いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<言 葉> 春の言葉 ミモザ

2021-03-08 08:54:55 | 言葉

 「ミモザ」

 毎年3月8日は、国連が制定した「国際女性デー」です。そして、イタリアでは「ミモザの日」とも呼ばれています。この記事では、国際女性デーとミモザの日が何の日でどんな関連性があるのか、また、具体的な楽しみ方やイベントなどをご紹介します。

 国際女性デーはニューヨークの女性労働者が参政権を求めてデモを行った日
国際女性デーは、1904年3月8日にアメリカのニューヨークの女性労働者が参政権を求めてデモを行った日です。このデモを受けて、1975年に国際女性デーが制定されました。現在は国連事務総長が加盟国に対して、女性が平等に社会参加できるような環境づくりを呼び掛ける日になっています。

 国連だけでなく、途上国の女の子の支援プロジェクト「Because I am a girl 」などを実施している公益財団法人プラン・インターナショナル や民間企業などもイベントやシンポジウムを開催するなど、世界中で女性の社会参画を願った取り組みがなされる日なのです。

 イタリアでは女性にミモザを贈る「ミモザの日」

 女性の社会参画を願う日とされている3月8日の国際女性デーは、イタリアでは同時期にミモザの花が咲くことにちなんで、ミモザの日とも呼ばれています。3月あたりにはミモザの花が咲き乱れ、イタリアの街中の随所でミモザの花が飾られたり売られたりするようになるのだそうです。

 このミモザの日には、男性が女性に敬意と感謝を込めて、ミモザの花を贈るのがならわし。パートナーだけではなく、母親や祖母、友人、仕事仲間など自分にとって大切な女性に贈るのだとか。女性たちは贈られたミモザを飾るだけでなく、仕事や家事、育児からつかの間離れて、お出かけや外食を楽しむのだといいます。

 また、ミモザの花は「春を告げる花」としてイタリアだけでなく、ヨーロッパ全体で広く愛されています。例えば、フランスのマンドリュー・ラ・ナプールという街では、2月に「ミモザ祭り」が開催されるそうです。

 ミモザはアカシアの総称で花言葉は「秘密の恋」
 ミモザは、正式にはマメ科ネムノキ亜科アカシア属の総称で、和名は銀葉アカシアと言います。ヨーロッパで人気があるミモザは、実はもともとオーストラリアが原産で、国花にも指定されている花です。

 ミモザの花言葉は「優雅、友情」で、黄色のミモザの花言葉は「秘密の恋」。花屋でミモザの切り花が買えるのは1~3月で、3月8日のミモザの日近辺は日本の花屋でも手軽に手に入れることができます。自分で手にいれても、イタリアの風習や花言葉を男性に教えて贈ってもらう、なんて楽しみ方もいいかもしれません。

*https://www.fiat-auto.co.jp/ciao/mimosa-2020/ より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-加橋かつみ

2021-03-08 08:40:52 | MUSIC

 「加橋かつみ」

 1948年2月4日生まれの73歳

 加橋かつみ70歳記念インタビュー グループサウンズ、フラワームーブメントの寵児の実像に迫る 2018/07/05 11:30ガジェット通信0

 2月4日に70歳の誕生日を迎えた歌手の加橋かつみさん。1960年代にグループサウンズブームを巻き起こしたザ・タイガースでの活躍と突然の脱退は当時の若者に大きなインパクトを与えた。

 その後も松任谷由実さんにデビューのきっかけを与えたり、ミュージカル『ヘアー』の日本初上演、『かもめが空を』(1979年)など『ひらけ!ポンキッキ』(フジテレビ)テーマソングを手がけ、さらに2013年には40年以上ぶりに結集したオリジナルメンバーのザ・タイガースでドームを含む全国ツアーを敢行するなど世間に広く知られる事績は数多い。日本の音楽史を彩るスターの一人と言って差し支えないだろう。

 しかし、誤解を恐れない自由な精神の持ち主で、進んで自分語りや自己弁護をする方ではないことから世間にさまざまな誤解を与えていることも確かだ。

 僕は世代こそ離れているが子供の頃からザ・タイガースが大好きだし、初めてのプロのお仕事が加橋さんの前座だったので思い入れもある。いつか加橋さんにゆっくりお話を聞きその実像にせまりたいなと思っていたが、3月に久しぶりにお会いする機会があり、インタビューを快諾してもらうことができた。

 4月14日、この日は加橋かつみさんのフリーライブ。小雨が降る中を僕は横尾忠則現代美術館に向かって歩いていたが、傘をたたんで正面玄関から入ろうとしたとき「おーい」という呼び声。振り向けばそこに加橋さんがいた。本番直前だがリラックスした様子で、タバコを吸うために外に出てこられたということだった。


