕開けのような感じだ。あれは本当に良かった。

—パンデミック中、一緒にレコーディングはしなかったものの、ともに過ごしたアーティストがいましたね。ブラック・サバスのトニー・アイオミですが、2人でギターをオークションに出して、マスク姿で写真に写っていました。彼との再会はいかがでしたか?

プラント:1月か2月にナッシュビルにいて、空港で偶然ばったり会ったんだ。彼はギター関連の仕事があって、俺は歌のほうの仕事があった。イギリス行きのフライトを待っていたら誰かが近づいてきて「こんにちは、2人とも再結成したんですね」と言ってきた。「おそらく俺も変わったし、この男もレッド・ツェッペリンかブラック・サバスのどっちかが再結成したと思ったんだろう」と思った。ガンズ・アンド・ローゼズのメンバーがAC/DCに加わるみたいにさ。懐古主義な奴らがあっちからこっちのバンドを渡り歩くことがあるから、推理ゲームのような感じで、世間は「なるほど、OK、そういうことか。しがらみは関係ないんだな」となる。それが俺にはすごく面白くて、こう言った。「それもありかもしれないな。お前が『カシミール』を弾いて、俺が『パラノイド』を歌うとかさ」。そんな感じで冗談を続けているうちに、募金活動の話になったんだ。すごいよな。


 (ギターのチャリティオークションに関しては)彼は大真面目に、(2012年にリンパ腫と診断されたあと)快復して健康でいられるのは自宅からそう遠くない病院の医療関係者のおかげだ、と考えていた。それでチャリティ活動とかを熱心にやっていた。俺もここ最近、地元の国民健康サービスに対しては思うところがあった。普通なら常備してあるような医療品、誰でも持っていそうなものが、緊急事態にほとんど底を突いてたって言うんだから、それはもう驚愕だった。国民健康サービスや、相当危険な情報で保護具なしに長時間働いていた人々への感謝の年が高まっているんだ。それで俺たちも、オークションをやろうということになった。本当に彼はいい奴だよ。たぶん言い出したのは彼のほうだったと思う。

亡きジョン・ボーナムの思い出

—最近『あの頃ペニー・レインと』のキャメロン・クロウ監督にインタビューしたんですが、ジミー・ペイジとあなたに映画を見てもらったときのことを語ってくれました。ビリー・クラダップが「俺は輝ける神だ」(I am a golden god)と言うシーンで、ペイジが「俺あんなこと言ったか?」と言うと、「俺が言ったんだ」と叫んだそうですね。「俺は輝ける神だ!」と発したのはなぜですか?

プラント:初期のレッド・ツェッペリンのころは、その都度出てきた発言は単なる面白半分さ。あれも何かふざけていた時だったと思う。多分ボンゾの誕生日パーティをビバリーヒルズかどこかでやって、誰かが3段重ねのケーキを作ったんじゃなかったかな。俺たちが何かやってるところに、ジョンが部屋中の人間にケーキを見せて回っていて、たしかジョージ・ハリスンがケーキに空手チョップを食らわせた。ボンゾがただじゃ置かないぞと思って騒ぎが起きて、よくある子供じみた悪ふざけが始まった。ただ、さらにナンセンスなことを言ってその場をまとめる人間がいなかった。それで俺が両手を広げて高らかに宣言したのさ。そのあとケーキのかけらを鼻の先っぽに食らったけどな。

—今年の9月25日はジョン・ボーナムの没後40周年でした。当時の彼の印象はいかがでしたか?

プラント:すごいのひとことさ。長年親しくして、もう死んでしまった人間は大勢いるが、彼の存在はいつも案じている。一緒に冒険に踏み出した仲だったからな。ツェッペリンをやる前にも、2~3のプロジェクトでかかわったことがある。いつも揉めて、最後はどっちかが痛い目を見る羽目になったがね。でもツェッペリンではいつも一緒で、同じ車に乗って、空港から帰って、故郷のウェールズの田舎の家へ戻っていた。最後の最後までずっと一緒だった。まさに同じ釜の飯を食った仲間だよ。


俺は今も彼と生まれ育った場所に住んでいるから、彼の存在はいつも感じている。俺の知り合いと同じように、彼の昔からの知り合いも大勢いる。事情があって離れる以外は、このあたりを出たことはない。だから彼の存在はいまもしっかり残っている。地元の連中とともに。彼の物理的な存在や彼の個性が記憶に残っているのはもちろんだが、彼の業績、彼がリズムとドラムで世界に貢献したことは、他の誰よりもずば抜けていた。彼とジョーンジー(ジョン・ポール・ジョーンズ)のおかげで、レッド・ツェッペリンは当時の他のバンドとは一線を画すことができた。2人が重要な要だったんだ。もう40年、俺たちにとって彼がいなくなったことは今も大きな損失だ。でも夜中に曇り空を見上げると、きっとどこぞのパブで冗談をかましてるんだろうなと思うよ。もちろん比喩的な意味でね。

—本当に才能あるドラマーでした。

プラント:ああ、本当に。あの感覚は最高だ。彼の感覚は万能だった。ある晩シカゴのサウスサイドのバーニング・スピアでボビー・ブルー・ブランドを一緒に見に行ったことがあるんだ。奇妙な薄暗いクラブでオーケストラが演奏してて、俺たちが入っていくと、ジョンは立ち上がって「ファーザー・アップ・ザ・ロード」とか「ターン・オン・ユア・ラブ・ライト」とかを演奏して、ものすごかった。奴がああいう感覚の持ち主だったから、ミュージシャン全員が彼のほうに身を乗り出すんだ。ボビー・ブルー・ブランドと演奏したときも、後年「フール・イン・ザ・レイン」を演奏したときも、当たり前のように演奏していた。あれはちょっとしたものだったよ。

From Rolling Stone US.

*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34792/1/1/1 より

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<日本酒> 新潟 越後桜/越後桜酒造

2021-03-27 08:58:10 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈新潟〉 越後桜/越後桜酒造

 新潟らしさをさらに目指した越後の銘酒
 越後桜酒造は、吟醸造りにこだわり、独自の工場設計により大吟醸を年間1万石(1升ビンにして100万本)製成することが可能な蔵になっています。高精白の米を低温でじっくり仕込むことにより、新潟らしいきれいで柔らかくまろやかな味わいのお酒が出来上がります。
 観光蔵として酒蔵見学も行っております。

 越後桜の歴史
 創業は1890年(明治23年)、水原町(現、阿賀野市)で白井酒造として酒造りを始めました。

 五頭の山々や阿賀野川など自然豊かな土地で稲作が盛んに行われてきたことから、ここで地元の米を使っての酒造りが始まり、1993年(平成5年)に、「世界鷹小山家グループ」に加入、2009年(平成21年)には100年以上の歴史がある酒蔵を全面改装し、最新式の設備を導入しました。

 今まで培って来た酒造技術を継承しながら、吟醸造りにこだわった酒造りを行っています。


 越後桜の特徴
 風土

 越後桜酒造のある阿賀野市は、新潟平野のほぼ中央に位置し、白鳥が飛来する瓢湖があり、阿賀野川が流れ、五頭連峰がそびえる豊かな自然環境に囲まれています。

 このような風土の中で醸されるお酒は、新潟らしいきれいで柔らかくまろやかな味わいに仕上がります。

 また、お米の名産地として知られる新潟県は、県内各地に全国で最も多い約90の酒蔵があり、県民1人あたりの日本酒消費量が全国1位という日本酒王国です。

 吟醸造りに特化

 越後桜酒造の吟醸造りのこだわりとして、米の吸水を均一にするための「ザル返し」を行い、蒸米は昔ながらの和釜の蒸し方に近づける為、「せいろ釜」を使用しています。発酵タンクは人が櫂入れできる大きさで、形状は大吟醸の香りを封じ込める為の特殊形状をした密閉型を採用しています。

 また、大吟醸のフレッシュな香味を残すため、米の浸漬から醪の発酵、貯蔵に至るまで、0.1度刻みの温度管理を徹底しています。

 地域に寄り添う白鳥蔵

 越後桜酒造のそばには、毎年冬にたくさんの白鳥が飛来してくる瓢湖があります。

 お客様に、瓢湖と同様に憩いの場として、また、観光の場としてご利用いただきたい、という思いから、この蔵を「白鳥蔵」と名付けました。

 ここでは越後桜酒造のこだわりや、酒造りの歴史を伝える酒蔵案内や、作業風景の見学などを行っています。

 見学のあとには、蔵限定のお酒の試飲や、お買い物を楽しんで頂けるように、売店も設けています。

*https://www.sekaitaka.co.jp/group/echigozakura.php より

 越後桜酒造株式会社 新潟県阿賀野市山口町1丁目7番地13号

 ラインナップ

 「越後桜」大吟醸・純米大吟醸・特撰純米酒・普通酒 など

 