 ライブは詰めかけた百数十人のファンを前に定時に開催された。一曲目はザ・タイガースのヒット曲『廃墟の鳩』。平和への祈りがテーマであることは知られていたが、実は原爆が投下された後の広島をイメージして作られた曲だったというエピソードを明かし観客を驚かせていた。

 その後も横尾忠則さんやかまやつひろしさんとのエピソードトークを織り交ぜながらザ・スパイダースの『フリフリ』やソロナンバー『雨上がりと僕』(※かまやつひろし作曲)、『花の首飾り』とマイペースに歌い上げてゆく加橋さん。奥行きのあるチェロの響きと加橋さんの浮遊感のあるボーカルとのマッチングが心地いい。


 この日はフリーライブにも関わらず1時間以上にわたってステージをつとめあげた加橋さん。ステージを降りた加橋さんの顔には若干の疲れがにじんでいた。若い頃のハイトーンボイスを出し続けることは、やはり体力的な負担も大きいのだろう。70歳という年齢は加橋さんの自由な精神にどのような影響を与えているのだろうか。

 同じことは二度と出来ないからこそそこに生命感や情熱がこもる
インタビューをおこなったのはライブ前日の4月13日。リハーサル会場のMosrite Cafe(神戸市)で2時間弱にわたってお話を聞かせていただいた。

 ――今回のライブはチェロの方と二人で演奏されるんですね。

 加橋:別に僕は一人でもやれるんだけど、それだと楽しくないもんね。『花の首飾り』を歌うにしても、編成やリズム、歌い方も日々変えてやりたい。ライブでやる意味ってそこだと思うんだよね。同じことは二度と出来ないからこそそこに生命感や情熱がこもるんだよ。

 ――人と一緒に演奏する楽しさって音楽の根源的な部分ですよね。

 加橋:高校生の時にバンドブームになって僕もバンドを始めて「こんな楽しいものがあるんだ」って驚いたよ。それは今でもちっとも変わらない。身近な所ではかまやつひろしさんもつくづくバンド好きだったけど、僕も同じだな。

 ――かまやつさんにはシンパシーを感じる部分があるんでしょうか。

 加橋:かまやつさんとはずっと仲良しだったからね。

 ――残念ながら昨年お亡くなりになりましたが、かまやつさんも晩年までライブ活動を重んじる方でしたね。

 二人はそっくりさん?横尾忠則との関係
 ――明日のライブ会場は横尾忠則現代美術館ですが、美術館で演奏されるのはおもしろい試みですね。どんないきさつがあったんでしょうか。

 加橋:横尾さんとは親しくしてるんだけどね、今回は美術館の人からオファーがあったの。横尾さんは音楽関係の友達がとても多いんですよ。細野晴臣くんや玉置浩二くんも美術館でライブやったらしい。あれだけミュージシャンと親しいアーティストって横尾さんくらいじゃないかなぁ。サンタナのレコードジャケットのデザインしたり……ローリングストーンズかミックジャガーのデザインの話もあったらしいよ。それは無くなったみたいだけど。

 ――横尾さんとはいつからのお付き合いになるんですか?

 加橋:大昔だけどね、50年くらい前は僕と横尾さんと田村正和さんがすごく似てたらしくてね。『週間平凡』だったと思うんだけど、そっくりさん企画みたいなのがあってそこで一緒になったの。

 年が離れてたからその時はそんなに喋らなかったんだけど……その後僕がタイガースを脱退した時、マスコミが見当外れの憶測ばかり流す中、横尾さんだけがとても的を射たコラムを書いてくれたんだよ。

 それで「とても見る目がある人なんだ」って思っていたし、個人的に横尾さんに興味もあったから2013年にタイガースが再結成した時に東京ドームに招待したんですよ。そしたら足をケガしてたにもかかわらず来てくれて。それからアトリエに時々遊びに行かせてもらうようになったんですよ。軽井沢や草津温泉にも一緒に遊びに行きました。

 ――横尾さんとはうちとける部分があるんでしょうか?

 加橋:よくわからないけど僕と横尾さんは性格が似ているような気がするね。年齢は一回り違うからマインドとかは違うはずなんだけど、そういう部分も含めて面白い。作品って言うよりは横尾さん自身が面白いなって思ってる。

 僕も元々はグラフィックのアーティストになりたかったの。気が付いたらバンドなんか初めていたけど(笑)。でも絵を書くことも音楽をやることも、芸術って意味では同じだと思うな。横尾さんはアヴァンギャルドとかロックとか型にはまるんじゃなくて、やりたいことを自由に表現する人なんだけど、僕はそういう部分に共感しているのかなぁ。

 70歳の実感
 ――加橋さんは2月4日で70歳の誕生日を迎えられました。年齢を感じることってありますか?

 加橋:そりゃああるよ。デビューから数えてももう50年以上だよ。やだね(笑)。やっぱり若い頃にくらべて体力が落ちてるよね。

 ――気をつけてることや健康法ってありますか?

 加橋:どうすればいいと思う?僕が聞きたいよ(笑)。70年も使ってる身体だから、どんどん故障してくる。

 ――こまめにマッサージ行くのがおススメです(笑)。

 加橋:マッサージはもちろんいいけどね……。

 ――世間ではリタイアしていてもおかしくないお年ですが、今も毎年数十本のライブをこなされていて、本当に精力的にやっておられるなと思います。

 加橋:いやべつになにもこだわっちゃいないんだけど(笑)。

 ――自然にこなされてる感じでしょうか。

 加橋:そうだね。昔からのことだから。

 ――若い頃と比べて精神的な部分に変化は感じますか?

 加橋:言葉で表現しにくいけどあるよね。もちろん僕だってなにかを究めたいと思ってるから、変化しつづけたいと思っている。ミュージシャンとしてもそうだし、人間としてもより良くありたい。

 子供の頃からそう思い続けてるかもしれないね。若くて未熟な時は自分が歯がゆくて仕方なかった。今はジジイになりすぎてしまったかもしれないけど(笑)。

 ――今、ミュージシャンとして「こんなことがしたい」とか「やり残したことがある」と思うことはありますか?

 加橋:全部やった。思いつく限りのことは全部やったね。あとは死ぬだけか(笑)。

 ――まだまだそれは困りますけど(笑)。

 加橋:だからこれからどうしようかなという感じ。これからが僕の人生の最終コーナーだと思うんだよね。今まで思ってきたこと、経験してきたこと、勉強してきたことを形にしたいという気持ちはあるんだよ。

 加橋かつみの世界観の根源
 ――ザ・タイガース時代の加橋さんに関する情報は世にあふれていますが、脱退されて以降のことや加橋さんの持つ世界観は断片的にしか知られていなくてもったいないなと思っています。ソロになられてから一番印象的なお仕事を挙げていただけますか?

 加橋:『パリ 1969』っていうアルバムと『ヘアー』っていうミュージカルを日本に持ってきたことかな。その二つがタイガースを辞めてからの一番の仕事だと思ってる。

 ――『パリ 1969』はタイガース脱退直後の作品ですね。フラワー・ムーブメント的なメッセージ性と言い、サウンドの洗練具合と言い、時代の最先端を行くアルバムだったと考えています。実際にフランスでレコーディングしたことでも話題を呼んだようですが、制作期間はどれくらいでしたか?

 加橋:1ヶ月くらいじゃないかな。24チャンネルで当時としては画期的だった。ミュージシャンも現地の人に参加してもらったけど、みんな普段オペラ座とかでやってるからストリングスにしても音がいいんだ。

 ――なかなか言葉も通じにくい中だったと思いますが、レコーディングに不自由はありませんでしたか?

 加橋:フランス語も英語もできたんだよ。今は忘れちゃったけど(笑)。語学って使わないとダメだね。でも当時はヨーロッパ中を回っていろんな人たちと付き合っていた。フランスはもちろん、イギリスもイタリーも行ったよ。

 僕、元々ミュージシャン志向じゃなくて絵が好きだったって言ったでしょ?子供の頃からレオナルド・ダ・ヴィンチが大好きなの。フィレンツェの金融家だったメディチ家がダ・ヴィンチやラファエロ・サンティのスポンサーになってルネッサンス文化が花開いたあの時代にすごくあこがれていてね。「どうしてもフィレンツェに行くんだ」って思っていたけど自然に行くことができたな。

 ――そういうあこがれが加橋さんの音楽性にも影響を与えているんでしょうね。

 加橋:そうかもしれない。音楽も絵も根本は一緒なんだよ。言葉に出来ない感動を表現したいから音楽をしたり絵を描いたりするんだから。あまり言葉にしないほうがいい部分なんだと思う。

 ――レオナルド・ダ・ヴィンチに影響を受けたということですが、ミュージシャンで影響をうけた方についても教えてもらえますか。

 加橋:かまやつさんかな。昔、京都会館でザ・スパイダースの『ノー・ノ―・ボーイ』を聴いて「うわーいいなー」って思ったもんだよ。バンドをやるきっかけがかまやつさんだった。あとはベンチャーズとビートルズ、ローリングストーンズ。

 ――ビートルズではどなたに一番シンパシーを感じますか?