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 92. 檜山海参

2021-03-27 08:54:48 | 食品

 登録番号 第92号 檜山海参
 
 特定農林水産物等の区分 第7類 水産加工品類 加工魚介類(干しなまこ)

 特定農林水産物等の生産地 北海道久遠郡せたな町、二海郡八雲町、爾志郡乙部町、檜山郡江差町及び上ノ国町、奥尻郡奥尻町

 登録生産者団体 ひやま漁業協同組合

 特定農林水産物等の特性 生産地の地先海面で漁獲されたなまこを同地域で加工した干しなまこ。疣足(いぼあし)の突起に覆われたような形態で姿が良い。水戻し後は、姿を良好に保ちながら、肉厚で身崩れせず、適度な粘りと弾力を有し食感が良い。塩抜きの手間が省け調理しやすい。中国料理で価値の高い「刺参」に相当し、需要者から高く評価。

 地域との結び付き 生産地の沿岸海域は岩礁帯が多く、適度に砂地もあるため、なまこの生息に好適な環境で、疣足が多く、干しなまこの原料として良質なまこが漁獲。地域のなまこ漁業者や家族が生産に関わり、鮮度の高いなまこを塩蔵することなく、丁寧に乾燥加工している。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i92.html より

 

 「檜山海参」は、生産地の地先海面で漁獲されたなまこを同地域で加工した干しなまこです。
 疣足(いぼあし)の突起に覆われたような形態で姿が良いことが特徴です。また、水戻し後の姿が良好で、肉厚で身崩れせず適度な粘りと弾力ある食感に加え、調理のし易さも特長となっています。
 「檜山海参」は、中国料理で干しなまことして価値の高い「刺参(ツーシェン)」という区分に相当し、中国料理の食材を扱う需要者から高く評価されています。

 「檜山海参」の原料は、北海道檜山地域の地先海面で桁曳網等の漁網(ただし、たも網は除く。)を使用しないで漁獲したなまこで、前処理の直前まで生きた状態で保管されていたものとされています。
 前処理では、なまこの腹面を切り、腸と砂・泥等を取り出し、真水または海水できれいに洗い流します。
 次に真水でボイルした後、ざるに移し、余熱を取って内臓等の残りを除去し、真水で再びボイルします。なお、ボイル中の湯温やボイルの時間は、なまこの大きさ等を考慮して適度に調節して行うこととし、ボイル後の塩蔵処理は行いません。
 余熱をとった後、干し台に並べて天日、送風式機械、真空凍結のいずれかの方法による乾燥を行います。
 出荷規格として以下に該当するものは「檜山海参」として出荷しません。
 ・乾燥不十分なため、指で押して曲がるもの
 ・カビ、異臭のあるもの
 ・疣足の突起に覆われたような外観を損なっているようなもの
 ・裁割過剰品、外傷の深い製品その他全体外観が顕著に悪いもの

 生産地の沿岸海域は、岩礁帯が多く、適度に砂地もあるため、なまこの生息に好適な環境です。地域の干しなまこ生産の歴史は古く、江戸時代(1)には俵物(2)(清国貿易品)のうち干しなまこの産地としての記録が残されています。
 地域では、なまこ漁業者や家族が生産に関わり、鮮度の高いなまこを塩蔵することなく、丁寧な乾燥加工が行われてきました。
 2014年、漁業者の有志により共同加工による試供品の生産、販路開拓のための配付等が開始され、2017年、漁業者の共同加工による「檜山海参」の本格的な生産・販売が再開されました。2019年度の生産量は約100kg(干し重量)、生産額は2,300万円となっています。