 加橋:やっぱりジョン・レノンですよ。でもどちらかと言うと僕はローリングストーンズのほうが好きでね。一番格好いいなと思っていたのはブライアン・ジョーンズだった。ロンドンで一度だけ彼が生きている時のライブを観た事があるんだ。ゾッとするほど格好よかったね。今のエンターテインメントみたいなストーンズとは全然違うんだ。マディ・ウォーターズみたいな黒人のブルースを聴くきっかけにもなった。

 当たり前のことを言える時代にするために僕は歌い続けてきた
 ――ザ・タイガース脱退前後の加橋さんは当時のフラワームーブメントの象徴的な存在だったと思います。ご自身で意識されることはありましたか?

 加橋:そうだね。当時は若者たちの間でも民主主義がいいのか共産主義がいいのか社会主義がいいのか揺れてた時代だよね。どんな形で理想の社会を創るべきかというテーマで世界中が揺れてた。

 僕は音楽をやる前、学生運動をやってたの。広島でやってる原水禁(原水爆禁止日本国民会議)の大会なんかにも参加して。でも学生運動って国家権力の前では無力でね。今でこそ多少は言論の自由があるけど、当時は少しでも過激なことやってると警察の公安にマークされるような時代だったんだ。それに学生運動やってる連中って理屈っぽいばかりで次第に飽き飽きしてきた。

 そういう時にビートルズやストーンズが僕に方向性を示したんだ。理屈こいてああだこうだやってるより「She loves you, yeah, yeah, yeah~♪」ってやったほうが素敵じゃない。学生運動よりもより情熱的にハートに訴えかけるよね。

 ――たしかに当時の音楽は学生運動よりはるかに良い形で自由や平和のメッセージを世界中に伝えましたね。加橋さんも音楽を通じて多くの人にメッセージを伝えたいという気持ちがあったのでしょうか。

 加橋:それはもちろんあったね。時代と戦っている意識があったから。ひどい時代だったんだ。『花の首飾り』にしたってあれだけ売れたのにレコード大賞の候補にもならない。紅白歌合戦からお呼びもかからない。大衆に支持されても無視される……民主主義なんて建前だけの時代だったんだよ。政治も芸能界もね。

 綺麗なものは綺麗、魅力的な女は魅力的、セックスもいいことじゃないかと当たり前のことを言える時代にするために僕は歌い続けてきた。『ヘアー』に感銘を受けたのも”LOVE&PEACE&FREEDOM”という基本理念があったからだよ。

 ――加橋さんに今の日本の世相はどう映っていますか?

 加橋:何ごともすごく薄っぺらくなっちゃった気がする。ポリシーも思想もない。テレビはあまり観ないけど、芸能や音楽の世界も大人が少なくなってしまったね。おちゃらけたり子供っぽいものばかりで……それはそれで良さがあるんだろうけど、自分とは関係ない世界のように思えちゃう。

 ――たしかに芸能界はアイドルとお笑いが全盛ですね。中身も年々薄まってきている気がします。加橋さんは今も政治や世界情勢について興味をお持ちですか?

 加橋:興味と言うより危なっかしいから気をつけて見てるね。日本や世界が今どんなふうになっているのか。

 トランプみたいな不動産屋のオヤジがアメリカの大統領なんだよ?日本の周辺でもいつ戦争が始まってもおかしくないよね。ヤバい時代だよ。

 日本自体も、昔よりはマシかもしれないけど危ないね。民主主義の理念は個人の尊重だよ。多数決じゃない。今って個人が尊重されてる?

 自分の思った通りに生きてこれた
 ――インターネット上では関係者の言を引用したり、過去のエピソードからいろんな憶測をして加橋さんを否定する書き込みをよく見かけます。加橋さんはご自身でそういったものを見られることはありますか?

 加橋:あえて見ないようにしている。僕のことは誰にもわからないと思うし、わかってほしいとも思ってないからね。君が見ただけでも「難しい人間だな」って思うでしょ?複雑怪奇でしょ(笑)。

 でも自分自身ではすごくピュアでシンプルなつもりなんだ。君は僕の本質的な部分をちょっと感じるんだろうね。それは僕が君に対して心を開いてるからなんだよ。僕が心を開いてない相手が僕のことをわかるわけはないと思ってる。

 ――前にお会いした時にもそう言っていただけたのがインタビューのきっかけでした(笑)。加橋さんの本音を聞き出したり、正確な人物像を感じ取るのはそんなに簡単じゃないことだと思います。

 加橋:僕はやりたいようにするし行きたいところに行く。そういうふうにやってこれたと思ってるんだよ。僕は自分のことを芸能人と思ったことはないの。人前で芸を見せてテレビで愛想よくしておべんちゃら言うなんて恥ずかしくてできない。あくまでミュージシャンとして表現をしたくてここまで来たから。自分の思った通りに生きてこれたなと思ってる。なにも後悔することはないよ。

 新作の発表はあるのか?
 加橋さんがこれほど時間をかけて真剣にインタビューに向かい合っていただけたことは本当にありがたかった。手前味噌かもしれないが、このインタビューは加橋さんを、日本の音楽史を語る上で重要な資料となるに違いない。

 しかし、僭越ながら僕が期待するのは今回のインタビューよりもはるかに多くのことを語ってくれるであろう新作の発表。これまでのザ・タイガースの作品もソロ作品ももちろん素晴らしいが、さらに長い時間を経た今の加橋かつみはどんな言葉を、メロディーをつむぎ出すのか知りたいのだ。

 その可能性についてご本人に訊ねてみたところ、否定も肯定もしなかったが……僕が見たところまんざらでもない様子だった。まだまだ加橋さんの活動から目が離せない。

*https://news.nicovideo.jp/watch/nw3645512 より

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<日本酒> 群馬 清嘹/町田酒造店

2021-03-08 08:35:55 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈群馬〉 清嘹/町田酒造店

 

 町田酒造店
 限定流通「町田酒造シリーズ」「清りょう」
 全国でも人気の「町田酒造」は当店と同じ地元”前橋”で造られている地酒です。
 町田酒造店さんと当店のコラボ酒「町田酒造SOUL」と「町田酒造!!!!」は当店だけのオリジナル酒で好評を頂いております。
 地元で愛飲されている「清りょう」や人気の「???(トリプルはてな)」、群馬の愛妻家を表現した「かかあ天下」など地元ならではの品揃えです。

 

 町田晶也さん(1975年生まれ・A型)
 株式会社町田酒造店代表取締役
 学校の先生になるつもりで大学入学。気分転換のパチンコ店で、コーヒーショップのアルバイトで派遣されていた後に奥様となる恵美さんと知り合った。 26歳で結婚。1児の父。

 座右の銘 初志貫徹

 好きな酒 自分が造った酒(自分を表現した酒)

 入社当時、蔵は杜氏を使い酒を醸していたが3年後廃止。
 現在蔵の主力銘柄「清りょう」と「町田酒造」を含む全銘柄は晶也氏が方向性を決定し 製造部長の恵美さんと若い蔵人たちとで互いに意見を交換しながら酒造りを行っている。平成25年4月から代表取締役


 『酒蔵について』
 創業は明治16年「厳選一筋」を家法とし、きめ細かく丸みのある風味を追求し続けています。県産の酒造好適米「若水」を中心に仕込み、 敷地内でくみ上げる利根川の伏流水で伝統の味を守っております。
 酒造りの現場は家族と地元従業員。伝統の味を守るため、また、さらに良い酒を造り出すために一丸となって日々挑戦し続けています。<群馬県酒造組合-群馬の地酒より抜粋>

*https://yoshouten.com/?mode=grp&gid=1281503 より

 町田酒造店 群馬県前橋市駒形町65番地

 ラインナップ

 「清嘹」大吟醸 など

 「亭主関白」からくち本醸造

 「かかあ天下」あまくち本醸造

 「町田酒造55 純米吟醸」 雄町 直汲み・山田錦 直汲み など-販売店限定酒 など

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 73.  浄法寺漆

2021-03-08 08:30:29 | 農産品

 登録番号 第73号 浄法寺漆
 
 特定農林水産物等の区分 第38類漆類、荒味漆、生漆 

 特定農林水産物等の生産地 岩手県全域、青森県三戸郡、八戸市、十和田市、秋田県鹿角郡小坂町、鹿角市、大館市
 
 登録生産者団体 岩手県浄法寺漆生産組合
 
 特定農林水産物等の特性 硬化後の強度が非常に優れているうえに、安定した品質を有する漆。透明度、硬化時間、粘度等のバリエーションも豊富であることから、漆芸家や塗師、文化財修復職人などの需要者から高く評価。国宝や重要文化財など日本を代表する建造物の修理・修復に使用。