 (1)江戸時代:1603年~1867年。日本の時代区分の一つで、江戸(現在の東京)に幕府が置かれていた時代を指します。徳川家康を初代将軍とし以後徳川将軍家を中心とした藩政政治が行われました。
 (2)俵物:江戸時代に清国(現在の中国)貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)の呼称です。当時、俵に詰められて輸出された事からこの名があります。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/92.html より

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<漢字検定> 1級 読み 30.回答 31.出題

2021-03-27 08:30:32 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 呻吟  -しんぎん-苦しんでうめくこと。

 

 問2 鑰匙  -やくし-鍵。
 

 問3 穢身  -えしん-仏語。けがれた身体。凡夫の身。

 

 問4 膂力 - りょりょく-筋肉の力。また、腕力。 

 

 問5 馥郁 -ふくいく-よい香りがただよっているさま。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 忸怩  

 

 問2 黐竿  

 

 問3 褫奪  

 

 問4 蹣跚  

 

 問5 嚠喨

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 ・精選版 日本国語大辞典より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 新潟 越後与板打刃物

2021-03-27 07:39:38 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「越後与板打刃物」

 Description / 特徴・産地

 越後与板打刃物とは?
 越後与板打刃物(えちごよいたうちはもの)は、新潟県長岡市与板地域で作られている刃物です。鍛造技法は「火造り」で、真っ赤に焼いた金属を叩いて形を作っていきます。
越後与板打刃物の特徴は、洗練された鋭い切れ味と使いやすさです。伝統工芸品に指定されているのは、鉋(かんな)・鑿(のみ)・鉞(まさかり)・釿(ちょうな)の4品で、城下町作りが盛んだった江戸時代中期頃から多くの宮大工を支えてきました。年月を経ても越後与板打刃物は品質の高さが追求され続け、確かな切れ味を持つ打刃物として職人たちに愛用されています。近年では家庭用品やアウトドア用品などにも用いられ、日用品としての実用性にも定評があります。

 History / 歴史
 越後与板打刃物の起源は、戦国時代に遡ります。1578年(天正6年)、上杉謙信の家臣であった直江大和守実綱によって春日山より刀鍛冶職人が与板に連れて来られました。以降、直江家によって鍛冶が根付き、刀だけでなく鉄砲なども製造されるようになります。
 江戸時代に入り、信濃川を使った舟運が盛んになると更に与板の地は発展します。そして、江戸時代中期には大工道具が生産されるようになり、「土肥のみ」や「兵部のみ」といったの名品が生まれました。
 明治時代に入ると、刀工・松永龍眠斎兼行が刀剣の製作と共に鉋(かんな)の製作にも着手するようになり、有数の大工道具の産地として全国に名を馳せるようになりました。
 1986年(昭和61年)、優れた刃物を生み出してきた功績から伝統工芸品に指定され、職人たちの手技により打刃物づくりの伝統が受け継がれています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/echigoyoitauchihamono/ より

 叩き出しによって出る切れ味 越後与板打刃物
 熱い鉄を叩いて叩いてはじめて出る切れ味は、本職の大工から愛され続けてきた。打刃物と言えば包丁など家庭で使われる刃物の印象が強いなか、越後与板の打刃物は鉋(かんな)に代表される、職人が作る職人のための最上の道具としての地位に立ち続けている。

 
 藩主が変わっても守られ続けた伝統
 水運信濃川に恵まれた越後、与板の地に刃物がもたらされたのは上杉謙信公の時代。謙信公の四天王のひとり直江大和守実綱が刀剣師をこの地に連れてきたのが始まりと言われている。
 その後、藩主が移り変わっても、打刃物の伝統が守られ続けたのは、与板打刃物の名声が全国に轟いていたからだろう。

 職人が作る職人のための道具
 与板では伝統的に、鉋、のみ、釿(ちょうな)、鉞(まさかり)などの大工道具を中心に製造してきた。大工もまた職人だ。それがゆえに大工道具には優れた品質が求められる。道具作りの技と木工加工の技、これらが組み合わされなければ、日本の優れた木造建築は存在し得ない。日本人が求める木の家、神社仏閣の精巧かつ落ち着きのあるつくりはさまざまな職人の合わせ技なのだ。