 地域との結び付き 江戸時代に盛岡藩が漆の生産を奨励して以来、国内最大のウルシ原木資源を継承。伝統的な技法を習得した漆掻き職人により生産されてきた国産漆の約7割を生産する一大産地。(平成27年実績)

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i73.html より

 

 「浄法寺漆」は、硬化後の強度が非常に優れているうえに、安定した品質を有する漆(1)です。透明度、硬化時間、粘度等のバリエーションが豊富といった特徴があるとともに、耐久性にも優れていることから、漆芸家や塗師、文化財修復職人などから高く評価されています。
 「浄法寺漆」は、日本の文化や歴史を支える素材として、古くから国宝や重要文化財など日本を代表する建造物の修理・修復に広く使用されてきました。

 「浄法寺漆」は、生産地内において、漆液の採取を主たる生業とする「漆掻き職人」が採取します。
 「増量等を目的として意図的に異物を混入させていないこと」「浄法寺漆以外の漆を混入させていないこと」を出荷規格で定め、荒味漆(2)や生漆(3)として出荷されます。

 「浄法寺漆」の生産地では、江戸時代(4)に盛岡藩(5)がウルシの木の栽培を奨励して以来、長年にわたり、ウルシにとって最適な生育環境を整えることに努めてきた歴史があります。
 明治期(6)以後、伐採後に芽吹く萌芽を管理することで適正なウルシ林として再生する新たな管理方法にも取り組んでおり、浄法寺漆を生むウルシ林を現代に至るまで守り続け、国内最大のウルシ原木資源を継承しています。

 2015年現在、日本のウルシの栽培面積は326ha、その約85%にあたる278haを岩手県が占めています。
 生産地では、岩手県浄法寺漆生産組合を中心に、行政や、漆生産者などの関係者が一体となって、ウルシの木の植栽・育成のほか、漆掻き(7)の技術伝承に取り組んでいます。地域には、伝統的な漆掻きの技術を習得した専業の職人が20名ほどおり、職人それぞれの個性や技術を活かした豊富なバリエーションの漆を生産しています。
 優れた漆掻き技術とウルシ林を引き継ぐことで、「浄法寺漆」の生産地は、平成27年現在、国内で流通する国産漆の7割を生産しています。

 (1)漆:木製品に使用される天然樹脂塗料です。日本では漆を塗った木製品を「漆器」と呼び、古来より伝わる工芸品等に広く利用されているほか、接着剤としても利用されてきました。日本で使用される漆は、ウルシ科のウルシノキ(Poison oak)から採取した樹液が使われますが、タイやミャンマーでは、ブラックツリーから採取した樹液を加工したものが使用されています。
 (2)荒味漆:木からかいたままの漆を指します。
 (3)生漆:荒味漆から不純物を取り除いた精製以前の漆の液のことを指します。
 (4)江戸時代:1603年~1867年。日本の時代区分の一つで、江戸(現在の東京)に幕府が置かれていた時代を指します。徳川家康を初代将軍とし以後徳川将軍家を中心とした藩政政治が行われました。
 (5)盛岡藩:江戸時代の幕藩体制下の行政区分の一つ。陸奥国(むつのくに)北部(現在の岩手県中北部から青森県東部)の地域(領地)が南部氏に与えられ、同氏が盛岡藩の領主(藩主)として治めていました。当時は全国におよそ250の藩があり、将軍を頂点とする江戸幕府のもと、各地で支配行政(幕藩体制)が行われていました。
 (6)明治時代:1868年~1912年。日本の時代区分の一つ。日本が幕府による封建制から近代化に移行した時代です。
 (7)漆掻き:ウルシノキの幹に傷をつけて,滲み出してくる樹液を特有の金べらで掻き取る方法です。

*https://gi-act.maff.go.jp/register/entry/73.html より

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<漢字検定> 1級 読み 11.回答 12.出題

2021-03-08 08:28:36 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 


 問1 軒輊 -けんち-上がり下がり。高低。転じて、優劣・軽重・大小などの差があること。 

 


 問2 頤使  -頤指-いし-あごで指図して思いのままに人を使うこと。

 


 問3 禰宜  -ねぎ-

 1 神社で、宮司 (ぐうじ) ・権 (ごん) 宮司を補佐する職。また、一般に神職の総称。

 2 昔の神職の一。神主の下、祝 (はふり) の上の位。

 3 バッタの別名。

 


 問4 流眄  -りゅうべん-流し目で見ること。また、流し目。りゅうめん。

 


 問5 遁走 -とんそう-逃げ出すこと。逃がれ去ること。逃走 (とうそう) 。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 瓦礫  

 

 問2 雲鬢  

 

 問3 喚鐘  

 

 問4 窮愁  

 

 問5 呑噬

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 東京 江戸硝子

2021-03-08 07:43:11 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「江戸硝子」

 江戸硝子とは
 江戸に花開いた和硝子の歴史と現在

 涼しげな江戸硝子。

 どこか素朴な味わいは、すべての工程を職人の手で作ることから生まれます。

 今日は江戸硝子の魅力、歴史に迫ってみましょう。

 江戸硝子とは。
 「江戸硝子」とは、江戸時代からの伝統を継承し、東京をはじめ千葉の一部で手作りされているガラス製品をいう。

 すべての工程が職人の手によるその製品は、ひとつとして同じものが存在しない。色やデザインも様々あるが、どれも手作りらしい温かみが感じられる。2014年に国の伝統的工芸品に指定。

 「江戸硝子」づくりは、ガラスを1400度の高温で溶かして水飴のような状態 (硝子種) を作ることからはじまる。成形には現在、大きく分けて「宙吹き(ちゅうぶき)」「型吹き (かたぶき)」「押型」の3つの手法がある。

 ・宙吹き (ちゅうぶき)

 吹き棹に種を巻き取り、息を吹き込んで硝子に空気を送り、成形する。

 ・型吹き (かたぶき)

 ガラス生地を棹に巻き取り、金型に の中で棹に息を吹き込んで成形する方法。

 ・押型

 上下セットになった押し型にガラス生地を型に流し込み、プレスして成形する。

 これらの製造における主要部分はどれも職人の手作業だ。

 ここに注目。江戸硝子と江戸切子の違いは?
 切子の文様が施されたグラス
 どちらも江戸で発祥したガラス製品である「江戸硝子」と「江戸切子」。では、それぞれの違いはどこにあるのだろうか。

 実は「江戸硝子」に切子文様 (カット加工) を施したもののことを、「江戸切子」という。つまり「江戸切子」は、「江戸硝子」をもとに作られているので、大きくわければ「江戸切子」も「江戸硝子」のひとつだといえる。

 江戸硝子の歴史
 日本のガラス作りの歴史は、弥生時代までさかのぼる。大陸から伝わった技法により、当時は勾玉や管玉などを作っていたが、その技法は中世以降一度途絶えてしまう。その後、再び日本の歴史に登場するのは、江戸時代に入ってからのことだった。

 ポルトガルやオランダなどからガラス製品が長崎に伝わり、国内でも「ビイドロ」という名で作られるようになった。その技法は、ヨーロッパ由来でなく中国の技法に似ていることから、技法そのものは中国から伝わったのではないかと考えられている。製法はやがて大阪や京都、江戸へも伝わった。

 記録によると、江戸ではじめてガラスが作られたのは1711年頃のこと。源之丞という職人がガラスを吹いたと『嬉遊笑覧』という随筆集に記されている。また、江戸の地理誌『武江年表』(1751年〜1764年) にも、ガラスが作られていたという記述が残っている。

 ◯眼鏡にかんざし、風鈴。江戸の町のガラスづくり

 「江戸硝子」の風鈴は涼やかな外見と音が特徴
 ガラスの製造を江戸に広く普及させたのが、日本橋のガラス問屋・加賀屋久兵衛 (かがや・きゅうべえ) と浅草のガラス職人・上総屋留三郎 (かずさや・とめさぶろう)の2人だ。

 加賀屋久兵衛は1834年、金剛砂を使ってガラス面に彫刻を施した。これが「江戸切子」のカット技法の始まりであるとされている。その後、加賀屋のもとで切子の皿や重箱、食籠、盃、眼鏡などが作られるようになった。

 一方、上総屋留三郎はガラス製品のかんざしや風鈴、万華鏡、金魚鉢などを販売。江戸の下町を彩るアイテムとして、これらは爆発的な人気を集め、ガラスは庶民にも身近なものとなった。

 幕末になると、切子の技術は薩摩へも伝わり、藩主・島津斉興が江戸から加賀屋の優秀なガラス職人を招聘するようになる。こうして次の薩摩藩主・斉彬のもとで、「薩摩切子」の文化が花開いた。

 ◯夜を明るく照らす石油ランプの登場

 ガラスの製造技術は、幕末から明治維新にかけて西洋文明の輸入とともに発展した。1859年、日米修好通商条約が結ばれ、横浜港が開港。これにより、石油ランプが輸入し急速に普及されるようになった。初期は外国製のランプのみだったが、加賀屋や上総屋といったガラス業者は新しくランプのガラス部分の製造に取り組み始めた。