 鍛錬焼いては叩き、焼いては叩く
 「与板打刃物の特長は、手作りの叩き出しによる切れ味の鋭さですよ。」と語る伝統工芸士の久住誠治さん。久住さんは与板金物振興協同組合の理事長でもある。
 「地金に鋼をつける鍛接(たんせつ)から鍛造(たんぞう)、焼き鈍し(やきなまし)、何度も焼いては叩くを繰り返すことが切れ味を出す秘訣です。」体を鍛えることの語源“鍛錬”の言葉の意味がはじめて体感できる工程だ。しつこいくらい繰り返す。
 柔らかいが粘りのある地金に固いが脆い鋼を鍛接(たんせつ)し、焼いて叩いてひとつになる。違う性質のものが補完し合って鋭い切れ味が現れる。
 「ウチは先代から本職の鉋だけしかやってないよ。」とは鉋刃職人の田中昭吾さん。「職人に選ばれる道具を作っていることが誇りだね。」と自信の言葉。


 「鉋作りは、打刃物、研磨、そして台作りの分業制
 鉋は刃を焼いて叩いただけでは鉄の塊。厳密な温度管理の中で焼き込まれた刃は、次の研磨職人の手によって刃物になる。そして台作り職人が作った台に組み合わされて初めて鉋になる。鉋作りの技の競演は、次の共演者たる大工職人の手に渡って、そして初めて本当の道具になる。

 直接売りでも安くはできない。問屋との長い付き合い
久住さんは人気の彫刻刀職人だ。新潟市で行われた展示即売会では5日間で200セットも売れてしまったという。全国から直接買いに来る人も多い。しかし、「問屋より安くは売れないな。」と、問屋との付き合いを大事にしている。「問屋が大工に卸してくれることで与板の打刃物は名声を得てきたんだ。そして問屋は売れない時には自分で在庫を抱えることで職人から買い取ってきたのだからな。」職人の確かな技と、それを卸してきた問屋との長年の付き合いをそう簡単にはなくせないらしい。そう言いながらも時代の波だろうか、「最近は在庫を職人に押し付ける問屋もいるな。」と日本の大メーカのやり方が伝統工芸の世界にも波及してしまっているようだ。

 「木造建築がある限りなくならない。なくしちゃいけない。」
 「最近は包丁を作る職人が増えたよ。」他の産地でよく見かける包丁は、ここ与板ではあまり見かけない。職人に選ばれ続けた道具作りのプライドが一般の人に売れやすい包丁を避けてきたのか。「与板の包丁は評判いいよ。よく切れるって。そりゃそうだろう。」
 日本人はなぜか木の家に住むと気持ちが落ち着くようだ。コンクリートの家ではどこか満足できない雰囲気がある。木の家の文化を失ったら、ただでさえ忙しい私たちは気の休まるところをなくしてしまうかも知れない。木の家に住む気持ちよさは、近い将来、人々の心を再び捉えるだろう。その時に、与板の職人の技がまた生きる。
 「職人の仕事というのは欲が涸れてきたくらいで丁度いいもんです。我が強いうちはまだまだ。」半世紀以上の時間を職人として生きてきた久住さんの言葉だけに説得力がことさらだ。こんな言葉が自然に口をつく職人たちの作る家に住めたら、きっと心も体も健やかになれる、そんな気にしてくれる与板打刃物だ。

 職人プロフィール

 久住誠治 (くすみせいじ)

 こぼれ話

 目に見えない結晶を管理する伝統の技

 打刃物を作る工程の特徴は、何度も何度も「焼いて叩く」ことを繰り返すことでしょう。1,000度以上の高温で焼いたと思ったら、160度の低温の風を吹き付けてみたり、400度で焼いてまた叩いたり・・・。温度の調整は職人の目と勘による火加減で行っているのですから長年の経験だけがなせる技なのでしょう。
 さて、この温度。なんでこんなにいろんな温度で焼くのかと思ったら、温度の違いが鉄の結晶に大きく関わっているようです。高温で焼くと結晶の組織が乱れ、それを中温、低温で整えます。刃の粘りや使い心地は、目には見えないこの結晶をどうコントロールするかにかかっています。それが焼き入れ、焼き鈍しだったのですね。
 近年になって結晶を顕微鏡で見ることができるようになり、素晴らしい職人の技がミクロの目で見て改めて評価されているそうです。

*https://kougeihin.jp/craft/0705/ より

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