 1866年、加賀屋庄兵衛 (かがや・しょうべえ) らがランプを作るようになり、続いて加賀屋や上総屋共に火を覆うホヤの製造に成功。こうして日本生まれのガラスが、夜道を照らす灯となっていった。

 ◯日本初の西洋式ガラス製造工場が東京ではじまる

 日本では明治維新まで、日用品やランプなど小さなガラス製品の製造がメインだったが、近代化にともない板ガラスや航海灯などの大型のガラスの需要が増した。そんな中、1873年には民間のガラス工場「興業社」が設立。1876年になるとその重要性から政府が買収し官営の「品川硝子製作所」が誕生した。

 さらに1877年には、第1回内国勧業博覧会に「江戸硝子」が出品される。

 2年後の1879年には、硝子の製造者組合である「東京はり製造人組合」が設立。集結した「江戸硝子」のガラス職人たちや招聘したイギリス人技術者らにより、板ガラスの製造が試みられたが、採算が取れず官営「品川硝子製作所」はほどなく民間へ売却された。

 民間となった工場は、その後生産性を上げることに成功。陸軍用の水瓶、薬用瓶、食器などのほかビール瓶などのさまざまなガラスの製造を行った。しかし、1892年には恐慌などの影響を受け解散。

 結果として日本初の大規模ガラス工場は20年あまりで幕を閉じたものの、この工場が日本のガラス技術を向上させ、東京を日本有数のガラスの産地へと押し上げたのは間違いない。

 その後、関東大震災や第二次世界大戦の東京大空襲があり、町なかの工場は被災。大きな被害をうけたものの、のちに多くの工場が復興を遂げ、「江戸硝子」の伝統が今日まで受け継がれてきた。

 <参考>

 NHK 「美の壷」制作班『NHK 美の壷 切子』日本放送出版協会 (2007年)

 遠藤元男、竹内淳子著『日本史小百科11 工芸』近藤出版社 (1980年)

 博物館明治村

 https://www.meijimura.com/enjoy/sight/building/4-45.html

 一般社団法人東部硝子工業会

 http://www.tobu-glass.or.jp/

 品川区立歴史博物館

https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/pdf/pub/kaisetsu/cs16l.pdf

( サイトアクセス日 : 2020年4月17日 )

 <協力>
 一般社団法人東部硝子工業会

 http://www.tobu-glass.or.jp/

 *https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/118161 より

*https://kougeihin.jp/craft/1406/ より

 Description / 特徴・産地

 江戸硝子とは?
 江戸硝子(えどがらす)は、東京都江戸川区や墨田区、江東区周辺で作られているガラス製品です。現在は千葉県の一部でも製造されていますが、東京の地場産業として認知されてきました。
江戸硝子の特徴は、江戸時代より伝わる材料や伝統的な技法を引き継いだガラス製法です。手作業による感触や使い心地、見るものを深く楽しませる粋な技が施されています。
 工場での大量生産品と比べそれぞれが一品ものとして存在する江戸硝子は、幅広い世代や海外でも親しまれておりお土産品や贈答用としても重宝されています。各工程には熟練の職人が携わり、今でも伝統は絶えることなく続いています。実際に現代においても、江戸硝子の伝統や今後の普及を図る目的として職人展が定期的に開催されています。

 History / 歴史
 硝子製造の歴史は、弥生時代と推定される最古の硝子工芸品の発見が始まりです。
 当時の製法は現代の硝子製法とは異なっていました。硝子は戦国時代ではごく限られたものの間で交わされる珍品で、江戸時代に入って本格的に硝子が製造されたと伝えられています。
 江戸における硝子の製造は、加賀屋久兵衛(かがやきゅうべえ)と上総屋留三郎(かずさやとめさぶろう)の手により広がっていきました。すでに江戸時代の江戸では人口100万人ほどが住む日本の最大消費都市で、18世紀の初めに日本橋通塩町で加賀屋久兵衛が鏡や眼鏡など大衆向けの硝子製品を製造しました。また浅草では上総屋留三郎がかんざしや風鈴、万華鏡などを製作し、江戸の町で爆発的な人気を呼んだとされています。
 1877年(明治10年)の第1回内国勧業博覧会の出品目録には、加賀屋久兵衛と久兵衛の息子である熊崎安太郎の名前が記録に残っています。1879年(明治12年)に社団法人東部硝子工業会の前身である「東京はり製造人組合」が設立され、硝子製造者組合が結成されました。
 伝統的な技は代々受け継がれ2014年(平成26年)には伝統工芸品に指定されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/edogarasu/ より

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